レニングラード包囲の概略 О блокаде Ленинграда
ドイツ軍の進撃
第二次世界大戦中の1941年6月22日、日曜日、モスクワ時間午前3時15分、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻を開始した。総数550万を数えるドイツ同盟軍は、「バルバロッサ作戦」と銘打ち、北方、中央、南方の3つの方面軍に分かれ、一斉にソ連へと襲い掛かった。ナチス=ドイツ軍は、この戦争を、人種的に優れたゲルマン民族が劣等民族たるスラヴ人を奴隷化し、ドイツ人の生存権を東方に拡張するための戦争だと位置づけていた。開戦からわずか数日で、ソ連は保有する航空機の2割強に加え、国境近くの主要な鉄道拠点を100か所以上も失い、各地で鉄道網の寸断が起こった。
反共産主義を掲げたヒトラーが真っ先に狙ったのは、ロシア革命の中心地であり、レーニンの名を冠する、いわばソビエト共産主義のシンボルともいうべき地、レニングラードであった。

1941年
6月22日 | ドイツ軍、ソビエト連邦に侵攻を開始(バルバロッサ作戦) |
---|---|
7月18日 | レニングラードで食糧配給制が導入される |
8月13日 | ノヴゴロド陥落 |
8月28日 | ムガ駅を最後の列車が通過、非占領地域との交通網が断たれる |
9月2日 | 連絡線遮断、レニングラードへの補給途絶、市民への食糧配給削減 |
9月8日 | ドイツ軍、シュリッセルブルグを占領レニングラード封鎖 バターエフ倉庫の消失 穀類と砂糖の備蓄を失う |
10月7日 | ドイツ軍による水道・電気・ガス供給施設、食糧備蓄施設への攻撃開始 |
11月8日 | 鉄道拠点チフヴィン占拠(レニングラード南東部)。内陸部からラドガ湖への輸送ルート遮断 |
12月 | ラドガ湖氷上を走る道路「生の道」が開通 |
1942年
冬 | 飢餓の発生 |
---|---|
1月1日 | レニングラードの食糧の蓄えがあと2日分になる |
1月25日 | 市内の水道、暖房、電気が止まる |
1月27日 | 市内の食糧供給・配給が止まる |
2月28日 | 1月・2月の死者数が約20万人になったと発表 |
6月18日 | 燃料パイプラインをラドガ湖の湖底に敷設、レニングラードへの石油の供給を開始 |
1943年
8月9日 | レニングラード・フィルハーモニー会館の大ホールでショスタコーヴィチの交響曲第七番の演奏会開始 |
---|---|
1月12日 | ソ連軍によるイスクラ作戦。ドイツのレニングラード封鎖に穴を開ける |
1月15日 | 凍結したラドガ湖経由で赤軍のスキー旅団がシュリッセルブルクに突入 ドイツ軍撤退、ソ連軍の2つの方面軍が合流に成功 |
1月17日 | 封鎖打破。レニングラード解放宣言 |
1月31日 | スターリングラードでの勝利 |
1944年
2月6日 | 最初の物資輸送列車が陸上ルートによリレニングラードに到着 |
---|---|
1月14日 | ソビエト軍、レニングラードを依然包囲していたドイツ軍陣地を猛攻撃 |
1月27日 | 872日間にわたる封鎖の終了 |
包囲の始まり
バルバロッサ作戦の開始からおよそ1か月後の1941年7月18日、レニングラードでは食糧配給制が導入され、パン、バター、その他の食品の購入に配給券が必要になった。この段階ではまだ商店には多くの商品が並んでおり、市民の多くにとってヒトラーの宣戦布告は全く現実味を持っていなかった。当局は個人所有のラジオの没収に躍起になり、敵軍の前進についてのニュースを制限していたことも原因である。しかしすぐに市上空をドイツ軍爆撃機が飛び交うようになった。
ドイツ軍の侵攻開始から2か月も経たないうちに、レニングラードの南南東約170キロメートルに位置する古都ノヴゴロドが陥落。さらに北方からはドイツ側に立ったフィンランド軍が、ラドガ湖北西部へと迫っていた。8月末にはレニングラードの南東にある、鉄道の要衝ムガが陥落したことにより、レニングラードと内陸部とをつなぐ補給ルートが断たれた。市内では食糧の買い込み競争が激化し、全商店が閉鎖された。9月8日、ドイツ軍はラドガ湖畔のシュリッセルブルグを制圧。レニングラードは完全に包囲された。


「ほぼ科学的な方法」
ドイツ軍最高司令部は、レニングラードを「通常の方法で占領する」のではなく、「包囲し餓死させる」方針を定めた。専門家に協力を要請し、レニングラードの人口を調べ、食糧の備蓄量や気温の資料から、どれだけの期間封鎖を続ける必要があるかを検討した。
戦前のレニングラードには、およそ300万人の市民が生活しており、ドイツ軍の試算によれば、封鎖開始後1か月で、1日のパン配給量が生命の維持が不可能になる250グラムにまで落ちると見込まれた。冬季に封鎖を継続すれば、市内は飢餓状態になる。市内人口が多いほど餓死は早まる。疫病も広まる。ドイツ軍部隊の人命を危険にさらすまでもない。大量餓死の科学である。

封鎖の絞首ロープ
レニングラードが包囲されたのとほぼ時を同じくして、ドイツ軍は最初の大空襲を実施した。目標はレニングラード最大の食糧倉庫だった。これにより、備蓄していた穀類と砂糖の大半が失われた。ドイツ軍はレニングラードの周囲にフェンスと電気ワイヤーを設置し、脱出を図る者がいれば容赦なく射殺した。
9月半ばの時点で、市内の備蓄は穀類、小麦粉、肉類がおよそ1か月分、油脂が45日分、砂糖、菓子類がおよそ2か月分だった。当初は1日当たり800グラムのパンが配給されていたが、工場労働者は500グラム、事務職員は300グラム、扶養家族は250グラムに引き下げられた。
10月上旬、ドイツ軍はガス、水道、電力の供給施設と食糧倉庫への砲撃を開始する。給水施設も備蓄倉庫も破壊され、石油や石炭も底をついた。もはや燃料は倒木だけとなった。電力の使用が禁止され、大部分の工場も停止を余儀なくされた。
11月に入ると、すべての公共交通機関が停止。配給はいよいよ制限され、労働者には250グラム、兵士および防衛の任にある者には300グラムが支給された。そのパンも、かさ増しのためにセルロースや油かすといった混ぜ物がなされていて、苦みが強くとても食用には適さないものであったという。
レニングラードはじわじわと死に向かって進んでいた。


生の道 (Дорога жизни)
市内ではほぼ毎日、ドイツ軍の砲声が鳴り響いた。1日に数回の砲撃を受けることもあったという。敵軍の包囲を破ろうと、市の内側と外側から何度も突破が試みられたが、うまくはいかなかった。寒さはますます厳しくなっていた。
寒冷地では冬季になると河川や湖沼が凍結する。氷は非常に分厚く、人や重い貨物車さえも氷上を横断することができる。12月、凍結したラドガ湖上に道路が敷設された。これは、レニングラード防衛軍によってかろうじて維持されていた、ラドガ湖西岸の小さなオシノヴェツ港と、非占領地域とをつなぐ唯一の連絡路で、この道路はのちに「生の道」、「命の道」と呼ばれるようになる。ドイツ軍の砲撃や空襲を受ける危険なルートではあったが、1942年2月には最初の疎開車列を出すことに成功。トラックによる輸送が可能になったことで、これまでより多くのパンが店に届くようになった。この頃、市内では飢餓だけでなく、赤痢や伝染病も流行し、毎日、数千人の命が失われていた。

飢餓
レニングラードは、包囲が始まってから最初の冬を迎えていた。1月末にはついに食糧の配給が停止。1月、2月の死者数は20万人に達した。1日に2万人の死者が出ることもあった。市内は死体であふれていた。
備蓄が尽きると、革製のブーツやベルト、油粕など、食べられるものであれば何でも食べた。零下30度の凍てつく寒さの中、暖房も電気も、ストーブにくべる薪もなく、食べられないものであれば家具も本も何でも燃やした。
市内のいたるところに設置されたスピーカーからは、昼夜問わずにラジオ放送が行われた。いつ終わるともしれない凄惨な状況の中、人々は支え合い、励まし合い、懸命に命をつないだ。


包囲の終焉
1942年春。レニングラードは冬季の包囲戦を何とか乗り切ったが、市周辺では依然として一進一退の攻防が続いていた。市内に響く交響楽団の音色が、包囲に耐え続ける市民や兵士の心を奮い立たせていた。6月中旬、ラドガ湖の水中にパイプラインが敷設され、石油が供給されるようになると、レニングラード市内の雰囲気もようやく変化の兆しをみせた。そして、翌1943年1月12日、ソ連軍は「イスクラ(火花)作戦」を決行。ドイツ軍の砲兵陣地を総攻撃し、1月15日、ついにシュリッセルブルグの奪還に成功した。ドイツ軍防御陣地をラドガ湖南岸から押し下げ、レニングラードの包囲はここに打破されたのである。
2月には物資輸送列車が陸上ルートでレニングラードに到着。封鎖解除後に残されていた多数の包囲陣地も、ソ連軍の猛反撃により次々と解放された。1944年1月27日、872日間にわたるレニングラード包囲はついに終わりを迎えた。犠牲者数に関しては諸説あるが、70万人から110万人もの命が失われたという。犠牲になった市民のうち、砲撃で命を落とした者はわずか3%。残りの97%は餓死であった。
人々はこう言う。
「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」と。
レニングラードは包囲を耐え抜いた。このことは、戦後75年を経てもなお、市民およびロシア国民の誇りとなっている。
