私たちは
何のために
難民保護の
現場にいるのか?

3ヶ月で60万人もの人々が難民生活を強いられることとなった史上空前の難民危機。わずかな希望を持ってバングラデシュに避難したロヒンギャ難民のキャンプで、日々圧倒的な緊急人道活動に奮闘する国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の職員たち。その中に久保眞治さんはいました。久保さんは、本学法学部9期の卒業生。UNHCRバングラデシュ代表、同タイ臨時代表の任務を経て次期フィリピン代表に就任予定。この度、一時帰国の際にインタビューする機会を得ました。
学生時代の様子から、卒業後のUNHCR職員までの道のり、UNHCR職員としての仕事の内容や難民保護の現場の様子、国連職員を志す創価大学の後輩へのメッセージを伺いました。

学生時代について教えてください!

私は外交官試験に挑戦することを志して、建学の精神の一つに「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」と掲げる創価大学を受験しました。私は9期生として入学したのですが、すでに現役で外交官試験に合格した先輩方が何名も周囲におられ、その方々にくらいつきながら一歩一歩進んでいったということが学生時代の一番の肝ですね。一年間過ごした滝山寮では人間としても随分と揉まれました。特に、南寮9号室では高い志を持った多彩な仲間と出会いました。彼らとのかけがえのないつながりは、今でも大切な心の支えになっています。日伝研茶道部で活動したことも創大での金の思い出です。
憲法、国際法、経済原論といった主要受験科目と英語を中心に、とにかく色々な機会を捉えて勉強していました。その甲斐もあって、3年生で初めて挑戦した外交官専門職試験の筆記試験には無事通りました。しかし、その後は最終面接試験に5回落ち続けるという事態になりました。本当に、今でもたまに夢を見るほど落ち込みがちな受験生活が続きました。そうした試練が続きましたが、豊田の進学塾講師時代を通して惜しみ無い励ましをいただいた1期生の千葉義夫さん、石巻高校の先輩で現在は創価大学文学部教授の杉山由紀男さん、また8期生で同じく法学部教授をされている中山雅司さんをはじめ、たくさんの素晴らしい先輩や友人に支えていただいたことは決して忘れられません。
当時の私は、外交官試験以外は周りが見えない学生でした。今になって思うと、もう少し柔軟に受験勉強以外に様々なことに挑戦した方が良かったかな、とも思います。

なぜ、UNHCR職員を目指されたのでしょうか?

私は宮城県石巻市出身です。東北のどこにもいるような普通の子供でしたが、小学6年の時に母親に付き添われて創価学園を受験したのが一つの転機でした。立川のホテルで一緒になった四国出身の受験生が、「僕は外交官になる。そのために創価学園に行く」と言っていたんです。私は「なんてかっこいいんだろう」と思うと同時に、「外交官」という新鮮な言葉が頭に残りました。学園の受験は落ちてしまったのですが、そこから外交官を目指すことを人知れず胸に秘めるようになっていました。そして、創価大学に入学し外交官試験への挑戦が始まり、3年次の1回目で首尾よく専門職の筆記試験合格。まだ3年生だったのと翌年の外交官試験本番に向け、面接試験は辞退。そして先ほどもありましたが、そこからが波乱万丈、というか本当に大変でした。実は、私は、フルコース経験しているんです(笑)。まずは、「留年」です。外交官試験を目指していたので、卒論を書かずに1年間留年しました。その後、大学院の入学試験に落ちたので、すんなり大学院にいけずに「浪人」。大学に入学してから既に6年目が過ぎた頃、いよいよ周囲に心配され、外交官試験挑戦を断念、仙台で就職しました。しかし、私はもう一回国際的な仕事に就くことを目指し、お世話になった勤務先を退職して1988年に創価大学大学院の法学研究科法律学専攻に入りました。大学院ではタイのチュラロンコン大学に派遣留学させてもらい、カンボジア難民の受入れをしていたタイの人道政策を調査しました。その経験を通して、「やっぱり難民保護の仕事がしたい。いずれは国連職員となり、タイでも働きたい」と思うようになりました。そこで今度は、外務省から国際機関に2年間派遣させるJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)派遣候補者選考試験を受けるわけですが、外交官専門職試験の時と同様、書類審査から面接まで進んでは落ちること数回。大学院在学中に結婚していたこともあり、卒業して一旦民間企業に就職しました。その会社は、創業期でニューヨーク支社を立ち上げるプロジェクトが始まっており、いきなり立ち上げ要員として配属され、入社半年後にはニューヨークのマンハッタンに転勤、ビジネスマンとして無我夢中の2年間を過ごしました。その間、社会人としての実務経験が評価されたのか、年齢制限ギリギリでJPO試験に最終合格、アフガニスタンを経て、イランでUNHCR職員として働くことになります。年齢は32歳を迎えていました。

これまでのお仕事ではどのような経験をされたのでしょうか?

イランではJPOとして約2年、その後の3年間は正規職員として計5年間ほど活動をしました。
イランは当時、アフガン難民150万人に加えてイラクからのクルド系難民とシーアアラブ系難民を合わせて数10万人規模で受入れており、まさに難民保護大国でした。UNHCRイランは約37億円の年間予算で、難民の生活支援や本国帰還を進めていました。私はそのプロジェクト・コントロール、お金の動きと事業の進捗を統括する仕事を任されました。以前、ニューヨークで事務所管理をしていた仕事の経験が非常に役立ちました。
その後、10万人が暮らす10ほどの難民キャンプを管轄する地方事務所勤務を経てスリランカに転勤することになりました。今度は、難民保護官といういわゆるリーガルマインドの訓練を受けた人、例えば弁護士資格を持つ人がなるようなポストです。それまでプロジェクト統括官のイメージが定着しかかっていたので、「シンジ、お前、リーガルバックグランドあるんだっけ?」と同僚からも驚かれました。創価大学大学院の法学研究科で修士号を取得していたことがここで活かされました。その後は、マレーシア、カンボジア、インドネシアで法務・保護分野のポストが続きました。東京のUNHCR駐日事務所では渉外部の責任者として資金調達、様々なパートナーとの協力強化を担当しました。
これまでのUNHCR勤務を振り返ると、やはりJPOから正規職員に採用される時期が特に印象深いです。JPO出身者全員が正規職員になれるということはなく、3人に1人しかなれないような時期に、無事、正規職員に採用されて安堵しました。今思えば、創価大学出身でJPOというのはまだ珍しい時でしたから、「創価大学出身者をJPOで送っても役に立たない」という評判が立たないように、必死になって職場で信頼を勝ち得ようとひたむきに取り組んでいました。無事に正規職員になれた時は、大きな肩の荷がおりたという気持ちになりました。

難民保護条約など様々な国際法がある中、赴任される国々でその理解の度合いや国内の法制度の整備状況が違うと思いますが、どの国が大変でしたでしょうか?

ご存知ない方も多いのですが、イランは早くから率先して難民条約に加盟し、これまでに難民保護の分野でも多大な貢献をしています。そうした意味で様々な負担や課題を背負いながらも、イランなりの方針で難民保護のリーダーシップをとっているという自負があるんですね。そういう実績や現実の困難を正当に評価し、UNHCRへの信頼を勝ち取りつつ、さらにより効果的な保護政策を促すというのは、なかなか難しいところがあります。スリランカの場合は、内戦が続き自国民が国内で難民状態に陥るいわゆる「国内避難民」の深刻な状況を抱えていました。国内避難民を保護する特定の国際条約は現在のところありませんし、まして自国民の保護は主権国家の本質的な責務です。そのような背景がある中で、「国連などのよそ者が偉そうなことを言うな」という雰囲気になることも珍しくありません。それでも怯まず、避難生活が長期化し厳しい日々を強いられる人々の人権を守れるように慎重な調整をしていきます。実際、UNHCRの活動はスリランカ治安軍の管轄が及んでいない地域が中心だったので、UNHCR職員というだけで反政府ゲリラを支援しているんじゃないかと疑われる場面もあり、逆に反政府ゲリラの立場からすると、私たちのことをスリランカ政府の意向を受けてきているんだろう、という具合です。一歩も引かず、ひたすら苦境に立つ普通の人々を守る仕事ですが、本当に人間としての熱意や説得力が物をいうと思いました。
UNHCRの職員には、人間としての総合力が求められます。対立するコミュニティーの間に入り交渉する現場では、何度も自分の説得力の無さとか、相手に中々納得してもらえない無力さを痛感しました。それでも、守るべき人々のために、必死になって言わなくちゃいけないことを言い続けることの繰り返しでした。

難民のコミュニティーはどのように形成されているのでしょうか?

現場での保護活動を通じて気づいたことですが、今回のロヒンギャ難民の特徴は、その多くが村々の単位でそのままバングラデシュに避難してきたんです。60万人を超える人道危機が3ヶ月で起こったにも関わらず、かろうじて最悪の事態が避けてこられたのは、彼らが持っているそもそものコミュニティー力が難民キャンプでもそのまま機能しているからに他なりません。それは支え合う力であったり、お互いを知っているという安心感であったり。それに加えて、故郷では日常的に深刻な暴力や迫害を受け続けたけれども、バングラデシュに逃れて周りを見ると、心を痛めて手を差し伸べる大勢のバングラデシュの人々や、国連や世界各地から駆けつけてきたNGOの人が懸命に支援活動を続けてくれている。そういったものがうまく組み合わさっていることで、奇跡的に最悪の事態が防げていると感じています。
逃げる途中で様々な経路を辿って何日、何週間もかかっているために、家族がバラバラになることがあります。しかし、難民同士で「どこどこ村のだれだれさんの子供を見かけましたよ」といった情報が短時間で収集することができるんです。私たちはそういう初動期からのネットワークの再構築を重要視していたんです。今、そういったことが確実に実を結んできています。
私たちが今直面しているロヒンギャ難民危機の深刻さというのは実に計り知れない。人間の仕業として、これだけ短い時間で、これほどの恐ろしい人道危機を引き起こしてしまった。ただ単に悲惨だ、かわいそうだからというだけでは済ませることはできない。この事態を私たち一人一人がしっかり見据えることが求められていると思います。21世紀が始まってまだ20年足らず、ロヒンギャの問題というのは、この世紀を生きる私たちにとって非常に大事な課題です。こういったことが当然のことのように起こる時代に絶対にしてはいけない。もしもここで失敗すると、第2、第3のロヒンギャ問題が世界各地で起こりかねないという問題意識を私は持っています。
ロヒンギャ問題が起きている根っこの部分というのは、「人間」対「人間」の拭い去れない長年横たわる恐怖心、お互いのコミュニティーに対する恐怖心です。政治的な解決はなかなか難しいというのが実感です。なぜなら人の気持ちの中に植え付けられた問題ですから。それから、ミャンマーのラカイン州でその両者を取り巻く極度の貧困問題も、忘れてはならない現実です。
一人の卒業生として実感するのですが、創価大学に求められているのは建学の精神の一つ「人間教育の最高学府たれ」ということで、まさに「人間力」の鍛錬だと思います。「人間力」というのは何かというと、これは創立者の池田先生が様々な機会に指摘されてこられた「『不信』を『信頼』に変え、『対立』を『協調』に変え、『絶望』を『希望』に変えていく」力だと思うんです。国際協力の現場では、錯綜する深刻な課題に常時関わるわけですが、高度な知見や学識、最新の技術も必要ですが、そうした能力をベースに人間力で貢献する、尽力するということが求められています。

創価大学で学んだことで、仕事をする上で大切にされていることを教えてください。

「英知を磨くは何のため」—創立者が開学式で示された私の大好きな指針です。日常の仕事の現場でも、「何のため」という視点を忘れないように心がけています。目の前の難題に直面した時や、煩わしい状況に出くわすと、本来の目的を見失ってしまう。そんな時ほど、人間関係で行き詰まったり、上司と部下のコミュニケーションがうまくいかなくなったりするんです。私自身がいつも大切にしているのは、ちょっと一歩立ち止まってみること。難民保護の課題で、中々展望がひらけない時、同僚に問いかけるのは、「私たちは何のためにここにいるのか。一番大事なのは、例えば難民の声を聞くことではないでしょうか。私たちは本当に知っているのか」ということです。UNHCRのスタッフの心に響き、素直に受入れてもらえるアプローチです。ここに来ているのは、「何のためなのか」—こういう現場で働いているのは、仲間内でいがみ合うためなのか。絶対違うわけです。そして、「Let’s do a right thing in a right way」「正しいことを正しい方法でやりましょう」と。とてもシンプルでわかりやすいメッセージです。どんなに意見が違って、様々な対立があっても、「Is it a right thing to do? Is it a right way to do that? Let us do a right thing in a right way.」という呼びかけが、まさにみんなの気持ちを一つにしていきます。UNHCR職員は、持って生まれた資質や能力も一人一人違う。それから信仰の背景なども様々です。けれども、私たちは皆正しいことを、正しいやり方でやるためにここに来たんだ。国連職員になったんだ。難民保護の最前線に来たんだと。UNHCRでは、これまでに何百人もの同僚と一緒に仕事をしてきました。みんなに同じことを言ってきたように思います。
世界は制御が効きにくい、大混乱の様相を呈しているし、何が正しくて、何が正しくないのかと言う点でも、意見の違いが拡大しています。だからこそ、自身が正しいと確信することを分かりやすい言葉で言い続ける。その日は分かってもらえないかもしれないけれど、次の日はまたにっこりと笑顔で握手をして、その繰り返しで、少しずつ固い岩盤のような難題も解決していける。それが、私自身の心の中にしっかり残っている記憶ですね。だから恐れるものは何も無い。どんな困難や課題もいつか必ず打開できます。
世界最速で悪化したバングラデシュでの難民の危機は、今現在も予断を許さない状況です。すでに任期を終えバングラデシュを離れましたが、現場にいた時は無我夢中で、できることは今すぐに、なんでもさせていただきました。離任のあいさつの折、バングラデシュ外務大臣、そして次官からも「本当は行ってほしくないんだ。できるものならバングラデシュでUNHCRの代表を続けて欲しい」と非常に温かい言葉をかけていただきました。創価大学出身者の一人としても光栄なことです。今から40年近く前にキャンパスで必死になって勉強して自分の使命を模索した頃があったからこそなんだな、とも思います。

国連関係機関の職員等を目指す後輩へメッセージをお願いします!

「語学」はコミュニケーションツールとして、相手と真剣に議論したり物事を前に進めていく上では非常に大切です。できれば2ヶ国語の習得を目指すつもりでやって欲しいと思います。もう一つは具体的なイメージを模索しながら専門の勉強をして欲しいです。ゼミの先生と議論するのもいいでしょうし、文献をあたるのも大事なんでしょう。そして費用と時間もかかりますが、たまには現場に出て自分の置かれている立場と比べながら、振り返りながら進むということは大事ですね。創価大学は留学するチャンスもますます多くなりました。今しかできないことに多少無理しても挑戦して欲しいと思うんですね。私もチュラロンコン大学に留学をさせてもらったことは、時を経るにつれなんとすごいことだったんだろうかと思います。
創価大学は、創立者池田先生が折りに触れて語られているように「大学は、大学に行けなかった人のためにある」と思います。そして、私は難民保護にあたり、声なき声を聞く力が大切だと思っています。実際には、支援物資の配給所にすら来られない難民が大勢います。例えば水を配っている現場で「水を配っているので、取りに来てください」で普通は終わるのですが、そこに来られない人もいるかもしれないと思って様々な手を打っていく。創価大学の学生にはそのような想像力、創造力、共感力を磨いた人が多いと思うんです。チャンスをどんどんつかんで欲しいなと思います。

Profile
久保 眞治さん
卒業年度/学部:法学部法律学科9期生

[好きな言葉]足下に泉あり
[性格]心配性、おだづもっこ(石巻弁)
[趣味]家族
[最近読んだ本]大川 周明 「日本二千六百年史 新書版」

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