ターニャの日記Дневник Тани

ターニャ・サヴィチェワという少女

1941年。ドイツ軍によりレニングラードが封鎖されて初めての冬、町に飢餓が訪れた。市内は死体であふれ、水道や暖房、電気も止まり、翌42年1月末には食料の配給も停止した。発表によれば、1月、2月の死者数はおよそ20万人。その大半が飢餓により命を落としたという。

11歳の少女ターニャ・サヴィチェワもまた、包囲されたレニングラードの中にいた。1941年の冬から1942年にかけて、彼女は相次いで身内を亡くし、その記録を一冊の小さな手帳に書き留めた。幼い少女の手によって一行一行、墓碑に刻み込むかのように書かれた死の記録は、包囲の悲惨さを物語る象徴として、読む者の心を揺さぶる。

ターニャが残した手記の数々

姉から譲り受けた手のひらサイズの小さな手帳は、一部が電話帳になっていて、アルファベットの見出しがついている。ターニャはここに死の記録をつづった

ターニャの生い立ち

ターニャは1930年、5人きょうだいの末っ子として生まれた。父親はレニングラード市内にパン工場や映画館を所有する事業家であり、比較的裕福な家庭であった。ところが、1930年代になると状況は一変。父親は「ネップマン*ⅰ」として弾圧を受け、一家はレニングラードを追われることとなる。

ターニャが6歳になったとき、父親が病気でこの世を去った。その後しばらくして、レニングラードへの帰還が叶った一家は、母親を中心に、お互いに支え合いながらの生活を始めた。

一家は父親が生前所有していたアパートの1階に居を構えた。母、母方の祖母、姉のニーナ、2人の兄、そしてターニャがともに暮らすこととなった。もう1人の姉であるジェーニャは結婚を機に家を出ていたが、離婚後も一家のもとには戻らず、一家とは別々に暮らしていた。また、同じアパートの上の階には父方のおじにあたるワーシャとリョーシャが住んでいた。一家の生活は少しずつ落ち着き、平穏な日々を取り戻したかに思われた。

ターニャ・サヴィチェワ
家系図

開戦、飢餓の発生

1941年5月末、11歳となったターニャは3年生を終え、9月から4年生に進級するはずだった*ⅱ。この夏、一家は母マリヤの姉妹が住むドヴォリシェ村(現在のプスコフ州グドフ地区にある村)で過ごす計画を立てていた。6月21日に兄ミーシャが一足先に出発し、翌22日に母とターニャが祖母の誕生日を祝ったあとに出発。ほかの兄姉も、各自職場の休暇が取れしだい合流する予定だった。

ところが、母とターニャが出発を予定していた6月22日、突如ドイツ軍がソ連に侵攻を開始する。ラジオから流れる開戦の知らせを聞いた一家は、田舎で過ごす予定を急遽取りやめ、レニングラードに残る決断をした。

9月8日、シュリッセルブルグが陥落、レニングラード封鎖が始まる。ドイツ軍の攻撃により市の備蓄倉庫が破壊されると、市内はたちまち食糧不足に陥り、1日当たりのパン配給量は、肉体労働者が500グラム、事務職や子どもが300グラム、扶養家族が250グラムにまで落ち込んだ。9月末には石油と石炭が底をつき、10月には電力の使用が禁止され、11月にはすべての公共交通機関が運行を停止した。食べるものもなく、体を温めるすべもない、市民は一人、また一人と倒れていった。

姉ジェーニャの死

12月28日。姉のジェーニャが亡くなる。32歳だった。零下30度にも達する厳しい寒さの中、自宅から勤務先の工場までの7キロの道のりを徒歩で通っていたのに加え、傷病兵に輸血するための血液をたびたび提供していたジェーニャは、かつての面影がなくなるほど衰弱していた。この日の朝、同じ工場で働くニーナが姉の不在に気づき、一家とは離れて暮らすジェーニャの自宅に向かうと、そこには弱り切った姉の姿があった。ジェーニャはニーナの腕の中で息を引き取ったのだという。

ジェーニャの死を知らされたターニャは、メモ帳の「Ж」のページにこう記した。

Женя умерла 28 дек в 12 00 час утра 1941 г
「1941年12月28日 午前12時 ジェーニャが死んだ」

祖母の死

姉ジェーニャの死からまもない1月上旬。今度は祖母が重度の栄養失調と診断された。緊急入院が必要な状態であったが、市内の病院はすでに病人を受け入れられる体制ではなく、何よりも祖母本人が入院を拒んだ。負傷者が必要とする病床を埋めたくはなかったのだ。

その月の終わり、メモ帳の「Б」のページにターニャはこう書き加えた。

Бабушка умерла 25 янв 3 ч. дня 1942 г
「おばあちゃんが死んだ。1942年1月25日。昼の3時」

姉ニーナの失踪

2月28日、レニングラードはドイツ軍によるすさまじい砲撃を受けた。この日、姉ニーナは職場からついに戻ってくることはなかった。連絡を取ろうにも、すでに市内の電話は不通となっており、姉の消息を知るすべはなかった。

兄リョーカの死

開戦後まもなく、兄のリョーカは戦闘兵に志願したが、視力が悪く採用されなかった。そのため、工場での労働に従事し昼夜を問わず働いた。ネヴァ川の対岸にある職場に向かうため、凍える寒さの中、数キロメートルの道のりを、橋を渡って徒歩で通った。体力を温存するため、工場に寝泊まりすることもあったという。

3月17日。工場内の保健施設で衰弱死。24歳だった。

ターニャはメモ帳の「Л」のページにこう記した。

Лека умер 17 марта 05 час утр 1942 г.
「リョーカが死んだ。1942年3月17日、午前5時」

おじワーシャの死

父方のおじにあたるワーシャはターニャたちが暮らすアパートの上の階に住んでいた。ターニャは、読書家であり古書店で働いていたワーシャとは特に仲が良く、戦争が始まる前にはよく2人でネヴァ川沿いを散歩するなど、良い関係を築いていたという。4月13日、56歳で死去。メモ帳の「Д」のページにはゆがんだ文字でこう記されている。

Дядя Вася умер в 13 апр 2 ч ночь 1942 г
「ワーシャおじさんが死んだ。1942年4月13日、深夜2時」

おじリョーシャの死

ワーシャの死からおよそ1か月後の5月10日、同じくおじにあたるリョーシャが、71歳でこの世を去った。衰弱死だった。「Л」のページ、兄リョーカのメモの隣にはこう書かれている。

Дядя Леша 10 мая в 4 ч дня 1942
「リョーシャおじさん。1942年5月10日、午後4時」

母マリヤの死

その3日後、母マリヤが息を引き取った。

М」のページに、ターニャはさらに一行を書き加えた。

Мама в 13 мая в 7 30 час утра 1942 г
「ママ。1942年5月13日 午前7時30分」

ターニャの家族はみんな死んでしまった。行方不明の兄ミーシャと姉ニーナもきっと生きてはいないだろう。ともに暮らした家族はもういない。少女の絶望はいかばかりだったろうか。彼女は「С」「У」「О」のページに最後の4行を書き記した。

Савичевы умерли
「サヴィチェフ家は死んだ」

умерли все
「みんな死んだ」

осталась одна Таня
「残ったのはターニャひとり」

その後のターニャ

彼女は一時、市内に住む一人暮らしの親戚のところに身を寄せたものの、折り合いが悪く、最終的には孤児院へと送られた。1942年8月、ターニャが送られた孤児院は、レニングラードから1300㎞離れたゴーリキー州(現ニジニ・ノヴゴロド州)シャトキ地区への避難を開始した。ターニャもまた、125人の子どもたちとともに、避難先へ向けて出発した。ところが、途中滞在した村で結核に感染していることが判明。ターニャは隔離された。およそ1年半にわたり闘病を続けたものの、病状は著しく悪化。1944年3月初めには別の村の施設へと移送され、そのさらに2か月後には、病院の感染病棟へと移された。

1944年7月1日。ターニャ・サヴィチェワはレニングラードに戻ることなく、14歳の若さでこの世を去った。ともに避難した125人の子どもたちのうち、唯一の死者であった。ターニャの遺体は孤児として、近隣の墓地に埋葬された。

ターニャの日記

1941年、開戦の前日に話を戻そう。家族よりも一足早く田舎へと出発した兄ミーシャはどうなったのだろうか。連絡が取れなくなったミーシャのことを、皆は死んだものと思っていたが、実はそうではなかった。ミーシャはパルチザンに加わってドイツ軍と戦い、かなりの重傷を負ったものの、かろうじて戦火を生き延びた。また、行方不明となっていた姉のニーナもまた、死んではいなかった。激しい砲撃があったあの日、同じ職場の人々とともにラドガ湖を越え、レニングラードを脱出していたのだ。

封鎖が解除された後、生き延びた兄姉はレニングラードに帰還することができたが、そこにはもう一家の姿はなかった。ただ、残された遺品の中に、一冊の手帳があるのが発見された。それこそがターニャの日記である。

872日間の包囲という過酷な状況において、サヴィチェフ家のような家庭は決して珍しくはなかった。市民は皆、極限の状態で命をつないだのだ。

ターニャが肉親の死をつづったこの短くも恐ろしい日記は、現在、国立サンクトペテルブルク歴史博物館に保管され、訪れる人々に戦争の悲しさ、悲惨さを強く訴え続けている。

右:ニーナ、左:ミーシャ