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2017年11月06日

文学部生の活躍 (人民中国雑誌社の作文コンクールで入賞)

人民中国雑誌社主催の2017Panda杯全日本青年作文コンクールにおいて、「@Japan わたしと中国」をテーマに作品募集が行われ、9月11日に審査結果発表がおこなわれました。
文学部1年生が入賞し、中国の研修旅行に招待されました。(10月17日-23日)
以下、研修旅行の報告をご紹介します。


<惚れた一週間>
10月17日から23日まで私は中国を訪問させていただきました。今回訪れたのは北京、天津、南京、上海の4都市です。
 
北京首都空港に到着し最初に目に飛び込んできたのは漢字、漢字、漢字・・・。当然とはいえ、ひらがなとカタカナがない世界に大きな衝撃を受けました。空港内は広く、大きな荷物を取りに行くための電車や噴水までありました。空港の外へ出るとたくさんの車がけたたましくクラクションを鳴らし合い、中国流あいさつの洗礼を受けました。交通マナーも良いとはいえず、3車線もある道路の交差点の真ん中を平気で自転車が通ったり、軽自動車が普通に割り込んで来たりと傍目から見れば一触即発の様相を呈していました。ただ意外と抵抗はなく中国の風が心地よく感じられるほどでした。人民中国雑誌社を見学し、中国外文局で授賞式が行われたあと、歓迎晩餐会に招待していただきました。そこで目にしたものは豪華な北京料理の数々。中でも北京ダックは格別でした。晩餐会の余興で人民中国雑誌社の社長と編集長が千昌夫の「北国の春」を熱唱してくださいました。日本を思う熱心なお気持ちに感動したと同時に、日中間の民間レベルでの深い絆を体感できた1日となりました。
翌日は北京展覧館へ行き、中国共産党の5年間の軌跡を勉強しました。その日は中国共産党第十九回全国代表大会の開幕日であったこともあり、非常に多くの参観者が来館していました。巨大なオブジェ、多岐に渡る共産党の実績の数々に圧倒されました。そのあと、人民中国雑誌社で劉徳有先生の講演を拝聴しました。劉先生は政治の上で日中関係が冷え込んでいるからこそ民間の交流が必要であるとおっしゃり、漢字文化を共有するもの同士、共に協力しあっていくことが大事であると話してくださいました。1人1人の目をみて力強く語られる姿は輝かしく見え、その輝きは未来の明るい日中関係を投影しているかのようでした。使命感に燃えた瞬間でした。そのあとグループに分かれ北京の大学に通う大学生と一緒に北京市内を観光しました。私たちのグループは「胡同」と呼ばれる裏町を散策しました。この日は曇り空でしたが、それがマッチして哀愁漂う空間を作り出していました。庶民の生活感がにじみ出ていて私が思い描いていた粋な中国像と合致しました。その夜は学生と共に火鍋を食べました。


・天津
3日目の朝は早い出発となりました。しかしこの日は天候が悪く、担当者の方の説明によると、天津まで通っている3本の高速道路のうち2本が濃霧のため通行止め、残り1本は交通事故のため通行止め、ということで当初の日程を変更としての移動となりました。無事に天津に着き、まず訪れたのは、周恩来鄧頴超記念館でした。入り口でお二人の像に迎えられ奥に進むと、お二人の歩まれた軌跡が展示されていました。私が特に感銘を受けたのは周恩来元総理が残された漢詩です。そこには、故郷中国の貧困を救いたいという強い覚悟がにじみ出ていました。私と同じ年齢で国を背負う周元総理の後ろ姿を想像すると、偉大という言葉しか出てきませんでした。記念館見学を通じてお二人が中国の英雄であられることを再確認したと同時に、お二人とのゆかりがある創価大学で学んでいることを誇りに思いました。そのあと天津の市街地に入っていきましたが、北京とは180度違って洋風の建物が建ち並び、間違えてヨーロッパに来たのではないかと一瞬錯覚してしまうほどでした。そこで天津外国語大学の学生と食事をしました。天津外国語大学の学生はみな日本語が流暢で、ある学生は私たちが書いた作文をすべて読んできてくれていました。中国の学生の向学心はさることながら、日本へのすさまじい情熱に心を打たれ、自分は中国が好きだがここまで中国に情熱を持って日々過ごしてきただろうかと自分を恥じる気持ちにもなりました。時間の都合上学生との交流は非常に短く、双方ともに名残惜しさはありましたが、再会を誓い合い、別れを告げました。
しかしここで思わぬ出来事が起こりました。朝の遅れが響き、当初の時間の新幹線に乗ることができなかったのです。いくつかのグループに分かれて南京に向かうことになり、私のグループは最寄駅から別の駅に移動し、そこから新幹線に乗らなければならなくなりました。担当者が応対してくださり、車に乗って別の駅まで行くことになりました。新幹線は夜の中国大陸を猛スピードで駆け抜けて南京まで私たちをいざなってくれました。


・南京
南京で最初に感じたのは中国の発展でした。見上げても頂上が見えない高層ビルが建ち並び、路面電車が走っており、思わず唖然としてしまいました。かつて中国の都として栄えたとはいえこれほどまでとは・・・。万物を照らす太陽ですらビルとビルの間から申し訳なさそうに顔をのぞかせるほどでした。ただ南京は雄大な自然も有しており「中国の軽井沢」とも呼ばれているそうです。色鮮やかなプラタナスの木が中山陵を取り囲んでいました。中山陵には長い階段がありそれを上った先に孫文が眠っているそうです。階段はすべて登りませんでしたが、屋根の青さと「天下公為」の文字がいつまでも胸に焼き付いています。そのあと昼食をとり、「桂魚の甘酢かけ」や「粟と貝のおかゆ」など美味しい料理をたくさん食べました。次に私たちは「明の城壁」を訪れ、南京大学の学生と共に見学しました。明の時代、朱元璋が建設させた城壁は、雨風や時代の大波に耐えてきた痕跡を剥き出しにしながら南京の砦としてそびえ立っていました。その上からは都市化が進む街の風景と自然豊かな風景両方が一望できました。眺めが最高で、時折吹く風が気持ちよかったです。城壁の上には教科書で見た大砲が今でも残されており、タイムスリップした錯覚に陥りました。そのあと科挙博物館を見学しました。明の時代に科挙は規模が大きくなり、南京で3回、殿試が行われたそうです。実際の科挙の答案用紙が展示されていたり、実際に科挙の時に使われた狭い部屋も残されていたりしていて、当時の受験生の緊張がそのまま伝わってきました。南京大学の学生とはこの日の晩餐会まで交流していましたが、彼らも天津の学生同様、日本語が流暢で本当に多くのことを学ばせてもらいました。南京の魅力や南京料理の紹介、小籠包の食べ方などについて親身に教えてくれて、心が温かくなりました。南京料理は甘く味付けされているのが特徴であり、肉料理も甘かったのがびっくりでした。彼らは私たちと等しく将来の日中友好を願っていたので、将来彼らと共にそれらを担っていける人材になりたいと心から思いました。
翌日は南京大虐殺遭難者記念館を訪問しました。最初に館長のお話を拝聴しました。館長はこの記念館は決して日本の面子を潰すためにあるのではなく、歴史を客観視し、命の尊さを感じてもらうためにあるのだと語ってくださいました。命の尊さ。言葉では表現できない重みをともなって私の中にそれは入ってきました。館内は日本軍の行いが中心に展示され、虐殺にあった人々の骨が実際に埋まっている場所も見学しました。現実として、時折こちらをにらんできたり、日本人かとつぶやいたりする中国の方もいました。しかし私は国を越えて、平和を担っていくのは私たち若い世代であると記念館訪問を通じて痛感しました。この経験を原点として大事にしていきたいです。決意を胸に南京から上海へと向かいました。


・上海
最初に訪れたのは、水郷として有名な七宝古鎮でした。伝統的な建物がまっすぐに軒を連ね、そこに運河が通る風情ある景色が楽しめました。主にお土産屋と食べ物屋ということもあってかなり多くの人で賑わっていました。そうした喧噪を抜けて橋の上からゆったりと流れる運河を眺めると、どこからか小舟がやって来ないだろうか、その上に飛び乗り優雅な時間に身を任せられないだろうかと思わず感じてしまいました。運河と伝統家屋、そして沈みゆく太陽は素晴らしくマッチしていました。
翌日の午前は内山書店跡地や魯迅故居といった魯迅ゆかりの地を巡りました。特に魯迅故居は今もなお魯迅が使っていた家具や部屋がそのまま残されており、当時の面影を偲ぶことが出来ました。魯迅故居は上海の民家の中にひっそりとありましたが、当時の社会と懸命に戦い生きた魯迅の姿がそこには今もなお鮮明にありました。そのあと魯迅記念館を見学しました。記念館では魯迅の代表作「阿Q正伝」の精密な模型が展示され、魯迅が残した言葉などが紹介されており、中でも「民族魂」の言葉が私の頭に残りました。私自身、魯迅の作品をほとんど読んだことがなかったので、これを機に、中国人としての精神と自由のために生き抜いた英雄の姿を思い浮かべながら作品を読んでいきたいと思いました。そのあと記念館の近くにある公園を散策しました。そこではお年寄りの方たちがカードゲームをしたり、路上に漢詩を書いたり、楽器を演奏し太極拳をしたりと、ゆったり生活を営んでいました。思わずカメラのシャッターを切っていると、後ろから声をかけられました。振り返ると見知らぬおじさんが笑顔で立っていました。今にも太極拳をしそうな出で立ちでした。おじさんは僕に日本語でどこから来たのか、俺はお前を中国人だと勘違いしていたよと笑いながらしゃべりかけてくれました。うれしくなった僕は中国語で質問し、おじさんは日本語で答えてくれました。最後には一緒に写真まで撮ってもらうまで仲良くなりました。おじさんの正体はよく分かりませんでしたが、おじさんとの出会いは上海での最高の思い出となりました。
そのあと田子坊に行きました。田子坊は七宝古鎮のようにたくさんのお土産屋、食べ物屋がありますが、迷路のようになっていて方向感覚がなくなってしまいそうになりました。友達と小籠包を食べたりお土産を買ったりと道に迷いながらも楽しみました。夕方私たちは上海環球金融中心SWFCビルを見学しました。展望台に登ると上海の夜景が一望できました。燦然と光り輝く明かりは「100万元の夜景」、いやもっと価値のあるものとして私の眼に映りました。どの言葉によっても形容しがたいほど美しく、思わず立ち尽くしてしまいました。そのビルで夕食をとったあと外灘へ行き長江を挟んで夜景を見ました。実は私自身外灘へ行くのは2度目で、約9年前にも訪れたことがありました。当時はビルが少なく霧もかかっていたため、そんなに明るくはなかったと記憶していますが、今日ではビルがところせましと空を覆い、目を覆いたくなるほど光を放っていました。後ろにはヨーロッパ風の建物が金色に輝き、長江からは気持ちの良い風が吹いていました。また中国に戻ってきたい、そう思った瞬間でもありました。

「日本と中国は引っ越しの出来ない隣人である」。南京を訪れた際、バスガイドをしてくださった方の言葉が今でも胸に残っています。今まで私は中国を近くて遠い国であるなと感じていました。しかし実際に訪問してみると、民間レベルでは日本と中国は深い友好関係にあると実感しました。むしろ中国の方々の方が日本への関心、情熱が非常に強く、自分ももっと日々中国に関心を持って行かなければならないと反省した旅でした。
また今回は中国の発展を非常に感じた旅でもありました。今回は2度目の中国訪問でしたが、ビルが多くなったことはもちろん、電子マネーや公共自転車の普及、AIの開発などで息を呑む瞬間が多かったです。私が北京にいるときにちょうど中国共産党第十九回全国代表大会が開幕されましたが、それを記念した展覧会でも発展を感じざるを得ませんでした。その一方で貧困もまだまだ現状としてあるなと痛感しました。華やかな上海でも物乞いしている人が多く見られましたし、ホテルの窓からは、古びた廃墟が建ち並びそこでボロボロの服を着た人が生活していたのが見えたことを鮮明に覚えています。貧困状態にある人は年々減少し貧富の差が縮まってきているとはいえ、発展や豊かさが逆に貧困を際立たせているように見受けられました。今回訪れた場所は大都市であったため次は貧困地域をボランティアなどで訪れ、違った角度から中国を見つめ直したいと思います。
今回わずか1週間の訪問でしたが、中国って楽しい!という純粋な気持ちで胸がいっぱいです。帰国してみるとやっぱり自分は中国が好きなのだと確信しました。必ず中国に帰って隣人ではなく恋人として中国についてもっと知りたいと思いました。これを読んでくださっている皆さんも人生に一度は必ず中国を訪問してみてください。
ページ公開日:2017年11月06日
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