第1章 ホロコーストの歴史

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Moving Toward the "Final Solution" 1939-1941

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必要(ひつよう)なあらゆる(じゅん)() 1939-1941年

ナチスによって( かく )( )されたユダヤ人は、黄色いダビデの星のワッペンを付けることを( きょう )( せい )された。

「その生まれと人種とにより、すべてのユダヤ人は国家社会主義ドイツに向けられた国際的陰謀( いんぼう )の一部である……我々の( かれ )らに対する( あつか )いは決して( )( とう )なものではない。彼らはそうされる以上のことをしているのだ」

ヨーゼフ・ゲッベルス(政治家、国民啓蒙( けいもう )・宣伝相)
1941年11月16日

1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発( ぼっぱつ )するやいなや、ユダヤ人に対するヒトラーの( さつ )( じん )( てき )( )( )( かく )たるものになった。ドイツによる軍事的征服( せいふく )( )え、1939-41年は、「( さい )( しゅう )( てき )( かい )( けつ )」のための準備における計画と実験の時期だった。
1940 年6 月までに、ドイツはオランダ、ベルギー、フランスを( せん )( りょう )した。
1941年夏には、ドイツは欧州の大部分を( )( はい )し、数百万のユダヤ人がナチスの( あっ )( せい )( )に置かれた。
1941年7月31日、国家元帥( げんすい )ヘルマン・ゲーリングは( )( みつ )( けい )( さつ )( ちょう )( かん )ラインハルト・ハイドリヒに対し、「ドイツ占領下欧州におけるユダヤ人問題の完全な( かい )( けつ )のために、組織的、実体的、財政的観点に関する必要なあらゆる準備」を命じた。

ユダヤ人の結婚式 出典:SWC

東欧(とうおう) 大量殺戮(さつりく)()(たい)

処刑部隊が、殺害前に撮影したユダヤ人家族の女性たち(祖母、母、子ども) ラトビアのリエパヤ 1941年12月15日 出典:ルードヴィヒスブルク中央機関

1939年9月27日、ポーランドの首都ワルシャワが陥落( かんらく )し、4週間以内にポーランドの( せん )( りょう )( かん )( りょう )した。
いまや、200万人近くのポーランド系ユダヤ人がナチスの支配下に置かれた。ナチスは、( おう )( しゅう )ユダヤ人大量殺戮の理想的な( )( たい )として東欧を選んでいた。
( もっと )も多数のユダヤ人がこれらの地域に住んでいること、中立的な観察者が近くにおらず伝統的に地元住民がユダヤ人に対して( てき )( )を持っていること、戦争およびソ連共産主義に対する闘争( とうそう )の一部として( さつ )( りく )をカモフラージュしやすいこと、が理由だった。

占領下のポーランドでは、最初( さいしょ )に、1万人以上のポーランドの( せい )( しょく )( しゃ )、教師、政治的指導者を( ふく )む知識人エリートを殺害した。同時期に、12 万人以上のユダヤ人が、ユダヤ人地区への( しゅう )( ちゅう )爆撃( ばくげき )( )( せい )となり、また殺戮部隊によって、あるいはポーランド軍の兵士として死んだ。
1941 年までに、ポーランドでは300 万人のユダヤ人がポーランドに( )( )められることになる。

「そのユダヤ人たちは不意( ふい )に泣き出し、( なげ )き、( さけ )んだ。そこに向かう( )( ちゅう )( )げ出そうとした者もいたが、そうした者は( しゃ )( さつ )された……
( )( けい )を宣告された者たちは( )( ふく )( )ぎ取られ、300人ずつに分けられて( みぞ )の中に追い( )まれた。最初に子どもたちが投げ込まれた。
女たちは溝の( ふち )で射殺され、次は男たちだった。多くはまだ( いき )のあるうちに( )められた」

ヘレン・クトルゲネ博士(生存者・ユダヤ人を守ったリトアニア人)
1941年10月28日

生存者の第2回目選抜 オルクシュ
1942年 出典:ルートヴィヒスブルク中央機関

「我々の( )( のう )( もく )( ろく )に残す際には、1つの小さな( さい )( )さえもなおざりにすることはできない。今、我々は( おそ )ろしい( )( なん )( )えている。我々にとって太陽は昼でも( くら )くなってしまったが、光の時代がやって来るという希望は( うしな )っていない。我々の民族としての存在が壊滅( かいめつ )することはない。個人は( ころ )されるだろうが、ユダヤ人社会は、生き続けるだろう。それゆえ、一つ一つの記録が( おう )( ごん )より( )( ちょう )である。それが起こった通りに、( )( ちょう )( わい )( きょく )なしに書きとどめられるかぎりは」

ハイム・A・カプラン 『ワルシャワ・ゲットー日記 ユダヤ人教師の記録』
1939年10月26日

(かく)()し、(まっ)(さつ)せよ 占領(せんりょう)地域におけるユダヤ人問題

祖母( そぼ )のアパートメントは大きな部屋一つと( だい )( どころ )からなっていた。そこに16人が住むのは( よう )( )ではなかった……( )( ふゆ )だったが、( だん )を取るための( ねん )( りょう )はまったくなかった。私たちは部屋のなかで( こご )えていた」

ザーラ・ゼルヴァー=ウアバッハ(生存者)

1939年9月21日、秘密警察長官ラインハルト・ハイドリヒは、ドイツ占領地域におけるユダヤ人の( )( もと )を確認し、( かれ )らの財産を( ぼっ )( しゅう )する命令を( はっ )( )した。
地方のユダヤ人は強制的に都市のゲットーに入れられ、( かれ )らはそこですし( )めになって、飢餓( きが )( )( れい )労働と( でん )( せん )( びょう )の危険にさらされた。( ねん )( )りに計画された東欧( とうおう )ユダヤ人の( )( もと )( かく )( にん )、隔離、そしてゲットーへの( ふう )( )めは、数百万人の最終絶滅( ぜつめつ )( じょ )( きょく )だった。ゲットーは、( かべ )有刺鉄線( ゆうしてっせん )で周囲の町から切り( はな )されていた。非人道的な( かん )( きょう )のため、ゲットー内の( )( ぼう )( りつ )は高かった。

ナチスのゲットー:死の意図

( おう )( しゅう )のユダヤ人ゲットー(強制居住区域)は、ユダヤ人をキリスト教徒から( かく )( )するべく、中世に( どう )( にゅう )されたものだった。ナチスのゲットーはこの( でん )( とう )につながるものだが、それは( おそ )ろしい( )( )を持つものだった。その唯一( ゆいいつ )の目的は、( きゅう )( きょく )( てき )( まっ )( さつ )のために住人を閉じ込めることだった。

武器を( かく )していないか調べるSS(親衛隊)とSD(秘密情報機関)
ワルシャワ 1939年9月 出典:BPK

ウッチ・ゲットーからのユダヤ人の移送 1940年3月 出典:連邦公文書館

ポーランドのウッチに、ナチスは( さい )( しょ )( しゅ )( よう )ゲットーを設置した。1940 年4 月に有刺鉄線の( へい )( ふう )( )されたとき、このゲットーには16万5,000人のユダヤ人住民がいた。ポーランドの周辺の町からの強制移住により、1941年末には、5,000人のロマ(ジプシー)を( ふく )め、その人口は20万人に( ふく )れ上がった。

ウッチ・ゲットーでは、( えい )( よう )( )( りょう )と病気で5万人以上のユダヤ人が死んだ。欧州のすべてのユダヤ人を殺害することが決定された後、ナチスは、ゲットーの老人、子ども、弱者を殺害センターに( )( そう )し始めた。1942 年末までに、8 万人以上がヘウムノ( ぜつ )( めつ )( しゅう )( よう )( じょ )に移送された。生き残った者は( )( れい )( ろう )( どう )に使われた。

「この朝、ゲットーは( おそ )るべき( しょう )( げき )を受けた……10( さい )までの子どもたちが親、( きょう )( だい )( )( まい )から( )( はな )され、移送された。65歳以上の老人は、最後の( たの )みの( つな )( うば )われた。( かれ )らは、( )( よう )になった( じゃ )( )のように( )( )てられた」

ヨーゼフ・ジェルコビチ(ウッチ・ゲットー記録者)1942年9月4日

重労働をする子どもたち
出典:Kibbutz Lohamei Hagetaot

武器を( かく )していないか調べるSS(親衛隊)とSD(秘密情報機関)
ワルシャワ 1939年9月 出典:BPK

ウッチ・ゲットーからのユダヤ人の移送 1940年3月 出典:連邦公文書館

重労働をする子どもたち
出典:Kibbutz Lohamei Hagetaot

引き離され、移送される子どもに分かれを告げる家族
出典:Kibbutz Lohamei Hagetaot

ひっくり返された世界 ワルシャワ・ゲットー

「我々の( たましい )のローソクはまだ明滅( めいめつ )しているが、我々はそれが今にも消えそうだと感じている」

ハイム・A・カプラン 『ワルシャワ・ゲットー日記 ユダヤ人教師の記録』
1942年6月27日

食べる物も、住む家もなく、通りにうずくまる子ども
出典:連邦公文書館

ハイドリヒは、ナチスの指示を実行し、ゲットーを管理するためのユダヤ人( ひょう )( )( かい )( そう )( せつ )を命じた。
これらの評議会は、すべてのユダヤ人の登録に関する責任を( にな )い、ユダヤ人の財産や所有物に関する( せい )( かく )な調査を( てい )( きょう )し、ゲットー内の( じゅう )( きょ )( えい )( せい )・健康・( けい )( )を管理し、( しゅ )であるナチスに対し奴隷( どれい )労働を提供した。

ゲットーの壁の建設、スヴィエトクジスカ街
出典:連邦公文書館

ワルシャワ・ゲットーは、1942年10月2日に設立( せつりつ )された。
てっぺんにガラス片と( ゆう )( )( てっ )( せん )が付いた高さ10 フィートの( かべ )に囲まれたこのゲットーには、およそ50万人が( かく )( )されていた。1941年だけでも、4万人近くが病気と飢餓( きが )で死んだ。

ラインハルト絶滅( ぜつめつ )作戦が( じっ )( )された1942 年7月から9月までの間に、30万人近くのユダヤ人がワルシャワから移送され、トレブリンカ収容所のガス室で殺された。ゲットーには5万人の「作業用」ユダヤ人だけが残った。さらにユダヤ人を移送する試みに対して抵抗( ていこう )運動が起こり、これが1943年4-5月のワルシャワ・ゲットー( ほう )( )につながり、最終的にその( )( かい )へとつながった。

「ユダヤ人地区は約1,016 エーカーである……そのため、占拠率( せんきょりつ )はアパートメント当たり15.1人、1部屋当たり6−7人になる」

ヴァルデマ・シェーン(ワルシャワのドイツ人( かん )( )) 1941年1月

( おそ )るべき( )( みつ )( )( ぶつ )( )( えい )( せい )の結果、またパン半切れのために最後のシャツを売らねばらない状態によりゲットーに蔓延( まんえん )する病気を、いったい( だれ )( )( )くのだろうか、いったい誰が( )( )びるのだろうか。いったい誰が、人命が廃墟( はいきょ )の町の( )て犬の存在にまで落としめられた世代と時代の( おそ )ろしい物語を語るヒーローになるのだろうか」

ペレツ・オポチンスキー(ユダヤ人作家)ワルシャワ 1941年

ゲットーの外の強制労働所への輸送
出典:連邦公文書館

食べる物も、住む家もなく、通りにうずくまる子ども
出典:連邦公文書館

ゲットーの壁の建設、スヴィエトクジスカ街
出典:連邦公文書館

ゲットーの外の強制労働所への輸送
出典:連邦公文書館

ワルシャワ・ゲットーでの死 1940年 出典:連邦公文書館

電撃戦(でんげきせん) (しん)(りゃく)(せん)(りょう)される西欧(せいおう)

ドイツの( でん )( げき )( せん )では、( きゅう )( こう )( )( ばく )( げき )( )(シュトゥーガ)が、民間人を( )( かく )した
出典:大英帝国戦争博物館 ロンドン

( おう )( しゅう )の広い地域が、そして多くの古く( )( だか )い国家が、ゲシュタポやナチス( )( はい )のあらゆるおぞましい組織の手に落ちたとしても、あるいは落ちるようなことがあっても、我々は決して気力を( うしな )わない。最後まで戦い続ける」

ウィンストン・チャーチル(英国首相)1940年6月4日

1940年5月10日、ドイツ軍は西に向かって侵攻( しんこう )した。5月にはオランダとベルギーが降伏( こうふく )し、6月にはフランスが崩壊( ほうかい )した。こうして、さらに数百万人のユダヤ人が( きゅう )( そく )にナチス( せい )( りょく )圏内( けんない )( とら )えられてしまった。

ナチスは西欧をユダヤ人( たい )( りょう )殺戮( さつりく )( じっ )( こう )( )( のう )な地域とは見ていなかった。西欧ユダヤ人社会の性格と地元住民の( たい )( )( こと )なっていたため、東欧で( もち )いられたのとは異なる迫害( はくがい )( よう )( しき )が必要だった。

1941年5月、西欧ユダヤ人の東方への強制移送では、フランス、ベルギー、オランダなどさまざまな( ちゅう )( けい )キャンプが用いられた。フランスの非占領地区では、ナチスに協力的なヴィシー政権がユダヤ人問題委員会を設置した。フランス、ベルギー、オランダでは、1942年( しょ )( とう )までに内外ユダヤ人の( かく )( )( かん )( りょう )した。これらは、その後の強制移送と( さつ )( りく )( ぜん )( ちょう )だった。

「オランダからの情報は、毎週4,000 人のオランダ人がポーランドに送られていることを( りっ )( しょう )しており、しかもこれは( すい )( そく )ではない。これは欧州きっての( ちょう )( ほう )機関の情報に( もと )づいたものである」

エドワード・R・マロー(アメリカ合衆国ジャーナリスト) 1942年12月13日

やがて40万人以上の西欧ユダヤ人が列車に積み( )まれ、東のアウシュヴィッツ、ベウジェツ、ヘウムノ、マイダネク、ソビボル、トレブリンカの収容所へ移送され、そこで殺害された。

アムステルダムのユダヤ人街
出典:ヤド・ヴァシェム

エッフェル塔を訪れるアドルフ・ヒトラーとその閣僚たち、1940 年6 月23日(左から右へ:ヴォルフ、ギースラー、ブリュックナー、シュベーア、ブラント、ヒトラー、ボルマン、プレカー、ディートリヒ)
出典:BPK

いったい何を(すく)うことができるのか ゲットーの日常生活

ワルシャワ・ゲットーでの演劇上演
1941年 出典:連邦公文書

宗教的礼拝(ワルシャワ・ゲットー)
出典:連邦公文書館

ナチスの( もく )( ひょう )は、ゲットーにとらわれたユダヤ人の精神を打ち( くだ )くことだった。ナチスによる人間性の( そう )( しつ )対抗( たいこう )するために、死の( きょう )( はく )にも( かか )わらず、宗教的、教育的、政治的な地下組織が生み出された。

「ゲットーでは活発( かっぱつ )な文化生活が( いとな )まれていた。昨夜は、合唱団の初演( しょえん )があったし、文学クラブでは『シャイロックとナタン』をテーマとした講演があった。今日は、イェシーバ(タルムード学院)のラビ、ハイム・オジェールの論文 Kidushinの完成を( いわ )うシュム(式)がある」

ゼリグ・カルマノヴィチ(リトアニアのユダヤ人学者) 日記 1943年1月24日

ドイツによって「ユダヤ人の( ちょう )( ろう )」に任命されたハイム・ルムコフスキが結婚式を( )( おこな )っている
出典:Kibbutz Lohamei Hagetaot

ゲットーでの生活史を保存し、ナチスの( ざん )( ぎゃく )( こう )( )を記録するために、( )( みつ )のゲットー記録保管所が設立された。
( もっと )も有名なワルシャワのオネグ・シャバット(( あん )( そく )( )( つど )い)では、日記、( )( しょく )された報告書、文書が保存され、それらは3つのミルク( かん )に入れられ、ワルシャワの非ユダヤ人地区に( )められた。( おどろ )くべきことに、戦後2つの缶が発見された。

「我々は( はだか )で放り出されたが、この秘密の( ちから )がまだ我々の内にある( かぎ )り、我々は希望を( )てない。そして、この( ちから )の強さはポーランド系ユダヤ人の生来( せいらい )の性質に( そん )しており、我々に生きよと命じる我々の永遠( えいえん )伝統( でんとう )( )ざしている」

ハイム・A・カプラン 『ワルシャワ・ゲットー日記:ユダヤ人教師の記録』 1940年3月10日

ワルシャワでの埋葬( まいそう )
1941年 出典:連邦公文書館

ドイツによって「ユダヤ人の( ちょう )( ろう )」に任命されたハイム・ルムコフスキが結婚式を( )( おこな )っている
出典:Kibbutz Lohamei Hagetaot

ワルシャワでの埋葬( まいそう )
1941年 出典:連邦公文書館

ヤヌシュ・コルチャックと彼の孤児院の子どもたち
1940年 出典:BPK

ワルシャワの裕福( ゆうふく )な家の息子として生まれたヤヌシュ・コルチャック(1879-1942年)は、( )( ろう )( )( きゅう )( じょう )に関する書籍( しょせき )( あらわ )した医師であった。1911年、( かれ )はワルシャワの( )( )( いん )の院長となった。自由ポーランド大学で講義し、子どもに関するテーマをラジオで放送し、子ども向けの本を書いた。コルチャックは、トレブリンカ絶滅( ぜつめつ )収容所への移送を一時的に免除( めんじょ )されたにもかかわらず、子どもたちが移送されたとき、彼は自発的に子どもたちに連れ( )い、死を( )げた。

ワルシャワ・ゲットー内の孤児院
出典:SWC