「こちらはレニングラードです」よりИз книги "Говорит Ленинград"

オリガ・ベルゴーリツ著
『こちらはレニングラードです』より

ショスタコーヴィチがラジオ委員会へと車で向かう途中、空襲が始まった。しかし、レニングラードの声を必死に聞こうとしている国中の人々は、砲音と爆音の下でショスタコーヴィチがラジオに出演していることを知らなかった。

幸い、爆弾が落ちたのはラジオ委員会のそばではなかった。

ショスタコーヴィチは、かなりの興奮を抑えながら、押し殺したような声で、しかしはっきりとした調子で話し、一見冷静をよそおってこう語り始めた。

―1時間前、私は新作の交響曲の第2章を書き終えました。このままもし順調にいって、第3章、第4章を書き上げられれば、交響曲第7番になります。

戦時下の危険なレニングラードで私はかなり短期間で二つの章を書き上げることができました。何のために私がこんな話をするのか?それは、私達の町は大丈夫だということを、今ラジオをお聞きの皆さんにお伝えしたいからです。皆がそれぞれ、自分の持ち場で戦っています。文化人も誠心誠意、自らをなげうって、他のレニングラード市民と同じように自分の使命を果たしているのです。

すでに11月の終わり頃(1941年)から町で棺を見かけるようになっていた。しかし、本来の葬列のように荘厳に高く掲げながら運ぶのではなく、雪道をそりですべらせて運ぶのだ。人々は身体が弱っていく一方で、多くの人は歩く力もなく、服や毛布をかき集めて、暗い凍りついたアパートで何日もじっと横たわっていた。こうした瀕死の際まで衰弱したレニングラード市民が唯一外の世界とつながれるのがラジオだった。壁にかかったこの黒い皿(アンテナ)から人の声が流れてくると、自分は1人じゃない! と思えるのだ。

当時、市内では劇場も映画館もすべて閉鎖されていた。多くの市民は、本を読む気力さえ残っていなかった。ラジオでも当時は音楽も歌も流していなかったが、文学番組は毎日のようにやっていた。特に詩の朗読が多かった。詩を聞いて力を得て、ラジオ局に手紙を書いてきてくれた。

古典文学やソビエト文学の朗読のリクエストもあった。1月には連続朗読番組をやった。担当していた俳優のM.ヤンケフスキーは、かなり体調をくずし、顔も黒ずんで息をするのもやっとという様子だった。あるとき、彼がスタジオに入る時、ラジオ局のスタッフが私にこうささやいた。

「今日は、彼は最後までもたないかもしれない。万が一に備えて私も一緒にスタジオに入るよ」

しかしヤンケフスキーは最後まで朗読をやりきり、今も仕事を続けている。

餓死した近親者を墓地に運ぶ市民
当時のレニングラードで使用されたラジオ

1942年ショスタコーヴィチの「レニングラード交響曲」と呼ばれた交響曲第7 番がモスクワで演奏され、同年にレニングラードでも演奏されることとなった。しかし、ラジオ委員会オーケストラの団員は、多くが体調をくずし、徴兵された人もいれば、餓死した人もいた。

「第一バイオリンは死にかかっていて、打楽器奏者は通勤途中に死亡、ホルン奏者も死にかけている」ラジオ局スタッフのバーブシュキンは、絶望を押し殺した機械的な調子でタイピストにこう口述していたのが忘れられない。

それでも残ったメンバーが練習を続けていた。そして「レニングラード交響曲」演奏の話が出て、楽譜が届いた時、それはかなわぬ夢のように思えたが、それでもなんとか演奏したいと皆が思った。ただ、この交響曲は、普通のオーケストラの倍、約100人の奏者がいないと演奏できないような曲だった。ラジオ委員会所属オーケストラで生き残っていたのは、わずか15人だった。それでも演奏することになった。

市共産党委員会もオーケストラ団員には、配給を増やして応援した。そして、ラジオを通じて演奏者集合の呼びかけがなされた。演奏者たちはやつれ果てていたが、それでも呼びかけに応じないわけにはいかなかった。70才の古参ホルン奏者でかつてリムスキー=コルサコフの指揮で演奏したというナゴルニュークがやってきた。それでも演奏者は足りず、軍の音楽隊から応援が出された。

そして1942年8月9日、久しぶりに開いたフィルハーモニーホールは市民であふれた。冬に家族が死んだ時でさえ泣かなかった私達も、熱い喜びの涙を抑えることができなかった。

(江口満 訳)