第1章 ホロコーストの歴史

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Liberation Building New Lives

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苦しみと希望 ホロコーストが残したもの

ニューヨークへ向かうヘンリー・キビンズ号の甲板( かんぱん )でまだ( しゅう )( じん )( ふく )を着ている難民 1944年 出典:ルース・グル―バー

戦争が終わり、オランダの生存者2名が「黄色の星」を外している
出典:NARA

第二次世界大戦で5,500 万人以上が( )くなり、その半数以上が一般( いっぱん )市民だった。( おう )( しゅう )では、ロシア人は22 人に1 人、ドイツ人は25 人に1 人、イタリア人は150人に1人、フランス人は200人に1人が亡くなった。だが、ユダヤ人に対するナチスの戦争では、欧州系ユダヤ人の3人に2人が殺害( さつがい )された。強制収容所からの解放( かいほう )は、迫害( はくがい )、反ユダヤ主義、( )( どく )やどうしようもない( ぜつ )( ぼう )からの解放を( )( しょう )するものではなかった。多くのユダヤ人にとって、( もど )るべきところはなく、家族も家も友人も地域社会も残されていなかった。戦前の家に( もど )った者たちも、多くの場合、( はげ )しいユダヤ人排斥( はいせき )( ぼう )( りょく )さえも経験した。

戦後、キエルツェ( ぎゃく )( さつ )( )( せい )( しゃ )( きょう )( どう )( まい )( そう )(ポーランド)1946年
出典:イスラエルのキエルツェ生存者組織

人道に対する(つみ) (さば)かれるナチス

「この審問( しんもん )( じゅう )( よう )な意味をもつのは、( )( こく )( にん )たちが、その肉体が( ちり )に帰したあとも長く世に( ひそ )むであろう邪悪( じゃあく )( せい )( りょく )( たい )( げん )しているからだ。
( かれ )らは、人種的( ぞう )( )、テロと暴力、そして権力のおごりと( れい )( こく )さの生きた( しょう )( ちょう )だ」

米国最高裁判事ロバート・H・ジャクソン(ニュルンベルク裁判首席検事)
1945年

1943 年11月1日、チャーチル、ルーズベルト、スターリンは、「ヒトラーの兵士」に対して、「その犯罪( はんざい )説明( せつめい )する責任( せきにん )があるとみなされ、地の( )てまで追跡( ついせき )されるであろう」と警告( けいこく )するモスクワ宣言( せんげん )( しょ )( めい )した。
ナチス・ドイツの無条件降伏( こうふく )後の1945年8月8日、連合4カ国は、( しゅ )( よう )なナチス( せん )( ぱん )( しゅ )( どう )( てき )なナチス組織を( さば )く国際軍事法廷( ほうてい )( せっ )( )するロンドン( きょう )( てい )締結( ていけつ )した。
ニュルンベルク裁判は、その後の裁判手続のモデルとなる( やく )( わり )( )たしたが、すべてのナチス戦犯を長期間にわたって告発( こくはつ )する( ちから )にはならなかった。冷戦という( あら )たな紛争( ふんそう )は、かつての同盟国であったソ連と、アメリカ、イギリスを( )( じょう )にも( てき )( どう )( )にしてしまった。

ニュルンベルクで審問( しんもん )を受けるウィルヘルム・カイテル(元ドイツ国防軍最高司令部長官)1946年 出典:SWC

ニュルンベルクの被告たち
1946年 出典:NARA

1,100 人のナチス戦犯を裁判にかけることに( じん )( りょく )したサイモン・ウィーゼンタールや、戦後ドイツの多くのナチス・ハンターの努力にもかかわらず、ナチス戦犯の( つい )( せき )に世界の( ちゅう )( もく )( ふたた )び向けるには、何十年もかかることになった。
何万人ものナチス戦犯があらゆる形の処罰( しょばつ )( のが )れた。多くの戦犯が西側へ逃亡( とうぼう )した。西側の連合国は3 ヵ国合わせて、5,000人以上のナチス戦犯に( ゆう )( ざい )を宣告、800人以上に( )( けい )を宣告し、約500人を( しょ )( けい )した。ソ連は、はるかに多くのナチス犯罪者に( ゆう )( ざい )を宣告した。

いまどこに、これからどこへ 住むところを(うしな)って

欧州( おうしゅう )では、戦争( しゅう )( けつ )までに1,000万人の( )( なん )( みん )がいた。( かれ )らは( )( かい )された生活を立て直そうと( ひっ )( )だった。国連と連合軍はこうした避難民のためにキャンプを設置し、20万人以上のユダヤ人( せい )( ぞん )( しゃ )が収容された。多くのユダヤ人は身寄( みよ )りもなく、( もど )る場所もなかった。

戦後、避難民キャンプでは( しょく )( りょう )( )( るい )( )( りょう )( ひん )( はい )( きゅう )が不足した。ナチスの( せん )( せい )から解放されたとはいえ、( かれ )らにとって苦しみが続いていた。
しかし、ユダヤ人の軍関係者、とくに( じゅう )( ぐん )( せい )( しょく )( しゃ )が、食糧輸送、病院( )( りょう )を組織的に( おこな )い、国際社会の関心を高めた。

スープを運ぶ生存者 ベルゲン=ベルゼン避難民キャンプ
1946年 出典:ベルゲン=ベルゼン生存世界連盟

ザルツブルクのハライン避難民キャンプの正統派ユダヤ教徒
1953年 出典:ザルツブルク・イスラエル民族共同体

「ユダヤ人たちは、突然( とつぜん )( みずか )らに向き合った……
自分たちがキャンプの他のすべての( )( しゅう )( よう )( しゃ )とは( こと )なることに気づいた。
( かれ )らにとって、( )( たい )はそう( たん )( じゅん )ではなかった。
ポーランドやハンガリーへ( もど )るべきか。
ユダヤ人のいない通り、ユダヤ人のいない町、ユダヤ人のいない世界へか。
一人ぼっちで家もなく、( つね )( )( げき )を目の前にして、これらの土地をさまよい……目を見開いて、ほほえみ、二重の意味をもって
『おや、ヤンケル。まだ生きているんだね』という、キリスト教徒の( りん )( じん )( ふたた )び会うべきなのか」

マイヤー・レヴィン(作家) 1946年6月

「解放されたが自由ではない……これがユダヤ人の( ぎゃく )( せつ )だ。強制収容所では、( きゅう )( さい )されることに( すべ )ての希望を( )けていた。その希望が生命であり、そのためには苦しみもいとわなかった。( すく )い出されて、希望は( )( だい )に消えていく。( あら )たな希望の( みなもと )( あた )えられていないからだ。苦しみがユダヤ人というその( しゅつ )( )にあることは変わらない」

エイブラハム・クラウスナー師 (米国陸軍従軍ラビ)1946年6月

何年来はじめての焼きたてのパン ベルゲン=ベルゼン避難民キャンプ
1945年 出典:ベルゲン=ベルゼン生存者世界連盟

復活(ふっかつ) 新生活の建設

オーストリアからイスラエルへのユダヤ人( )( なん )( みん )( さい )( しょ )( くう )( )
出典:オーストリア国立図書館写真資料室

「エクソダス号」でイスラエルの地に向かう不法移民
1947年 出典:BPK

生き残った者たちには、未来を( きず )くという( )( ほう )もない作業があっただけでなく、生きる理由を( あらた )めて( )( いだ )( ひつ )( よう )( せい )があった。
多くのものがナチスによって打ち( くだ )かれた。ユダヤ人にとって大切な( )( さん )( うしな )われた。多くの年長者やラビ、何千年にも( わた )( でん )( とう )蓄積( ちくせき )がすべて( しょう )( めつ )した。そして、( じっ )( しつ )( てき )後継者( こうけいしゃ )となる青年世代そのもの(150万人の子どもたち)が殺戮( さつりく )されてしまった。

「私のような人間には家はいらない。我々は家以上のものを( うしな )った。我々は家族以上のものを失った──我々は人類、友情、正義に対する信念( しんねん )を失った。これらなくして、新たに始めることはできないだろう」

サイモン・ウィーゼンタール 1945年

ニューヨークのHIASシェルター入口に( とう )( ちゃく )した避難民
1949年 出典:HIAS

「何十年もの間、私の父母──安からんことを( いの )る──がその中に立っていた、私が堅信( けんしん )( )( せき )を受けた、( きょう )( だい )( )( まい )( れい )( はい )した、その家を( さい )( けん )すること、しかも元通( もとどお )りに再建することが、私の( しょう )( がい )の仕事だと考える。死者のために、もはや( もど )ることのない人のために、神の言葉を世界中に広めるべく時期を失さずにこの国を( )ることができた人々のために、この家を再建することが、私のライフワークだと考える」

ジャック・マッツナー(生存者)
「私は死者にインタビューしなかった」 1949年

1947 年11 月29日、国連総会はパレスチナ( ぶん )( かつ )( あっ )( とう )( てき )多数で勧告( かんこく )した。そして1948年5月14日、イスラエル国家が( たん )( じょう )した。アラブ人による反対は、イスラエル( どく )( りつ )( せん )( そう )につながった。1949年( はじ )めの( きゅう )( せん )によって戦争が( しゅう )( けつ )するまでに、6,500人のイスラエル系ユダヤ人が死んだ。1951年までに、ユダヤ人避難民の半数以上が、( あたら )しいイスラエル国家に( )( じゅう )した。

ニューヨークのHIASシェルター入口に( とう )( ちゃく )した避難民
1949年 出典:HIAS

英国によってイスラエルの地への入国を( きょ )( )され、キプロスの強制収容所に送られる生存者
出典:マサダ出版社 イスラエル

()(おく)警戒(けいかい)

「このような( つら )い記憶を( )わらせる簡単( かんたん )な方法があるとは考えてはならない……
人間の心の中の( ぞう )( )( ゆる )す簡単な方法……
あるいは( さい )( あく )なことはすでに起こり、( )( )ったと信じる簡単な方法があると考えてはならない。
人々が忘れなければ、希望は続くということだけは知っていなければならない」

サイモン・ウィーゼンタール

あのように冷酷( れいこく )( あく )( ぎょう )姿( すがた )をまっすぐに( )( )え、子どもや親たちのいやされぬ( かな )しみを感じ、むなしさと( そう )( しつ )( かん )を体験するには、ホロコーストを忘れない勇気が必要である。

しかし、何百万もの( うしな )われた生命に( えい )( ぞく )( てき )な意味があるとすれば、我々は忘れてはならず、警戒を( おこた )ってはならない。
そうすれば、( )( せい )( しゃ )たちの亡骸( なきがら )( )( ひょう )( はか )は聖地となり、そこから人類の希望、寛容( かんよう )、道徳的勇気が( しょう )じるであろう。