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【研究紹介】中央ユーラシアの広大な歴史と文化の謎に迫る!(2017年3月24日公開)

林 俊雄

文学部人間学科/教授

子どもの頃から探検記や冒険記、旅行記をよく読んでいたという。北極や南極よりも、東西間の文化交流につながる中央アジアの冒険・探検に魅せられ、古代オリエント博物館主任研究員を経て現職に就いた。大草原の壮大な自然と触れ合い、古代遺跡群を歩き旅し歴史散策をしているかのような、知的で熱い思いの詰まったインタビューをお楽しみください。

【経歴】
東京教育大学文学部考古学専攻卒業、
東京大学大学院人文科学研究科東洋史学専攻修士課程修了、
博士課程満期退学。文学修士。

専門は中央ユーラシアの歴史と考古学ですね。授業で教えている科目全体の概略説明をお願いします。

 中央ユーラシアは現在の国名で言うと、東はモンゴルからカザフスタン、南ロシア、黒海北岸地域です。南の方ではウズベキスタン、トルクメニスタン。あと中国の一部になりますが新疆ウイグル自治区。そういった地域です。
 この地域はシルクロードが通っている地域でもあり、北寄りと南寄りでは少し環境が異なって、南の方が当然熱く乾燥した砂漠とオアシスの世界が広がっています。そこを通るシルクロードは「オアシスルート」とか「砂漠ルート」という言い方があります。北方は寒いですが、その代わり水の環境も良く緑豊かな草原地帯が形成され、もっと北へ行くと亜寒帯に広がる森林地帯になります。草原地帯を通るシルクロードは「草原ルート」とか「ステップルート」と呼ばれます。
 オアシス地帯の方はオアシスで農耕を行う定住民が中心です。オアシスには点々と都市もありました。北方の草原地帯は、農耕民に比べ人口が少ない遊牧民が主に住んでいました。現代では少し話が違ってきましたが、中世以前ですと遊牧民、とりわけ騎馬遊牧民が中心の世界でした。
 どちらも東西の文化交流に大きな役割を果たしたわけです。北方の騎馬遊牧民と南方のオアシス定住民とがどういう関係にあったか。軍事的には北の騎馬遊牧民が強いです。南方の人達は襲撃され、やられてばかりいたかというとそうではなくて商人として活躍し、シルクロードを使って交易活動を行うなど日常的に協力し合う関係にあったと思われます。
 治安とかは北方の遊牧民が担い、交易活動や定住活動は南方の定住民が担っていた。ですから中央ユーラシアは、北方の騎馬遊牧民と南方の定住民とが共存共栄のような、時には定住民は都市を破壊され支配されたりすることはありましたが、総じて“持ちつ持たれつの関係”にあったと言ってよいでしょう。こうした関係は匈奴の頃やスキタイの頃からあったと思います。

最近、著書『興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明』(講談社学術文庫)が出版されました。どんな内容でしょうか?

講談社学術文庫より再出版された著書

講談社学術文庫より再出版された著書
 中央ユーラシアの世界は、北方の草原地帯にいる騎馬遊牧民と南方の定住民とが補い合って共存共栄している世界です。政治的、軍事的には北方の騎馬遊牧民が大きな役割を果たしているので、その人達の歴史を明らかにしたい。それを考古学史料や文献資料、司馬遷の『史記』やヘロドトスの『歴史』を繙きながら、ユーラシア大陸に千年のスケールで展開した騎馬遊牧民の歴史を描きたいと思ったのです。
 その共同体には騎馬遊牧民だけではなく南方の定住民達も入っていました。そういう形がずっと続いています。後のモンゴル帝国も同じです。モンゴル帝国はモンゴル人だけではなく、大勢の人達が集まって連合体を成していました。モンゴル人だけだったら人口は少ないです。その中で大帝国を築いたというのは協力する人達がいたからです。
 いろんな宗教を信仰する人々を受け入れる寛大さも持ち合わせていたのが遊牧国家です。キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒もいました。そういうスキタイ、匈奴から続く千年を超える歴史を明らかにしたかったのです。
 この本は2007年に講談社創業100周年記念企画の「興亡の世界史」シリーズ第二弾として講談社から出版されました。今回の出版は、十年前の原本をある程度修正し、また書き加えて、増捕改訂版のような形で出版しました。

八王子市の市民大学講座も担当されていますね。

林教授が執筆した主な著書

林教授が執筆した主な著書
 新聞各紙には考古学に関する記事がよく掲載されます。それは多くの方が発掘ニュース等に関心を持っておられるからでしょう。またNHKでシルクロードが放送されて大好評だったことから分かるように、一般の方のシルクロードに対する関心も、とても高いものがあります。そこで八王子市の市民大学講座では、シルクロードの文化交流をよく示すような遺跡と出土品を紹介しています。熱心な方が大勢集まってこられるので、驚いています。今年もシルクロードの講座を担当します。

ユーラシア考古学等のどんなところにロマンを感じますか?

シリア、ユーフラテス川沿いの遺跡で発掘(1977年)

シリア、ユーフラテス川沿いの遺跡で発掘(1977年)
 私は子どもの頃、少年向けの探検記や冒険記、旅行記をよく読んでいました。旅行記だと行く所はアフリカや南極、北極とかいろいろあります。その中で中央アジアで遺跡を探すという探検記もあり、シルクロードとも関係していて、読み物としても面白く心魅かれたことを覚えています。
 考えてみると南極や北極には人間はほとんどいないですよね。研究用の建物しかない(笑い)。文化というものもありません。アフリカは確かに人間がいて文化もありますが、文化交流という意味ではあまり興味をそそられなかったのです。もちろん近年、アフリカは考古学や美術史でも注目されています。
 中央アジアの砂漠地帯というのは発掘していろんな遺物が出てきます。自然の冒険とか地理的な冒険、遺跡探検という興味もあるし、人間の文化の交流という面でも、どちらの面でも面白くロマンを感じ、本格的に勉強したいと考え大学に進学しました。

スキタイや匈奴は文字を持たず、自らの歴史を記録することはなかったのですか?

韓国、慶州で開かれたUNESCOの会議で発表(2016年)

韓国、慶州で開かれたUNESCOの会議で発表(2016年)
 そういう国家の中には定住していた人達もいました。匈奴の場合は漢から来た人たちがかなりいて、漢との外交交渉などは、交渉担当の座に就いた中国人が漢字で行っています。どういう理由で「漢から来た」か。一つには亡命です。中国の側にいられなくなった人達です。あるいは戦争捕虜だとか拉致され連れて来られた人達もいます。そういう人達が実は、かなり大きな役割を果たしたのです。
 私はスキタイや匈奴よりももっと後の時代まで研究しています。紀元後8世紀に独自の文字を作るようになります。オルホン文字とか突厥文字という呼び方をします。アルファベットに近いような文字を作り自分達の歴史を自分たちの文字で書くようになります。
 その後、突厥文字は捨てられアラビア文字を使うようになります。ウィグルの人達はソグド語を改良したものやウィグル文字を使い、漢字は使わずに自分達のことを記すようになります。突厥文字が19世紀末に発見されたオルホン碑文によってその存在が知られ、解読された事実を見ても分かるように、考古史料が果たす役割は実に大きく、豊かな歴史像の解明には欠かせないと実感しています。

今、「遊牧性」が見直されているとすれば、どんなことが言えるでしょうか?

 遊牧民はもちろん現在でもいます。遊牧生活というのは、ある意味エコな生活です。なるべくごみを出さない。草原では燃料は牛糞です。木がある所では木を使い、木がなければ牛糞を乾かして燃やします。余り煙を出さずにチロチロと青い火が出てきます。遊牧民はテント生活ですから季節によって移動して行きますが、立ち去った後には何も残らないわけです。自然派志向が高まってきている現代にあって、彼らのいわば自然派生活というのは、現代にも十分通用するような生き方だと思います。
 ただ、彼らもインターネットもやりたいしテレビも見たいですよね。そういう時は、太陽光発電でパネルを使ってテントの脇にパネルが置いてあって、ちょっとテレビを見たりインターネットをやるぐらいなら大した電力も要りませんから、太陽光パネルを持っている人が多いです。

 太陽の光は十分ある所で雨も少ないです。発電時には二酸化炭素(CO2)を排出しませんから太陽光発電は非常に有効です。小さい羽根の付いた風力発電機を持って風のエネルギーを利用している人も多いです。
 それから最近、宗教がどんどん復活しています。中央ユーラシア地域は、かつてはソ連の領域だったので宗教は大っぴらには信仰できませんでした。モンゴルも同じです、社会主義国ですから。中国もそうでした。 その点、カザフスタンなど旧ソ連圏諸国は皆独立し、宗教も自由になって、仏教やイスラム教、古来の伝統的な民族宗教であるシャーマニズムが復活し、精神面での強さとか拠り所としての宗教が注目されています。

遊牧民と現代人との接点をどう捉えたらよいでしょうか?

北京・中国人民大学で開かれた学術研討会の集合写真(2016年)

北京・中国人民大学で開かれた学術研討会の集合写真(2016年)
 家族同然の対応をしてくれる寛大な心と、人や物を自由に受け入れる心でしょうか。定住農耕地帯は、よそ者を受け入れないような傾向が少し見受けられます。その点、遊牧民の場合は、あまりよそ者を迫害視しないし宗教も差別しません。
 モンゴル帝国の場合でも、成吉思汗は何かの宗教に特にえこひいきしたわけではなく、外来文化の摂取に努めるような自然なところが見受けられます。それは今日的な意味での宗教の自由とは違いますが、いろんな文化や宗教を受け入れる精神、心の柔軟性が挙げられます。
 また、遊牧民自身が農耕などを全て行うわけではありません。得意な分野は得意な人にやらせる。遊牧民だって農耕も必要だし小麦粉も必要です。そういう時には専門家に任せる。商業は商業の得意な人にやらせる。「餅は餅屋」という考えに近いんじゃないでしょうか。そういう寛大な精神というのは、現代でも活かしてほしい気がします。
 最近、日本からモンゴルへ行く旅行者、観光客が非常に多いです。目的は、日本にはないような広い大草原で馬に乗って自由に駆けたり星空を見る。日暮れになったら水場の近くにテントを張って食事を作り泊まる。翌日はまた馬に乗って移動していくと。こういう遊牧民体験は新鮮で、乗馬未経験者でも楽しめるでしょう。
 遊牧民的な移動、旅行というのは最近、すごくブームになっているようです。乗馬ツアーですね。乗馬ツアーなんて日本では考えられません。モンゴルなんかに行くと、それがむしろ当たり前です。自然派旅行のようなものに対する、日本人のあこがれは結構強いと思われます。

「都市」のない遊牧社会は「文明」と無縁の存在なのでしょうか?

ペテルブルク、東洋写本研究所にて、突厥碑文の拓本を精査(2010年)

ペテルブルク、東洋写本研究所にて、突厥碑文の拓本を精査(2010年)
 文明は英語の綴り字は「civilization」です。「civil」は「都市」「市民」という意味です。本来、都市がない所には文明はないという考え方になります。確かに古代には遊牧地域に都市はなかったです。7、8世紀ぐらいから都市ができ首都が造られましたが、スキタイ・匈奴の段階では都市というものは遊牧地域にはないです。
 但し、いろいろな美術工芸の面ではスキタイの物は素晴らしいものが沢山あります。今でもペテルブルグのエルミタージュ美術館にはスキタイに関連した黄金製品が沢山あって美術館のお宝になっています。
 現在、そういう物は盗掘されて発掘しても出て来ません。稀に盗掘を免れた物が出て来ることもあります。今から17、18年前に、モンゴルに近い所で偶然、盗掘されていないお墓が見つかり黄金製品などが出てきました。
 その財宝のモチーフ、美術意匠であるとかそういう物は実に洗練された物です。彼らがそういう物を作っていたというのは間違いないです。それは匈奴の場合でも同じです。匈奴は匈奴なりに、あるいはヨーロッパの方で侵入したフン族の美術品も素晴らしい物が沢山あります。

文明と無縁の民族はいないと言えるのでしょうか?

 例えば、匈奴の場合は、一番トップの王に当たるような人物から官僚クラス、それからその下の一般兵士のクラスと社会構造が分かれていますが、それほど複雑な構造ではない。かなり単純な十進法による軍事組織があって、それがピラミッド型の社会制度にもなっています。
 司馬遷に言わせると、匈奴の国政を運営するに当たって自分の体を動かすように自由に運営できる、と。これが漢なんかの場合だと、しがらみがあってなかなか国家を運営するのは難しい。遊牧民は人口が少ないということもあり、比較的単純ではありますが社会制度があって徴税も行っている。漢との間に外交関係もありました。
 こう考えると、匈奴は果たして国家と呼べるのかという論争もありますが、徴税制度や社会制度、外交関係があって漢の側では匈奴を対等な国家として認めています。従って、国家と言っていい段階に達していたと思われます。
 別の見方では、とても国家と呼べるようなレベルじゃなく、もっと低い部族単位のようなものではないかという見方もありますが、まだ文字は持っていなくても漢字を使っていろんな記録を残し、官僚層のようなものも存在しているので、国家と言って良いのではないでしょうか。都市はないけれど、都市のない文明ですね。
 8世紀以降になりますと遊牧国家にも都市ができてきます。彼らはシルクロードを通じて文化交流にも大きな役割を果たしているし美術作品でも素晴らしい物を残しています。
 誰がそれを作ったかというと、遊牧民が片手間で作ったとは思えないんです。そういう美術品などを専門に創作する職人も抱えていたということでしょう。彼ら自身の、遊牧民の好みに応じた物を創ってくれる人がいた。武器だってなければ戦はできません。遊牧民が片手間で作っていたら、そんなに沢山の武器はできません。金属製品の矢じりだとか。当然、そういう物を造る人達がいたはずです。
 鉄を誰が採掘し、青銅製品だったら銅や錫を誰がどこで見つけて探して来るのか。そういうことも専門の人がいないとできません。遊牧国家は遊牧民だけで構成されているわけではありません。いろんな人達が集合している複合体です。従って、普通の国家とそれほど変わりはなかったと考えられます。

学生へのメッセージをお願いします。

文科省の派遣で、トルコのアンタルヤ市チャイハネに滞在(1986年)

文科省の派遣で、トルコのアンタルヤ市チャイハネに滞在(1986年)
 広く興味を持ってください。特に「外」に対してです。日本のことに興味を持つのも結構ですが、学生時代のわりと時間が自由にある時に「外」に目を向け広く興味を持ってもらいたいです。創価大学は外国との交流が大変盛んな大学で、交換留学制度も整っていますので、それを利用しない手はないと思います。
 社会人になってカルチャーセンターのような所へ行くこともできますが、学生の間にできることといったら何と言っても留学です。帰国してから日本を見ることにも影響を与えるかも知れません。
 そういうことがこれから重要になってくると思います。ぜひ「外」に目を向けて「内」にこもらずに、広く興味を持って見てもらいたいです。それで卒論を書いてもらっても結構ですし、レポートを書いてもらっても結構です。アジアでもヨーロッパでも、あるいはアメリカでも広く「外」に目を向けて見て学んでほしいと思います。

【主な著書等】
・『ユーラシアの石人』(単著)、雄山閣、2005年。
・『グリフィンの飛翔』(単著)、雄山閣、2006年7月、282頁。
・『スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史第2巻)』(単著)、講談社、2007年。2017年に講談社学術文庫より、改訂版。
・『遊牧国家の誕生』(世界史リブレット98)山川出版社、2009年。2012年、改訂版。