ロモノーソフと教育
1.18世紀初頭の研究・教育事情
当時のロシアには、初等・中等教育のシステムがなかった。教育を受けた者も少なく、科学研究に取り組む者もいなかった。このような環境で、多額の費用をかけて外国人学者たちを招聘する意味があるのか―そう考える者たちも少なくなかった。しかし、ピョートルは彼らをこう一蹴したという。「私には刈り取るべき大きな稲叢がある。しかし製粉所がない。水も近くにはなく遠方にしかない。水路を作るにしても生きているうちには叶わないだろう。早速私は製粉所の建設に取りかかった。水路の建設を始めるようにも命じた。製粉所が完成すれば、私の後継者たちが水を引いてくれるに違いない」と。
こうして、首都サンクト・ペテルブルクに科学アカデミーが設置される運びとなった。市内では研究施設の整備がすすめられた。招聘されるアカデミー会員には成果に応じて国家から報償が支払われ、住居の確保や必要な書籍の入手が保証されるなど、当時の諸外国と比べても破格の条件が提示された。最初のアカデミー会員は全員が若手の外国人科学者で、その多くがドイツ人であった。「オイラーの定理」で知られる数学者オイラー、大数学者一族として名高いベルヌーイ家のニコラスとダニエルの兄弟など、11人のそうそうたる学者を招聘することに成功した。しかし、ピョートル自身は科学アカデミーの開設を目にすることなくこの世を去った。1725年、科学アカデミーはピョートルの事業を引き継いだ妻のエカテリーナ一世の手で開設された。科学アカデミーには大学とギムナジウム(下級準備教育課程)も併設された。ピョートルの構想を実現すべく、科学アカデミーは「理論的研究と実際への応用」を活動の基礎に、ロシアの科学・文化・教育の多くの期待を背負って船出を切ったのである。
ネヴァ川と科学アカデミー(版画、1753年)
<理想と現実>
ところが、ピョートルの願いに反し、科学アカデミーの前途は多難だった。設立後20年が経過しても、ロシア人の会員は現れなかった。そもそも当時のロシアには真剣に学問に取り組む習慣がなく、また学問に対するモチベーションも十分ではなかった。学識経験者がそれを活かせるような職も存在しなかった。仮にアカデミーの教授になったとしても、階級が上がることもなければ確固たる地位を得られるわけでもなかった。付属大学、付属ギムナジウムも、当初は貴族層からの入学が期待されていたが、彼らにとってアカデミーはきわめて不人気だった。貴族層は身分が低い者たちと机を並べることを拒み、独自に家庭教師を雇用したり、私塾的な寄宿学校を選んだりしていた。アカデミー付属大学では思うように学生の数が増えず、1732年にはついに講義を行うことが不可能な状況に陥った。大学とは名ばかりの、機能不全の状態である。そこで、大学は活気を取り戻すため、モスクワのスラヴ・ギリシャ・ラテン学院から優秀な学生を受け入れることにした。そして1736年に受け入れられた12人の優秀な学生―そのうちの1人がロモノーソフであった。
2.ロモノーソフとドイツ―教育観の形成-
<ドイツへ>
ロモノーソフはマールブルクで西欧諸国の大学を初めて目にした。そして、大学があらゆる身分の学者で満ち溢れていること、どんな人でも大学で学ぶことを禁止されないこと、出自ではなく、多く学んだ者が尊
敬されることを知った。
振り返れば、農民出身のロモノーソフにとって、学問の世界に身を置くことは容易ではなかった。1731年にロモノーソフがたどり着いたスラヴ・ギリシャ・ラテン学院では、身分という最初の壁に直面した。農民の身分では入学すら許可されなかったため、服装を整え貴族や司祭の息子になりすました。時には食事を削って学問にはげむこともあった。苦労に苦労を重ねて学問を求めたロモノーソフは、「持たざる者」としての屈辱を忘れず、下層階級の人々にも教育が開かれるよう、生涯にわたって努力を続けた。
ドイツでクリスティアン・ヴォルフ教授に師事したのは幸運であった。ヴォルフは著名な哲学者で、ピョートル大帝にアカデミー設立を進言したライプニッツの弟子であり、生前のピョートルとも交流があった。サンクト・ペテルブルク科学アカデミーの名誉会員であり、アカデミーの立ち上げにも関わっていたヴォルフは、ロモノーソフらロシアからの留学生を快く引き受けた。ラテン語に代わってドイツ語で講義を行い、ドイツの哲学用語を確立したヴォルフにロモノーソフは大いに影響を受けた。ヴォルフはロモノーソフの向学心を高く評価し、ロモノーソフもまたヴォルフのもとで多くを学んだ。ロモノーソフの礎はマールブルク時代に築かれたといっても過言ではない。
<ピョートルの遺志を継ぐ者>
「玉座の革命家」とも呼ばれるピョートル大帝がこの世を去ったのは、ロモノーソフがまだ14歳にもならない頃だった。しかし、ロモノーソフが興した事業はすべて、ピョートル大帝の目指したものと同じ方向を向いていた。ロモノーソフは、ロシアを西欧の水準にまで引き上げることを望む熱心な愛国者であったし、目的のためにはどんな大胆なこともやってのける気概と実行力を備えた人物だった。知識こそが社会を大きく変革する力となる。ロシアに学問の根を下ろしたいーそれがロモノーソフの夢だった。
「どんな小さな町にも学校を設立し、ロシア語文法や算数やその他の初歩的知識を教える。身分を問わず、すべての階層から有能な人材を発掘する。教育の機会はすべての者に開かれなければならない。すぐれた才能の持ち主を科学で導くことができれば、素晴らしい結果をもたらすはずだ。科学や教育は、身分制をこえた価値の高いものであり、それに従事する者は、誰でも尊敬され、自らもそれにふさわしく励むべきだ。人材の育成こそが国の繁栄につながる。身分にかかわらず、持てる才能をいかんなく発揮できる場を実現し、貧しい生まれでも己の力で切り開いていける社会にする。ロシア人にはその力がある」ーロモノーソフはそう信じて疑わなかった。
3.大学とはどうあるべきか―改革の道へ―
当時、科学アカデミーのほとんどを占めていた外国人の中には、ロシアを第二の祖国とし、献身的に職務を遂行し、ロシアの科学・技術や文化の発展に貢献した者がいた一方、私利私欲にのみ奔走する者や、ロシア人を無能者として蔑視する者、ロシア人の進出を阻止する者も少なくなかったという。ロモノーソフはそのような外国人としばしば対立した。また、アカデミー付属大学での講義は、ロモノーソフのドイツ留学中に学生たちの要求により一時再開したものの2年後に再び中断し、一切の講義が受けられない状態であった。
ピョートル大帝の娘エリザヴェータが帝位についてまもなく、アカデミー内部でこうした状況に対する不満がついに爆発した。アカデミーの事務
を統括していた外国人シューマッハが告発されたのである。このとき設置された調査委員会では、ロモノーソフにも意見が求められた。その返答の一部に彼が正しいと考える大学の姿が垣間見える。
ロモノーソフは、「アカデミーに大学が存在するか、誠実で輝かしい学問が行われているか、開花しているか」という問いに対し、こう答えている。「科学アカデミーには大学は存在しない。アカデミー付属大学は正常に機能しているとは思えない。ふつうに講義を受けることもできなければ、毎年行われるべき講義情報の公開も行われていない。大学は学生たちの登録も行っていないし、入学時に学生に対し印刷された大学規則を発行してもいない。教授たちは学長を選ぶことができず、学生間の公開討論も行われていない。自由、大学そのものの精神という、最も大事なことがほとんどおざなりにされ、滅ぼされてしまったのだ」。
また、ロモノーソフは大学の現状を痛烈に批判した。「アカデミー付属大学はもう20年にもわたって存在しているにもかかわらず、サンクト・ペテルブルク以外では名前すら知られていない。学位授与といった大学の重要な権限を行使することができない。そんな大学の博士号、上級修士号、修士号の取得者など、他の大学やアカデミーで認められるわけがない」と。
以降、ロモノーソフはアカデミーの教育部門がこのような状況にあることは許されないと、事あるごとに訴え続けた。何十年にもわたってロシアに本物の大学をもたらすための戦いに身を投じた。
4.モスクワ大学設立
アカデミー会員となったロモノーソフは、アカデミーの組織改革やロシア人学者の養成にも積極的に取り組んだ。ロシア人学生を研究者として養
成すべく、若手研究者の生活改善や地位の向上のために奔走し、指導に励んだ。
イヴァン・シュヴァーロフ
(1727-1797)
人材を育てなければこの国に成長はない。学問を根付かせ、国家のために必要な研究をしなければ西欧に肩を並べることはできない―そう考えたロモノーソフは、そのために最適な場所はやはり大学だと考えた。学問に腰を据えて取り組める環境を整え、ロシアの大学から「大勢のロモノーソフたち」を送り出すことを夢見た。ロモノーソフは、身分にかかわらず万人に開かれた大学の必要性と、その創設を訴えた。そして、西欧の大学を手本としたロシア初の大学の構想を練り、それをエリザヴェータ女帝の寵臣で学術に造詣が深いイヴァン・シュヴァーロフという貴族に送った。アカデミー付属大学が学部制をとらない変則的な組織だったのに対し、ロモノーソフが提案したモスクワ大学構想は、ドイツの大学をモデルとした西欧型のシステムを採用し、哲学部、法学部、医学部の3学部制を提案した。構想はシュヴァーロフの手によ
り提出され承認された。
エリザヴェータ女帝
こうして、モスクワ大学と付属ギムナジウムは創立の運びとなった。1755年のことである。ロシアにおける高等教育の原点がようやくここに誕生した。草創期の教授や講師の多くは、啓蒙期ドイツを代表する大学から招かれた学者たちで占められていたが、それでもアカデミー附属大学よりはるかに「ロシア的」だった。
「モスクワ大学設立に関する勅令」 モスクワ大学(1755年)
モスクワ大学(19世紀)
そして現在、モスクワ大学には世界中から50000人もの学生が集い日々学
問に励んでいる。学部数も創設時の3学部から、現在は40学部になり、15の学術研究所、植物園、900万冊の蔵書を擁する図書館、複数の博物館、大学附属病院、医学科学教育センターを併設する、ロシア最大の知の殿堂となった。
モスクワ大学(20世紀)
かつてロモノーソフは言った。「ロシアの地に自前のプラトンや才知に
たけたニュートンを、ロシアの大地は生むことができるのだ」と。彼が設立したモスクワ大学は、歴史に名を刻む優秀な人材を次々と輩出した。ロモノーソフの悲願は見事に達成されたのである。
現在のモスクワ大学
【主要参考文献】
佐々木弘明「科学アカデミーとM.B.ロモノーソフーロシアの科学・文化の自立ー」『横浜国立大学教育紀要』、1986年、26号、pp.47-69
橋本伸也「帝国・身分・学校―帝政期ロシアにおける教育の社会文化史」、名古屋大学出版会、2010年
田中陽児・倉持俊一・和田春樹編「世界歴史体系 ロシア史2」、山川出版社、1994年
ガリーナ・イヴァノヴナ・スマーギナ(市川浩訳)「18世紀におけるペテルブルク科学アカデミーの歴史から」『"科学の参謀本部”―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究―論集Vol.1」、平成22年度~24年度日本学術振興会科学研究費補助金[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告