創価大学創立50周年記念
ロモノーソフ生誕310 周年記念特別WEB展示
ー ロシアのレオナルド・ダ・ヴィンチ ー

 
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ロモノーソフの生涯とロシア年表

 

 ミハイル・ロモノーソフの生涯

生い立ち 

 ミハイル・ロモノーソフは1711年11月19日に生まれた。18世紀初頭といえば、ロシアでは、大変革の時代であり、ピョートル大帝が、社会のほぼ全般にわたる改革を推し進めていた時代である。産業の目まぐるしい発

ピョートル一世

展、天然資源の開発、新首都の建設、艦隊の創設、暦法の改革(中世的な宇宙開闢歴を西暦に改めた)、初の新聞や初の博物館の開設、一般市民のための教育機関の設置、さらには、ロシア史に大きな足跡を残した科学アカデミーの設立等々、変化に富んだ時代だった。

 そして、教育学術制度が国の特別な機関として、整備されていった。こうした流れは、啓蒙時代に突入したヨーロッパ史の歩みと重なっている。
 
 ロモノーソフの生地は、北方の地アルハンゲリスク州、白海に注ぎ込む北ドヴィナ川に浮かぶ島で、冬は川が凍って近くのホルモゴールィという町まで氷を伝って行くことができた。古代からロシアでは、古代から凍っ
た川を伝って商人が商品を運んでいたため、川は重要な交通路だった。そしてホルモゴールィを経由して外国との貿易が行われ、イワン雷帝からピョートル1世までの時代、ここは西欧との交通の要衝だった。

 
 ロモノーソフの父ワシーリーは、漁業と農業で富を築いた。彼は、その地方で初めてガリオット(二本のマストをもつ帆船)を建設し、チャイカと名付けた。
 ミハイル少年は他の農民の子供と同様に両親の仕事を手伝った。家畜を放牧し、畑を耕し、10歳になると父と一緒に海へ漁に出るようになった。海での漁業は地元の農民たちの大きな収入源であったため、春に出漁すると秋に戻るというようにほぼ半年を海で過ごすという生活だった。その漁でミハイルは自然の美しさや恐ろしさを知り、白海で捕鯨をする外国人や外国の商人にも出会うという経験を重ねながら育っていった。
 まもなくミハイルは並外れた向学心を発揮するようになった。船に帆を
掲げることや羅針盤を使う、海や海獣の習性を知る、不安定な北の天候を観測するといった事は、地元住民なら皆習い覚えることである。しかしミハイルはそうした作業をただ覚えるだけではなく、そこからさらに自分の疑問を解こうと思索を深めていくのだった。なぜ風が吹くのか。どのような力によって羅針盤の針が常に北を指すのか。なぜ魚は産卵のために流れに逆らって進むのか。どうしてオーロラが発生するのか。昼と夜、満潮と引き潮が入れ替わるのはなぜか。 ミハイルは全てを知りたいと思った。

 しかし両親はこうした息子の向学心の、あまりの熱烈さを理解できなかった。ミハイルの母はミハイルがまだ幼かった頃病死した。父は再婚したが、再婚相手もまもなく亡くなり、3度目の結婚をした。継母は口うるさい女性で、ミハイルが本を読んでいると父に告げ口した。地元住民は当時ほとんど読み書きができず、ロモノーソフの父も例外ではなかった。最初は、息子の向学心を好意的に見ていた父もそのうち継母の讒言に影響されるようになっていった。
 ミハイルは当時としては珍しいことだったが、隣人が本を持っていたた
め、それを借りて読んでいた。また、近くに古儀式派の拠点があり、そこにも本を求めて通った。しかしそれでもミハイルの向学心は満たされず、学びを求めてモスクワへ行くことを夢見るようになった。

 当時のロシアでは国民のだれもが教育の恩恵に与れるような機会はなく、子ども達は家庭で家業を覚えることしかできなかった。向学心旺盛な子どもは教会に行って文字を教えてもらうくらいしかできなかった。
 ミハイルが18歳になった時、父は隙を見ては読書に熱中する息子を結婚させることにした。ミハイルは 仮病を使うなどして結婚を避けていたが、ある時とうとう意を決して家を出た。学問を求めて千キロ以上あるモスクワまで歩いて向かったのである。以来、二度と故郷の土を踏むことはなかった。

 道中、魚を売りに行く行商人と合流し、1731年1月、ロモノーソフはモスクワに到着。魚を売るバザールで同郷人達と知り合い、ロモノーソフを家に泊めてくれ、学校へ入学するために世話を焼いてくれた。そして、ロシア最古の教育機関であるスラヴ・ギリシャ・ラテン学院で学ぶようになった。当時、希望者は誰でもここで学ぶことができたが、農民は除外されていたため、ロモノーソフは自身の出自を司祭の息子であると偽って入学したのだった。既に20歳になっていたロモノーソフは、12−13歳の子ども達と机を並べて学んだ。本や衣服を買う金もなく、食べることもままならない困窮生活の中で彼は夢中になって学んでいった。そして3学年分の課程を1年で終えている。数年後にロモノーソフが司祭の息子ではなく、農民であることがばれてしまい、兵役かシベリア流刑にされそうになったが、
最終的には熱心に学ぶ優等生であったロモノーソフは学校に残ることを許されている。その時の屈辱を彼は生涯忘れることがなく、その後あらゆる身分の人々に開かれた教育を確立しようとした。

 スラヴ・ギリシャ・ラテン学院には外国帰りの優秀な教師がいたが、ここは主に聖職者や翻訳者を育成するための学校で、教える科目は言語や哲学、神学などほとんどが人文科学で、物理学はアリストテレスの著作をもとに教えるという明らかに時代遅れの状態だった。

科学アカデミー[1]

 当時のロシアで物理学、数学、地理学など自然科学の研究が行われていたのは1724年にピョートル1世が設立したペテルブルグ・アカデミーだけだった。アカデミーにはヨーロッパ全土から招聘された著名な外国人の学者が働いていた。ピョートル1世の構想では、アカデミーは研究だけでなく、ロシア人の学生を教育する目的もあり、そのために付属の大学も作られた。当時、ロシアに体系的な学術研究ができるようなシステムはそれまでなかったのである。このアカデミーはそうした状況を改善して、ヨーロッパに追いつくという目標を掲げて作られた。しかし、アカデミー付属の大学は事実上、開店休業状態だった。

 そうしたところへ1735年、スラヴ・ギリシャ・ラテン学院の優秀な生徒が12名、ペテルブルグの科学アカデミーに派遣されることになった。ロモノーソフはその1人に選ばれたのである。この派遣は、アカデミー付属大学を活性化するためで、それまでは著名な学者がいても、その講義を理解できる学生がいなかったのである。しかし、外国人学者にはロシアの教育に貢献しようという意欲もなく、大学活性化の目的は達成されなかった。 
 
[1] 科学(人文・社会科学も含む)の研究振興のために作られる学術団体。現在は名称がロシア科学アカデミーとなっており、ロシア国内の学術研究機関すべてを包括する。

ドイツ留学

 当時、ロシアの天然資源の調査がアカデミーの課題の一つとなっていて、シベリアにも調査隊が派遣されていたが、鉱山学の専門家がいなかった。その専門家となるべき学生をドイツに留学させることになり、1736
年、ミハイル・ロモノーソフとドミートリー・ヴィノグラードフ、グスタフ・レイゼルの3名がドイツのマールブルクに派遣された。マールブルク大学では有名な哲学者クリスチャン・ヴォルフに師事し、当時の最先端の学問を学ぶ機会が与えられた。ロモノーソフはヴォルフの下で物理学を夢中で学んだ。
 科学アカデミーは、ロモノーソフたち留学生に十分過ぎるほどの奨学金を与えた。これまでの困窮生活とは全く違った環境でロモノーソフは学問に熱心に取り組んだが、一方で遊びにも無関心ではなく、他の留学生たちと共に飲み歩いては借金を作っていった。2年半のマールブルク滞在で彼ら
が作った借金は恩師であるヴォルフが肩代わりし、それ以降は科学アカデミーからの奨学金は3分の1に減らされ、学生に送るのではなく、指導教授のもとに送られるようになった。鉱山学を学ぶために行ったフライベルクで指導教授となったのはヨハン・ヘンケルだった。ヘンケルは留学生に奨学金支出の詳細を伝える義務がないのをよいことに、留学生にごく限られた額の奨学金を手渡すにとどめたため、しばしば彼らの間に衝突が起きた。ロモノーソフは、ヘンケルの授業にも不満を抱いており、当時、科学アカデミーの書記であったI.シューマッハにロモノーソフはこう書き送っている。
「化学の講義につきましては、彼(ヘンケル)は1ヶ月もあれば終えられる塩類の講義に4ヶ月費やし、金属や半金属、土類、石、硫黄などより重
要な科目を学ぶための時間がなくなってしまいました。また大半の実験も先生の不首尾のために失敗してしまいました」
 その手紙には、奨学金を渡すようヘンケルに窮状を訴えに行ったが全くらちがあかなかったため、ロモノーソフはフライベルクを去ると書いている。1740年、彼はロシアに向けて旅立った。経済的に困窮していたロモノーソフは、旅の途上で実験道具として持っていた秤を使って市場で計量をしてお金を稼いだ。しかし帰国の手続きのために頼ろうとしていた駐ドイツのロシア公使の不在で思うようにいかず、一端マールブルクに戻った。
そこには結婚を約束していた下宿先の娘エリザベータが待っていた。そしてその年1740年に結婚式を挙げ[1]、娘も生まれたのだが、ロモノーソフは妻にロシアで自分が落ち着くまで待つように告げて、祖国を目指し旅立っている。
 帰国する方途を摸索しながら、ロモノーソフはドイツ各地を放浪しているうちにある時、プロシア軍につかまり、だまされて酒を飲まされ、強制的にプロシア軍で兵役につかされることとなってしまった。身長2メートル3センチで体格のいいロモノーソフは兵士にうってつけだったのだ。
 数ヶ月後にロモノーソフはやっとの思いで脱走し、難を逃れている。そうして1741年、ようやくサンクトペテルブルグに戻ったのだった。

 

[1] 結婚式はマールブルクのプロテスタントの教会で行われたが、ロモノーソフはロシア正教徒であり、この事実がロシアで明るみになると問題にされる可能性があった。

帰国、アカデミーでの闘い

 
ロモノーソフはペテルブルグの科学アカデミーに戻ってきたが、当時アカデミーにいた教授は皆ドイツ人で、アカデミー内で使われる言語はドイツ語だった。それはロシアで学問を勃興させるために外国から学者をどんどん招聘するというピョートル1世の政策の結果であった。そしてそこにはロシア人の学者を育成するという目的もあったのだが、実際には人材育
成はなされていなかったのである。
 西欧の先端科学をロシアに普及するには翻訳が不可欠だった。ロモノーソフはギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語にも通じていて、精力的に翻訳に取り組んでいった。「実験」「運動」「現象」「粒子」などの学術用語はロシア語にはそれまで存在せず、ロモノーソフが翻訳をしてロシア語の用語を確立していった。彼は数多くの文献を翻訳していったが、中でもクリスチャン・ヴォルフの物理学の教科書のロシア語訳でロモノーソフは有名になった。ロモノーソフは、当時のロシア政界に大きな影響力を持つミハイル・ヴォロンツォフにその教科書を捧げ、それによって強力な後ろ盾を得ることとなったのである。
 ロモノーソフが最初に名声を得ることとなったのは、学者としてではなく、詩人としてだった。まだドイツ留学中に露土戦争(1735−1739)でロシアが勝利したという報に接して「ホチン要塞攻略に寄せる詩」を書き、ロシアに送ったのがセンセーショナルな話題を巻き起こしたのである。彼の詩は力強い荘厳な響きが特徴的で、既存の詩法ではあきたらず、自身の作品と「ロシア詩法に関する書簡」によってロシア詩壇に革命を起こしたと言えるだろう。
 ロモノーソフの詩はエリザヴェータ女帝も気に入り、国家的記念日など
をテーマに数々の詩を書いて報償を受けている。ロモノーソフが詩作によって宮廷で認められていき、またその後モスクワ大学創立を成し遂げられた理由のひとつには、イワン・シュヴァーロフ(1727-1797)というエリザヴェータ女帝の寵臣の存在がある。シュヴァーロフは女帝に唯一直接報告ができる高官として、ロモノーソフの詩を紹介し、またモスクワ大学創立計画をロモノーソフが立てた時も、シュヴァーロフが女帝を説得して実現の運びとなったのである。そのため、シュヴァーロフもロモノーソフと共にモスクワ大学の創立者とされている。
 
 1741年に帰国後、ロモノーソフは科学アカデミーに戻るが、この時からほぼ生涯にわたってI.シューマッハを中心とするアカデミー上層部との戦いが続く。帰国してもしばらくはロモノーソフのポストが決まらず、経済
的困窮も続いたが、翌年、30才でようやく科学アカデミーの助手に就任し、学問に没頭していく。ドイツ人が仕切るアカデミーは、設立されて20年たってもロシア人のアカデミー会員を1人も輩出することができなかった。つまり、ロシアにすぐれた学問成果、技術を導入し、学者を育てるというピョートル1世の当初の意向は実現していなかったのである。荒々しい自然を相手にする漁師の子として育ったロモノーソフは直情径行な性格で、上層部との衝突をしばしば繰り返し、アカデミー会員に暴言を吐いたとして約1年軟禁状態に置かれたこともあった。一方、ドイツに残されたままであった妻エリザヴェータは娘と共にロシアの夫のもとにやって来た。以来、夫妻は生涯離れることなく暮らし、妻は仕事に没頭するロモノーソフを影で支えていった。
 ロモノーソフはロシアの学問興隆のため、人材育成のために貢献したいと時間を惜しんで働いた。彼の研究分野は化学、物理、天文学、地質学、地理、歴史、文学と多岐にわたり、基礎研究・応用研究ともに極めて重要な貢献を果たしていくこととなる。ロモノーソフは、自身の主な専門は化学だと語っていた。1745年、34才のロモノーソフは、ロシア初の化学実
験所設立の許可をこれもまた困難な闘いの末に勝ち取り、設立した。それは当時ヨーロッパで最高レベルと言われた。この実験室で彼は10年間様々な実験を行い、若手の科学者を育成していったのである。
 科学アカデミーでは、純粋な学問研究だけでなく、鉱石の分析や海運、軍事関係機関からの依頼による仕事も行い、さらに皇帝の命により宮廷や国民的なお祭り用の花火の製造までも担わされた。そうした多忙な日々にあってもなおロモノーソフは数々の研究業績をあげていったのである。
 化学実験所でロモノーソフは学生達に講義し、実験の手法を教えていった。
「質量保存の法則」を自然の普遍的法則として世界で初めて確立したのはロモノーソフで、1756年、金属を加熱する実験を行ってその法則を導き出した。その後、1774年にフランスのラヴォアジエが精密な定量実験を行い「質量保存の法則」として提唱しているのだが、「質量保存の法則」にロモノーソフの貢献があったことは日本ではほとんど知られていない。また、物理化学という分野を世界で初めて打ち立てたのもロモノーソフである。
 ガラスや陶磁器に関する研究はロモノーソフにとって特別な意味を持っている。4千回以上の実験を重ね、様々な色彩の着色ガラスを作り、それ
を使った数々のモザイク画も残している。
 更にロモノーソフは「宇宙物理学の父」とも呼ばれている。白海沿岸で生まれた彼は、子どもの頃よりオーロラに強い興味を引かれていた。そのオーロラの原理を解明する実験も行っている。
 またドイツ人物理学者でサンクトペテルブルグ科学アカデミー会員であったG.リヒマンと一緒に雷放電の研究を行い、2人で雷発生器を開発している。しかし、リヒマンは実験中、落雷で命を落としてしまった。ロモノーソフは、同僚であり、友人だった彼の死を深く悲しみ、生涯にわたって残された遺族の世話をしている。
 天文学の分野でもロモノーソフは大きな貢献をしている。1761年、金星の太陽面通過を観測していた時に、金星が太陽の面から外れる瞬間、太陽の表面に起伏ができることに注目し、これが金星の大気圏における光の屈折である、つまり、金星に大気圏があることを発見したのである。金星の太陽面通過は非常に珍しい現象で、この年、世界中の天文学者が観測をしていたが、唯一、ロモノーソフだけが金星の大気圏の存在を結論づけている。
 人文学分野におけるロモノーソフの業績についてもあげなければならな
いだろう。彼は前述した詩作や新たなロシア詩法の提唱にとどまらず、歴史学、言語学においても著作を残している。
 1755年、ロモノーソフは6年間のロシア語研究の成果を『ロシア文法』として発表した。これはロシア語学研究において極めて重要な地位を占めている。
 1766年には、ロモノーソフの『ロシア古代史』が出版されている。当時、ドイツ人が支配的であった科学アカデミーで、ロシアの国家成立の起源について「ノルマン起源」が唱えられたが、ロモノーソフはそれに真っ向から反対し、バルト海地域のスラブ人がその起源であることを主張している。
 

教育興隆のために

 ロモノーソフはロシアの学者を育成しようと心を砕いてきた。「ロシアのプラトンや俊敏なるニュートンをロシアの大地が生むのだ」と詩にもうたっている。そのためにロモノーソフは、望む者は誰でも学べるような大学を作りたいと願った。前述したように、ロモノーソフは彼の良き理解者であったイワン・シュヴァーロフを通じてロシア初の大学の構想をエリザヴェータ女帝に伝えた。そして1755年1月25日、女帝がモスクワ大学創立の勅令に署名し、その日がモスクワ大学の創立記念日となった。現在、1月25日は「ロシア学生の日」となっている。
 ロモノーソフは大学創立構想の中で哲学、法学、医学の3学部の設立を提案、そして家柄ではなく、身分に関係なく学びたい者が学べるようになり、農奴以外は雑階級の子弟でも入学ができた[1]。「それが誰であろうと、大学内で尊敬される学生は、誰よりも学んだ者である。誰の子息であるかということは関係ない」ー ロモノーソフはこう言っている。また、大学で学ぶ学生をまず育てる必要性から、大学と共にギムナジウム[2]も同時に設立されている。
 当初の教授陣は10人だったが、大半は外国から招聘された教授で、3人がロシア人、うち2人がロモノーソフの弟子だった。ロモノーソフ自身はモスクワ大学で講義をすることはなく、開学式典に出席することもなかったが、ロシアで事実上、最初の世俗的大学とされる学問の殿堂で弟子が師匠の心を受け継ぎ、学者が育っていったのである。
 教育分野においては、ロモノーソフはサンクトペテルブルグ科学アカデミー付属の大学とギムナジウムの改革にも尽力している。ペテルブルグの当時のギムナジウムは古い建物で劣悪な環境にあった。冬季は、教師達は毛皮を着て、教室で身体をほぐしながら講義をする。しかし、生徒達は暖かな衣服も供給されずに、また、席から立ち上がる自由も与えられずに震えている。このような状況から、体調に異常をきたし、やがて疥癬や壊血病になり、そして病気のために留年を余儀なくされるという状況だった。ロモノーソフは、46歳でペテルブルグ・アカデミーの官房顧問に任命され、そうした状況を改善しようと新校舎の獲得に奔走するのだが、それが実現した時にはロモノーソフはすでにこの世を去っていた。
 また、当時ヨーロッパで大学の講義はラテン語で行われるのが一般的であったが、ロモノーソフは1746年(34歳)、物理学の一般公開講座でロシアで初めてロシア語で講義を行っている。これは知識人階層に物理学の知識を普及することに貢献し、ロシア語で大学の講義を行う突破口となったのである。
 
[1] 実際には地主が自身の農奴に教育を受けさせてよりハイレベルの仕事をさせたいという思惑から農奴が入学した例もあった。
[2] 中等教育機関。ロモノーソフは中等教育機関がなくて大学だけだと「種を植えていない耕地のようなもの」と言った。
 

不屈の闘いの末に

  以上あげた学問業績の他に、ロモノーソフは人口問題についても提言を行っている。当時、面積は広いがロシアの人口密度は低く、子供の死亡率が高かった。そうした状況を打開するための提言「ロシア国民の維持と増加について」という書簡を1761年、シュヴァーロフに宛てて書いている。その中には、出生率をあげるためには国民が健康でないといけない、そのために、たとえばロシア正教の断食の期間は冬ではなく、温暖な季節に設定するべきである、そして子供を産み増やせる年齢の男女は出家させるべきではない、親がすべて決めて新郎新婦が結婚式当日初めて会うという慣習をなくすべきであるなどといった提案を行っている。しかし、こうした提案は当時の時代状況では過激な内容であったため、シュヴァーロフは誰にも見せることなく、百年後にようやく公表されている。
 こうしたロモノーソフの数々の業績は、事を始めようとするたびに周囲の反対や妨害にあい、その中を戦い抜いて一つ一つ勝ち取っていったのだった。率直に意見を言い、不正に対しては真っ向から戦っていったロモノーソフには常に敵が多くいた。その戦いは晩年まで続き、経済的な困窮にも常に悩まされ続け、翻訳や詩作で副収入を得ながらなんとか生計を立てていった。こうした中でロモノーソフの役職もなかなか上がっていかなかったが、1760年にスウェーデン王立アカデミー会員に選出された後、1763年52歳で(亡くなる2年前)発事官の称号を得て、ようやく経済的にも安定するのである。エリザヴェータ女帝時代には寵臣のシュヴァーロフがロモノーソフの事業を支援していたが、エカテリーナ2世の時代にはシュヴァーロフも力を失ってしまう。味方のいない四面楚歌の状況にあったロモノーソフの下に、18764年(52歳)、ボローニア科学芸術アカデミー会員に選出されたという知らせが届いた。ヨーロッパの権威ある学術機関
からロモノーソフの功績が認められた直後、エカテリーナ2世はロモノーソフの自宅を訪問し、ロモノーソフはモザイク画や自身の発明について女帝に説明している。
 翌1765年、53歳でロモノーソフは肺炎のため自宅で逝去。辺境の漁師の子として生まれ、数々の苦難を乗り越えながらロシアの学問の基盤を築いて、波瀾万丈の生涯を終えたのだった。ロモノーソフの数々の業績は死後約百年間振り返られることなく忘れ去られてしまっていたが、その後再発見され、「ロシアの学問の父」として歴史に刻まれている。
 
 
参考文献:
 Жажда познания. Век XVIII/ Н. Советов, А. Орлов, Ю.Смирнов. М.:Изд-во Молодая гвардия, 1986
 
М.В. Ломоносов. Избранные произведения. М.: Изд-во Наука, 1986. Т.2
 
Юрий Нечипоренко. Помощник царям. Жизнь и творения Михаила Ломоносова. М.: Изд-во Московского университета, 2011.
 
Евгений Подколзин. 挿画 前掲書