私は昭和46年入学の1期生です。4年間大学の中に住んでいた(?)ようなものです。1年4ヶ月滝山寮に住み、その後は大学敷地に隣接した「青葉荘」という新築のアパートに住みました。
近くに店は全くなく、滝山街道の角の酒屋兼乾物屋のようなお店が一軒あっただけです。(だいぶ後にコンビニになり、その後廃業したようです。)そのため、日用品、食料のほとんどは創大生協で購入していました。4年間で1日しか帰省しなかったため、1年次や2年次の夏休みなど、早朝構内を散歩すると、誰一人とも会わず、静寂そのものでした。文学の池に朝日が差し、本当にきれいでした。文学の池もまだあまり整備されておらず、1年次の冬には何羽かの水鳥がやってきていただけです。確か鯉もまだいなかったかと思います。その後鯉が住み、どんどん大きくなっていきました。その先には合掌造りの家(当時「万葉の家」ともう一軒の合掌造りがあった)があって、その先は行き止まりでした。正面ブロンズ像の右側から先は行き止まりで、その先には多摩の雑木林がうっそうと続いていました。夏休みはほぼ毎日散歩していました。構内に住んでいた数家族の管理人さん、滝山寮の手前の教職員寮にお住いの先生方、みんな顔見知りでしたので、創大は我が家そのものでした。構内の隅から隅まで知っていました。本当に第二の故郷でした。今の創大構内のイメージより、ずっと狭かったのです。
今の栄光門(それしか入口はありませんでした)からのメインロードの両側の、つつじ、桜、レンギョウもまだ若木で、みずみずしいものでした。東京のゴミゴミした下町で育った私は、自然がこんなにもきれいで、身近なものとして感じられるようになった初めての経験でした。職員の皆さんの手入れも素晴らしかったです。
その後、創大の構内はどんどん広がり、目をみはるばかりですが、構内の自然の美しさはそのままで、今、こんな花が、こんな虫がいると見ることができる「丹木の歳時記」は、本当に楽しみです。半世紀前の、あの草創の青春時代を思い出します。

※「丹木の歳時記」は下記ページよりご覧いただけます。

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