第2章 アンネ・フランクと杉原千畝の選択

02

CHIUNE SUGIHARA

  1. ホーム
  2. 展示物の紹介
  3. CHIUNE SUGIHARA

外交官への道

学生時代の杉原千畝
©NPO 杉原千畝命のビザ

( すぎ )( はら )( )( うね )は、1900 年(明治33 年)1 月1日、岐阜( ぎふ )県で生まれました。

( よう )( しょう )( )から成績( ゆう )( しゅう )で、英語の教師を( こころざ )していた杉原は、父親の反対を( )し切り、夢に向かって東京へ飛び出しました。

仕送りもなく、苦しい生活を送っていたとき、外務省の留学生( )( しゅう )という広告を目にします。合格すれば、学費と生活費が( )( しょう )されたなかで勉強が続けられる――夢中で勉強し、試験に合格した杉原は、外務省の留学生となり、ハルビンにて、ロシア語を学ぶことになりました。

1922 年(大正11 年)、ロシアでは、ソビエト社会主義共和国連邦( れんぽう )の建国宣言が出され、日本はソ連との( こっ )( こう )( じゅ )( りつ )真剣( しんけん )に考え始めるようになっていました。

杉原は「ロシア語は、ますます日本の外交にとって( ひつ )( よう )になる」との( しん )( ねん )で学び、「( しょう )( らい )( ゆう )( ぼう )ナリ」と高く評価される成績を残しています。

学生時代の杉原千畝
©NPO 杉原千畝命のビザ

外交官として活躍(かつやく)

杉原はその( のう )( りょく )( みと )められ、1924 年(大正13 年)2月8日、外務書記生に( にん )( めい )されました。

1925年(大正14 年)1月には、ハルビンの日本総領事館に( )( にん )し、1932年(昭和7年)3月に「( まん )( しゅう )国」(中国東北部)ができると、外交部(「満州国」の外務省にあたる)で( はたら )くことになりました。

ソ連から北満鉄道を買い取る( こう )( しょう )では、大いにその手腕( しゅわん )( はっ )( )しました。しかし、( しょう )( しん )( かく )( じつ )と思われた矢先、( かれ )は外交部をやめ、日本に帰国します。その( もっと )も大きな理由は、「満州国」を支配していた関東軍からスパイ活動を( もと )められたことでした。杉原は語っています。

日本人は、満州で、中国人に対して、ひどいあつかいをしています。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんです。

リトアニアへ()(にん)

日本の外務省に( もど )り、フィンランドのヘルシンキ公使を( )て、1939年(昭和14年)7月20日、杉原はリトアニアのカウナスに設置される日本領事館の領事代理に命じられました。

在任期間はわずか1 年間でしたが、まさにその時期はナチス・ドイツがポーランドに侵攻( しんこう )し、第二次世界大戦が始まった激動( げきどう )の時代でした。

同じ人間だと思っていない
それが、がまんできなかった

リトアニア(しょう)(めつ)

リトアニアの日本領事館前に押し寄せたユダヤ人たち
©NPO 杉原千畝命のビザ

1939年(昭和14年)8月23日、( てき )( たい )していたはずのドイツとソ連が手を組み、独ソ( )( )( しん )( じょう )( やく )( むす )ばれました。近隣( きんりん )各国をどのように支配するかが、両国の間で( )( みつ )( )に決められていたのです。

同年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻( しんこう )( )( がね )となり、第二次世界大戦が勃発( ぼっぱつ )

ポーランドには、ヨーロッパで一番多くのユダヤ人が住んでいました。( かれ )らは国内に( とど )まっていては( )( けん )と考え、多くの人々が隣国( りんごく )のリトアニアに、( )( なん )( みん )として( )( )んでいきました。

( よく )1940 年(昭和15 年)8月、リトアニアがソ連に併合( へいごう )されることが決まると、ポーランドから( のが )れてきたユダヤ人たちは共産主義への不信感と宗教的な迫害( はくがい )への( きょう )( )( しん )、またさらなるドイツの侵攻への( おそ )れから、その多くがリトアニアからの( だっ )( しゅつ )( のぞ )んでいました。

ユダヤ人のおかれた( きょう )( ぐう )( きわ )めて( どう )( じょう )( あたい )する

生き残るための道

ドイツ、ソ連の支配地域が( おう )( しゅう )各国に広がっていくなか、ユダヤ人に残された最後の( )( みち )は、シベリア経由で日本に( わた )り、アメリカやカナダなどの第三国に渡ることでした。

しかし、ソ連や日本を( つう )( )するためのビザを( はっ )( きゅう )してもらうためには、( さい )( しゅう )( うけ )( いれ )国の入国ビザが必要でした。

リトアニアを( へい )( ごう )したソ連からの命令により、リトアニア国内の各国領事館が次々と退去( たいきょ )していくなか、ユダヤ人に( どう )( じょう )( てき )であったオランダのヤン・ツバルテンディク( めい )( )( りょう )( )は、ユダヤ人のために、最終受入国をオランダ領キュラソー島と( しる )したビザを発給し、このビザを持って日本の領事館に行くよう( すす )めました。カリブ海に( )かぶキュラソー島は小さな岩だらけの島であり、( じっ )( さい )には入国しないことを( しょう )( )のうえで、形式的な受入国としたのです。

運命の7月18日

そして、運命の1940 年(昭和15 年)7 月18日( そう )( ちょう )、約200人にも( およ )ぶユダヤ人たちが、日本の通過ビザを求めてリトアニアの日本領事館に( )( )せてきました。

忘れもしない1940年7月18日の早朝のことであった。6時少し前。( おもて )( どお )りに面した領事公邸( こうてい )寝室( しんしつ )窓際( まどぎわ )が、突然( とつぜん )人だかりの( かまびす )しい話し声で( さわ )がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が( )えるためか、( )( だい )に高く( はげ )しくなってゆく

杉原は、( かれ )らのなかから代表5 人を選出させ、直接話を聞いて、( じょう )( きょう )( )( あく )しようとしました。

ユダヤ人のおかれた( きょう )( ぐう )( きわ )めて( どう )( じょう )( あたい )するものであり、自分に( あた )えられた権限や職務上の制約( せいやく )( ゆる )( はん )( )( きょく )( りょく )援助( えんじょ )したい

( かれ )らの話を聞いた杉原は、このように( )べたものの、ビザを求める人数があまりにも多く、個人の( さい )( りょう )の範囲を( )えていたため、本国の外務大臣に( うかが )いを立てる必要がありました。

ユダヤ人が第三国に渡るためのルート

杉原の()(のう)

これだけの人たちを置いて、
私たちだけが( )げるなんて絶対( ぜったい )できません

杉原幸子

©NPO 杉原千畝命のビザ

杉原は、人道上ユダヤ人の( よう )( きゅう )をどうしても( きょ )( )できない( むね )、外務省に電報を打ちました。

2度にわたって電報を打ったものの、本省からの回答はいずれも、( )( こう )( じょう )( けん )(十分な旅費を持っていること等)不備( ふび )のユダヤ難民へのビザは( はっ )( きゅう )してはならぬというものでした。

私は考え( )んでしまった。元々( もともと )( かれ )らは私にとって、何のゆかりもない赤の他人に( )ぎない。一層( いっそう )のことビザ( きょ )( )を5名代表だけに宣言( せんげん )し、領事館オフィスのドアを封印( ふういん )し、ホテルにでも引き上げようと思えば、物理的には実行( じっこう )できる。しかも私は本省に対し( じゅう )( じゅん )であると( )められこそするであろうに。私は考え込んだ。

外交官として本省の( くん )( れい )( そむ )くことは、( しょう )( しん )の停止か( しっ )( しょく )につながりかねない重大な問題でした。しかも、杉原にはその年の5月に生まれたばかりの三男がいました。3人の( おさな )い子どもたちを( かか )え、仕事で問題を起こすことなど、とてもできることではありませんでした。

しかし、門の前でじっと待っている( )( なん )( みん )のなかにも、幼い子どもの姿( すがた )が見えます。

私はこの回訓( かいくん )を受けた日、( ひと )( ばん )( じゅう )考えた。家族以外の相談相手は一人も手近にはいない。

(ゆき)()夫人

一人( )( のう )する杉原にとって、唯一( ゆいいつ )、心のうちを相談できる相手は、妻・幸子でした。

「ここで( )り切って国外へ出てしまえば、それでいい。それだけのことなんだ」
夫は私に確認するように何度も言いました。

「それはできないでしょう。これだけの人たちを置いて、私たちだけが逃げるなんて絶対できません」
( たし )かに家族の安全を考えるならば、今すぐ国外へ退去( たいきょ )することが最善( さいぜん )の方法でした。でも、夫はそれができる人ではないことが、私にはよく分かっていました。

「そうだね」
夫の顔にいつもの( やさ )しい( )( がお )( もど )るのを見ると、私もつかの間、安らかな気持ちになれたのです。

( )( りょ )( はん )( もん )( あげ )( )
私はついに人道( じんどう )博愛( はくあい )精神( せいしん )第一( だいいち )
という結論( けつろん )( )

時間との戦い

杉原の執務室(再現)
©寿福 滋

2回にわたる本省との電報のやり取りをするうちに、1週間が( )ぎていました。

リトアニアを併合( へいごう )したソ連は、カウナスにある外国公館の( へい )( )を8 月25日と命じました。杉原も日本の領事館を閉鎖し、国外へ出ていかなくてはなりません。

国外へ出て行ってからでは、( かれ )らを( すく )うことはできない。いまなら彼らを救うことができるかもしれない……。決断( けつだん )までの時間は、もはや残されていませんでした。

信念の決断

リトアニア駐在時の杉原の執務室( しつむしつ )(再現)
©杉原千畝記念館(岐阜県八百津町)

杉原の心は( かた )まりつつありました。

「ここに百人の人がいたとしても、私のようにユダヤ人を助けようとは、考えないだろうね。それでも私たちはやろうか」

夫は私の顔をまっすぐ見て、もう一度、念を( )すように言いました。私はその時(子供たちも私も最悪の場合は( いのち )( )( しょう )はないのだ)と思いましたが、( だま )って深くうなずきました。

深い( )( もん )( すえ )、杉原は、本省の指示に( そむ )いて、自身の信念のもと、ついに通過ビザを( はっ )( きゅう )することを決断( けつだん )します。

苦慮、煩悶の揚句、私はついに人道博愛精神第一、という結論を得た。私は、何も( おそ )るることなく、職を( )して( ちゅう )( じつ )にこれを実行( じっこう )( )えたと、今も確信( かくしん )している。

ビザ発給開始

7月29日、杉原は日本の通過ビザの発給を開始します。
このときを待っていたユダヤ人たちの間に、( かん )( )が広がりました。

1940年7月29日の朝早く、まだ( くら )いうちから人々は( あつ )まってきていました(中略)
夫が表に出て、鉄柵( てっさく )( )しに「ビザを発給する」と( )げた時、人々の表情( ひょうじょう )には電気が走ったような( しょう )( げき )がうかがえました。

( いっ )( しゅん )沈黙( ちんもく )と、その後のどよめき。( )き合ってキスし合う姿( すがた )、天に向かって手を広げ感謝( かんしゃ )( いの )りを( ささ )げる人、子供を( )き上げて( よろこ )びを( )さえきれない母親。( まど )から見ている私にもその喜びが伝わってきました

リトアニア・カウナス市街
©NPO 杉原千畝命のビザ

奮闘(ふんとう)

杉原が発給したビザ(複製)
©杉原千畝記念館(岐阜県 八百津町)

それからは、( しん )( しょく )を忘れるほどの激闘( げきとう )の日々でした。
一人ひとりと面会をし、杉原が手書きでビザを書いていく、とても( ほね )( )れる作業です。一人でも多くの申請者( しんせいしゃ )に対応するため、昼食もとらず、開館時間も( えん )( ちょう )しました。

あるときには、未来ある青年たち、神学校の生徒300人分のビザを発給するため、閉館した後、( )る間も( )しんでビザを書き続けました。

8 月末、ついにリトアニアの日本領事館が( へい )( )されます。しかし、リトアニアを出発するまで、数日間滞在( たいざい )したホテルにも、ビザを( もと )めてユダヤ人が( )( )せました。杉原は領事館を閉めるときに、ホテルの名前を( )り出しておいたのです。そしてそこでも、( かれ )らのためにビザを書き続けました。

駅での(わか)

カウナスから次の赴任地ベルリンに向かう杉原一家
©NPO 杉原千畝命のビザ

リトアニアを出発する9月5日。
ユダヤ人は杉原を( )って、カウナス駅にも( あつ )まりました。杉原は待合室( まちあいしつ )でも、さらに汽車に乗ってからも、出発する直前までビザを書き続けました。

汽車が走り出し、夫はもう書くことができなくなりました。
( ゆる )してください。私はもう書けない。みなさんのご無事( ぶじ )( いの )っています」
夫は( くる )しそうにそう言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。
茫然( ぼうぜん )と立ち( )くす人々の顔が、目に焼きついています。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と( なら )んで( )きながら走ってきた人が、私たちの姿( すがた )が見えなくなるまで何度も( さけ )び続けていました。

6,000人の「命のビザ」

杉原が1 ヵ月で発給したビザは、リストが残っているものだけで2,139名分に上ります。

通常、1通のビザには家族全員の名前が( しる )されていたので、少なくとも約6,000人が杉原ビザによってリトアニアから( だっ )( しゅつ )できたことになります。

さらにその( )( そん )まで( ふく )めると、20万人以上の( いのち )が杉原ビザによって( すく )われたといわれています。

「一人の命を救うことは、全世界を救うに( ひと )しい」

ユダヤの言葉にある通り、杉原が発給したビザは、多くの( とうと )い命をつなぎ、未来を開いた「命のビザ」だったのです。

スギハァラ。
私たちはあなたを忘れません。
もう一度あなたにお会いしますよ

救われたユダヤ人の言葉

帰国してからの苦労

杉原のビザによってナチス・ドイツの迫害( はくがい )( のが )れたユダヤ人、バルハフティック氏(当時のイスラエル宗教大臣)と再会
©NPO 杉原千畝命のビザ

1947 年(昭和22 年)4 月、戦後2 年が( )ち、ようやく杉原家も日本に帰国しました。しかし、帰国して2 ヵ月後、杉原は外務省を( )めさせられます。( かれ )は何も弁明( べんめい )はせず、外務省を後にしました。戦後の( しょく )( りょう )( なん )の時代でもあり、生活は( こん )( きゅう )していきました。( はな )やかな外交生活に( )れていた杉原にとって、こうした生活に慣れることにも( ひと )( )( ろう )でした。

さらに( )( )ちをかけるように、まだ( おさな )かった三男の春生が( きゅう )( せい )します。苦しいなかでも家族を( あか )るくしてくれる、( みな )から愛されていた子でした。

杉原は、こうした( )えがたい苦しみのなかでさえ、( よわ )( )( )かず、自分の( こう )( )への後悔( こうかい )も決して口にはしませんでした。

私の( こう )( )は歴史が審判( しんぱん )してくれるだろう

ユダヤ人との再会(さいかい)

1968 年(昭和43 年)の夏の日、杉原が( ちゅう )( にち )イスラエル大使館に( )ばれて行くと、一人の男性が一枚の古ぼけた紙を( だい )( )そうに見せてくれました。それは、杉原がリトアニアで( はっ )( きゅう )したビザだったのです。

その男性は、このビザによって救われ、イスラエルに( てい )( じゅう )したユダヤ人の一人でした。杉原を探すために2度ビジネスマンとして来日。3度目に外交官として日本に( )( けん )されて( )( らい )、手を( )くして杉原の行方( ゆくえ )( さぐ )り、実に28年ぶりの再会を( )たしたのです。

殺害されたユダヤ人の追悼( ついとう )と、ユダヤ人を救った( )( ほう )( じん )( たた )える記念館ヤド・バシェムには、次の言葉が( きざ )まれています。

( )( おく )せよ、忘るるなかれ」

ユダヤの人々は、カウナス駅での杉原との約束( やくそく )、そして、同胞( どうほう )を救ってくれた( おん )を決して忘れることはありませんでした。

(しょ)(こく)(みん)の中の正義の人

日本に( )( なん )してきたユダヤ人たち
©NPO 杉原千畝命のビザ

ユダヤ人たちは、杉原が彼らを救うため、多くのビザを発給したことには感謝( かんしゃ )していましたが、そのビザが杉原一人の判断( はんだん )で出されていたとは知りませんでした。

しかし、後に、政府の方針( ほうしん )( そむ )いてまでビザを出したことを知った( かれ )らは、1985 年(昭和60 年)1 月、杉原に、イスラエルの国家( くん )( しょう )である「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を( おく )ります。

後年、杉原は語っています。

「私のしたことは外交官としては( )( ちが )ったことだったかもしれない。しかし、私には( たよ )ってきた何千人もの人を( )( ごろ )しにすることはできなかった」
「私の行為は歴史が審判してくれるだろう」

COLUMN (ぜん)()のバトン

杉原からビザを受け取っただけでは、( かなら )ずしも安全な旅が( )( しょう )されるわけではありませんでした。モスクワからウラジオストクまでのシベリア鉄道でソ連を通過する間には、ユダヤの人々は、( かん )( )から( よう )( きゅう )される( わい )( )( )( みつ )( けい )( さつ )による( きょう )( せい )( そう )( )( たい )( )など、さまざまな危険に( ちょく )( めん )しました。

シベリア鉄道の終着点であり、日本行きの船が出るウラジオストクでは、( )( なん )( みん )のビザについて再確認を( もと )められました。そして、( ふく )( )県の( つる )( )港に着いてから最終的に第三国へ出国するまでの間、( りょ )( )( )( めん )や行先国の入国( きょ )( )( )( はい )など、多くの( こん )( なん )がありました。

しかし、まるで( かれ )らを守る使( )( めい )を杉原から引き( )ぐかのように、避難民のために( じん )( りょく )する人々が( あらわ )れました。あたかも“善意のバトン”を( わた )すリレーのように、一人ひとりの善意の行動がつながって、多くの( とうと )( いのち )( すく )われたのです。

  1. Baton 1. ()(なべ)(りょう)(いち)

    上海( シャンハイ )領事館員
    シベリア鉄道で、移動中のユダヤ人の多くと( せっ )し、ウラジオストクから、敦賀まで同乗( どうじょう )していた。
    ( わか )( ぎわ )に、「上海でも必要なことがあれば私に連絡( れんらく )をしてください。」と手を( )( )べた。
    敦賀から神戸へ、そして上海( ホン )( コウ )地区への( )( じゅう )( きょう )( せい )された多くのユダヤ人を、文化活動等の制限( せいげん )をつけず応対に当たった。

  2. Baton 2. ()()三郎(さぶろう)

    在ウラジオストク総領事代理
    ウラジオストクに( とう )( ちゃく )したユダヤ難民は、船に乗って、敦賀港にわたることになっていた。
    日本の外務省は、( ちゅう )ウラジオストク日本総領事館に、ユダヤ難民の日本向け船舶( せんぱく )への( じょう )( せん )( きょ )( )しないよう( つう )( たつ )を出していた。しかし根井は、「日本の公館が発給したビザを( )( こう )にすれば、国際的信頼( しんらい )( うしな )う」と、その指示をはねつけ( )( こう )( みと )めた。根井は杉原のハルビン時代の後輩( こうはい )であり、彼の( せい )( じつ )さを( おぼ )えていた。

  3. Baton 3. ()(つじ)(せつ)(ぞう)

    神戸ユダヤ人協会、ヘブライ語学者
    1938 年から満州鉄道の調査部( )( もん )として( きん )( )していた小辻は、ユダヤ人と交流を持っており、緊迫( きんぱく )した迫害状況( じょうきょう )を知っていた。
    敦賀に上陸したユダヤ人は、日本で唯一( ゆいいつ )のユダヤコミュニティがある神戸に向かった。その際、10日間だけであったビザの日本滞在( たいざい )期間の( えん )( ちょう )と、第三国への出国のため、小辻は外務省の管轄( かんかつ )部署や、神戸、横浜( よこはま )の港湾当局との( こう )( しょう )にあたった。

  4. Baton 4. 敦賀の人々

    日本に辿( たど )りついたユダヤ難民を、敦賀の人々は温かく( )( むか )えた。
    果物( くだもの )の入った( かご )を持って、( )( しょう )( くば )った少年、浴場を無料で( かい )( ほう )した銭湯( せんとう )の主人。また、時計店の主人は、( から )( さい )( )を見せながら空腹( くうふく )( うった )える( かれ )らのために、彼らの時計や( ゆび )( )などを買い取り、台所にある食べ物を( わた )した。「・・・敦賀は私たちにとってはまさに天国でした。( まち )清潔( せいけつ )で人々は( れい )( )( ただ )しく親切( しんせつ )でした。」(当時のユダヤ難民 サミュエル・マンスキー氏)

日本からアメリカに( だっ )( しゅつ )する人々
©NPO 杉原千畝命のビザ

参考文献:『決断 命のビザ』(大正出版)、『真相 杉原ビザ』(大正出版)、『杉原千畝物語 命のビザをありがとう』(フォア文庫)、『六千人の命のビザ』(大正出版)、『六千人の命を救え! 外交官・杉原千畝』(株式会社PHP研究所)
監修:NPO 杉原千畝命のビザ
協力:杉原千畝記念館(岐阜県 八百津町)、人道の港 敦賀ムゼウム