第1章 ホロコーストの歴史

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特別展示絵画が語るホロコーストの真実

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1930年代後半から約10年の間に600万人ものユダヤ人の命( いのち )を奪( うば )った、人類史上未( み )曾( ぞ )有( う )の“大( たい )量( りょう )虐( ぎゃく )殺( さつ )”といわれるホロコースト――今日その歴史を伝える写真や映像の多くはナチスドイツが記録や宣伝のために撮( と )ったものか、強制収容所の解放後に連合軍が撮( さつ )影( えい )したもので、その時そこで生活を強( し )いられていた人々の目に映( うつ )っていたであろう光景( こうけい )を留( とど )めたものは、ほとんど存在( そんざい )しない。

しかし、何人かの収容者は、自分たちをとりまく収容所の真実の姿( すがた )を残そうと、拾( ひろ )った鉛( えん )筆( ぴつ )で、捨( す )てられていた紙に絵を描( か )き、さらに奇( き )跡( せき )的( てき )に生き抜いた人々は、解放後に自身の体験・記( き )憶( おく )を紙に、キャンバスに描いた。

ここで紹介する2人の画家は、生( しょう )涯( がい )、自( みずか )らの体験の記憶をもとに絵を描き続けた。これらは、体験した者だからこそ描くことが出( で )来( き )た、ホロコーストの真実である。

協力:〈テレジンを語りつぐ会〉 野村路子氏

ヤン・コムスキー

(1915〜2002)

ポーランド生まれ。芸術大学美術史学部で学んだが、1939年、第二次世界大戦が始まると、反ナチスの抵抗( ていこう )運動に身を投( とう )じた。活動中にゲシュタポに逮( たい )捕( ほ )され、刑務所生活を経( へ )て、開設されたばかりのアウシュヴィッツ収容所に送られた。与( あた )えられた番号は564番。はじめは重労働を課( か )せられていたが、画家であることが分かると、収容所の設計図を描く役( えき )務( む )を与えられた。

1945年、アウシュヴィッツから、ドイツ国内のダッハウまで、長い道のりを歩いて移送され、そこで解放された。故( こ )国( こく )に帰らず、アメリカに移住。ワシントン・ポスト紙に勤( きん )務( む )しながら、アウシュヴィッツの絵を描き続けた。写真よりも正( せい )確( かく )に事実を伝える同氏の絵は、アメリカでも話( わ )題( だい )になり、各地で展覧会が開かれ大きな反( はん )響( きょう )を呼( よ )んだ。

「日本の多くの若者に、アウシュヴィッツで行( おこな )われていた殺戮( さつりく )と、人間が人間の尊厳( そんげん )を傷( きず )つけるという最悪( さいあく )の行( こう )為( い )の事実を知ってほしい」というコムスキー氏の強い願( ねが )いで、野村路子氏に贈( おく )られたペン画は、彼自身が体験したアウシュヴィッツの24時間、365日の実( じっ )態( たい )を描いたものである。

コシチェルニャックが描( か )いたコルベ神父

マキシミリアノ・コルベ神父(1894年1月8日―1941年8月14日)はポーランドのカトリック司祭だが、1930年から数年間、長崎に住んで布( ふ )教( きょう )活動をおこなっていた。教団の仕事で故国ポーランド滞在中の1939年、第二次世界大戦が勃( ぼっ )発( ぱつ )。ポーランドは、ナチス・ドイツに占( せん )領( りょう )され、多くの知識人階級、政治指導者、聖( せい )職( しょく )者( しゃ )たちが捕( とら )えられ、あるいは殺された。神父も、郊外( こうがい )の修( しゅう )道( どう )院( いん )で逮( たい )捕( ほ )され、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた。41年夏、脱( だっ )走( そう )者( しゃ )が出て、同じ建物に住む収容者10人が処( しょ )刑( けい )されることになった時、命( いのち )乞( ご )いをする男性の身代( みが )わりを自( みずか )ら申( もう )し出て、46歳で生( しょう )涯( がい )を閉( と )じた。収容所の中で強い絆( きずな )で結( むす )ばれていた画家・コシチェルニャックが描いたコルベ神父の姿は、虐( ぎゃく )待( たい )にも暴力にも損( そこ )なわれない人間の尊( そん )厳( げん )を伝えており、見る者に感動を呼( よ )び起こす。

ミェチスワフ・
コシチェルニャック

(1912-1993)

ポーランド生まれ。クラクフの美術アカデミー卒業。1939年、ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻( しんこう )すると、ワルシャワ防衛軍に参加。その後、レジスタンス運動に身を投じたが、ゲシュタポに逮( たい )捕( ほ )され、1942年、アウシュヴィッツへ送られた。

偶( ぐう )然( ぜん )ドイツ軍のSS幹部に絵の才能を認( みと )められて美術工房にまわされ、軍の命令による宣伝ポスターを描く仕事に従( じゅう )事( じ )した。工房では、幹部たちの肖( しょう )像( ぞう )画( が )や、彼( かれ )らの部屋に飾( かざ )る風景画などを描かされることも多かったが、偽( いつわ )りを描くことに耐( た )え切れず、ひそかに収容所の暴( ぼう )虐( ぎゃく )の実( じっ )態( たい )を描いた。それらの絵は、レジスタンスの仲間たちの命がけの協力で、収容所の外の地下組織にも流された。

アウシュヴィッツから、いわゆる「死の行進」で送られたエーベンゼー収容所で解放の日を迎( むか )えた。その直後から、アウシュヴィッツで同室だったコルベ神父の、「あなたは、生き残って、ここの真実( しんじつ )の姿( すがた )を伝え続けるように」という、遺言( ゆいごん )ともいえる言葉を胸( むね )に、その後の人生を通じてホロコーストの真実の絵を描き続けた。