第1章 ホロコーストの歴史

05

特別展示絵画が語るホロコーストの真実

  1. ホーム
  2. 展示物の紹介
  3. 特別展示 絵画が語る―ホロコーストの真実

1930年代後半から約10年の間に600万人ものユダヤ人の( いのち )( うば )った、人類史上( )( )( )の“( たい )( りょう )( ぎゃく )( さつ )”といわれるホロコースト――今日その歴史を伝える写真や映像の多くはナチスドイツが記録や宣伝のために( )ったものか、強制収容所の解放後に連合軍が( さつ )( えい )したもので、その時そこで生活を( )いられていた人々の目に( うつ )っていたであろう光景( こうけい )( とど )めたものは、ほとんど存在( そんざい )しない。

しかし、何人かの収容者は、自分たちをとりまく収容所の真実の姿( すがた )を残そうと、( ひろ )った( えん )( ぴつ )で、( )てられていた紙に絵を( )き、さらに( )( せき )( てき )に生き抜いた人々は、解放後に自身の体験・( )( おく )を紙に、キャンバスに描いた。

ここで紹介する2人の画家は、( しょう )( がい )( みずか )らの体験の記憶をもとに絵を描き続けた。これらは、体験した者だからこそ描くことが( )( )た、ホロコーストの真実である。

協力:〈テレジンを語りつぐ会〉 野村路子氏

ヤン・コムスキー

(1915〜2002)

ポーランド生まれ。芸術大学美術史学部で学んだが、1939年、第二次世界大戦が始まると、反ナチスの抵抗( ていこう )運動に身を( とう )じた。活動中にゲシュタポに( たい )( )され、刑務所生活を( )て、開設されたばかりのアウシュヴィッツ収容所に送られた。( あた )えられた番号は564番。はじめは重労働を( )せられていたが、画家であることが分かると、収容所の設計図を描く( えき )( )を与えられた。

1945年、アウシュヴィッツから、ドイツ国内のダッハウまで、長い道のりを歩いて移送され、そこで解放された。( )( こく )に帰らず、アメリカに移住。ワシントン・ポスト紙に( きん )( )しながら、アウシュヴィッツの絵を描き続けた。写真よりも( せい )( かく )に事実を伝える同氏の絵は、アメリカでも( )( だい )になり、各地で展覧会が開かれ大きな( はん )( きょう )( )んだ。

「日本の多くの若者に、アウシュヴィッツで( おこな )われていた殺戮( さつりく )と、人間が人間の尊厳( そんげん )( きず )つけるという最悪( さいあく )( こう )( )の事実を知ってほしい」というコムスキー氏の強い( ねが )いで、野村路子氏に( おく )られたペン画は、彼自身が体験したアウシュヴィッツの24時間、365日の( じっ )( たい )を描いたものである。

コシチェルニャックが( )いたコルベ神父

マキシミリアノ・コルベ神父(1894年1月8日―1941年8月14日)はポーランドのカトリック司祭だが、1930年から数年間、長崎に住んで( )( きょう )活動をおこなっていた。教団の仕事で故国ポーランド滞在中の1939年、第二次世界大戦が( ぼっ )( ぱつ )。ポーランドは、ナチス・ドイツに( せん )( りょう )され、多くの知識人階級、政治指導者、( せい )( しょく )( しゃ )たちが( とら )えられ、あるいは殺された。神父も、郊外( こうがい )( しゅう )( どう )( いん )( たい )( )され、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた。41年夏、( だっ )( そう )( しゃ )が出て、同じ建物に住む収容者10人が( しょ )( けい )されることになった時、( いのち )( )いをする男性の身代( みが )わりを( みずか )( もう )し出て、46歳で( しょう )( がい )( )じた。収容所の中で強い( きずな )( むす )ばれていた画家・コシチェルニャックが描いたコルベ神父の姿は、( ぎゃく )( たい )にも暴力にも( そこ )なわれない人間の( そん )( げん )を伝えており、見る者に感動を( )び起こす。

ミェチスワフ・
コシチェルニャック

(1912-1993)

ポーランド生まれ。クラクフの美術アカデミー卒業。1939年、ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻( しんこう )すると、ワルシャワ防衛軍に参加。その後、レジスタンス運動に身を投じたが、ゲシュタポに( たい )( )され、1942年、アウシュヴィッツへ送られた。

( ぐう )( ぜん )ドイツ軍のSS幹部に絵の才能を( みと )められて美術工房にまわされ、軍の命令による宣伝ポスターを描く仕事に( じゅう )( )した。工房では、幹部たちの( しょう )( ぞう )( )や、( かれ )らの部屋に( かざ )る風景画などを描かされることも多かったが、( いつわ )りを描くことに( )え切れず、ひそかに収容所の( ぼう )( ぎゃく )( じっ )( たい )を描いた。それらの絵は、レジスタンスの仲間たちの命がけの協力で、収容所の外の地下組織にも流された。

アウシュヴィッツから、いわゆる「死の行進」で送られたエーベンゼー収容所で解放の日を( むか )えた。その直後から、アウシュヴィッツで同室だったコルベ神父の、「あなたは、生き残って、ここの真実( しんじつ )姿( すがた )を伝え続けるように」という、遺言( ゆいごん )ともいえる言葉を( むね )に、その後の人生を通じてホロコーストの真実の絵を描き続けた。