外交官への道
杉 原 千 畝 は、1900 年(明治33 年)1 月1日、岐阜 県で生まれました。
幼 少 期 から成績優 秀 で、英語の教師を志 していた杉原は、父親の反対を押 し切り、夢に向かって東京へ飛び出しました。
仕送りもなく、苦しい生活を送っていたとき、外務省の留学生募 集 という広告を目にします。合格すれば、学費と生活費が保 証 されたなかで勉強が続けられる――夢中で勉強し、試験に合格した杉原は、外務省の留学生となり、ハルビンにて、ロシア語を学ぶことになりました。
1922 年(大正11 年)、ロシアでは、ソビエト社会主義共和国連邦 の建国宣言が出され、日本はソ連との国 交 樹 立 を真剣 に考え始めるようになっていました。
杉原は「ロシア語は、ますます日本の外交にとって必 要 になる」との信 念 で学び、「将 来 有 望 ナリ」と高く評価される成績を残しています。
外交官として活躍
杉原はその能 力 が認 められ、1924 年(大正13 年)2月8日、外務書記生に任 命 されました。
1925年(大正14 年)1月には、ハルビンの日本総領事館に赴 任 し、1932年(昭和7年)3月に「満 州 国」(中国東北部)ができると、外交部(「満州国」の外務省にあたる)で働 くことになりました。
ソ連から北満鉄道を買い取る交 渉 では、大いにその手腕 を発 揮 しました。しかし、昇 進 も確 実 と思われた矢先、彼 は外交部をやめ、日本に帰国します。その最 も大きな理由は、「満州国」を支配していた関東軍からスパイ活動を求 められたことでした。杉原は語っています。
日本人は、満州で、中国人に対して、ひどいあつかいをしています。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんです。
リトアニアへ赴任
日本の外務省に戻 り、フィンランドのヘルシンキ公使を経 て、1939年(昭和14年)7月20日、杉原はリトアニアのカウナスに設置される日本領事館の領事代理に命じられました。
在任期間はわずか1 年間でしたが、まさにその時期はナチス・ドイツがポーランドに侵攻 し、第二次世界大戦が始まった激動 の時代でした。
リトアニア消滅
1939年(昭和14年)8月23日、敵 対 していたはずのドイツとソ連が手を組み、独ソ不 可 侵 条 約 が結 ばれました。近隣 各国をどのように支配するかが、両国の間で秘 密 裏 に決められていたのです。
同年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻 が引 き金 となり、第二次世界大戦が勃発 。
ポーランドには、ヨーロッパで一番多くのユダヤ人が住んでいました。彼 らは国内に留 まっていては危 険 と考え、多くの人々が隣国 のリトアニアに、避 難 民 として逃 げ込 んでいきました。
翌 1940 年(昭和15 年)8月、リトアニアがソ連に併合 されることが決まると、ポーランドから逃 れてきたユダヤ人たちは共産主義への不信感と宗教的な迫害 への恐 怖 心 、またさらなるドイツの侵攻への恐 れから、その多くがリトアニアからの脱 出 を望 んでいました。
生き残るための道
ドイツ、ソ連の支配地域が欧 州 各国に広がっていくなか、ユダヤ人に残された最後の逃 げ道 は、シベリア経由で日本に渡 り、アメリカやカナダなどの第三国に渡ることでした。
しかし、ソ連や日本を通 過 するためのビザを発 給 してもらうためには、最 終 受 入 国の入国ビザが必要でした。
リトアニアを併 合 したソ連からの命令により、リトアニア国内の各国領事館が次々と退去 していくなか、ユダヤ人に同 情 的 であったオランダのヤン・ツバルテンディク名 誉 領 事 は、ユダヤ人のために、最終受入国をオランダ領キュラソー島と記 したビザを発給し、このビザを持って日本の領事館に行くよう勧 めました。カリブ海に浮 かぶキュラソー島は小さな岩だらけの島であり、実 際 には入国しないことを承 知 のうえで、形式的な受入国としたのです。
運命の7月18日
そして、運命の1940 年(昭和15 年)7 月18日早 朝 、約200人にも及 ぶユダヤ人たちが、日本の通過ビザを求めてリトアニアの日本領事館に押 し寄 せてきました。
忘れもしない1940年7月18日の早朝のことであった。6時少し前。表 通 りに面した領事公邸 の寝室 の窓際 が、突然 人だかりの喧 しい話し声で騒 がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増 えるためか、次 第 に高く激 しくなってゆく
杉原は、彼 らのなかから代表5 人を選出させ、直接話を聞いて、状 況 を把 握 しようとしました。
ユダヤ人のおかれた境 遇 は極 めて同 情 に値 するものであり、自分に与 えられた権限や職務上の制約 の許 す範 囲 で極 力 援助 したい
彼 らの話を聞いた杉原は、このように述 べたものの、ビザを求める人数があまりにも多く、個人の裁 量 の範囲を超 えていたため、本国の外務大臣に伺 いを立てる必要がありました。
杉原の苦悩
杉原は、人道上ユダヤ人の要 求 をどうしても拒 否 できない旨 、外務省に電報を打ちました。
2度にわたって電報を打ったものの、本省からの回答はいずれも、渡 航 条 件 (十分な旅費を持っていること等)不備 のユダヤ難民へのビザは発 給 してはならぬというものでした。
私は考え込 んでしまった。元々 、彼 らは私にとって、何のゆかりもない赤の他人に過 ぎない。一層 のことビザ拒 否 を5名代表だけに宣言 し、領事館オフィスのドアを封印 し、ホテルにでも引き上げようと思えば、物理的には実行 できる。しかも私は本省に対し従 順 であると褒 められこそするであろうに。私は考え込んだ。
外交官として本省の訓 令 に背 くことは、昇 進 の停止か失 職 につながりかねない重大な問題でした。しかも、杉原にはその年の5月に生まれたばかりの三男がいました。3人の幼 い子どもたちを抱 え、仕事で問題を起こすことなど、とてもできることではありませんでした。
しかし、門の前でじっと待っている避 難 民 のなかにも、幼い子どもの姿 が見えます。
私はこの回訓 を受けた日、一 晩 中 考えた。家族以外の相談相手は一人も手近にはいない。
幸子夫人
一人苦 悩 する杉原にとって、唯一 、心のうちを相談できる相手は、妻・幸子でした。
「ここで振 り切って国外へ出てしまえば、それでいい。それだけのことなんだ」
夫は私に確認するように何度も言いました。
「それはできないでしょう。これだけの人たちを置いて、私たちだけが逃げるなんて絶対できません」
確 かに家族の安全を考えるならば、今すぐ国外へ退去 することが最善 の方法でした。でも、夫はそれができる人ではないことが、私にはよく分かっていました。
「そうだね」
夫の顔にいつもの優 しい笑 顔 が戻 るのを見ると、私もつかの間、安らかな気持ちになれたのです。
時間との戦い
2回にわたる本省との電報のやり取りをするうちに、1週間が過 ぎていました。
リトアニアを併合 したソ連は、カウナスにある外国公館の閉 鎖 を8 月25日と命じました。杉原も日本の領事館を閉鎖し、国外へ出ていかなくてはなりません。
国外へ出て行ってからでは、彼 らを救 うことはできない。いまなら彼らを救うことができるかもしれない……。決断 までの時間は、もはや残されていませんでした。
信念の決断
杉原の心は固 まりつつありました。
「ここに百人の人がいたとしても、私のようにユダヤ人を助けようとは、考えないだろうね。それでも私たちはやろうか」
夫は私の顔をまっすぐ見て、もう一度、念を押 すように言いました。私はその時(子供たちも私も最悪の場合は命 の保 証 はないのだ)と思いましたが、黙 って深くうなずきました。
深い苦 悶 の末 、杉原は、本省の指示に背 いて、自身の信念のもと、ついに通過ビザを発 給 することを決断 します。
苦慮、煩悶の揚句、私はついに人道博愛精神第一、という結論を得た。私は、何も恐 るることなく、職を賭 して忠 実 にこれを実行 し了 えたと、今も確信 している。
ビザ発給開始
7月29日、杉原は日本の通過ビザの発給を開始します。
このときを待っていたユダヤ人たちの間に、歓 喜 が広がりました。
1940年7月29日の朝早く、まだ暗 いうちから人々は集 まってきていました(中略)
夫が表に出て、鉄柵 越 しに「ビザを発給する」と告 げた時、人々の表情 には電気が走ったような衝 撃 がうかがえました。
一 瞬 の沈黙 と、その後のどよめき。抱 き合ってキスし合う姿 、天に向かって手を広げ感謝 の祈 りを捧 げる人、子供を抱 き上げて喜 びを押 さえきれない母親。窓 から見ている私にもその喜びが伝わってきました
奮闘
それからは、寝 食 を忘れるほどの激闘 の日々でした。
一人ひとりと面会をし、杉原が手書きでビザを書いていく、とても骨 の折 れる作業です。一人でも多くの申請者 に対応するため、昼食もとらず、開館時間も延 長 しました。
あるときには、未来ある青年たち、神学校の生徒300人分のビザを発給するため、閉館した後、寝 る間も惜 しんでビザを書き続けました。
8 月末、ついにリトアニアの日本領事館が閉 鎖 されます。しかし、リトアニアを出発するまで、数日間滞在 したホテルにも、ビザを求 めてユダヤ人が押 し寄 せました。杉原は領事館を閉めるときに、ホテルの名前を貼 り出しておいたのです。そしてそこでも、彼 らのためにビザを書き続けました。
駅での別れ
リトアニアを出発する9月5日。
ユダヤ人は杉原を追 って、カウナス駅にも集 まりました。杉原は待合室 でも、さらに汽車に乗ってからも、出発する直前までビザを書き続けました。
汽車が走り出し、夫はもう書くことができなくなりました。
「許 してください。私はもう書けない。みなさんのご無事 を祈 っています」
夫は苦 しそうにそう言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。
茫然 と立ち尽 くす人々の顔が、目に焼きついています。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並 んで泣 きながら走ってきた人が、私たちの姿 が見えなくなるまで何度も叫 び続けていました。
6,000人の「命のビザ」
杉原が1 ヵ月で発給したビザは、リストが残っているものだけで2,139名分に上ります。
通常、1通のビザには家族全員の名前が記 されていたので、少なくとも約6,000人が杉原ビザによってリトアニアから脱 出 できたことになります。
さらにその子 孫 まで含 めると、20万人以上の命 が杉原ビザによって救 われたといわれています。
「一人の命を救うことは、全世界を救うに等 しい」
ユダヤの言葉にある通り、杉原が発給したビザは、多くの尊 い命をつなぎ、未来を開いた「命のビザ」だったのです。
帰国してからの苦労
1947 年(昭和22 年)4 月、戦後2 年が経 ち、ようやく杉原家も日本に帰国しました。しかし、帰国して2 ヵ月後、杉原は外務省を辞 めさせられます。彼 は何も弁明 はせず、外務省を後にしました。戦後の食 糧 難 の時代でもあり、生活は困 窮 していきました。華 やかな外交生活に慣 れていた杉原にとって、こうした生活に慣れることにも一 苦 労 でした。
さらに追 い討 ちをかけるように、まだ幼 かった三男の春生が急 逝 します。苦しいなかでも家族を明 るくしてくれる、皆 から愛されていた子でした。
杉原は、こうした耐 えがたい苦しみのなかでさえ、弱 音 を吐 かず、自分の行 為 への後悔 も決して口にはしませんでした。
ユダヤ人との再会
1968 年(昭和43 年)の夏の日、杉原が駐 日 イスラエル大使館に呼 ばれて行くと、一人の男性が一枚の古ぼけた紙を大 事 そうに見せてくれました。それは、杉原がリトアニアで発 給 したビザだったのです。
その男性は、このビザによって救われ、イスラエルに定 住 したユダヤ人の一人でした。杉原を探すために2度ビジネスマンとして来日。3度目に外交官として日本に派 遣 されて以 来 、手を尽 くして杉原の行方 を探 り、実に28年ぶりの再会を果 たしたのです。
殺害されたユダヤ人の追悼 と、ユダヤ人を救った異 邦 人 を讃 える記念館ヤド・バシェムには、次の言葉が刻 まれています。
「記 憶 せよ、忘るるなかれ」
ユダヤの人々は、カウナス駅での杉原との約束 、そして、同胞 を救ってくれた恩 を決して忘れることはありませんでした。
諸国民の中の正義の人
ユダヤ人たちは、杉原が彼らを救うため、多くのビザを発給したことには感謝 していましたが、そのビザが杉原一人の判断 で出されていたとは知りませんでした。
しかし、後に、政府の方針 に背 いてまでビザを出したことを知った彼 らは、1985 年(昭和60 年)1 月、杉原に、イスラエルの国家勲 章 である「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を贈 ります。
後年、杉原は語っています。
「私のしたことは外交官としては間 違 ったことだったかもしれない。しかし、私には頼 ってきた何千人もの人を見 殺 しにすることはできなかった」
「私の行為は歴史が審判してくれるだろう」
COLUMN 善意のバトン
杉原からビザを受け取っただけでは、必 ずしも安全な旅が保 証 されるわけではありませんでした。モスクワからウラジオストクまでのシベリア鉄道でソ連を通過する間には、ユダヤの人々は、官 吏 から要 求 される賄 賂 や秘 密 警 察 による強 制 捜 査 や逮 捕 など、さまざまな危険に直 面 しました。
シベリア鉄道の終着点であり、日本行きの船が出るウラジオストクでは、避 難 民 のビザについて再確認を求 められました。そして、福 井 県の敦 賀 港に着いてから最終的に第三国へ出国するまでの間、旅 費 の工 面 や行先国の入国許 可 の手 配 など、多くの困 難 がありました。
しかし、まるで彼 らを守る使 命 を杉原から引き継 ぐかのように、避難民のために尽 力 する人々が現 れました。あたかも“善意のバトン”を渡 すリレーのように、一人ひとりの善意の行動がつながって、多くの尊 い命 が救 われたのです。
Baton 1. 真鍋良一
上海 領事館員
シベリア鉄道で、移動中のユダヤ人の多くと接 し、ウラジオストクから、敦賀まで同乗 していた。
別 れ際 に、「上海でも必要なことがあれば私に連絡 をしてください。」と手を差 し伸 べた。
敦賀から神戸へ、そして上海虹 口 地区への移 住 を強 制 された多くのユダヤ人を、文化活動等の制限 をつけず応対に当たった。Baton 2. 根井三郎
在ウラジオストク総領事代理
ウラジオストクに到 着 したユダヤ難民は、船に乗って、敦賀港にわたることになっていた。
日本の外務省は、駐 ウラジオストク日本総領事館に、ユダヤ難民の日本向け船舶 への乗 船 を許 可 しないよう通 達 を出していた。しかし根井は、「日本の公館が発給したビザを無 効 にすれば、国際的信頼 を失 う」と、その指示をはねつけ渡 航 を認 めた。根井は杉原のハルビン時代の後輩 であり、彼の誠 実 さを覚 えていた。Baton 3. 小辻節三
神戸ユダヤ人協会、ヘブライ語学者
1938 年から満州鉄道の調査部顧 問 として勤 務 していた小辻は、ユダヤ人と交流を持っており、緊迫 した迫害状況 を知っていた。
敦賀に上陸したユダヤ人は、日本で唯一 のユダヤコミュニティがある神戸に向かった。その際、10日間だけであったビザの日本滞在 期間の延 長 と、第三国への出国のため、小辻は外務省の管轄 部署や、神戸、横浜 の港湾当局との交 渉 にあたった。Baton 4. 敦賀の人々
日本に辿 りついたユダヤ難民を、敦賀の人々は温かく出 迎 えた。
果物 の入った籠 を持って、無 償 で配 った少年、浴場を無料で開 放 した銭湯 の主人。また、時計店の主人は、空 の財 布 を見せながら空腹 を訴 える彼 らのために、彼らの時計や指 輪 などを買い取り、台所にある食べ物を渡 した。「・・・敦賀は私たちにとってはまさに天国でした。街 は清潔 で人々は礼 儀 正 しく親切 でした。」(当時のユダヤ難民 サミュエル・マンスキー氏)
参考文献:『決断 命のビザ』(大正出版)、『真相 杉原ビザ』(大正出版)、『杉原千畝物語 命のビザをありがとう』(フォア文庫)、『六千人の命のビザ』(大正出版)、『六千人の命を救え! 外交官・杉原千畝』(株式会社PHP研究所)
監修:NPO 杉原千畝命のビザ
協力:杉原千畝記念館(岐阜県 八百津町)、人道の港 敦賀ムゼウム