第1章 ホロコーストの歴史

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Annihilation in Nazi-occupied Europe 1941-1945

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(さい)(しゅう)(てき)(かい)(けつ) 1941-1945年

ユダヤ人の母子に( ねら )いをつけるSS(親衛隊)
出典:「我々は忘れてはいない 1939-1945年」
ワルシャワ 1961年

1941年春、ナチスは500 万人のユダヤ人の( )( きょう )でもあるソ連を侵略( しんりゃく )する( じゅん )( )( ととの )えた。( おう )( しゅう )系ユダヤ人の生命と文化の完全な絶滅を企図( きと )する、「最終的解( けつ )」を実行( じっこう )する機会が目前に( せま )った。

実際には1945 年までに、600 万人のユダヤ人が大量処刑( しょけい )飢餓( きが )( )( れい )労働を通じて殺されるか、絶滅収容所にて殺害された。そのほかにも政治的反体制者、レジスタンス、ソ連の戦争( )( りょ )、ロマ(ジプシー)、同性愛者も、ナチスの死の( あみ )( とら )えられた。数百万人の( )( つう )の市民が、ドイツの戦争遂行( すいこう )のための労働者として徴集( ちょうしゅう )されたが、優先目標はユダヤ人の完全絶滅であった。

1942年1月20日、ヴァンゼー会議にて欧州系ユダヤ人の完全絶滅が正式に決定された。この会議で、秘密警察長官ラインハルト・ハイドリヒは、「最終的解決」には、奴隷労働に( )えられないすべてのユダヤ人の( )み出しと死が( )( )( けつ )であることを( めい )( げん )した。残された人々は死ぬまで( はたら )かされることになった。

「我々が( きょう )( )( れい )( )をまとうことは、我々のユダヤ人絶滅( ぜつめつ )計画にとって良いことだ」

アドルフ・ヒトラー(ラインハルト・ハイドリヒとハインリヒ・ヒムラーに向かって)
1941年10月

計画的な死 ソ連侵攻(しんこう)

リトアニア人ファシスト党員による一斉( いっせい )検挙( けんきょ )にあったユダヤ人女性
出典:ルートヴィヒスブルク中央役所

カウナス(リトアニアの都市)のユダヤ人を、男性と女性に分けて( たい )( )するリトアニア人補助部隊
1941年 出典:ルートヴィヒスブルク中央役所

( せん )( りょう )地域のユダヤ人の運命( うんめい )は、地元住民の( かん )( じょう )によりさまざまであった。リトアニア、ラトビア、エストニアなどのバルト諸国( しょこく )やウクライナでは、地元住民が頻繁( ひんぱん )にユダヤ人の迫害( はくがい )( きょう )( りょく )した。

「ここでの戦いは、西方での戦いとは( )( じょう )( こと )なったものになろう。東方では、( )( こく )さこそが、未来に向けての( やさ )しさになる。( )( れい )( かん )は、( りょう )( しん )のとがめを克服( こくふく )するという( )( せい )( みずか )らに( よう )( きゅう )しなければならない」

アドルフ・ヒトラー 1941年3月30日

東部戦線でドイツ軍とSS(親衛隊)を( )( えん )した地元( )( ゆう )
1941/42年 出典:BPK

機動殺戮(さつりく)部隊

東部ガリシア地方の町ドロゴブイチ(旧ソ連:ウクライナの都市)での機動殺戮部隊
1941年秋 出典:ヤド・ヴァシェム

1941 年春、SS(親衛隊)はソ連とバルト諸国( しょこく )のために4 つの機動殺戮部隊を編成( へんせい )した。これらの特別訓練を受けた殺戮部隊は、侵攻( しんこう )する軍隊の後に続き、「ユダヤ人、共産主義者、その他ソ連の役人」を( とら )え、殺害した。

ヒトラーは、( みずか )らの意図( いと )する「絶滅戦( ぜつめつせん )」を( しょう )( ぐん )たちが遂行( すいこう )する意志( いし )があるかどうかに( うたが )いを( いだ )き、ハインリヒ・ヒムラーに東部戦線での「( とく )( べつ )( にん )( )」を命じた。塹壕( ざんごう )( あな )での( たい )( りょう )( しゃ )( さつ )が、地元住民、ドイツ国防軍、そして軍の役人の目の前でたびたび( おこな )われた。

東部ガリシア地方の町ドロゴブイチ(旧ソ連:ウクライナの都市)での機動殺戮部隊
1941年秋 出典:ヤド・ヴァシェム

殺害前に( はだか )にされるユダヤ人女性 ラトビアのリエパヤ
1941 年12 月15 日 出典:ルートヴィヒスブルク中央役所

ソ連のドイツ( せん )( りょう )地域では、地元住民は、ユダヤ人を殺し、財産を略奪することを( しょう )( れい )された。同時に、武装SS(親衛隊)と地元協力者がユダヤ人の男性、女性、そして子どもたちを容赦( ようしゃ )なく、大量( まい )( そう )溝に連行して( しゃ )( さつ )した。
1943 年までに、ソ連のドイツ占領地域で140 万人以上のユダヤ人が処刑( しょけい )された。

大量処刑 出典:BPK

最後の選択(せんたく) 抵抗(ていこう)

「我々は、( )( しょ )※に引かれる( ひつじ )のようであってはならない!
……殺人者の慈悲( じひ )にすがって生きるよりは、
人間の( そん )( げん )のために戦って( たお )れるほうが良い」

アッパー・コフナー(ユダヤ人パルチザン指揮官)
ヴィリニュス・ゲットー 1942年1月 ※屠所:食肉用の家畜を解体する場所

イェヒエル・グリーンスパン指揮下のユダヤ人パルチザン ルブリン
1944年 出典:ヤド・ヴァシェム

バルチェフの森のユダヤ人パルチザン 1943年 出典:ヤド・ヴァシェム

ユダヤ人が一人でも( てい )( こう )すればゲットー全体に( ざん )( ぎゃく )( ほう )( ふく )( くわ )えるというナチスの( ほう )( しん )と、武器の不足や戦争を( )( )びるという希望から、( とう )( しょ )、ゲットーでの( )( そう )( てい )( こう )( うん )( どう )( おさ )( )まれていた。そのうえ、( さい )( てい )( じゅう )というナチスからの( )( にく )( やく )( そく )が、ユダヤ人の間に( せい )( ぞん )という( いつわ )りの希望をかきたてた。

だが、ナチスがユダヤ人全員の絶滅( ぜつめつ )( )( )していることが( あき )らかになると、ゲットーの抵抗戦士たちは、生き残るために、また殺された者たちの復讐( ふくしゅう )( )たすために、あるいは少なくとも戦って死ぬために、戦いの( じゅん )( )をした。

アッパー・コフナー(後列中央)とパルチザン部隊
出典:ヤド・ヴァシェム

抵抗(ていこう)(ふく)(しゅう) ワルシャワ・ゲットー(ほう)()

ゲットーの蜂起で、( えん )( ぺい )( ごう )や下水溝に( かく )れるユダヤ人( てい )( こう )( しゃ )
出典:NARA

1943年5月蜂起後、ワルシャワ・ゲットーの通りをパトロールするドイツ軍兵士とSS(親衛隊)
出典:BPK

「ワルシャワにはもはやユダヤ人居住区は存在しない」というのが、SS(親衛隊)シュトループ将軍のワルシャワ・ゲットー( ほう )( )鎮圧( ちんあつ )に関する報告書の題名だった。

「ドイツ軍はゲットーから2度( はい )( そう )した……私の( しょう )( がい )の夢がよみがえり、( げん )( じつ )になった……ユダヤ人の( )( そう )( てい )( こう )( ふく )( しゅう )( )( じつ )だ。私は、ユダヤ兵士の堂々( どうどう )たる( えい )( ゆう )( てき )戦いを目撃( もくげき )していた」

モルデカイ・アニェレヴィチ(ユダヤ人( せん )( とう )組織指揮官)
ワルシャワ・ゲットー 1943年4月23日

ワルシャワ・ゲットーの( はい )( きょ )
出典:ジョー・ハイデッカー、ウィーンおよびブラジル、サンパウロ

ワルシャワ・ゲットーの中で生き残ったユダヤ人は、( )( もの )( ぐる )いで、ほとんど武器もないままに、1943 年4 月19日の「( すぎ )( )しの( いわ )い」の前夜に( はん )( らん )に立ち上がった。ゲットーの戦士たちは3週間持ちこたえたが、SS(親衛隊)司令官のシュトループ将軍はゲットーを火攻( ひぜ )めにし、( てい )( こう )する者と生き残った者すべてを追い出した。

戦後、シュトループは裁判で、ワルシャワ・ゲットー壊滅( かいめつ )の際に( おか )した「人道に対する( つみ )」を問われ、判決を受けて絞首刑( こうしゅけい )になった。

( かれ )ら(ユダヤ人戦闘組織)は、ゲットーに( )( )められた人々の一部でも( だっ )( しゅつ )できれば、それを勝利と考えた。( てき )( せい )( りょく )が少しでも弱まれば、( かれ )らの目には、それは勝利と( うつ )った。そして最後に……武器を( にぎ )りながら死ぬことは、彼らにとって勝利だった」

Biuletyn Informacyjny No.17(地下情報新聞) 1943年4月29日

1943年4-5月にワルシャワ・ゲットーでドイツ軍を指揮したSS(親衛隊)司令官 ユルゲン・シュトループ将軍
出典:NARA

「熱と焼け死ぬ( きょう )( )から、( )えさかる家にとどまることはまれだった。彼らは上階から( )( )りた。
……( あし )( )り、はいずって道を( わた )り、まだ火があまり回っていない建物に( )げ込もうとした……
我々は合計56,065 人のユダヤ人を( )( かく )し、( ぜつ )( めつ )することに成功した。さらに、爆発( ばくはつ )、火災、その他で命を落としたユダヤ人を、この数字に( くわ )えなければならない」

SS(親衛隊)司令官 ユルゲン・シュトループ将軍
ワルシャワ報告 1943年5月16日

ワルシャワ・ゲットーの( はい )( きょ )
出典:ジョー・ハイデッカー、ウィーンおよびブラジル、サンパウロ

1943年4-5月にワルシャワ・ゲットーでドイツ軍を指揮したSS(親衛隊)司令官 ユルゲン・シュトループ将軍 出典:NARA

1943年5月にワルシャワ・ゲットーの( ほう )( )( ちん )( あつ )されたのち、( こう )( ふく )する女性と子ども
出典:NARA

大量殺戮(さつりく) 1942-1945年

「病人、老人、乳飲( ちの )み子はかんぬきの付いた( )( ちく )( うん )( ぱん )( しゃ )( )( )まれた……( かれ )らはその列車に2日間乗せられていたが、食事は1 度しか( )( きゅう )されなかった」

オランダ人証人 「アイヒマン 人物とその犯罪」

強制収容所へのユダヤ人の移送
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

1942年から1945年までの間に、ナチスは冷徹( れいてつ )な産業的効率でユダヤ人、ロマ(ジプシー)、スラブ人、( せん )( そう )( )( りょ )の大量殺戮を実行した。

さらに400万のユダヤ人が家畜運搬用の列車に押し込められ、強制収容所に送られた。多くが( )( ちゅう )で死んだ。
そのほかの者たちも、ガス、( じゅう )( だん )棍棒( こんぼう )飢餓( きが )、労働により殺され、生き残った者はほとんどいなかった。

強制収容所へのユダヤ人の移送
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

アウシュヴィッツ=ビルケナウにユダヤ人を運ぶフランスの鉄道貨車 1944年晩夏
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

アウシュヴィッツ=ビルケナウにユダヤ人を運ぶフランスの鉄道貨車 1944年晩夏
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

列車

ユダヤ人の「物理的絶滅( ぜつめつ )」を完遂( かんすい )するというナチスの( せん )( りゃく )は、大量移送および輸送を必要とした。
ユダヤ人はゲットー、強制収容所、殺害センターへと送られた。列車はひどいすし( )めで、食料が( とぼ )しかったため、多くの人が、とくに子どもと老人が、( ちっ )( そく )( )( )( さむ )さで死んだ。ドイツの鉄道職員は( こう )( りつ )( てき )( にん )( )( すい )( こう )した。

ダッハウ強制収容所の( )( そう )( )
出典:SWC

収容所

1939 年以降、( )( れい )労働、中継( ちゅうけい )キャンプ、そして殺害センターを( ふく )む強制収容所システムは拡大し、( せん )( りょう )( )( おう )( しゅう )隅々( すみずみ )まで行き( わた )った。収容所は、( かん )( )( とう )と電気の流れる( ゆう )( )( てっ )( せん )( かこ )まれており、( しゅう )( ごう )エリアと宿( しゅく )( しゃ )があった。

ダッハウ強制収容所の( )( そう )( )
出典:SWC

「この( )し合いの中で赤ん( ぼう )が何人か( ちっ )( そく )( )した。
それなのにSS(親衛隊)はさらに多くの人を詰め込み、ドアにかんぬきをかけたと彼女(ユダヤ人乗客)は語った」

オランダ人証人 「アイヒマン 人物とその犯罪」

テレジエンシュタット ()(はん)(てき)」ゲットー

フランクフルトからテレジエンシュタットへのユダヤ老人移送 1942年秋 名札には氏名、誕生日、住所、輸送番号が( しる )されている
出典:LBI/NY

プラハ近郊( きんこう )の18世紀の要塞( ようさい )都市テレジンシュタットは、欧州( おうしゅう )ユダヤ人の大量殺戮( さつりく )隠蔽( いんぺい )するという邪悪( じゃあく )な計画の用地として( えら )ばれた。
ナチスはここに、いわゆる「模範的」ゲットーを作った。( きょう )( )( )っただ( なか )で、( かれ )らは、( えん )( げき )、音楽、講演、( げい )( じゅつ )など、見せ( )けの文化生活を( ゆる )した。外国政府、国際( きゅう )( えん )部隊、そしてユダヤ人たちでさえもナチスの( いん )ぺいに( だま )されていた。

「老人の輸送。1万人の病人、不具者、( ひん )( )者、全員65 ( さい )以上……子どもたちは( とし )( )いた親たちを行かせるほかなく、助けることはできない。( かれ )らはなぜ、この( )( ぼう )( )の人々を送り出したがるのだろう? 彼らが、私たち若者を排除( はいじょ )したがるのであれば、それは理解できる……でもこの老人たちが危険とは到底( とうてい )思えない」

ヘルガ・ヴァイソヴァ=ホスコヴァ14歳 『テレジエンシュタット日記』

「仕事が自由を生み出す」 テレジンエンシュタットにもこの( )( にく )看板( かんばん )
1943年 出典:BPK

テレジンエンシュタットは、( ぜん )( )の場所とはほど遠く、アウシュヴィッツへと向かう( )( ちゅう )の一時( てい )( りゅう )( じょ )にすぎなかった。15 万人のユダヤ人がテレジンエンシュタットを( とお )( )ぎていった。3万3,000 人がゲットーにいるうちに( )えと病気で死に、9万人がアウシュヴィッツへ輸送された。

1944 年夏、SS(親衛隊)はテレジンエンシュタットについての宣伝映画を作成し、ユダヤ人都市の幸福( こうふく )なユダヤ人の様子を見せつけたが、完成後には、役者の大部分がアウシュヴィッツに送られた。

フランクフルトからテレジエンシュタットへのユダヤ老人移送 1942年秋 名札には氏名、誕生日、住所、輸送番号が( しる )されている 出典:LBI/NY

「仕事が自由を生み出す」 テレジンエンシュタットにもこの( )( にく )看板( かんばん )
1943年 出典:BPK

「ここでは人々は2つのグループに分けられた。
東に送られるグループとテレジエンシュタットに送られるグループだ。
『T』(テレジエンシュタット)の( しるし )を受け取った者は( ふたた )び思い切り( いき )( )った。
『O』(東)の印を受け取った者は青くなった。
テレジエンシュタットについて( こま )かいことはあまり分かっていなかったが、一つだけ( たし )かなことがあったからだ。
東よりはるかにましだということだ」

ヤコブ・ヤコブソン(歴史家) 『テレジン日常生活 1943-1945』

男性用宿( しゅく )( しゃ )の内部
出典:ヤド・ヴァシェム

燃えつきるロウソク 強制収容所の日課

「我々は( ふる )え、わななき、( かみ )( )られ、
ぼろを着てそこに立っていた。
そしてその時( はじ )めて、我々は( たが )いを見た。
近親者( きんしんしゃ )でさえ見分けがつかなかった……
( さいわ )いにも、我々は自分自身を見ることはできなかったが、中には、仲間を見てヒステリックに( わら )いだしたり、こらえきれずに( )きだす者もいた」

レスカ・ヴァイス 『生存者 地獄( じごく )への旅』

ビルケナウのプラットフォームでの選別
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

「男、女、少女、子ども、赤ん( ぼう )( しん )( しょう )( しゃ )など、全員が( ぜん )( )で整列させられた。角には頑健( がんけん )なSS(親衛隊)隊員が立っていた。( かれ )( )( さい )のような大声で、『何も( こわ )いことは起こらない』と( あわ )れな人々に( )げた。『深く( いき )( )うだけでいい』」

クルト・ゲアシュタイン ナチス将校(ベウジェツの証人)

( ざん )( ぎゃく )で非人間的な強制収容所システムの( しゅ )( よう )な産物は死である。
労働ができる程度に健康な者には、( )( れい )労働を通してもっともらしい時間をかけた殺害が( おこな )われた。( つね )看守( かんしゅ )のサディスティックな暴力とわずかな( )( はん )を理由とする( そく )( )( しょ )( けい )( かげ )がつきまとっていた。

( さい )( せき )( じょう )( はたら )( )( しゅう )( よう )( しゃ ) フロッセンビュルク強制収容所
1942/1943年 出典:BPK

「午前3 時( )( しょう )……ベッドメイクにわずかでも( )( そく )( )( はん )があると、その( ばつ )( むち )( )ち25 回だった。それを( )らうと丸1 ヵ月は横になることも、( すわ )ることもできなかった」

「昼の12時には、食事のための休みがあった……半リットルのスープか、何か水っぽい液体、栄養( えいよう )も味もない……スプーンは( ゆる )されなかった……スープを( うつわ )から直接飲み、犬のように( )めなければならなかった……運が良ければ昼の食事にありつけたということを、( きょう )調( ちょう )しておかなければならない。
( ちょう )( ばつ )の日』というのがあった……この日は我々の( )は1日中( から )っぽだった。
午後の仕事も同じで、ひたすら( なぐ )られ続けた。
6 時になると( てん )( )があった……我々はいつも気をつけの姿( )( せい )で1-2時間立たされ、その間に何人かの( しゅう )( じん )が『( ちょう )( ばつ )( こう )( しん )』に( )び出された……( かれ )らは人前で( はだか )にされ、特別( とくべつ )なベンチに( )かされ、25-50回の鞭打ちを受けた。だが、彼らはマイダネク強制収容所の中でも父祖( ふそ )伝統( でんとう )を守っていた。
私は、オランダからやってきた( きん )( ぱつ )の男を忘れることができない。彼は、( )( ぼう )になる命令を受け入れることができなかった。そして小さなスカルキャップ(頭部の保護帽)を入手し、それをかぶっていた……細い糸でその帽子を耳に固定していたものだ。監督( かんとく )者がこれを見て、彼をひどく( なぐ )りつけたこともあった」

Y.プフェッファー(マイダネク収容所の生存者)

奴隷労働に( せん )( ばつ )されたハンガリー系ユダヤ人の女性
1944年夏 出典:オシフィエンチム

()える精神 ホロコーストの(げい)(じゅつ)

「もし私が死んでも、私の作品は死なせないでいてくれ。これを公開してくれ」

フェリックス・ヌスバウム(画家) 1943年

フェリックス・ヌスバウム ユダヤの星と身分証明書を身に付けた自画像 1943年に( かく )れて製作された 出典:文化歴史博物館、オスナブリュック

( あく )( )」 ノルベルト・トローラーの( すい )( さい )( ) 1942年にテレジエンシュタットで描かれた 収容所の日常生活の多くの側面を( しょう )( ちょう )している 出典:LBI/NY

収容所の非人道的な( じょう )( けん )にもかかわらず、人間の( そう )( ぞう )( りょく )( ひょう )( げん )の場を( げい )( じゅつ )( )に見いだした。ホロコースト芸術の多くは( おそ )ろしい現実の記録であった。芸術家は、( )( せい )( しゃ )であると同時に( かい )( せつ )( しゃ )であり、紙やインクを( ぬす )み、( しょく )( よう )( しき )( )( )びから絵の具を作らなければならなかった。

「6人……パン1切れ」 コンラート・レーヴのインク画ギュールの飢餓を描いたもの
1940年 出典:DOW

オッド・ナンセン移送されたザクセンハウゼンで、( じゅう )( ろう )( どう )をする( しゅう )( じん )( )いた
1944年 出典:ザクセンハウゼン国立警告記念館、オラニエンブルク

「ユダヤ人の最後の道」ヴァルデマル・ノヴァコフスキの水彩画 アウシュヴィッツで描かれた
1943年 出典:ヤニナ・ヤヴォルスカ、ワルシャワ

アウシュヴィッツ=ビルケナウ 死の工場

アウシュヴィッツ=ビルケナウの門と鉄道線路 1945年1月 出典:BPK

「アウシュヴィッツで、私はツィクロンBを使った。これは( けっ )( しょう )( )した( せい )( さん )で、我々はこれを小さな( かい )( こう )( )から処刑室( しょけいしつ )( てき )( )した。処刑室の人々を殺すには、( )( しょう )( じょう )( けん )によって5-15分かかった。( かれ )らが死んだことは、( さけ )び声が( )むことでわかった」

ルドルフ・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所司令官)ニュルンベルク裁判での証言
1946年

( けっ )( しょう )( )( せい )( さん )の一種であるツィクロンBの容器 アウシュヴィッツで被収容者の殺害に使われた
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

帝国( ていこく )( そう )( とう )が、すべてのユダヤ人を( れい )( がい )なく絶滅( ぜつめつ )すべしという当初( とうしょ )の1941年( ぜつ )( めつ )( めい )( れい )( しゅう )( せい )し、その( )わりに、( はたら )ける者を残りの者と( ぶん )( )し、軍事産業で使うように命令した時から、アウシュヴィッツはユダヤ人収容所になった。
それは、これまでに見たこともない( )( )のユダヤ人集合場所になった……( かれ )らは、死刑を( せん )( こく )されていること、そして働ける( かぎ )りしか生きていられないことを、例外なく知っていた」

ルドルフ・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所司令官) 自伝

( せん )( りょう )( )のポーランドに位置するアウシュヴィッツ=ビルケナウは最大のナチス収容所で、強制収容所と殺害センターの両方の機能を( )( そな )えていた。
1941年の「( さい )( しゅう )( てき )( かい )( けつ )( じっ )( )とともに、数百万の欧州( おうしゅう )系ユダヤ人を殺害する最大のセンターとなった。アウシュヴィッツ=ビルケナウとマイダネクでツィクロンBが( さい )( よう )されるに( ともな )い、死は悪魔的( あくまてき )な産業になった。

( とう )( ちゃく )時に労働力用に( せん )( ばつ )されるスロヴァキア系ユダヤ人男性 1944年6月 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

到着時に数えられ、写真を( )られたポーランド人の子どもたち 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

( かい )( ほう )された10歳の女性被収容者 1945年
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

アウシュヴィッツ=ビルケナウで、1942 年4 月から1944 年11 月にかけて、100 万人以上のユダヤ人がガスで殺された。さらに、ポーランド人、ソ連の( )( りょ )、ロマ(ジプシー)を( ふく )め何十万人もの非ユダヤ人が殺された。( おそ )るべき( こう )( )痕跡( こんせき )( )( )るために、ナチスは( しょう )( きゃく )( )で死体を( はい )にした。

「女性たちは( )( )ない( きょう )( )と不安の( じょう )( たい )の中で生きていた。
彼女たちは、SS(親衛隊)の医者たちが考え出した実験を受けなければならず、役割、つまりモルモットの役目が終わればビルケナウに送られ、そこにはガス室が待っていることを知っていた
……私は自分が( なか )( )( ごく )、半ば精神病院のような場所にいると感じた」

ドーラ・クライン博士(被収容者/看護婦)アウシュヴィッツ

アウシュヴィッツ=ビルケナウの5つのガス室は昼も夜も( )( どう )し、1日9,000人も殺害し、( しょう )( きゃく )した。
ここでは、ヨーゼフ・メンゲレをはじめとする「医者」たち、たとえば、ヨハン・パウル・クレマー、ホルスト・シューマン、フリッツ・クライン、カール・クラウベルクなどが、残酷( ざんこく )な医学実験を( おこな )った。( そう )( せい )( )、小人、( にん )( )やそのほかの( しゅう )( じん )が選び出され、( おそ )るべき「( )( でん )( がく )」の研究に利用された。

( )( ぶつ )のなかで( )らし、( )えと戦いつつも、まだ働ける人々にはわずかながら生き残るチャンスがあった。多くの場合、看守の( )( まぐ )れな( ぼう )( りょく )によるケガは、死刑執行( しっこう )( れい )( じょう )( どう )( )( )だった。

ガス室への道
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

女性の宿( しゅく )( しゃ )
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

殺害された被収容者の死体の焼却 1944年 ( かく )( )り写真
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ビルケナウ( しょう )( きゃく )( ) SS(親衛隊)将校が1943年に撮影
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ビルケナウでの選別( せんべつ )
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

(だん)(まつ)()のアウシュヴィッツ 解放

「自由……我々は何度も( )り返したが、理解することができなかった。
長い年月それを夢見て、この言葉をたびたび口にしたが、それは意味を( うしな )っていた……
我々は、自由が我々のものだという事実を理解できなかった」

ヴィクトル・フランク(生存者) 「意味についての人間の( つい )( きゅう )

アウシュヴィッツに入るソ連軍 1945年1月27日
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ソ連軍の侵攻( しんこう )( ともな )って、1944年11月、アウシュヴィッツのガス室は撤去( てっきょ )された。大量殺戮( さつりく )( )( みつ )にしておかなければならなかった。
1945年1月18日、歩ける( )収容者は「死の行軍」に連れ出された。ソ連軍が到着( とうちゃく )したとき、アウシュヴィッツに残っていたのはわずか数千の( しゅう )( じん )だった。

「数日後、収容所は引き( はら )われた……そしてあと我々は行進を開始した……1-2キロしか進まないうちに、( さい )( しょ )の数名が( たお )れた。立ち上がれない者は( ただ )ちに射殺( しゃさつ )された。( あき )らかに時間切れが( せま )っている今でさえも、SS(親衛隊)は自らの犯罪( はんざい )痕跡( こんせき )を一つ残らず取り( のぞ )こうとした」

フィリップ・ミューラー(生存者)「アウシュヴィッツの証人」

「3年間にわたり、私の思考や( ひそ )かな願望( がんぼう )のすべてが( そそ )がれていたこの( しゅん )( かん )は、実際( じっさい )のところ( よろこ )びも、いかなる( かん )( じょう )も私の内部に( )( )こさなかった。
私はうずくまり……四つんばいになってドアのほうに( )っていった」

フィリップ・ミューラー(生存者)「アウシュヴィッツの証人」

( うで )( きざ )まれた( )( ずみ )をみせる生き残った子どもたち
1945年1月 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

生き残った女性と子ども
出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ソ連軍によって解放( かいほう )されたアウシュヴィッツでの( しゅう )( だん )( まい )( そう )
1945年1月 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

勇気の手を差しのべた人々 (かく)れ、(きゅう)(しゅつ)され、()()びた

「私たちを心配( しんぱい )してくれる人もいた。
私たちを( すく )うに( あたい )する人間と考えてくれる人もいた」

スザン・タボール(生存者)

ユーゴスラヴィアのカトリック教徒のマチルダ・ニッツは地下居住区を運営して、100家族を救った
出典:レニ・ゾンネンフェルト

( せん )( りょう )された( おう )( しゅう )のあらゆる国で、勇気ある多くの男女が、ナチスの( )( せい )( しゃ )であるユダヤ人に( どう )( じょう )( しめ )し、救いの手を( )( )べた。その( きゅう )( えん )( しゃ )の名前は、ほとんど記録されていない。( かれ )らはその( りょう )( しき )( ゆえ )に、たびたび死の危険にさらされた。その( こう )( )( れい )( がい )( てき )であり、他の( どう )( ほう )の大半は( )( かん )( しん )であったか、あるいは( りん )( じん )であるユダヤ人の迫害( はくがい )( さつ )( がい )( きょう )( りょく )をしていた。

まったく( のぞ )みにない条件のもとでも、ベルリンでは4,000 人以上、オランダでは数千人、数百万人が殺された占領下のポーランドでは数万人のユダヤ人が、( かく )れて( )( )びた。助けた者の数と助けられた者の数に関する統計は不完全だが、占領下の欧州で、こうした勇気ある人々が10 万人を( )えるユダヤ人を( えん )( じょ )し、助けた。世界の指導者は大量殺戮( さつりく )沈黙( ちんもく )したままだったが、勇気ある人々は( みずか )らの( いのち )( )として、( )( じつ )の者たちをかくまった。

ポルトガルのデ・ソウザ・メンデス、日本の( すぎ )( はら )( )( うね )、スウェーデンのラウル・ワレンベルクは、ユダヤ人を救おうとした数少( かずすく )ない外交官たちであった。
アメリカの強い要請( ようせい )によりブタペストにてラウル・ワレンベルクが、「セーフハウス」といわれる( )( せつ )を設置して、そこをスウェーデンの( がい )( こう )( かん )( とっ )( けん )( )( )し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、「シュッツパス(Schutz-Pass)」といわれるスウェーデン名義の( )( )( しょう )( しょ )( はっ )( こう )し、10万人ものハンガリー系ユダヤ人の命を救った。

強制移送列車で保護旅券を( くば )るラウル・ワレンベルク(×印)
出典:ワレンベルク家

「10 月( )( じゅん )……( )( じゅう )( )( とう )の集団によって14〜65 ( さい )のユダヤ人たちが家々から( )り出された。母と私は、この最初( さいしょ )襲撃( しゅうげき )( つか )かまった……( )( そう )した( )( そう )( へい )が早く行進するように( きょう )( せい )し、ついていけない者は( しゃ )( さつ )された……私たちは( れん )( )工場に( あつ )められた……武装したナチス隊員が歩き回り、人々を( )ふみつけ、( ぼう )( こう )( くわ )え、ののしり、発砲( はっぽう )していた……その時突然( とつぜん )、建物の一方の( はし )に拡声器と( かい )( ちゅう )( でん )( とう )を持った平服( へいふく )の人々が見えた……ラウル・ワレンベルクだった。( かれ )がそこにいることが私たちにとって何を意味するか、そのインパクトは( だれ )( )( はか )れないだろう」

スザン・タボール(生存者)

安全なスウェーデンへの( )( じょう )のデンマーク系ユダヤ人。1943 年10月( しょ )( じゅん )、何千人もの同国人の助けでデンマークのユダヤ人の90%以上が( きゅう )( しゅつ )された
出典:デンマーク自由の戦い博物館 1940-45年 コペンハーゲン

(かい)(ほう) (あば)かれた(さん)(じょう)

( たな )( つう )( )する前でさえ、死の( にお )いに我々は圧倒( あっとう )された……( はだか )でやせ( ほそ )った3, 200人以上の死体が( あさ )( )( けつ )( )( )まれていた。
その他の死体は、( )( じょう )( たお )れた場所にそのまま横たわっていた。やせて( ほね )ばった胴体( どうたい )の黄色い皮膚( ひふ )の上には、シラミが( )い回っていた」

オマー・ブラッドレー(米国陸軍将軍)
1945年4月12日にオルドルフで見たものを想起して

エーヘンゼーの解放された( しゅう )( じん )たち
1945年5月7日 出典:米国陸軍通信隊

ベルゲン=ベルゼンで( つか )まえられた強制収容所職員(兵士、SS(親衛隊)隊員、監督囚人(カポ)
1945年4月 出典:帝国戦争博物館 ロンドン

1945 年5月までに、( おう )( しゅう )での戦争は終わっていた。強制収容所は解放され、ナチスの( ざん )( ぎゃく )( はん )( ざい )( あか )るみとなった。「まるで( あん )( こく )( )( だい )( )み入ったようであった」と米軍のある軍曹( ぐんそう )呆然( ぼうぜん )として語った。
強制収容所から解放された囚人( しゅうじん )はわずか25 万人だった。( かな )しいことに、その2倍の人々が解放前の数カ月の間に死んだ。SS(親衛隊)は、進軍する連合軍の手が( とど )かんばかりになってから強制収容所を引き( はら )った。可能な( かぎ )り多くのユダヤ人を殺害( さつがい )する目的で、崩壊( ほうかい )しかかった帝国( ていこく )内側( うちがわ )へと、囚人たちは( なさ )容赦( ようしゃ )なく行進させられた。( おく )れた者や( たお )れた者は( しゃ )( さつ )された。( )( )びた者は、食べ物も水も便所( べんじょ )もない、ぎゅうぎゅう( )めの収容所に( とう )( ちゃく )した。こうした最後の日々に、40万人以上が( いのち )を落とした。

英国兵士が運転するブルドーザーが、ベルゲン=ベルゼンの共同墓地に死体を押し込んでいる
出典:帝国戦争博物館 ロンドン