「最終的解決」 1941-1945年
1941年春、ナチスは500 万人のユダヤ人の故 郷 でもあるソ連を侵略 する準 備 を整 えた。欧 州 系ユダヤ人の生命と文化の完全な絶滅を企図 する、「最終的解決 」を実行 する機会が目前に迫 った。
実際には1945 年までに、600 万人のユダヤ人が大量処刑 、飢餓 、奴 隷 労働を通じて殺されるか、絶滅収容所にて殺害された。そのほかにも政治的反体制者、レジスタンス、ソ連の戦争捕 虜 、ロマ(ジプシー)、同性愛者も、ナチスの死の網 に捕 えられた。数百万人の普 通 の市民が、ドイツの戦争遂行 のための労働者として徴集 されたが、優先目標はユダヤ人の完全絶滅であった。
1942年1月20日、ヴァンゼー会議にて欧州系ユダヤ人の完全絶滅が正式に決定された。この会議で、秘密警察長官ラインハルト・ハイドリヒは、「最終的解決」には、奴隷労働に耐 えられないすべてのユダヤ人の積 み出しと死が不 可 欠 であることを明 言 した。残された人々は死ぬまで働 かされることになった。
計画的な死 ソ連侵攻
占 領 地域のユダヤ人の運命 は、地元住民の感 情 によりさまざまであった。リトアニア、ラトビア、エストニアなどのバルト諸国 やウクライナでは、地元住民が頻繁 にユダヤ人の迫害 に協 力 した。
機動殺戮部隊
1941 年春、SS(親衛隊)はソ連とバルト諸国 のために4 つの機動殺戮部隊を編成 した。これらの特別訓練を受けた殺戮部隊は、侵攻 する軍隊の後に続き、「ユダヤ人、共産主義者、その他ソ連の役人」を捕 え、殺害した。
ヒトラーは、自 らの意図 する「絶滅戦 」を将 軍 たちが遂行 する意志 があるかどうかに疑 いを抱 き、ハインリヒ・ヒムラーに東部戦線での「特 別 任 務 」を命じた。塹壕 や穴 での大 量 射 殺 が、地元住民、ドイツ国防軍、そして軍の役人の目の前でたびたび行 われた。
ソ連のドイツ占 領 地域では、地元住民は、ユダヤ人を殺し、財産を略奪することを奨 励 された。同時に、武装SS(親衛隊)と地元協力者がユダヤ人の男性、女性、そして子どもたちを容赦 なく、大量埋 葬 溝に連行して射 殺 した。
1943 年までに、ソ連のドイツ占領地域で140 万人以上のユダヤ人が処刑 された。
最後の選択 抵抗
ユダヤ人が一人でも抵 抗 すればゲットー全体に残 虐 な報 復 を加 えるというナチスの方 針 と、武器の不足や戦争を生 き延 びるという希望から、当 初 、ゲットーでの武 装 抵 抗 運 動 は抑 え込 まれていた。そのうえ、再 定 住 というナチスからの皮 肉 な約 束 が、ユダヤ人の間に生 存 という偽 りの希望をかきたてた。
だが、ナチスがユダヤ人全員の絶滅 を意 図 していることが明 らかになると、ゲットーの抵抗戦士たちは、生き残るために、また殺された者たちの復讐 を果 たすために、あるいは少なくとも戦って死ぬために、戦いの準 備 をした。
抵抗と復讐 ワルシャワ・ゲットー蜂起
「ワルシャワにはもはやユダヤ人居住区は存在しない」というのが、SS(親衛隊)シュトループ将軍のワルシャワ・ゲットー蜂 起 鎮圧 に関する報告書の題名だった。
ワルシャワ・ゲットーの中で生き残ったユダヤ人は、死 に物 狂 いで、ほとんど武器もないままに、1943 年4 月19日の「過 越 しの祝 い」の前夜に反 乱 に立ち上がった。ゲットーの戦士たちは3週間持ちこたえたが、SS(親衛隊)司令官のシュトループ将軍はゲットーを火攻 めにし、抵 抗 する者と生き残った者すべてを追い出した。
戦後、シュトループは裁判で、ワルシャワ・ゲットー壊滅 の際に犯 した「人道に対する罪 」を問われ、判決を受けて絞首刑 になった。
「彼 ら(ユダヤ人戦闘組織)は、ゲットーに閉 じ込 められた人々の一部でも脱 出 できれば、それを勝利と考えた。敵 の勢 力 が少しでも弱まれば、彼 らの目には、それは勝利と映 った。そして最後に……武器を握 りながら死ぬことは、彼らにとって勝利だった」
Biuletyn Informacyjny No.17(地下情報新聞) 1943年4月29日
「熱と焼け死ぬ恐 怖 から、燃 えさかる家にとどまることはまれだった。彼らは上階から飛 び降 りた。
……脚 を折 り、はいずって道を渡 り、まだ火があまり回っていない建物に逃 げ込もうとした……
我々は合計56,065 人のユダヤ人を捕 獲 し、絶 滅 することに成功した。さらに、爆発 、火災、その他で命を落としたユダヤ人を、この数字に加 えなければならない」
SS(親衛隊)司令官 ユルゲン・シュトループ将軍
ワルシャワ報告 1943年5月16日
大量殺戮 1942-1945年
1942年から1945年までの間に、ナチスは冷徹 な産業的効率でユダヤ人、ロマ(ジプシー)、スラブ人、戦 争 捕 虜 の大量殺戮を実行した。
さらに400万のユダヤ人が家畜運搬用の列車に押し込められ、強制収容所に送られた。多くが途 中 で死んだ。
そのほかの者たちも、ガス、銃 弾 、棍棒 、飢餓 、労働により殺され、生き残った者はほとんどいなかった。
列車
ユダヤ人の「物理的絶滅 」を完遂 するというナチスの戦 略 は、大量移送および輸送を必要とした。
ユダヤ人はゲットー、強制収容所、殺害センターへと送られた。列車はひどいすし詰 めで、食料が乏 しかったため、多くの人が、とくに子どもと老人が、窒 息 、飢 餓 、寒 さで死んだ。ドイツの鉄道職員は効 率 的 に任 務 を遂 行 した。
収容所
1939 年以降、奴 隷 労働、中継 キャンプ、そして殺害センターを含 む強制収容所システムは拡大し、占 領 下 欧 州 の隅々 まで行き渡 った。収容所は、監 視 塔 と電気の流れる有 刺 鉄 線 に囲 まれており、集 合 エリアと宿 舎 があった。
テレジエンシュタット 「模範的」ゲットー
プラハ近郊 の18世紀の要塞 都市テレジンシュタットは、欧州 ユダヤ人の大量殺戮 を隠蔽 するという邪悪 な計画の用地として選 ばれた。
ナチスはここに、いわゆる「模範的」ゲットーを作った。恐 怖 の真 っただ中 で、彼 らは、演 劇 、音楽、講演、芸 術 など、見せ掛 けの文化生活を許 した。外国政府、国際救 援 部隊、そしてユダヤ人たちでさえもナチスの隠 ぺいに騙 されていた。
「老人の輸送。1万人の病人、不具者、瀕 死 者、全員65 歳 以上……子どもたちは年 老 いた親たちを行かせるほかなく、助けることはできない。彼 らはなぜ、この無 防 備 の人々を送り出したがるのだろう? 彼らが、私たち若者を排除 したがるのであれば、それは理解できる……でもこの老人たちが危険とは到底 思えない」
ヘルガ・ヴァイソヴァ=ホスコヴァ14歳 『テレジエンシュタット日記』
テレジンエンシュタットは、善 意 の場所とはほど遠く、アウシュヴィッツへと向かう途 中 の一時停 留 所 にすぎなかった。15 万人のユダヤ人がテレジンエンシュタットを通 り過 ぎていった。3万3,000 人がゲットーにいるうちに飢 えと病気で死に、9万人がアウシュヴィッツへ輸送された。
1944 年夏、SS(親衛隊)はテレジンエンシュタットについての宣伝映画を作成し、ユダヤ人都市の幸福 なユダヤ人の様子を見せつけたが、完成後には、役者の大部分がアウシュヴィッツに送られた。
燃えつきるロウソク 強制収容所の日課
「男、女、少女、子ども、赤ん坊 、身 障 者 など、全員が全 裸 で整列させられた。角には頑健 なSS(親衛隊)隊員が立っていた。彼 は司 祭 のような大声で、『何も怖 いことは起こらない』と哀 れな人々に告 げた。『深く息 を吸 うだけでいい』」
クルト・ゲアシュタイン ナチス将校(ベウジェツの証人)
残 虐 で非人間的な強制収容所システムの主 要 な産物は死である。
労働ができる程度に健康な者には、奴 隷 労働を通してもっともらしい時間をかけた殺害が行 われた。常 に看守 のサディスティックな暴力とわずかな違 反 を理由とする即 時 処 刑 の影 がつきまとっていた。
「午前3 時起 床 ……ベッドメイクにわずかでも規 則 違 反 があると、その罰 は鞭 打 ち25 回だった。それを喰 らうと丸1 ヵ月は横になることも、座 ることもできなかった」
「昼の12時には、食事のための休みがあった……半リットルのスープか、何か水っぽい液体、栄養 も味もない……スプーンは許 されなかった……スープを器 から直接飲み、犬のように舐 めなければならなかった……運が良ければ昼の食事にありつけたということを、強 調 しておかなければならない。
『懲 罰 の日』というのがあった……この日は我々の胃 は1日中空 っぽだった。
午後の仕事も同じで、ひたすら殴 られ続けた。
6 時になると点 呼 があった……我々はいつも気をつけの姿 勢 で1-2時間立たされ、その間に何人かの囚 人 が『懲 罰 行 進 』に呼 び出された……彼 らは人前で裸 にされ、特別 なベンチに寝 かされ、25-50回の鞭打ちを受けた。だが、彼らはマイダネク強制収容所の中でも父祖 の伝統 を守っていた。
私は、オランダからやってきた金 髪 の男を忘れることができない。彼は、無 帽 になる命令を受け入れることができなかった。そして小さなスカルキャップ(頭部の保護帽)を入手し、それをかぶっていた……細い糸でその帽子を耳に固定していたものだ。監督 者がこれを見て、彼をひどく殴 りつけたこともあった」
Y.プフェッファー(マイダネク収容所の生存者)
耐える精神 ホロコーストの芸術
収容所の非人道的な条 件 にもかかわらず、人間の想 像 力 は表 現 の場を芸 術 と詩 に見いだした。ホロコースト芸術の多くは恐 ろしい現実の記録であった。芸術家は、犠 牲 者 であると同時に解 説 者 であり、紙やインクを盗 み、食 用 色 素 や錆 びから絵の具を作らなければならなかった。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ 死の工場
「帝国 総 統 が、すべてのユダヤ人を例 外 なく絶滅 すべしという当初 の1941年絶 滅 命 令 を修 正 し、その代 わりに、働 ける者を残りの者と分 離 し、軍事産業で使うように命令した時から、アウシュヴィッツはユダヤ人収容所になった。
それは、これまでに見たこともない規 模 のユダヤ人集合場所になった……彼 らは、死刑を宣 告 されていること、そして働ける限 りしか生きていられないことを、例外なく知っていた」
ルドルフ・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所司令官) 自伝
占 領 下 のポーランドに位置するアウシュヴィッツ=ビルケナウは最大のナチス収容所で、強制収容所と殺害センターの両方の機能を兼 ね備 えていた。
1941年の「最 終 的 解 決 」実 施 とともに、数百万の欧州 系ユダヤ人を殺害する最大のセンターとなった。アウシュヴィッツ=ビルケナウとマイダネクでツィクロンBが採 用 されるに伴 い、死は悪魔的 な産業になった。
アウシュヴィッツ=ビルケナウで、1942 年4 月から1944 年11 月にかけて、100 万人以上のユダヤ人がガスで殺された。さらに、ポーランド人、ソ連の捕 虜 、ロマ(ジプシー)を含 め何十万人もの非ユダヤ人が殺された。恐 るべき行 為 の痕跡 を消 し去 るために、ナチスは焼 却 炉 で死体を灰 にした。
「女性たちは絶 え間 ない恐 怖 と不安の状 態 の中で生きていた。
彼女たちは、SS(親衛隊)の医者たちが考え出した実験を受けなければならず、役割、つまりモルモットの役目が終わればビルケナウに送られ、そこにはガス室が待っていることを知っていた
……私は自分が半 ば地 獄 、半ば精神病院のような場所にいると感じた」
ドーラ・クライン博士(被収容者/看護婦)アウシュヴィッツ
アウシュヴィッツ=ビルケナウの5つのガス室は昼も夜も稼 働 し、1日9,000人も殺害し、焼 却 した。
ここでは、ヨーゼフ・メンゲレをはじめとする「医者」たち、たとえば、ヨハン・パウル・クレマー、ホルスト・シューマン、フリッツ・クライン、カール・クラウベルクなどが、残酷 な医学実験を行 った。双 生 児 、小人、妊 婦 やそのほかの囚 人 が選び出され、恐 るべき「遺 伝 学 」の研究に利用された。
汚 物 のなかで暮 らし、飢 えと戦いつつも、まだ働ける人々にはわずかながら生き残るチャンスがあった。多くの場合、看守の気 紛 れな暴 力 によるケガは、死刑執行 令 状 と同 義 語 だった。
断末魔のアウシュヴィッツ 解放
ソ連軍の侵攻 に伴 って、1944年11月、アウシュヴィッツのガス室は撤去 された。大量殺戮 は秘 密 にしておかなければならなかった。
1945年1月18日、歩ける被 収容者は「死の行軍」に連れ出された。ソ連軍が到着 したとき、アウシュヴィッツに残っていたのはわずか数千の囚 人 だった。
「数日後、収容所は引き払 われた……そしてあと我々は行進を開始した……1-2キロしか進まないうちに、最 初 の数名が倒 れた。立ち上がれない者は直 ちに射殺 された。明 らかに時間切れが迫 っている今でさえも、SS(親衛隊)は自らの犯罪 の痕跡 を一つ残らず取り除 こうとした」
フィリップ・ミューラー(生存者)「アウシュヴィッツの証人」
「3年間にわたり、私の思考や秘 かな願望 のすべてが注 がれていたこの瞬 間 は、実際 のところ喜 びも、いかなる感 情 も私の内部に呼 び起 こさなかった。
私はうずくまり……四つんばいになってドアのほうに這 っていった」
フィリップ・ミューラー(生存者)「アウシュヴィッツの証人」
勇気の手を差しのべた人々 隠れ、救出され、生き延びた
占 領 された欧 州 のあらゆる国で、勇気ある多くの男女が、ナチスの犠 牲 者 であるユダヤ人に同 情 を示 し、救いの手を差 し伸 べた。その救 援 者 の名前は、ほとんど記録されていない。彼 らはその良 識 の故 に、たびたび死の危険にさらされた。その行 為 は例 外 的 であり、他の同 胞 の大半は無 関 心 であったか、あるいは隣 人 であるユダヤ人の迫害 や殺 害 に協 力 をしていた。
まったく望 みにない条件のもとでも、ベルリンでは4,000 人以上、オランダでは数千人、数百万人が殺された占領下のポーランドでは数万人のユダヤ人が、隠 れて生 き延 びた。助けた者の数と助けられた者の数に関する統計は不完全だが、占領下の欧州で、こうした勇気ある人々が10 万人を越 えるユダヤ人を援 助 し、助けた。世界の指導者は大量殺戮 に沈黙 したままだったが、勇気ある人々は自 らの命 を賭 として、無 実 の者たちをかくまった。
ポルトガルのデ・ソウザ・メンデス、日本の杉 原 千 畝 、スウェーデンのラウル・ワレンベルクは、ユダヤ人を救おうとした数少 ない外交官たちであった。
アメリカの強い要請 によりブタペストにてラウル・ワレンベルクが、「セーフハウス」といわれる施 設 を設置して、そこをスウェーデンの外 交 官 特 権 で保 護 し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、「シュッツパス(Schutz-Pass)」といわれるスウェーデン名義の保 護 証 書 を発 行 し、10万人ものハンガリー系ユダヤ人の命を救った。
「10 月下 旬 ……矢 十 字 党 の集団によって14〜65 歳 のユダヤ人たちが家々から狩 り出された。母と私は、この最初 の襲撃 で捕 かまった……武 装 した護 送 兵 が早く行進するように強 制 し、ついていけない者は射 殺 された……私たちは煉 瓦 工場に集 められた……武装したナチス隊員が歩き回り、人々を踏 ふみつけ、暴 行 を加 え、ののしり、発砲 していた……その時突然 、建物の一方の端 に拡声器と懐 中 電 灯 を持った平服 の人々が見えた……ラウル・ワレンベルクだった。彼 がそこにいることが私たちにとって何を意味するか、そのインパクトは誰 も推 し量 れないだろう」
スザン・タボール(生存者)
解放 暴かれた惨状
1945 年5月までに、欧 州 での戦争は終わっていた。強制収容所は解放され、ナチスの残 虐 な犯 罪 が明 るみとなった。「まるで暗 黒 時 代 に踏 み入ったようであった」と米軍のある軍曹 は呆然 として語った。
強制収容所から解放された囚人 はわずか25 万人だった。悲 しいことに、その2倍の人々が解放前の数カ月の間に死んだ。SS(親衛隊)は、進軍する連合軍の手が届 かんばかりになってから強制収容所を引き払 った。可能な限 り多くのユダヤ人を殺害 する目的で、崩壊 しかかった帝国 の内側 へと、囚人たちは情 け容赦 なく行進させられた。遅 れた者や倒 れた者は射 殺 された。生 き延 びた者は、食べ物も水も便所 もない、ぎゅうぎゅう詰 めの収容所に到 着 した。こうした最後の日々に、40万人以上が命 を落とした。