第1章 ホロコーストの歴史

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Nazi Germany 1933-1938

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忘れない勇気 ホロコースト 1933-1945年

本展は、1933年にヒトラーが権力の座に( )いてから始まった、ナチス・ドイツによる反ユダヤ⼈政策の歴史をたどるものである。1945年に第二次世界大戦が終結するまでに約600万人のユダヤ人が殺害( さつがい )され、史上最悪の大虐殺( ぎゃくさつ )となった。

ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党の略語がNazis)の人種( ぞう )( )政策は、( にく )しみを( あお )る宣伝から大量虐殺へと容赦( ようしゃ )なく移行した。ホロコーストという、( )( ほう )もないほど無慈悲( むじひ )残忍( ざんにん )な、そして冷酷( れいこく )かつ組織的で機械的な大量虐殺は、( るい )をみない。

だが、ホロコーストの( こん )( ぽん )( てき )( げん )( いん )( とく )( べつ )なものではない。⼈種憎悪、⼈間の⼼理的、精神的な( じゃく )( てん )( )( じつ )の者への迫害( はくがい )に対する( )( つう )の人間の( かん )( せつ )( てき )( かん )( )は、おぞましくはあるが、( )( ぢか )なことでもある。

したがって我々は、それがどんなに心を( みだ )すとしても、ホロコーストのことを忘れない勇気を持ち、学び続けていかなければならない。( しょう )( らい )、このような憎悪を⼆度と起こさないために⼤切なのは、⼀人⼀人が知識と道徳⼼( どうとくしん )を⾝につけることである。

ヨーロッパでの迫害(はくがい)のパターン

「さらに、どんな( あく )( )がユダヤ⼈をここに連れてきたのか、我々は今日に( いた )るまで知らない……( えき )( びょう )、伝染病のように、わが国においてまったくの( さい )( なん )だ」

マルティン・ルター(プロテスタント教会の( そう )( )( しゃ )
『ユダヤ⼈とその( うそ )について』 1543年

3500年を( )える長い歴史を持つユダヤ人。そのルーツは、アブラハムを( )( )とするヘブライ人まで( さかのぼ )る。( かれ )らの( たい )( ざい )地はその後、イスラエルとして知られることになる。
ユダヤ人の伝統的な( )( しき )( しゅう )( かん )は、トーラー(モーセ五書)に( しめ )されており、( )( だい )から世代へと伝えられてきた。トーラーの( りっ )( ぽう )613には、すべての人の( そん )( げん )( )べられている。このほか、ユダヤ人に( とっ )( )した律法もある。ユダヤ教は公正かつ( )( )深い神を宿( やど )し、その神は、神の下に生きるものを( かん )( )し、( まず )しく( しいた )げられた人々の( たい )( )( よう )( )する。神は、一人ひとりに( )( ゆう )( )( )( あた )え、それぞれに行動の責任を( )わせる。約1900年前、ユダヤ人がローマに( やぶ )れたことによりイスラエルから( つい )( ほう )されたときにも、ユダヤの人々は「神が我らを( )( こく )へ帰すのだ」との( かっ )( )たる( しん )( ねん )を持ち、( いの )りを( ささ )げた。

2000 年以上にわたり( おう )( しゅう )( )らしてきたにもかかわらず、( びょう )( どう )な身分を( あた )えられたユダヤ人はほとんどいなかった。ユダヤ人は社会的・宗教的な( とく )( )( せい )のために( )えず( はく )( がい )( たい )( しょう )になった。

欧州の生活( かん )( きょう )がキリスト教( しん )( こう )を中心に組織化されるようになって( )( らい )、ユダヤ人は( つい )( ほう )された( もの )、イエスの( )( てい )( しゃ )、イエスの「( さつ )( がい )( しゃ )」とみなされるようになった。欧州の何百万ものキリスト教徒は、ユダヤ人に対する憎悪と迫害を宗教的に( )( にん )してきた。19世紀から20世紀にかけて欧州の産業化が進んだ時代、ユダヤ人もまた、欧州の経済的、政治的、文化的生活に、より直接的に参加するようになった。しかし、こうした変化に( )( おう )するかのように、反ユダヤ主義は、国家主義と人種に( もと )づいた( あたら )しい( けい )( たい )をとるようになった。

ナチス・ドイツでは、すべてのユダヤ人のパスポートにJude(ユダヤ人)を表す( かしら )文字( もじ )のJのスタンプが( )された。ドイツ系ユダヤ人は新しいミドルネームを使用するよう( きょう )( せい )された。男性の場合はイスラエル、女性の場合はサラである
出典:サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)

ヒトラーが首相になった1933年までに、欧州系ユダヤ人に対する経済的、社会的、個人的な迫害が( てい )( ちゃく )した。ナチスの人種的( へん )( けん )( )ちたユダヤ人( はい )( せき )運動と宣伝活動は、その迫害の度合( どあ )いを( ぞう )( ふく )させたり、( そう )( )したりしながら、ついには一つの( )( めい )( てき )( しん )( じょう )をつけ( くわ )えてしまった。すなわち、「すべてのユダヤ人を( まっ )( さつ )しなければならない」という信条である。

ナチスの宣伝活動に出てくるユダヤ人は、一部、反ユダヤ人の長い( でん )( とう )に基づいて( えが )かれている。

「はりつけ」:「ユダヤ人」によってはりつけにされる近代ドイツ人
出典:前衛(反ユダヤ主義のドイツの新聞)1939年 第4号

ナチス・ドイツでは、すべてのユダヤ人のパスポートにJude(ユダヤ人)を表す( かしら )文字( もじ )のJのスタンプが( )された。ドイツ系ユダヤ人は新しいミドルネームを使用するよう( きょう )( せい )された。男性の場合はイスラエル、女性の場合はサラである
出典:サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)

「はりつけ」:「ユダヤ人」によってはりつけにされる近代ドイツ人
出典:前衛(反ユダヤ主義のドイツの新聞)1939年 第4号

ベルリンでのユダヤ人社会のスポーツ大会でのトラック競技 1930年代半ば
出典:LBI/NY

パレスチナに向かう( )( じょう )のマルセイユ港の「青少年アーリヤー」
1934年出典:レニ・ゾンネンフェルト

「キリスト教の( せん )( きょう )( )たちはユダヤ人に対し、『お前たちは我々の間でユダヤ人として生きてはならない』という( しゅ )( )のことを言った。そのあとに続いた中世後期の( )( ぞく )( )( はい )( しゃ )は『お前たちは我々の間で生きてはならない』と決め、そして最後にナチスが『お前たちは生きてはならない』と( めい )じた」

ラウル・ヒルベルク(歴史家)
『ショーアー』(ヘブライ語でホロコーストの意)

アルベルト・アインシュタインとハーバート・サミュエル英国パレスチナ高等弁務官 エルサレム 1923年 出典:LBI/NY

57万5,000人のドイツ系ユダヤ人のほとんどは都会に住む中産階級で、その多くは( ゆた )かで、知的にも、文化的にも、経済的にも、政治的にも十分な地位を( )ていた。( かれ )らの大半は約2000 年前から住み続けていたユダヤ人の( )( そん )であったが、彼らによる社会( こう )( けん )は、アドルフ・ヒトラーを( いら )( )たせた。ヒトラーは、ユダヤ人に対し、「ドイツ社会における第一次世界大戦後に( しょう )じた( やまい )だ」「ドイツ人を( はい )( )から( )( )し、経済( )( )と戦後の社会的( )( つう )をあおっている」「( こと )なる人種間の結婚( けっこん )で、ドイツ人を( ざっ )( しゅ )化しようとしている」などと、徹底( てってい )して( )( なん )攻撃( こうげき )( つよ )めていった。( はじ )めは多くの人から“( たん )なる田舎( いなか )( もの )”とみなされていたヒトラーではあるが、国家の病と( こん )( らん )交錯( こうさく )する時代( じょう )( きょう )が彼を権力へと( )り立てた。やがて、多くの国民が「ドイツの問題の( こん )( げん )はユダヤ人にある」とするヒトラーの運動に( くわ )わっていったのである。

「ドイツのユダヤ人社会には大きな( )( のう )がある。( あら )たな苦悩が我々を( とつ )( ぜん )( おそ )った。ユダヤ人は仕事から引き( はな )され、生活の意味と基礎( きそ )( )( かい )された」

(ユダヤ系) 中央組合新聞 1933年4月21日

パレスチナに向かう( )( じょう )のマルセイユ港の「青少年アーリヤー」
1934年出典:レニ・ゾンネンフェルト

アルベルト・アインシュタインとハーバート・サミュエル英国パレスチナ高等弁務官 エルサレム 1923年 出典:LBI/NY

「ユダヤ人はドイツ人ではない。
ユダヤ人もドイツで生まれ、ドイツの法律に( したが )い、兵士にならなければならず、( )( )をすべて( )たし、税金を( )( はら )っていると言うが、そうしたことはすべて国籍( こくせき )にとって( だい )( )なことではない。
大事なのは、どの民族から生まれたかだけだ」

ヘルマン・アールヴァルト(反ユダヤ主義のジャーナリスト)
ドイツ帝国( ていこく )議会での( えん )( ぜつ ) 1895年

ブリュッセルのシナゴーグで( しょく )( ざい )の日を( いわ )う、第一次世界大戦中のドイツ軍のユダヤ人兵士。1915年10月7日 出典:LBI/NY

「ユダヤ人問題」 ナチスの政策 1933-1939年

「したがって、私は( ぜん )( のう )の神の精神で行動していると信じる。
ユダヤ人から( みずか )らを守ることによって、私は( しゅ )( )( わざ )のために戦っているのだ」

アドルフ・ヒトラー 『我が闘争( とうそう )』1924年

アドルフ・ヒトラーの世界観は、( かれ )のユダヤ人に対する( きょう )( )じみた( ぞう )( )( もと )づくものであった。ヒトラーは、ユダヤ人はその出生によって人類以下の人種( じんしゅ )であるとし、その存在自体が人類に対する( はん )( ざい )であると信じていた。ヒトラーは、「すべてのユダヤ人は一掃( いっそう )されなければならない。ドイツ人はほかのいかなる人種よりも( すぐ )れており、人類を( とう )( )することは( ひつ )( ぜん )である」と( しゅ )( ちょう )した。

第一次世界大戦後、ドイツは、かつてない社会的、経済的、政治的( こん )( らん )( おちい )った。右派、左派の両陣営( じんえい )の活動家が、革命を( くわだ )てた。およそ35%の労働者が( しつ )( ぎょう )し、過度のインフレが( )( へい )( ぼう )( らく )させ、( )( じょう )での( ぼう )( どう )( にち )( じょう )( )( はん )( )であった。

1929年の世界恐慌( きょうこう )によって、( ぜつ )( ぼう )はさらに深まった。このような状況( じょうきょう )が、「ドイツをこのどん( ぞこ )から( すく )う強い( )( どう )( りょく )( はっ )( )できるのはヒトラーだけである」と国民に信じこませることにつながった。脆弱( ぜいじゃく )な選挙制と多くの( こと )なる政党が存在した結果、1933年1月、ヒトラーはドイツ首相に任命され、権力の( )( )いた。

1933―39年の間に、ナチスはユダヤ人をドイツの生活から組織的に排除( はいじょ )した。ユダヤ人は仕事、市民権を( うしな )った。世界はドイツ系ユダヤ人の窮状( きゅうじょう )を知りながら、ナチス・ドイツによる( )( そく )( )( てき )なユダヤ人迫害( はくがい )傍観( ぼうかん )していた。

ドイツが製作した反ユダヤ映画「( えい )( えん )のユダヤ人」のポスター
出典:連邦公文書館、コブレンツ

(あく)()の始まり ヒトラーとナチス

「私の( )( さく )はいかなる法的考慮( こうりょ )やお役所仕事によっても( さまた )げられることはない。
私が( じっ )( こう )しなければならないのは、正義ではなく、( ぜつ )( めつ )( こん )( ぜつ )だ」

ヘルマン・ゲーリング(政治家、空軍総司令官、国家元帥( げんすい )) 1933年3月3日

1933年4月1日、ヒトラー政権によるドイツ政府の( さい )( しょ )の反ユダヤ政策は、ユダヤ人が( しょ )( ゆう )するすべての商店や( )( ぎょう )に対するボイコットであった。ナチス党員はドアの前に( はい )( )され、ユダヤ系企業をひいきにする( )( きゃく )( とお )ざけた。それ以外にも、ユダヤ人をドイツ社会から( )( りつ )させ、( こん )( きゅう )させ、排除( はいじょ )するための( かぞ )えきれないほどの措置( そち )が取られた。

「ユダヤ人の商店はすべて( へい )( )されている。SA(突撃隊( とつげきたい ))がその入口の( そと )( がわ )に配置されている。( こう )( しゅう )( いた )るところで連帯( れんたい )宣言( せんげん )している。その( )( りつ )( しょう )( さん )( あたい )する。ボイコットはドイツにとって大きな道徳的( どうとくてき )( しょう )( )だ」

ヨーゼフ・ゲッベルス(政治家、国民啓蒙( けいもう )・宣伝相) 日記 1933年4月1日

焚書( ふんしょ )のために書物を( ぼっ )( しゅう )するSA(突撃隊( とつげきたい )) ハンブルク 1933年5月15日
出典:プロイセン文化財写真資料館(BPK) ベルリン

1933年3月と4月、ベルリンのユダヤ人商店には「Jude!」(ドイツ語の「ユダヤ人!」)の文字が書きなぐられた
出典:ケルプス・コレクション、ベルリン

「私が権力を目指して戦っていた間ずっとユダヤ人たちは、私がいずれ国家の指導権を引き( )ぎ、そのときには何よりもまずユダヤ人問題を解決( かいけつ )するという( )( げん )を、( わら )って受けとめていた」

アドルフ・ヒトラー 1939年1月30日

ユダヤ人による著作や( )( かい )( てき )イデオロギーとみなされた書物は国立図書館から取り( のぞ )かれた。1933年5月10日、ナチスは「禁止された」書物の( こう )( ぜん )たる( ふん )( しょ )に乗り出した。

焚書( ふんしょ )のために書物を( ぼっ )( しゅう )するSA(突撃隊( とつげきたい )) ハンブルク 1933年5月15日
出典:プロイセン文化財写真資料館(BPK) ベルリン

1933年3月と4月、ベルリンのユダヤ人商店には「Jude!」(ドイツ語の「ユダヤ人!」)の文字が書きなぐられた
出典:ケルプス・コレクション、ベルリン

ナチス党大会でのヒトラー ビュッケブルク 1934年 出典:写真集『アドルフ・ヒトラー 総統の( しょう )( がい )』 1936年

ナチスの宣伝活動 スローガン、作り話、イメ―ジ

「今夜もまた大集会だ。2万の党員がツェッペリン草地にひしめきあい、サーチライトの中で2 万1千の( はた )不気味( ぶきみ )な木々の森のように広がる……( しん )( )( てき )な光のもとで」

ウィリアム・シャイアー(米国ジャーナリスト)
『ベルリン日記』 1934年9月7日

ベルリン・オリンピック開会を( )げる( せい )( )のスタジアム入り 1936年8月
出典:連邦公文書館

50万のナチス( )( )( しゃ )に向かって( えん )( ぜつ )するアドルフ・ヒトラー(閲兵台上) ニュルンベルク 1933年
出典:目覚めるドイツ:NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)の成長、闘争、そして勝利(アルトナ=バーレンフェルト 1933年)

宣伝活動(プロパガンダ)は国家社会主義の( ほん )( しつ )であり、神髄( しんずい )だった。ドイツ全体をナチスの政策に( もう )( じゅう )させ、組織的な迫害( はくがい )( さつ )( がい )( じゅん )( のう )させるために、( はた )、制服、ジーク・ハイル(( しょう )( )万歳( ばんざい ))、整列行進、( ぐん )( )、サーチライトが使われた。

「ドイツ人」と「ユダヤ人」を比較する反ユダヤ主義の児童書
ニュルンベルク 1936年 出典:大人と子どものための絵本

( ぜん )( えい )(反ユダヤ主義のドイツの新聞)
1934年1月 出典:SWC

「ユダヤ人は我々の災難( さいなん )だ」のモットーを( かか )げた前衛(反ユダヤ主義のドイツの新聞)の( こう )( こく )( とう )がナチス( )( はい )( )のドイツの( いた )るところに( あらわ )れた
出典:連邦公文書館 コブレンツ

ナチスの政策 人種差別と(きょう)()政治

「まったく想像( そうぞう )もできないほど残忍( ざんにん )な時代が近づいている」

ヨーゼフ・ゲッベルス(政治家、国民啓蒙( けいもう )・宣伝相)
第二革命 1926年

ナチスは宣伝( せんでん )活動( かつどう )によって( )( ろん )( そう )( )し、反対者を( )( りょく )にした。( ぼう )( りょく )と恐怖政治によって( ちから )( しゅう )( けつ )し、人種差別的な政策の迅速( じんそく )実施( じっし )( )( のう )にした。権力を奪取( だっしゅ )した1933年1月から1ヵ月以内に、ヒトラーは国民に対し、すべての憲法上の権利を停止した。SS(( しん )( えい )( たい ))とSA(突撃隊( とつげきたい ))が政治的( たい )( )を開始し、ユダヤ人、共産主義者、その他第三帝国( ていこく )( はん )( ぎゃく )( しゃ )( せん )( こく )された者たちに対して( ざん )( ぎゃく )( こう )( )( おこな )った。

1938年、ナチスが運営する学校で( )( じょく )を受けるユダヤ人学生。黒板には、「ユダヤ人は我々の最大の( てき )だ。ユダヤ人から自分自身を守れ」と書かれている 出典:オーストリア・レジスタンス資料館(DOW) ウィーン

「ドイツのどこにでもある何百万の他の家と同じような家。
この家に住む、あなたや私と同じような( たん )( じゅん )人々( ひとびと )
その人々が( きょう )( )( おび )えて( )らしている。何を( おそ )れているかは聞くまでもない。
もちろん、ゲシュタポを恐れているのだ。蔓延( まんえん )する( みっ )( こく )を恐れているのだ。
( だれ )かがおかしな時間にドアベルを( )さないか、友達が見張( みは )っている。
恐怖はすぐそこにある。
こっそりとドアが開き、怯えた住民が外を( のぞ )いて、誰がやられたかを( たし )かめる」

レア・グルンディヒ(生存者) ドレスデン 1936年

1938年、ナチスが運営する学校で( )( じょく )を受けるユダヤ人学生。黒板には、「ユダヤ人は我々の最大の( てき )だ。ユダヤ人から自分自身を守れ」と書かれている 出典:オーストリア・レジスタンス資料館(DOW) ウィーン

ベルリンの( )( じょう )( たい )( ) 1933年3月3日
出典:Stichting Nederlands Foto & Grafisch Centrum

(きょう)(せい)(しゅう)(よう)(じょ) 1933-1938年

ハインリヒ・ヒムラー(SS〈親衛隊〉隊長・ゲシュタポ長官)のダッハウ収容所( )( さつ ) 1936年5月8日 出典:ダッハウ強制収容所記念館

強制収容( じょ )はナチスによる( )( はい )( )( )( けつ )だった。1933年3月、最初( さいしょ )の強制収容所がダッハウに( かい )( せつ )され、共産主義者、社会主義者、自由主義者、少数の( せい )( しょく )者、そのほか帝国( ていこく )( うら )( )( もの )とみなされた人々( ひとびと )( しゅう )( よう )された。ダッハウは、残酷( ざんこく )な強制収容所システム全体のモデルになった。1939 年までに、ブッヒェンヴァルト、フロッセンビュルク、マウトハウゼン、ラフェンスブリュック、およびザクセンハウゼンに主要( しゅよう )な強制収容所ができた。

「ユダヤ人の( しゅう )( じん )( とく )( べつ )( はん )に分けられて作業をし、( もっと )もつらい仕事を( あた )えられた。( かれ )らは機会あるごとに( なぐ )られた……作業期間中にユダヤ人以外の囚人には朝食に( ひと )( )れのパンが( はい )( きゅう )されたが、ユダヤ人には何も配給されなかった。だが、パンが配給されたことを見せ付けるために、ユダヤ人はいつも他の人々と一緒( いっしょ )に行進させられた」

元囚人 「ドイツ報告」 1938年

オーストリア、リンツ近郊マウトハウゼン収容所の有刺鉄線と堀
出典:マウトハウゼン記念館 リンツ

ハインリヒ・ヒムラー(SS〈親衛隊〉隊長・ゲシュタポ長官)のダッハウ収容所( )( さつ ) 1936年5月8日 出典:ダッハウ強制収容所記念館

オーストリア、リンツ近郊マウトハウゼン収容所の有刺鉄線と堀
出典:マウトハウゼン記念館 リンツ

寛容( かんよう )柔弱( にゅうじゃく )のしるしである。どのような傾向( けいこう )の政治的扇動者( せんどうしゃ )にも( よう )( じん )させよ。( つか )まらないように( ちゅう )( )しろ、さもないと( くび )をつかまれて沈黙( ちんもく )させられるぞと」

テオドール・アイケ(SS〈親衛隊〉上級指揮官)
1933年10月1日

(だっ)(しゅつ) 1933-1938年

テルアヴィヴ近くの( )( )故意( こい )に乗り上げたパリタ号。( じょう )( せん )していた850人の欧州系ユダヤ人( ぼう )( めい )( しゃ )はハイファ近くの収容所に送られた 1939年8月
出典:ウォルター・サデグ&BPK

子ども用旅行( きょ )( )( しょう )を付けてウィーンから英国へ( )( なん )するユダヤ人少女
1938年12月 出典:NARA

1933年、ナチスによる反ユダヤ的な法律制定後、パニックに( おちい )った3万7,000人のユダヤ人がドイツから脱出した。( はじ )めナチスはユダヤ人の( ひん )( こん )( そう )( しつ )( ぎょう )( しゃ )( )( じゅう )( しょう )( れい )した。裕福( ゆうふく )なユダヤ人もドイツから( )( じゅう )することができたが、そのためには( ざい )( さん )の大部分を剥奪( はくだつ )されなければならなかった。しかしながら根本的な( しょう )( がい )は、他の国々がユダヤ人を受け入れようとしないことだった。反ユダヤ主義の姿( )( せい )と労働市場が圧倒( あっとう )されるのではないかとの( きょう )( )のため、ほとんどの安全な移住先の( とびら )( )ざされることになった。

1939年までに、ドイツのユダヤ人の50%以上が( )げ出した。しかし、( きゅう )( そく )に進展するナチスの欧州征服( おうしゅうせいふく )により、これらの移住者の大部分は、自分たちが( ふたた )びナチスの( )( はい )( )にあることに気づくのだった。

家族のスーツケースの番をする( ぼう )( めい )( しゃ )の子ども 1935年
出典:レニ・ソンネンフェルト

1938年 帝国(ていこく)の拡大

ウィーンの街路( がいろ )清掃( せいそう )をさせられるユダヤ人。
1938年3月半ば、オーストリア併合(アンシュルス)の直後
出典:DOW

ヒトラーに手を( )( たい )( しゅう ) シュヴァルツァッハ/ザルツブルク、オーストリア 1938 年
出典:DOW

1938 年3 月、ナチスの計画はドイツ国境を( )えて拡大し、オーストリアはドイツに併合( へいごう )された。ウィーン入りしたヒトラーは、何千人ものオーストリア人の喝采( かっさい )をもって( むか )えられた。ドイツのすべての法令は、( ただ )ちにオーストリアでも( てき )( よう )された。
1938 年8 月、ナチス政権に反対する人物を( しゅう )( かん )するためにマウトハウゼン強制収容所が開設され、アドルフ・アイヒマンが、オーストリアにおけるユダヤ人問題担当局長に任命された。( かれ )( かく )( りつ )した迫害( はくがい )のパターンは、強制移住をさせて( ざい )( さん )( ぼっ )( しゅう )するというもので、その後ナチスはこのやり方をモデルとした。

ウィーンのユダヤ人商店に( )かれた( らく )( がき )。この落書を消すと、ダッハウでの「( きゅう )( )」を取ることになると( けい )( こく )している
出典:ベットマン・ニューズフォト

ウィーンのユダヤ人コミュニティ・センター前でのSS(親衛隊)による( いっ )( せい )( けん )( きょ ) 1938 年3 月 出典:連邦公文書館

(すい)(しょう)の夜(クリスタルナハト) ガラスが(くだ)()った夜

1938年11月7日、パリに住む17( さい )のポーランド系ユダヤ人学生ハーシェル・グリンスパンは、家族がドイツから( つい )( ほう )された( )( かえ )しに、ドイツの外交官エルンスト・フォン・ラートを( )った。それは、反ユダヤ人キャンペーンをエスカレートさせるのに( )( ごう )のよい( こう )( じつ )だった。

11月9日の夜、フォン・ラートへの( ふく )( しゅう )として、ヨーゼフ・ゲッベルスは全国的な夜間テロを計画した。これは後に、「水晶の夜」(ガラスが砕け散った夜)と( )ばれることになる。何百ものユダヤ教の集会場(シナゴーグ)が焼き打ちされ、ユダヤ人商店が( りゃく )( だつ )され、ユダヤ人( )( おく )( )( かい )され、ユダヤ人は( なぐ )られ( ぎゃく )( たい )された。91 人が殺され、3 万人のユダヤ人男性が( たい )( )されて強制収容所に送られた。その後まもなく、ユダヤ人はドイツ経済から完全に排除( はいじょ )された。

ベルリンのユダヤ人男性のザクセンハウゼン強制収容所への移送 1938 年11月10日
出典:LBI/NY

ツェーフェンのユダヤ人男性の逮捕とザクセンハウゼン強制収容所への移送 1938 年11月10日
出典:LBI/NY

ツェーフェンのシナゴーグ(ユダヤ教集会場)から略奪された調( ちょう )( )( るい )は、町の中央広場に投げ捨てられ、その後燃やされた。
出典:LBI/NY

( まど )( こわ )されたベルリンのユダヤ人商店
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

「早朝から組織的に始まった( )( かい )( りゃく )( だつ )、焼き打ちは、国中のほとんどすべての町や都市で一日中続いていた。
膨大( ぼうだい )な数の( ぐん )( しゅう )はほとんど( )( ごん )傍観( ぼうかん )するだけで、警察は交通規制と、“ ( かれ )ら自身を保護( ほご )するために”ユダヤ人の( )( )( べつ )( たい )( )だけに( せん )( ねん )していた」

オットー・トリシュス(ニューヨーク・タイムズ紙のジャーナリスト)
ニューヨーク・タイムズ 1938年11月10日

フランクフルト・アム・マインの( えん )( じょう )するベルネプラッツ・シナゴーグを見に( あつ )まる( ぐん )( しゅう )
1938 年11月9日 出典:LBI/NY

()げ場のない逃走(とうそう) (あん)(そく)の場を(うしな)ったユダヤ人

「民主主義世界全体が、( くる )しんでいる( まず )しいユダヤ人に( どう )( じょう )しながらも、( かれ )らを助ける( だん )になると、( )( たん )( )( じょう )冷酷( れいこく )になる様子( ようす )は、( じつ )( )ずべき( こう )( けい )だ」

アドルフ・ヒトラー 1939年1月20日

1938年( はじ )め、フランクリン・ルーズベルト米大統領は、ドイツ( ぼう )( めい )( しゃ )問題の解決策を考えるために、フランスのエヴィアンで会議を開くことを( てい )( あん )した。
しかし、このとき参加した30ヵ国のほとんどが援助( えんじょ )( こば )んだため、( ぜつ )( ぼう )( てき )にもユダヤ人に残された( せん )( たく )( )( かい )( )( ひと )しかった。

それでも、水晶( すいしょう )の夜(1938 年11月9日)の後、数万のドイツ系ユダヤ人がパレスチナ、英国、南北アメリカ、中国の上海( シャンハイ )( )( なん )した。財産を( つか )( )たしたこれらの亡命者たちは、( ひん )( こん )( ちょく )( めん )し、飢餓( きが )にあえぐことさえあったが、その多くは生き残ることができた。こうしたことから、ユダヤ人の唯一( ゆいいつ )の希望は( だっ )( しゅつ )しかないことが( あき )らかになった。

「無人地帯」に取り残された、350人のユダヤ人のために( すい )( )( よう )テントで炊事をする女性
1938 年 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

ハンガリー/スロヴァキア( こっ )( きょう )の「( )( じん )( )( たい )」に( )( )められたユダヤ人
1938年冬 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

「ドイツ人がユダヤ人と同じ屋根の下に住むことを( よう )( きゅう )されるいわれはない……
我々は、( かれ )らを我々の家と( きょ )( じゅう )地域から( )( ちく )しなければならない」

ダス・シュヴァルツェ・コール(SS〈親衛隊〉新聞)
1938年11月24日

ハンガリー/ スロヴァキア( こっ )( きょう )の「( )( じん )( )( たい )」にいる、スロヴァキアの村からきたユダヤ人 1938-1939年 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

1939年、第二次世界大戦勃発( ぼっぱつ )( ぜん )( )、ドイツ系ユダヤ人の半数以上が脱出に成功したが、あとに残った者たちは生き残れなかった。
さらに( )( げき )( てき )なことに、第二次世界大戦でドイツがまたたく間に( おう )( しゅう )( せん )( りょう )したことにより、西ヨーロッパに( )げた多くのユダヤ人は( ふたた )びナチスの( とう )( )( )に引き( もど )されることになった。

「今や、我々はユダヤ人問題を完全に( かい )( けつ )することになろう。なぜなら、それが( )( )( けつ )であり、我々はもはや世界中の( こう )( )に耳を( かたむ )ける気がないからであり、現時点では、我々がそうするのを( さまた )げることのできる( せい )( りょく )は世界中どこにもないからである。計画は( あき )らかだ。完全な排除( はいじょ )、完全な( かく )( )!」

ダス・シュヴァルツェ・コール(SS(親衛隊)新聞)
1938年11月24日

共同配給委員会によって( しゅう )( よう )された無人地帯のユダヤ人の子どもたちコシツェ(スロヴァキア)
1938年冬 出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

赤ん坊と( おさな )い子どもたちを( きび )しい冬の( さむ )さから守るのは、( こわ )れた引っ越し用トラックだけ
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

子どもと( じゅう )( びょう )( にん )のために、( はい )( しゃ )の引っ越し用トラックが仲間のユダヤ人によってブラチスラヴァ(スロヴァキアの都市)から送られた
出典:ウィーン・ライブラリー、ロンドン

死に(いた)哲学(てつがく) 人種的(じゅん)(すい)(せい)

1940年には、( せい )( しん )( びょう )( しゃ )( まん )( せい )( びょう )( しゃ )抹殺( まっさつ )するための( とく )( べつ )絶滅( ぜつめつ )センターが( せつ )( りつ )された。これらのセンターにおいて、( さい )( しょ )( よう )( せつ )( みっ )( ぷう )ガス室が開発された。シャワー室に( )( そう )されたこれらの死の部屋は、後にナチスの( ぜつ )( めつ )( しゅう )( よう )( じょ )で使われた大量殺戮( さつりく )室の( げん )( けい )になった。

( )( とう )な人間(ウィンターメンシュ) ドイツで作られた( じん )( しゅ )( )( べつ )( せん )( でん )パンフレット
1942年 出典:SWC

ナチスの運営する学校でのアーリア人の( とく )( ちょう )を教える実物授業
出典:SWC

ナチスは、慢性病者や身体的および精神的に欠陥( けっかん )のある者は「( )( )( めし )( )らい」であり、( じゅん )( すい )なアーリア人社会で生きる権利はないと考えた。
1939年9月1日、ヒトラーは、こうした人々に死ぬ権利を「( あた )える」命令に( しょ )( めい )した。ナチスのいわゆる( あん )( らく )( )計画によって、何万人もがガスや( どく )( ぶつ )( ちゅう )( しゃ )( さつ )( がい )され、餓死( がし )で命を( うしな )う人もいた。

ナチス主義の( かく )( しん )には、人種的に( じゅん )( すい )な社会という( おそ )ろしいビジョンがあった。それは、完全という( かれ )らの( せま )い定義に( がっ )( )しない者はすべて排除( はいじょ )するという、( )( けん )な社会的かつ( )( でん )学的な人口計画だった。ユダヤ人が第一の( ひょう )( てき )ではあったが、約50万人のロマ(ジプシー)が組織的に( さつ )( がい )され、スラブ人、( どう )( せい )( あい )者、( しょう )がい者、そして政治的反体制者もまた( ひょう )( てき )になった。

( せん )( べつ )( だい )にて
1944年 出典:オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)国立博物館公文書館

ラッケンバッハ一時収容所のロマ(ジプシー)の母子
オーストリア 1940年 出典:DOW

ウィーンのジンメリングからライタ( )( はん )ブルックの一時収容所に移送されるロマ(ジプシー)
1938年後半 出典:DOW