【「価値創造×SDGs」Week開催レポート】
長 有紀枝 立教大学副総長 大学院21世紀社会デザイン研究科教授 特定非営利活動法人「難民を助ける会(AAR)」理事長

2020年12月11日(金)~17日(木)にわたって、「価値創造×SDGs」Week(後援:国連広報センター)を開催しました。17日のクロージングイベントでの、立教大学副総長 大学院21世紀社会デザイン研究科教授 特定非営利活動法人「難民を助ける会(AAR)」理事長の長 有紀枝氏による講演レポートです。

SDGsを自分事とするために――一人の意識が世界を変える

戦争、紛争、政治的迫害、宗教的迫害、飢餓などから、やむなく国境を越えた難民・国内避難民は、2019年末時点で約8000万人に及ぶという。この膨大な数を聞いて、果たして個人の、自分の力で、何ができるのだろうかと逡巡してしまうかもしれない。しかし、長先生は次のように言う。

「大切なことは、自分には関係ないと思わないこと。関係なくはないと思っていれば、私たちにできることはいくらでもあります」

長先生は、 “難民を助ける会”(AAR)理事長として20年以上にわたり難民支援、地雷対策などの国際活動に従事。SDGs目標16の分野“平和と公正をすべての人に”は、まさに活動領域。関連著書も多数ある。

「例えば、リベリアの一市民であるリーマ・ボーイさんは、政府軍と反政府勢力の対立が激しいリベリア内戦で、キリスト教とイスラム教の垣根を越えた仲間たちと和平交渉の会場に乗り込み、白いTシャツを着て周りを取り囲みました。会場から押し出されそうになった時、「私、脱ぐわよ」と言って抵抗。アフリカのある地域では、女性の裸を見たら禍が降りかかると忌み嫌われているそうです。ユニークな体を張っての行動で、ついに和平交渉を成功に導きました。2011年にノーベル平和賞を受賞しています」

「来年(2021年1月)、核禁止条約が発効します。2017年に、核禁止条約が成立するまでの活動が評価されノーベル平和賞を受賞した団体が“核兵器廃絶国際キャンペーン”(ICAN)です。また、これ以前にノーベル平和賞を受賞している“核戦争防止国際医師会議”(IPPNW)は、冷戦で対立する米ソ両国の医師が協力して作ったNGOで、『医師には核の被害者を治すことができない。治療できない患者や被害者を生んでしまうことを知っていて何もしないわけにはいかない』と訴えました。このような活動の積み重ねと継続が核禁止条約につながったのです」

地雷禁止条約は1997年12月に多くの国が署名し、成立。この交渉過程で活躍をしたのが“地雷禁止国際キャンペーン”(ICBL)である。この活動は米独の2つのNGOで始まり、その後4つの団体が加わり1992年に“地雷禁止国際キャンペーン”として正式に発足。今では1000を超える団体が参加しているという。

「なぜ、この活動を始めたかと言うと、カンボジア難民がタイに逃れてきたときに、足のない人たちがたくさんいたからです。それは紛争の犠牲者というよりも、置き去られた地雷の犠牲者だった。これは政治・軍事の問題ではなく、もはや“人道問題”だと。私たちは、戦争反対とは言わずに、対人地雷の廃絶だけをスローガンにして世界に訴えました。なぜなら戦争反対と言えば、広がり過ぎて目的が希薄になってしまうからです」

「同じ動きがクラスター爆弾の禁止でも実践されました。クラスターとは“房”の意味で、一つの爆弾の中に200個ほどの子爆弾が入っている。それを空中で散布して、広い範囲を攻撃する。問題になったのは、不発弾が約5%生じてしまうこと。こちらはノルウェー政府が廃絶に取り組み、NGOが協力してクラスター爆弾禁止条約が成立しました」

「皆さんにヒントとしてお話ししたいのが“規範起業家”(Norm Entrepreneur)という言葉です。これは対人地雷の問題が出てきたときに議論された理論です。規範起業家とは、これまで問題とされていなかった事柄を問題として取り上げ、広め、新しい規範として、社会に浸透させる人や団体のことです。地雷を人道問題としたこともまさに規範起業家としての考え方に即したものと言えます。
このように当たり前と思われていることでも、違うフレーミング(切り取り方)をしてみると、多くの人が問題と感じるかもしれません。適切にフレーミングして世に問えば、世界は変えられると思います」

「元赤十字国際委員会(ICRC)副総裁のジャン・ピクテさんは『人道には、4つの敵がある。利己心。無関心。想像力の欠如。認識不足』という言葉を残しました。私は、なるほどと思いましたが、それ以上ではなかった。しかし、ある時からそれ以上のものになった。それは私が赤十字の歴史を学んでいたときです。ジャン・ピクテさんのもとに学生が訪ねて来て、『ナチスのユダヤ人虐殺を止めてほしい』と訴えました。しかし、赤十字は動かなかった。今なら責められるのかもしれませんが、当時は連合国側も何もできない状況にありました。戦後になってジャン・ピクテさんは600万人ものユダヤ人が殺害されたことを知りました。もしあの時、自分たちが動いていたら、少なくとも何か違っていたかもしれない。言葉に表せないほど、心から悔いたと思います。この『人道の敵』を挙げたのは、ピクテさんがこの事実を知ってからのことだったのです」

最後に長先生は、地雷禁止国際キャンペーン初代コーディネーターのジョディ・ウィリアムズさんの言葉を紹介した。地雷禁止活動を始めたとき、これほど地雷が世界中に広まってしまっては、もう廃絶は絶対に無理と誰もが思っていた。しかし、1997年に禁止条約ができて、地雷禁止は世界の規範になった。その時のウィリアムズさんの言葉という。

『私たちは、地雷禁止活動が成功すると知っていたから始めたわけではありません。やらなければいけないと知っていたから始めたのです』

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