忘れない勇気 ホロコースト 1933-1945年

本展は、1933年にヒトラーが権力の座に就 いてから始まった、ナチス・ドイツによる反ユダヤ⼈政策の歴史をたどるものである。1945年に第二次世界大戦が終結するまでに約600万人のユダヤ人が殺害 され、史上最悪の大虐殺 となった。
ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党の略語がNazis)の人種憎 悪 政策は、憎 しみを煽 る宣伝から大量虐殺へと容赦 なく移行した。ホロコーストという、途 方 もないほど無慈悲 で残忍 な、そして冷酷 かつ組織的で機械的な大量虐殺は、類 をみない。
だが、ホロコーストの根 本 的 な原 因 は特 別 なものではない。⼈種憎悪、⼈間の⼼理的、精神的な弱 点 、無 実 の者への迫害 に対する普 通 の人間の間 接 的 な関 与 は、おぞましくはあるが、身 近 なことでもある。
したがって我々は、それがどんなに心を乱 すとしても、ホロコーストのことを忘れない勇気を持ち、学び続けていかなければならない。将 来 、このような憎悪を⼆度と起こさないために⼤切なのは、⼀人⼀人が知識と道徳⼼ を⾝につけることである。
ヨーロッパでの迫害のパターン
「さらに、どんな悪 魔 がユダヤ⼈をここに連れてきたのか、我々は今日に至 るまで知らない……疫 病 、伝染病のように、わが国においてまったくの災 難 だ」
『ユダヤ⼈とその嘘 について』 1543年
3500年を越 える長い歴史を持つユダヤ人。そのルーツは、アブラハムを始 祖 とするヘブライ人まで遡 る。彼 らの滞 在 地はその後、イスラエルとして知られることになる。
ユダヤ人の伝統的な儀 式 や習 慣 は、トーラー(モーセ五書)に示 されており、世 代 から世代へと伝えられてきた。トーラーの律 法 613には、すべての人の尊 厳 が述 べられている。このほか、ユダヤ人に特 化 した律法もある。ユダヤ教は公正かつ慈 悲 深い神を宿 し、その神は、神の下に生きるものを監 視 し、貧 しく虐 げられた人々の大 義 を擁 護 する。神は、一人ひとりに自 由 意 思 を与 え、それぞれに行動の責任を負 わせる。約1900年前、ユダヤ人がローマに敗 れたことによりイスラエルから追 放 されたときにも、ユダヤの人々は「神が我らを祖 国 へ帰すのだ」との確 固 たる信 念 を持ち、祈 りを捧 げた。
2000 年以上にわたり欧 州 で暮 らしてきたにもかかわらず、平 等 な身分を与 えられたユダヤ人はほとんどいなかった。ユダヤ人は社会的・宗教的な特 異 性 のために絶 えず迫 害 の対 象 になった。
欧州の生活環 境 がキリスト教信 仰 を中心に組織化されるようになって以 来 、ユダヤ人は追 放 された者 、イエスの否 定 者 、イエスの「殺 害 者 」とみなされるようになった。欧州の何百万ものキリスト教徒は、ユダヤ人に対する憎悪と迫害を宗教的に是 認 してきた。19世紀から20世紀にかけて欧州の産業化が進んだ時代、ユダヤ人もまた、欧州の経済的、政治的、文化的生活に、より直接的に参加するようになった。しかし、こうした変化に呼 応 するかのように、反ユダヤ主義は、国家主義と人種に基 づいた新 しい形 態 をとるようになった。

ナチス・ドイツでは、すべてのユダヤ人のパスポートにJude(ユダヤ人)を表す頭 文字 のJのスタンプが押 された。ドイツ系ユダヤ人は新しいミドルネームを使用するよう強 制 された。男性の場合はイスラエル、女性の場合はサラである
出典:サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)
ヒトラーが首相になった1933年までに、欧州系ユダヤ人に対する経済的、社会的、個人的な迫害が定 着 した。ナチスの人種的偏 見 に満 ちたユダヤ人排 斥 運動と宣伝活動は、その迫害の度合 いを増 幅 させたり、操 作 したりしながら、ついには一つの致 命 的 な信 条 をつけ加 えてしまった。すなわち、「すべてのユダヤ人を抹 殺 しなければならない」という信条である。
ナチスの宣伝活動に出てくるユダヤ人は、一部、反ユダヤ人の長い伝 統 に基づいて描 かれている。

「はりつけ」:「ユダヤ人」によってはりつけにされる近代ドイツ人
出典:前衛(反ユダヤ主義のドイツの新聞)1939年 第4号

ベルリンでのユダヤ人社会のスポーツ大会でのトラック競技 1930年代半ば
出典:LBI/NY

パレスチナに向かう途 上 のマルセイユ港の「青少年アーリヤー」
1934年出典:レニ・ゾンネンフェルト
「キリスト教の宣 教 師 たちはユダヤ人に対し、『お前たちは我々の間でユダヤ人として生きてはならない』という趣 旨 のことを言った。そのあとに続いた中世後期の世 俗 の支 配 者 は『お前たちは我々の間で生きてはならない』と決め、そして最後にナチスが『お前たちは生きてはならない』と命 じた」
ラウル・ヒルベルク(歴史家)
『ショーアー』(ヘブライ語でホロコーストの意)

アルベルト・アインシュタインとハーバート・サミュエル英国パレスチナ高等弁務官 エルサレム 1923年 出典:LBI/NY
57万5, /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/nazi-germany-1933-1938/000人のドイツ系ユダヤ人のほとんどは都会に住む中産階級で、その多くは豊 かで、知的にも、文化的にも、経済的にも、政治的にも十分な地位を得 ていた。彼 らの大半は約2000 年前から住み続けていたユダヤ人の子 孫 であったが、彼らによる社会貢 献 は、アドルフ・ヒトラーを苛 立 たせた。ヒトラーは、ユダヤ人に対し、「ドイツ社会における第一次世界大戦後に生 じた病 だ」「ドイツ人を背 後 から突 き刺 し、経済危 機 と戦後の社会的苦 痛 をあおっている」「異 なる人種間の結婚 で、ドイツ人を雑 種 化しようとしている」などと、徹底 して非 難 と攻撃 を強 めていった。初 めは多くの人から“単 なる田舎 者 ”とみなされていたヒトラーではあるが、国家の病と混 乱 が交錯 する時代状 況 が彼を権力へと駆 り立てた。やがて、多くの国民が「ドイツの問題の根 源 はユダヤ人にある」とするヒトラーの運動に加 わっていったのである。
「ドイツのユダヤ人社会には大きな苦 悩 がある。新 たな苦悩が我々を突 然 に襲 った。ユダヤ人は仕事から引き離 され、生活の意味と基礎 が破 壊 された」
(ユダヤ系) 中央組合新聞 1933年4月21日
「ユダヤ人はドイツ人ではない。
ユダヤ人もドイツで生まれ、ドイツの法律に従 い、兵士にならなければならず、義 務 をすべて果 たし、税金を支 払 っていると言うが、そうしたことはすべて国籍 にとって大 事 なことではない。
大事なのは、どの民族から生まれたかだけだ」
ドイツ帝国 議会での演 説 1895年

ブリュッセルのシナゴーグで贖 罪 の日を祝 う、第一次世界大戦中のドイツ軍のユダヤ人兵士。1915年10月7日 出典:LBI/NY
「ユダヤ人問題」 ナチスの政策 1933-1939年
「したがって、私は全 能 の神の精神で行動していると信じる。
ユダヤ人から自 らを守ることによって、私は主 の御 業 のために戦っているのだ」
アドルフ・ヒトラーの世界観は、彼 のユダヤ人に対する狂 気 じみた憎 悪 に基 づくものであった。ヒトラーは、ユダヤ人はその出生によって人類以下の人種 であるとし、その存在自体が人類に対する犯 罪 であると信じていた。ヒトラーは、「すべてのユダヤ人は一掃 されなければならない。ドイツ人はほかのいかなる人種よりも優 れており、人類を統 治 することは必 然 である」と主 張 した。
第一次世界大戦後、ドイツは、かつてない社会的、経済的、政治的混 乱 に陥 った。右派、左派の両陣営 の活動家が、革命を企 てた。およそ35%の労働者が失 業 し、過度のインフレが貨 幣 を暴 落 させ、路 上 での暴 動 は日 常 茶 飯 事 であった。
1929年の世界恐慌 によって、絶 望 はさらに深まった。このような状況 が、「ドイツをこのどん底 から救 う強い指 導 力 を発 揮 できるのはヒトラーだけである」と国民に信じこませることにつながった。脆弱 な選挙制と多くの異 なる政党が存在した結果、1933年1月、ヒトラーはドイツ首相に任命され、権力の座 に就 いた。
1933―39年の間に、ナチスはユダヤ人をドイツの生活から組織的に排除 した。ユダヤ人は仕事、市民権を失 った。世界はドイツ系ユダヤ人の窮状 を知りながら、ナチス・ドイツによる加 速 度 的 なユダヤ人迫害 を傍観 していた。

ドイツが製作した反ユダヤ映画「永 遠 のユダヤ人」のポスター
出典:連邦公文書館、コブレンツ
悪夢の始まり ヒトラーとナチス
「私の施 策 はいかなる法的考慮 やお役所仕事によっても妨 げられることはない。
私が実 行 しなければならないのは、正義ではなく、絶 滅 と根 絶 だ」
1933年4月1日、ヒトラー政権によるドイツ政府の最 初 の反ユダヤ政策は、ユダヤ人が所 有 するすべての商店や企 業 に対するボイコットであった。ナチス党員はドアの前に配 置 され、ユダヤ系企業をひいきにする顧 客 を遠 ざけた。それ以外にも、ユダヤ人をドイツ社会から孤 立 させ、困 窮 させ、排除 するための数 えきれないほどの措置 が取られた。
「ユダヤ人の商店はすべて閉 鎖 されている。SA(突撃隊 )がその入口の外 側 に配置されている。公 衆 は至 るところで連帯 を宣言 している。その規 律 は称 賛 に値 する。ボイコットはドイツにとって大きな道徳的 勝 利 だ」
ヨーゼフ・ゲッベルス(政治家、国民啓蒙 ・宣伝相) 日記 1933年4月1日

焚書 のために書物を没 収 するSA(突撃隊 ) ハンブルク 1933年5月15日
出典:プロイセン文化財写真資料館(BPK) ベルリン

1933年3月と4月、ベルリンのユダヤ人商店には「Jude!」(ドイツ語の「ユダヤ人!」)の文字が書きなぐられた
出典:ケルプス・コレクション、ベルリン
「私が権力を目指して戦っていた間ずっとユダヤ人たちは、私がいずれ国家の指導権を引き継 ぎ、そのときには何よりもまずユダヤ人問題を解決 するという予 言 を、笑 って受けとめていた」
アドルフ・ヒトラー 1939年1月30日
ユダヤ人による著作や破 壊 的 イデオロギーとみなされた書物は国立図書館から取り除 かれた。1933年5月10日、ナチスは「禁止された」書物の公 然 たる焚 書 に乗り出した。

ナチス党大会でのヒトラー ビュッケブルク 1934年 出典:写真集『アドルフ・ヒトラー 総統の生 涯 』 1936年
ナチスの宣伝活動 スローガン、作り話、イメ―ジ
「今夜もまた大集会だ。2万の党員がツェッペリン草地にひしめきあい、サーチライトの中で2 万1千の旗 が不気味 な木々の森のように広がる……神 秘 的 な光のもとで」
ウィリアム・シャイアー(米国ジャーナリスト)
『ベルリン日記』 1934年9月7日

ベルリン・オリンピック開会を告 げる聖 火 のスタジアム入り 1936年8月
出典:連邦公文書館

50万のナチス支 持 者 に向かって演 説 するアドルフ・ヒトラー(閲兵台上) ニュルンベルク 1933年
出典:目覚めるドイツ:NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)の成長、闘争、そして勝利(アルトナ=バーレンフェルト 1933年)
宣伝活動(プロパガンダ)は国家社会主義の本 質 であり、神髄 だった。ドイツ全体をナチスの政策に盲 従 させ、組織的な迫害 と殺 害 に順 応 させるために、旗 、制服、ジーク・ハイル(勝 利 万歳 )、整列行進、軍 旗 、サーチライトが使われた。

「ドイツ人」と「ユダヤ人」を比較する反ユダヤ主義の児童書
ニュルンベルク 1936年 出典:大人と子どものための絵本

前 衛 (反ユダヤ主義のドイツの新聞)
1934年1月 出典:SWC

「ユダヤ人は我々の災難 だ」のモットーを掲 げた前衛(反ユダヤ主義のドイツの新聞)の広 告 塔 がナチス支 配 下 のドイツの至 るところに現 れた
出典:連邦公文書館 コブレンツ
ナチスの政策 人種差別と恐怖政治
「まったく想像 もできないほど残忍 な時代が近づいている」
第二革命 1926年
ナチスは宣伝 活動 によって世 論 を操 作 し、反対者を無 力 にした。暴 力 と恐怖政治によって力 を集 結 し、人種差別的な政策の迅速 な実施 を可 能 にした。権力を奪取 した1933年1月から1ヵ月以内に、ヒトラーは国民に対し、すべての憲法上の権利を停止した。SS(親 衛 隊 )とSA(突撃隊 )が政治的逮 捕 を開始し、ユダヤ人、共産主義者、その他第三帝国 の反 逆 者 と宣 告 された者たちに対して残 虐 行 為 を行 った。

1938年、ナチスが運営する学校で侮 辱 を受けるユダヤ人学生。黒板には、「ユダヤ人は我々の最大の敵 だ。ユダヤ人から自分自身を守れ」と書かれている 出典:オーストリア・レジスタンス資料館(DOW) ウィーン
「ドイツのどこにでもある何百万の他の家と同じような家。
この家に住む、あなたや私と同じような単 純 な人々 。
その人々が恐 怖 に怯 えて暮 らしている。何を恐 れているかは聞くまでもない。
もちろん、ゲシュタポを恐れているのだ。蔓延 する密 告 を恐れているのだ。
誰 かがおかしな時間にドアベルを押 さないか、友達が見張 っている。
恐怖はすぐそこにある。
こっそりとドアが開き、怯えた住民が外を覗 いて、誰がやられたかを確 かめる」
レア・グルンディヒ(生存者) ドレスデン 1936年

ベルリンの路 上 逮 捕 1933年3月3日
出典:Stichting Nederlands Foto & Grafisch Centrum
強制収容所 1933-1938年

ハインリヒ・ヒムラー(SS〈親衛隊〉隊長・ゲシュタポ長官)のダッハウ収容所視 察 1936年5月8日 出典:ダッハウ強制収容所記念館
強制収容所 はナチスによる支 配 に不 可 欠 だった。1933年3月、最初 の強制収容所がダッハウに開 設 され、共産主義者、社会主義者、自由主義者、少数の聖 職 者、そのほか帝国 の裏 切 り者 とみなされた人々 が収 容 された。ダッハウは、残酷 な強制収容所システム全体のモデルになった。1939 年までに、ブッヒェンヴァルト、フロッセンビュルク、マウトハウゼン、ラフェンスブリュック、およびザクセンハウゼンに主要 な強制収容所ができた。
「ユダヤ人の囚 人 は特 別 班 に分けられて作業をし、最 もつらい仕事を与 えられた。彼 らは機会あるごとに殴 られた……作業期間中にユダヤ人以外の囚人には朝食に一 切 れのパンが配 給 されたが、ユダヤ人には何も配給されなかった。だが、パンが配給されたことを見せ付けるために、ユダヤ人はいつも他の人々と一緒 に行進させられた」
元囚人 「ドイツ報告」 1938年

オーストリア、リンツ近郊マウトハウゼン収容所の有刺鉄線と堀
出典:マウトハウゼン記念館 リンツ
「寛容 は柔弱 のしるしである。どのような傾向 の政治的扇動者 にも用 心 させよ。捕 まらないように注 意 しろ、さもないと首 をつかまれて沈黙 させられるぞと」
1933年10月1日
脱出 1933-1938年

テルアヴィヴ近くの砂 州 に故意 に乗り上げたパリタ号。乗 船 していた850人の欧州系ユダヤ人亡 命 者 はハイファ近くの収容所に送られた 1939年8月
出典:ウォルター・サデグ&BPK

子ども用旅行許 可 証 を付けてウィーンから英国へ避 難 するユダヤ人少女
1938年12月 出典:NARA
1933年、ナチスによる反ユダヤ的な法律制定後、パニックに陥 った3万7, /assets/static/special/holocaust/introduction-of-exhibits/nazi-germany-1933-1938/000人のユダヤ人がドイツから脱出した。初 めナチスはユダヤ人の貧 困 層 と失 業 者 の移 住 を奨 励 した。裕福 なユダヤ人もドイツから移 住 することができたが、そのためには財 産 の大部分を剥奪 されなければならなかった。しかしながら根本的な障 害 は、他の国々がユダヤ人を受け入れようとしないことだった。反ユダヤ主義の姿 勢 と労働市場が圧倒 されるのではないかとの恐 怖 のため、ほとんどの安全な移住先の扉 が閉 ざされることになった。
1939年までに、ドイツのユダヤ人の50%以上が逃 げ出した。しかし、急 速 に進展するナチスの欧州征服 により、これらの移住者の大部分は、自分たちが再 びナチスの支 配 下 にあることに気づくのだった。

家族のスーツケースの番をする亡 命 者 の子ども 1935年
出典:レニ・ソンネンフェルト
1938年 帝国の拡大

ウィーンの街路 の清掃 をさせられるユダヤ人。
1938年3月半ば、オーストリア併合(アンシュルス)の直後
出典:DOW

ヒトラーに手を振 る大 衆 シュヴァルツァッハ/ザルツブルク、オーストリア 1938 年
出典:DOW
1938 年3 月、ナチスの計画はドイツ国境を越 えて拡大し、オーストリアはドイツに併合 された。ウィーン入りしたヒトラーは、何千人ものオーストリア人の喝采 をもって迎 えられた。ドイツのすべての法令は、直 ちにオーストリアでも適 用 された。
1938 年8 月、ナチス政権に反対する人物を収 監 するためにマウトハウゼン強制収容所が開設され、アドルフ・アイヒマンが、オーストリアにおけるユダヤ人問題担当局長に任命された。彼 が確 立 した迫害 のパターンは、強制移住をさせて財 産 を没 収 するというもので、その後ナチスはこのやり方をモデルとした。

ウィーンのユダヤ人商店に描 かれた落 書 。この落書を消すと、ダッハウでの「休 暇 」を取ることになると警 告 している
出典:ベットマン・ニューズフォト

ウィーンのユダヤ人コミュニティ・センター前でのSS(親衛隊)による一 斉 検 挙 1938 年3 月 出典:連邦公文書館
水晶の夜(クリスタルナハト) ガラスが砕け散った夜
1938年11月7日、パリに住む17歳 のポーランド系ユダヤ人学生ハーシェル・グリンスパンは、家族がドイツから追 放 された仕 返 しに、ドイツの外交官エルンスト・フォン・ラートを撃 った。それは、反ユダヤ人キャンペーンをエスカレートさせるのに都 合 のよい口 実 だった。
11月9日の夜、フォン・ラートへの復 讐 として、ヨーゼフ・ゲッベルスは全国的な夜間テロを計画した。これは後に、「水晶の夜」(ガラスが砕け散った夜)と呼 ばれることになる。何百ものユダヤ教の集会場(シナゴーグ)が焼き打ちされ、ユダヤ人商店が略 奪 され、ユダヤ人家 屋 が破 壊 され、ユダヤ人は殴 られ虐 待 された。91 人が殺され、3 万人のユダヤ人男性が逮 捕 されて強制収容所に送られた。その後まもなく、ユダヤ人はドイツ経済から完全に排除 された。

ベルリンのユダヤ人男性のザクセンハウゼン強制収容所への移送 1938 年11月10日
出典:LBI/NY

ツェーフェンのユダヤ人男性の逮捕とザクセンハウゼン強制収容所への移送 1938 年11月10日
出典:LBI/NY

ツェーフェンのシナゴーグ(ユダヤ教集会場)から略奪された調 度 類 は、町の中央広場に投げ捨てられ、その後燃やされた。
出典:LBI/NY

窓 を壊 されたベルリンのユダヤ人商店
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン
「早朝から組織的に始まった破 壊 、略 奪 、焼き打ちは、国中のほとんどすべての町や都市で一日中続いていた。
膨大 な数の群 衆 はほとんど無 言 で傍観 するだけで、警察は交通規制と、“ 彼 ら自身を保護 するために”ユダヤ人の無 差 別 逮 捕 だけに専 念 していた」
ニューヨーク・タイムズ 1938年11月10日

フランクフルト・アム・マインの炎 上 するベルネプラッツ・シナゴーグを見に集 まる群 衆
1938 年11月9日 出典:LBI/NY
逃げ場のない逃走 安息の場を失ったユダヤ人
「民主主義世界全体が、苦 しんでいる貧 しいユダヤ人に同 情 しながらも、彼 らを助ける段 になると、途 端 に無 情 で冷酷 になる様子 は、実 に恥 ずべき光 景 だ」
アドルフ・ヒトラー 1939年1月20日
1938年初 め、フランクリン・ルーズベルト米大統領は、ドイツ亡 命 者 問題の解決策を考えるために、フランスのエヴィアンで会議を開くことを提 案 した。
しかし、このとき参加した30ヵ国のほとんどが援助 を拒 んだため、絶 望 的 にもユダヤ人に残された選 択 肢 は皆 無 に等 しかった。
それでも、水晶 の夜(1938 年11月9日)の後、数万のドイツ系ユダヤ人がパレスチナ、英国、南北アメリカ、中国の上海 に避 難 した。財産を遣 い果 たしたこれらの亡命者たちは、貧 困 に直 面 し、飢餓 にあえぐことさえあったが、その多くは生き残ることができた。こうしたことから、ユダヤ人の唯一 の希望は脱 出 しかないことが明 らかになった。

「無人地帯」に取り残された、350人のユダヤ人のために炊 事 用 テントで炊事をする女性
1938 年 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

ハンガリー/スロヴァキア国 境 の「無 人 地 帯 」に閉 じ込 められたユダヤ人
1938年冬 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン
「ドイツ人がユダヤ人と同じ屋根の下に住むことを要 求 されるいわれはない……
我々は、彼 らを我々の家と居 住 地域から駆 逐 しなければならない」
1938年11月24日

ハンガリー/ スロヴァキア国 境 の「無 人 地 帯 」にいる、スロヴァキアの村からきたユダヤ人 1938-1939年 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン
1939年、第二次世界大戦勃発 の前 夜 、ドイツ系ユダヤ人の半数以上が脱出に成功したが、あとに残った者たちは生き残れなかった。
さらに悲 劇 的 なことに、第二次世界大戦でドイツがまたたく間に欧 州 を占 領 したことにより、西ヨーロッパに逃 げた多くのユダヤ人は再 びナチスの統 治 下 に引き戻 されることになった。
「今や、我々はユダヤ人問題を完全に解 決 することになろう。なぜなら、それが不 可 欠 であり、我々はもはや世界中の抗 議 に耳を傾 ける気がないからであり、現時点では、我々がそうするのを妨 げることのできる勢 力 は世界中どこにもないからである。計画は明 らかだ。完全な排除 、完全な隔 離 !」
ダス・シュヴァルツェ・コール(SS(親衛隊)新聞)
1938年11月24日

共同配給委員会によって収 容 された無人地帯のユダヤ人の子どもたちコシツェ(スロヴァキア)
1938年冬 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

赤ん坊と幼 い子どもたちを厳 しい冬の寒 さから守るのは、壊 れた引っ越し用トラックだけ
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

子どもと重 病 人 のために、廃 車 の引っ越し用トラックが仲間のユダヤ人によってブラチスラヴァ(スロヴァキアの都市)から送られた
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン
死に至る哲学 人種的純粋性
1940年には、精 神 病 者 や慢 性 病 者 を抹殺 するための特 別 絶滅 センターが設 立 された。これらのセンターにおいて、最 初 の溶 接 密 封 ガス室が開発された。シャワー室に偽 装 されたこれらの死の部屋は、後にナチスの絶 滅 収 容 所 で使われた大量殺戮 室の原 型 になった。

下 等 な人間(ウィンターメンシュ) ドイツで作られた人 種 差 別 宣 伝 パンフレット
1942年 出典:SWC

ナチスの運営する学校でのアーリア人の特 徴 を教える実物授業
出典:SWC
ナチスは、慢性病者や身体的および精神的に欠陥 のある者は「無 駄 飯 食 らい」であり、純 粋 なアーリア人社会で生きる権利はないと考えた。
1939年9月1日、ヒトラーは、こうした人々に死ぬ権利を「与 える」命令に署 名 した。ナチスのいわゆる安 楽 死 計画によって、何万人もがガスや毒 物 注 射 で殺 害 され、餓死 で命を失 う人もいた。
ナチス主義の核 心 には、人種的に純 粋 な社会という恐 ろしいビジョンがあった。それは、完全という彼 らの狭 い定義に合 致 しない者はすべて排除 するという、危 険 な社会的かつ遺 伝 学的な人口計画だった。ユダヤ人が第一の標 的 ではあったが、約50万人のロマ(ジプシー)が組織的に殺 害 され、スラブ人、同 性 愛 者、障 がい者、そして政治的反体制者もまた標 的 になった。

選 別 台 にて
1944年 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ラッケンバッハ一時収容所のロマ(ジプシー)の母子
オーストリア 1940年 出典:DOW

ウィーンのジンメリングからライタ河 畔 ブルックの一時収容所に移送されるロマ(ジプシー)
1938年後半 出典:DOW