「最終的解決」 1941-1945年

ユダヤ人の母子に狙 いをつけるSS(親衛隊)
出典:「我々は忘れてはいない 1939-1945年」
ワルシャワ 1961年
1941年春、ナチスは500 万人のユダヤ人の故 郷 でもあるソ連を侵略 する準 備 を整 えた。欧 州 系ユダヤ人の生命と文化の完全な絶滅を企図 する、「最終的解決 」を実行 する機会が目前に迫 った。
実際には1945 年までに、600 万人のユダヤ人が大量処刑 、飢餓 、奴 隷 労働を通じて殺されるか、絶滅収容所にて殺害された。そのほかにも政治的反体制者、レジスタンス、ソ連の戦争捕 虜 、ロマ(ジプシー)、同性愛者も、ナチスの死の網 に捕 えられた。数百万人の普 通 の市民が、ドイツの戦争遂行 のための労働者として徴集 されたが、優先目標はユダヤ人の完全絶滅であった。
1942年1月20日、ヴァンゼー会議にて欧州系ユダヤ人の完全絶滅が正式に決定された。この会議で、秘密警察長官ラインハルト・ハイドリヒは、「最終的解決」には、奴隷労働に耐 えられないすべてのユダヤ人の積 み出しと死が不 可 欠 であることを明 言 した。残された人々は死ぬまで働 かされることになった。
「我々が恐 怖 の霊 気 をまとうことは、我々のユダヤ人絶滅 計画にとって良いことだ」
1941年10月
計画的な死 ソ連侵攻

リトアニア人ファシスト党員による一斉 検挙 にあったユダヤ人女性
出典:ルートヴィヒスブルク中央役所

カウナス(リトアニアの都市)のユダヤ人を、男性と女性に分けて逮 捕 するリトアニア人補助部隊
1941年 出典:ルートヴィヒスブルク中央役所
占 領 地域のユダヤ人の運命 は、地元住民の感 情 によりさまざまであった。リトアニア、ラトビア、エストニアなどのバルト諸国 やウクライナでは、地元住民が頻繁 にユダヤ人の迫害 に協 力 した。
「ここでの戦いは、西方での戦いとは非 常 に異 なったものになろう。東方では、苛 酷 さこそが、未来に向けての優 しさになる。指 令 官 は、良 心 のとがめを克服 するという犠 牲 を自 らに要 求 しなければならない」

東部戦線でドイツ軍とSS(親衛隊)を支 援 した地元義 勇 兵
1941/42年 出典:BPK
機動殺戮部隊

東部ガリシア地方の町ドロゴブイチ(旧ソ連:ウクライナの都市)での機動殺戮部隊
1941年秋 出典:ヤド・ヴァシェム
1941 年春、SS(親衛隊)はソ連とバルト諸国 のために4 つの機動殺戮部隊を編成 した。これらの特別訓練を受けた殺戮部隊は、侵攻 する軍隊の後に続き、「ユダヤ人、共産主義者、その他ソ連の役人」を捕 え、殺害した。
ヒトラーは、自 らの意図 する「絶滅戦 」を将 軍 たちが遂行 する意志 があるかどうかに疑 いを抱 き、ハインリヒ・ヒムラーに東部戦線での「特 別 任 務 」を命じた。塹壕 や穴 での大 量 射 殺 が、地元住民、ドイツ国防軍、そして軍の役人の目の前でたびたび行 われた。

殺害前に裸 にされるユダヤ人女性 ラトビアのリエパヤ
1941 年12 月15 日 出典:ルートヴィヒスブルク中央役所
ソ連のドイツ占 領 地域では、地元住民は、ユダヤ人を殺し、財産を略奪することを奨 励 された。同時に、武装SS(親衛隊)と地元協力者がユダヤ人の男性、女性、そして子どもたちを容赦 なく、大量埋 葬 溝に連行して射 殺 した。
1943 年までに、ソ連のドイツ占領地域で140 万人以上のユダヤ人が処刑 された。

大量処刑 出典:BPK
最後の選択 抵抗
「我々は、屠 所 ※に引かれる羊 のようであってはならない!
……殺人者の慈悲 にすがって生きるよりは、 人間の尊 厳 のために戦って倒 れるほうが良い」
ヴィリニュス・ゲットー 1942年1月 ※屠所:食肉用の家畜を解体する場所

イェヒエル・グリーンスパン指揮下のユダヤ人パルチザン ルブリン
1944年 出典:ヤド・ヴァシェム

バルチェフの森のユダヤ人パルチザン 1943年 出典:ヤド・ヴァシェム
ユダヤ人が一人でも抵 抗 すればゲットー全体に残 虐 な報 復 を加 えるというナチスの方 針 と、武器の不足や戦争を生 き延 びるという希望から、当 初 、ゲットーでの武 装 抵 抗 運 動 は抑 え込 まれていた。そのうえ、再 定 住 というナチスからの皮 肉 な約 束 が、ユダヤ人の間に生 存 という偽 りの希望をかきたてた。
だが、ナチスがユダヤ人全員の絶滅 を意 図 していることが明 らかになると、ゲットーの抵抗戦士たちは、生き残るために、また殺された者たちの復讐 を果 たすために、あるいは少なくとも戦って死ぬために、戦いの準 備 をした。

アッパー・コフナー(後列中央)とパルチザン部隊
出典:ヤド・ヴァシェム
抵抗と復讐 ワルシャワ・ゲットー蜂起

ゲットーの蜂起で、掩 蔽 壕 や下水溝に隠 れるユダヤ人抵 抗 者
出典:NARA

1943年5月蜂起後、ワルシャワ・ゲットーの通りをパトロールするドイツ軍兵士とSS(親衛隊)
出典:BPK
「ワルシャワにはもはやユダヤ人居住区は存在しない」というのが、SS(親衛隊)シュトループ将軍のワルシャワ・ゲットー蜂 起 鎮圧 に関する報告書の題名だった。
「ドイツ軍はゲットーから2度敗 走 した……私の生 涯 の夢がよみがえり、現 実 になった……ユダヤ人の武 装 抵 抗 と復 讐 は事 実 だ。私は、ユダヤ兵士の堂々 たる英 雄 的 戦いを目撃 していた」
ワルシャワ・ゲットー 1943年4月23日

ワルシャワ・ゲットーの廃 墟
出典:ジョー・ハイデッカー、ウィーンおよびブラジル、サンパウロ
ワルシャワ・ゲットーの中で生き残ったユダヤ人は、死 に物 狂 いで、ほとんど武器もないままに、1943 年4 月19日の「過 越 しの祝 い」の前夜に反 乱 に立ち上がった。ゲットーの戦士たちは3週間持ちこたえたが、SS(親衛隊)司令官のシュトループ将軍はゲットーを火攻 めにし、抵 抗 する者と生き残った者すべてを追い出した。
戦後、シュトループは裁判で、ワルシャワ・ゲットー壊滅 の際に犯 した「人道に対する罪 」を問われ、判決を受けて絞首刑 になった。
「彼 ら(ユダヤ人戦闘組織)は、ゲットーに閉 じ込 められた人々の一部でも脱 出 できれば、それを勝利と考えた。敵 の勢 力 が少しでも弱まれば、彼 らの目には、それは勝利と映 った。そして最後に……武器を握 りながら死ぬことは、彼らにとって勝利だった」
Biuletyn Informacyjny No.17(地下情報新聞) 1943年4月29日

1943年4-5月にワルシャワ・ゲットーでドイツ軍を指揮したSS(親衛隊)司令官 ユルゲン・シュトループ将軍
出典:NARA
「熱と焼け死ぬ恐 怖 から、燃 えさかる家にとどまることはまれだった。彼らは上階から飛 び降 りた。
……脚 を折 り、はいずって道を渡 り、まだ火があまり回っていない建物に逃 げ込もうとした……
我々は合計56, /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/annihilation-in-nazioccupied-europe-1941-1945/065 人のユダヤ人を捕 獲 し、絶 滅 することに成功した。さらに、爆発 、火災、その他で命を落としたユダヤ人を、この数字に加 えなければならない」
SS(親衛隊)司令官 ユルゲン・シュトループ将軍
ワルシャワ報告 1943年5月16日

1943年5月にワルシャワ・ゲットーの蜂 起 が鎮 圧 されたのち、降 伏 する女性と子ども
出典:NARA
大量殺戮 1942-1945年
「病人、老人、乳飲 み子はかんぬきの付いた家 畜 運 搬 車 に詰 め込 まれた……彼 らはその列車に2日間乗せられていたが、食事は1 度しか支 給 されなかった」

強制収容所へのユダヤ人の移送
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン
1942年から1945年までの間に、ナチスは冷徹 な産業的効率でユダヤ人、ロマ(ジプシー)、スラブ人、戦 争 捕 虜 の大量殺戮を実行した。
さらに400万のユダヤ人が家畜運搬用の列車に押し込められ、強制収容所に送られた。多くが途 中 で死んだ。
そのほかの者たちも、ガス、銃 弾 、棍棒 、飢餓 、労働により殺され、生き残った者はほとんどいなかった。

アウシュヴィッツ=ビルケナウにユダヤ人を運ぶフランスの鉄道貨車 1944年晩夏
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館
列車
ユダヤ人の「物理的絶滅 」を完遂 するというナチスの戦 略 は、大量移送および輸送を必要とした。
ユダヤ人はゲットー、強制収容所、殺害センターへと送られた。列車はひどいすし詰 めで、食料が乏 しかったため、多くの人が、とくに子どもと老人が、窒 息 、飢 餓 、寒 さで死んだ。ドイツの鉄道職員は効 率 的 に任 務 を遂 行 した。

ダッハウ強制収容所の火 葬 場
出典:SWC
収容所
1939 年以降、奴 隷 労働、中継 キャンプ、そして殺害センターを含 む強制収容所システムは拡大し、占 領 下 欧 州 の隅々 まで行き渡 った。収容所は、監 視 塔 と電気の流れる有 刺 鉄 線 に囲 まれており、集 合 エリアと宿 舎 があった。
「この押 し合いの中で赤ん坊 が何人か窒 息 死 した。
それなのにSS(親衛隊)はさらに多くの人を詰め込み、ドアにかんぬきをかけたと彼女(ユダヤ人乗客)は語った」
テレジエンシュタット 「模範的」ゲットー

フランクフルトからテレジエンシュタットへのユダヤ老人移送 1942年秋 名札には氏名、誕生日、住所、輸送番号が記 されている
出典:LBI/NY
プラハ近郊 の18世紀の要塞 都市テレジンシュタットは、欧州 ユダヤ人の大量殺戮 を隠蔽 するという邪悪 な計画の用地として選 ばれた。
ナチスはここに、いわゆる「模範的」ゲットーを作った。恐 怖 の真 っただ中 で、彼 らは、演 劇 、音楽、講演、芸 術 など、見せ掛 けの文化生活を許 した。外国政府、国際救 援 部隊、そしてユダヤ人たちでさえもナチスの隠 ぺいに騙 されていた。
「老人の輸送。1万人の病人、不具者、瀕 死 者、全員65 歳 以上……子どもたちは年 老 いた親たちを行かせるほかなく、助けることはできない。彼 らはなぜ、この無 防 備 の人々を送り出したがるのだろう? 彼らが、私たち若者を排除 したがるのであれば、それは理解できる……でもこの老人たちが危険とは到底 思えない」
ヘルガ・ヴァイソヴァ=ホスコヴァ14歳 『テレジエンシュタット日記』

「仕事が自由を生み出す」 テレジンエンシュタットにもこの皮 肉 な看板 が
1943年 出典:BPK
テレジンエンシュタットは、善 意 の場所とはほど遠く、アウシュヴィッツへと向かう途 中 の一時停 留 所 にすぎなかった。15 万人のユダヤ人がテレジンエンシュタットを通 り過 ぎていった。3万3, /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/annihilation-in-nazioccupied-europe-1941-1945/000 人がゲットーにいるうちに飢 えと病気で死に、9万人がアウシュヴィッツへ輸送された。
1944 年夏、SS(親衛隊)はテレジンエンシュタットについての宣伝映画を作成し、ユダヤ人都市の幸福 なユダヤ人の様子を見せつけたが、完成後には、役者の大部分がアウシュヴィッツに送られた。
「ここでは人々は2つのグループに分けられた。
東に送られるグループとテレジエンシュタットに送られるグループだ。
『T』(テレジエンシュタット)の印 を受け取った者は再 び思い切り息 を吸 った。
『O』(東)の印を受け取った者は青くなった。
テレジエンシュタットについて細 かいことはあまり分かっていなかったが、一つだけ確 かなことがあったからだ。
東よりはるかにましだということだ」

男性用宿 舎 の内部
出典:ヤド・ヴァシェム
燃えつきるロウソク 強制収容所の日課
「我々は震 え、わななき、髪 を刈 られ、
ぼろを着てそこに立っていた。
そしてその時初 めて、我々は互 いを見た。
近親者 でさえ見分けがつかなかった……
幸 いにも、我々は自分自身を見ることはできなかったが、中には、仲間を見てヒステリックに笑 いだしたり、こらえきれずに泣 きだす者もいた」

ビルケナウのプラットフォームでの選別
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館
「男、女、少女、子ども、赤ん坊 、身 障 者 など、全員が全 裸 で整列させられた。角には頑健 なSS(親衛隊)隊員が立っていた。彼 は司 祭 のような大声で、『何も怖 いことは起こらない』と哀 れな人々に告 げた。『深く息 を吸 うだけでいい』」
クルト・ゲアシュタイン ナチス将校(ベウジェツの証人)
残 虐 で非人間的な強制収容所システムの主 要 な産物は死である。
労働ができる程度に健康な者には、奴 隷 労働を通してもっともらしい時間をかけた殺害が行 われた。常 に看守 のサディスティックな暴力とわずかな違 反 を理由とする即 時 処 刑 の影 がつきまとっていた。

採 石 場 で働 く被 収 容 者 フロッセンビュルク強制収容所
1942/1943年 出典:BPK
「午前3 時起 床 ……ベッドメイクにわずかでも規 則 違 反 があると、その罰 は鞭 打 ち25 回だった。それを喰 らうと丸1 ヵ月は横になることも、座 ることもできなかった」
「昼の12時には、食事のための休みがあった……半リットルのスープか、何か水っぽい液体、栄養 も味もない……スプーンは許 されなかった……スープを器 から直接飲み、犬のように舐 めなければならなかった……運が良ければ昼の食事にありつけたということを、強 調 しておかなければならない。
『懲 罰 の日』というのがあった……この日は我々の胃 は1日中空 っぽだった。
午後の仕事も同じで、ひたすら殴 られ続けた。
6 時になると点 呼 があった……我々はいつも気をつけの姿 勢 で1-2時間立たされ、その間に何人かの囚 人 が『懲 罰 行 進 』に呼 び出された……彼 らは人前で裸 にされ、特別 なベンチに寝 かされ、25-50回の鞭打ちを受けた。だが、彼らはマイダネク強制収容所の中でも父祖 の伝統 を守っていた。
私は、オランダからやってきた金 髪 の男を忘れることができない。彼は、無 帽 になる命令を受け入れることができなかった。そして小さなスカルキャップ(頭部の保護帽)を入手し、それをかぶっていた……細い糸でその帽子を耳に固定していたものだ。監督 者がこれを見て、彼をひどく殴 りつけたこともあった」
Y.プフェッファー(マイダネク収容所の生存者)

奴隷労働に選 抜 されたハンガリー系ユダヤ人の女性
1944年夏 出典:オシフィエンチム
耐える精神 ホロコーストの芸術
「もし私が死んでも、私の作品は死なせないでいてくれ。これを公開してくれ」

フェリックス・ヌスバウム ユダヤの星と身分証明書を身に付けた自画像 1943年に隠 れて製作された 出典:文化歴史博物館、オスナブリュック

「悪 夢 」 ノルベルト・トローラーの水 彩 画 1942年にテレジエンシュタットで描かれた 収容所の日常生活の多くの側面を象 徴 している 出典:LBI/NY
収容所の非人道的な条 件 にもかかわらず、人間の想 像 力 は表 現 の場を芸 術 と詩 に見いだした。ホロコースト芸術の多くは恐 ろしい現実の記録であった。芸術家は、犠 牲 者 であると同時に解 説 者 であり、紙やインクを盗 み、食 用 色 素 や錆 びから絵の具を作らなければならなかった。

「6人……パン1切れ」 コンラート・レーヴのインク画ギュールの飢餓を描いたもの
1940年 出典:DOW

オッド・ナンセン移送されたザクセンハウゼンで、重 労 働 をする囚 人 を描 いた
1944年 出典:ザクセンハウゼン国立警告記念館、オラニエンブルク

「ユダヤ人の最後の道」ヴァルデマル・ノヴァコフスキの水彩画 アウシュヴィッツで描かれた
1943年 出典:ヤニナ・ヤヴォルスカ、ワルシャワ
アウシュヴィッツ=ビルケナウ 死の工場

アウシュヴィッツ=ビルケナウの門と鉄道線路 1945年1月 出典:BPK
「アウシュヴィッツで、私はツィクロンBを使った。これは結 晶 化 した青 酸 で、我々はこれを小さな開 口 部 から処刑室 に滴 下 した。処刑室の人々を殺すには、気 象 条 件 によって5-15分かかった。彼 らが死んだことは、叫 び声が止 むことでわかった」
1946年

結 晶 化 青 酸 の一種であるツィクロンBの容器 アウシュヴィッツで被収容者の殺害に使われた
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館
「帝国 総 統 が、すべてのユダヤ人を例 外 なく絶滅 すべしという当初 の1941年絶 滅 命 令 を修 正 し、その代 わりに、働 ける者を残りの者と分 離 し、軍事産業で使うように命令した時から、アウシュヴィッツはユダヤ人収容所になった。
それは、これまでに見たこともない規 模 のユダヤ人集合場所になった……彼 らは、死刑を宣 告 されていること、そして働ける限 りしか生きていられないことを、例外なく知っていた」
ルドルフ・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所司令官) 自伝
占 領 下 のポーランドに位置するアウシュヴィッツ=ビルケナウは最大のナチス収容所で、強制収容所と殺害センターの両方の機能を兼 ね備 えていた。
1941年の「最 終 的 解 決 」実 施 とともに、数百万の欧州 系ユダヤ人を殺害する最大のセンターとなった。アウシュヴィッツ=ビルケナウとマイダネクでツィクロンBが採 用 されるに伴 い、死は悪魔的 な産業になった。

到 着 時に労働力用に選 抜 されるスロヴァキア系ユダヤ人男性 1944年6月 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

到着時に数えられ、写真を撮 られたポーランド人の子どもたち 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

解 放 された10歳の女性被収容者 1945年
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館
アウシュヴィッツ=ビルケナウで、1942 年4 月から1944 年11 月にかけて、100 万人以上のユダヤ人がガスで殺された。さらに、ポーランド人、ソ連の捕 虜 、ロマ(ジプシー)を含 め何十万人もの非ユダヤ人が殺された。恐 るべき行 為 の痕跡 を消 し去 るために、ナチスは焼 却 炉 で死体を灰 にした。
「女性たちは絶 え間 ない恐 怖 と不安の状 態 の中で生きていた。
彼女たちは、SS(親衛隊)の医者たちが考え出した実験を受けなければならず、役割、つまりモルモットの役目が終わればビルケナウに送られ、そこにはガス室が待っていることを知っていた
……私は自分が半 ば地 獄 、半ば精神病院のような場所にいると感じた」
ドーラ・クライン博士(被収容者/看護婦)アウシュヴィッツ
アウシュヴィッツ=ビルケナウの5つのガス室は昼も夜も稼 働 し、1日9, /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/annihilation-in-nazioccupied-europe-1941-1945/000人も殺害し、焼 却 した。
ここでは、ヨーゼフ・メンゲレをはじめとする「医者」たち、たとえば、ヨハン・パウル・クレマー、ホルスト・シューマン、フリッツ・クライン、カール・クラウベルクなどが、残酷 な医学実験を行 った。双 生 児 、小人、妊 婦 やそのほかの囚 人 が選び出され、恐 るべき「遺 伝 学 」の研究に利用された。
汚 物 のなかで暮 らし、飢 えと戦いつつも、まだ働ける人々にはわずかながら生き残るチャンスがあった。多くの場合、看守の気 紛 れな暴 力 によるケガは、死刑執行 令 状 と同 義 語 だった。

ガス室への道
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

女性の宿 舎
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

殺害された被収容者の死体の焼却 1944年 隠 し撮 り写真
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ビルケナウ焼 却 炉 SS(親衛隊)将校が1943年に撮影
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ビルケナウでの選別
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館
断末魔のアウシュヴィッツ 解放
「自由……我々は何度も繰 り返したが、理解することができなかった。
長い年月それを夢見て、この言葉をたびたび口にしたが、それは意味を失 っていた……
我々は、自由が我々のものだという事実を理解できなかった」

アウシュヴィッツに入るソ連軍 1945年1月27日
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館
ソ連軍の侵攻 に伴 って、1944年11月、アウシュヴィッツのガス室は撤去 された。大量殺戮 は秘 密 にしておかなければならなかった。
1945年1月18日、歩ける被 収容者は「死の行軍」に連れ出された。ソ連軍が到着 したとき、アウシュヴィッツに残っていたのはわずか数千の囚 人 だった。
「数日後、収容所は引き払 われた……そしてあと我々は行進を開始した……1-2キロしか進まないうちに、最 初 の数名が倒 れた。立ち上がれない者は直 ちに射殺 された。明 らかに時間切れが迫 っている今でさえも、SS(親衛隊)は自らの犯罪 の痕跡 を一つ残らず取り除 こうとした」
フィリップ・ミューラー(生存者)「アウシュヴィッツの証人」
「3年間にわたり、私の思考や秘 かな願望 のすべてが注 がれていたこの瞬 間 は、実際 のところ喜 びも、いかなる感 情 も私の内部に呼 び起 こさなかった。
私はうずくまり……四つんばいになってドアのほうに這 っていった」
フィリップ・ミューラー(生存者)「アウシュヴィッツの証人」

腕 に刻 まれた入 れ墨 をみせる生き残った子どもたち
1945年1月 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

生き残った女性と子ども
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ソ連軍によって解放 されたアウシュヴィッツでの集 団 埋 葬
1945年1月 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館
勇気の手を差しのべた人々 隠れ、救出され、生き延びた
「私たちを心配 してくれる人もいた。
私たちを救 うに値 する人間と考えてくれる人もいた」

ユーゴスラヴィアのカトリック教徒のマチルダ・ニッツは地下居住区を運営して、100家族を救った
出典:レニ・ゾンネンフェルト
占 領 された欧 州 のあらゆる国で、勇気ある多くの男女が、ナチスの犠 牲 者 であるユダヤ人に同 情 を示 し、救いの手を差 し伸 べた。その救 援 者 の名前は、ほとんど記録されていない。彼 らはその良 識 の故 に、たびたび死の危険にさらされた。その行 為 は例 外 的 であり、他の同 胞 の大半は無 関 心 であったか、あるいは隣 人 であるユダヤ人の迫害 や殺 害 に協 力 をしていた。
まったく望 みにない条件のもとでも、ベルリンでは4, /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/annihilation-in-nazioccupied-europe-1941-1945/000 人以上、オランダでは数千人、数百万人が殺された占領下のポーランドでは数万人のユダヤ人が、隠 れて生 き延 びた。助けた者の数と助けられた者の数に関する統計は不完全だが、占領下の欧州で、こうした勇気ある人々が10 万人を越 えるユダヤ人を援 助 し、助けた。世界の指導者は大量殺戮 に沈黙 したままだったが、勇気ある人々は自 らの命 を賭 として、無 実 の者たちをかくまった。
ポルトガルのデ・ソウザ・メンデス、日本の杉 原 千 畝 、スウェーデンのラウル・ワレンベルクは、ユダヤ人を救おうとした数少 ない外交官たちであった。
アメリカの強い要請 によりブタペストにてラウル・ワレンベルクが、「セーフハウス」といわれる施 設 を設置して、そこをスウェーデンの外 交 官 特 権 で保 護 し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、「シュッツパス(Schutz-Pass)」といわれるスウェーデン名義の保 護 証 書 を発 行 し、10万人ものハンガリー系ユダヤ人の命を救った。

強制移送列車で保護旅券を配 るラウル・ワレンベルク(×印)
出典:ワレンベルク家
「10 月下 旬 ……矢 十 字 党 の集団によって14〜65 歳 のユダヤ人たちが家々から狩 り出された。母と私は、この最初 の襲撃 で捕 かまった……武 装 した護 送 兵 が早く行進するように強 制 し、ついていけない者は射 殺 された……私たちは煉 瓦 工場に集 められた……武装したナチス隊員が歩き回り、人々を踏 ふみつけ、暴 行 を加 え、ののしり、発砲 していた……その時突然 、建物の一方の端 に拡声器と懐 中 電 灯 を持った平服 の人々が見えた……ラウル・ワレンベルクだった。彼 がそこにいることが私たちにとって何を意味するか、そのインパクトは誰 も推 し量 れないだろう」
スザン・タボール(生存者)

安全なスウェーデンへの途 上 のデンマーク系ユダヤ人。1943 年10月初 旬 、何千人もの同国人の助けでデンマークのユダヤ人の90%以上が救 出 された
出典:デンマーク自由の戦い博物館 1940-45年 コペンハーゲン
解放 暴かれた惨状
「棚 を通 過 する前でさえ、死の匂 いに我々は圧倒 された……裸 でやせ細 った3, /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/annihilation-in-nazioccupied-europe-1941-1945/ /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/annihilation-in-nazioccupied-europe-1941-1945/200人以上の死体が浅 い墓 穴 に投 げ込 まれていた。
その他の死体は、路 上 で倒 れた場所にそのまま横たわっていた。やせて骨 ばった胴体 の黄色い皮膚 の上には、シラミが這 い回っていた」
1945年4月12日にオルドルフで見たものを想起して

エーヘンゼーの解放された囚 人 たち
1945年5月7日 出典:米国陸軍通信隊

ベルゲン=ベルゼンで捕 まえられた強制収容所職員(兵士、SS(親衛隊)隊員、監督囚人(カポ)
1945年4月 出典:帝国戦争博物館 ロンドン
1945 年5月までに、欧 州 での戦争は終わっていた。強制収容所は解放され、ナチスの残 虐 な犯 罪 が明 るみとなった。「まるで暗 黒 時 代 に踏 み入ったようであった」と米軍のある軍曹 は呆然 として語った。
強制収容所から解放された囚人 はわずか25 万人だった。悲 しいことに、その2倍の人々が解放前の数カ月の間に死んだ。SS(親衛隊)は、進軍する連合軍の手が届 かんばかりになってから強制収容所を引き払 った。可能な限 り多くのユダヤ人を殺害 する目的で、崩壊 しかかった帝国 の内側 へと、囚人たちは情 け容赦 なく行進させられた。遅 れた者や倒 れた者は射 殺 された。生 き延 びた者は、食べ物も水も便所 もない、ぎゅうぎゅう詰 めの収容所に到 着 した。こうした最後の日々に、40万人以上が命 を落とした。

英国兵士が運転するブルドーザーが、ベルゲン=ベルゼンの共同墓地に死体を押し込んでいる
出典:帝国戦争博物館 ロンドン