「教育のための社会」目指して
21世紀と教育~私の所感

創立者 池田大作先生

(2000.9.29.発表)
21世紀の開幕を前にして、今改めて教育にスポットが当てられております。そこで、最近のさまざまな教育改革論議の動向についての私の率直な感想と、若干の具体的提案を行ってみたいと思います。

昨今、不登校は、どの子にも起こりうる”と言われます。先日も、文部省の1999年度の学校基本調査で小・中学校での不登校が13万人を超えて過去最高だったことが報告されていました。小学校で290人に1人、中学校では実に40人に1人、1クラスに1人が苦しんでいるのです。 いじめによる自殺等の悲劇も後を絶ちません。世界的に懸念されている薬物汚染までもが、不気味な広がりを見せています。

加えて、近年の14、5歳の少年による殺傷事件の続発、本年に入ってからも17歳の少年による主婦殺害や高速バス乗っ取り事件、金属バット殺人事件等が、日本中を震撼させております。

教育に携わる人々や青少年の心理に詳しい専門家による原因の分析や対応が待たれるとしても、率直に言って、その闇の巨大さのあまり、大人たちがどうやっていいか分からず、ぼう然と立ち竦んでいるというのが実情ではないでしょうか。

未来を担う青少年の健全な成長を願う一人として私自身、もう16年も前のことになりますが、創価学会の全国教育者総会に寄せて「教育の目指すべき道――私の所感」と題する提言を発表しました。

教育改革は政治主導ではなく、人間主導型でなされるべきであるとして、それが依拠すべき理念、指標といった側面から「全体性」「創造性」「国際性」を具えた人間像を提示しました。

当時も、教育荒廃が憂慮され、非行、校内暴力、不登校等が、子どもたちに直接かかわる親や教師はもとより、多くの心ある人々を嘆かせていたことが思い起こされます。

15年以上を経過した今日、関係者の努力にもかかわらず、残念ながら事態は一向に改善されないばかりか、それらの問題群が常態化するとともに、新たな問題すら発生しているのであります。

深刻な学級崩壊

特に、最近、深刻になっているのが、“学級崩壊”と呼ばれる現象です。

生徒が教師の言うことを聞かず、クラスがコントロール不能の状態に陥ってしまう。かつては中学校段階等に顕著だったこの現象が、ここ数年は小学校の低学年にまで及んでいる。

ひどいところでは幼稚園から小学校に入ってくる段階で子どもたちがバラバラで、学級そのものが成立しないといった状況すら生まれているようです。

子どもたちに責任を持つべき教師の側でも、3分の1がクラス担任をやめたいと思ったことがあるという調査結果もあります。

このままでは学校というシステムそれ自体が機能しなくなるような事態さえ起こりかねませんが、不登校やいじめ、あるいは学級崩壊という問題とともに教師や学校を悩ませているのは、学力低下の問題かもしれません。

算数や数学、あるいは理科嫌いに象徴されるように、勉強嫌いが憂慮されています。各種の調査が示しているように、日本の子どもたちの学力は全体的に低下傾向にあり、そのしわ寄せを受けた高等教育の場では、一部で、授業が理解できない大学生たちに、予備校の教師に依頼して補習授業を行うといった悲喜劇さえ、しばしば伝えられています。

このいわば子どもたちの“学びからの逃走”傾向を、子どもたちが先人の知恵に学び、後の世代に伝えていく人類の共有財産を身につけ、創造への糧としていく力を養う大地であるべき教育の敗北と言えば、厳しすぎるでしょうか。

2002年から完全実施される学校週5日制=※1=をにらんで、文部省が改訂した新学習指導要領の志向する「ゆとり教育」のもとで「生きる力」を養おうという方向性は、子どもたちの“学びからの逃走”の主因が、従来の知識偏重の詰め込み教育や過激な受験戦争にあったとして、その反省を踏まえての軌道修正なのでしょう。

しかし、それが総合的な学力アップや“学びへの復帰”につながるかどうか、疑問視する声もあります。すなわち、現状のまま授業時間を短縮すれば、余った時間は、自主的な学習などより、一部は塾通いを過熱させ、一部はテレビやゲームに向けられてしまうなど、必ずしも狙い通りにはいかないであろう、と。

私も、その懸念を共有します。なぜなら、たしかに不登校問題に象徴されるような子どもたちの苦しみは、一刻も放置しておけませんが、かといってこの問題が、学校教育の制度的改変などで解決に向かうような根の浅いものとは、とうてい思えないからです。

人間成熟させる教育の機能不全

子どもたちの不登校や問題行動、“学びからの逃走”傾向といった病理の背景には、学校に限らず地域や家庭など、社会総体が本来有しているはずの教育力の衰弱という根因が巣くっている。

人間とは、広い意味での教育によって人間に成ることのできる存在であるとすれば、人間が真に成熟していくためのシステムそのものが、現在のわが国では、機能不全に陥っているのではないでしょうか。

その機能不全が、子どもという最も弱くかつ鋭敏な部分に集約的に噴出しているのであり、その意味では「子どもは社会の鏡」であるという古来の知恵は、我々が教育について考える際に絶対に忘れてはならない不磨の鉄則なのです。

そう言うと、一切を本質論にもっていく一種の還元主義とのそしりを受けるかもしれません。
しかし、私は、子どもという「鏡」に照らして己を正そうとする自省の眼差しを大人たちが常にもっていなければ、よかれと思う試みも結果として制度いじりの弥縫策に終わったり、モグラたたきのような、その場しのぎの対応に追われてしまうであろうことを恐れるのであります。

その点、ある雑誌の“徳育”をめぐる特集で、作家の山田太一氏が、謙虚に語られている言葉が印象に残っております。

「いま必要なのは、確信を装って子供に徳を説くことではなく、迂遠でも大人が自分で多少ましだと考える生き方をなんとか現実に生きてみせるしかないと思う」(「中央公論」'99年9月号)と。

実際、高度成長時代の終焉からバブルの崩壊を通じて、急速に露になってきた大人社会の現状は、何とも気が滅入るような惨憺たるもので、新たな世紀を迎える、はつらつたる気分など皆無に近い。  政界、官界、財界、言論界を問わず、いわゆるエリートと呼ばれてきた人々が“ノーブレス・オブリージュ”(高貴な立場に随伴する責任)のかけらも持ち合わせず、何かにつけ責任逃れと保身、自己弁護に汲々たる醜態を、このところ、我々はいやというほど見せつけられてきました。

大人のモラルの低下が招く弊害

相次ぐ保険金がらみの殺人に象徴されるように、目的観、価値観を見失った社会が必然的に招き寄せる拝金主義の横行など、大人たちのスキャンダラスな体たらくが、子どもたちの心に影を落とさない訳がない。先達が魅力ある範を示すことのできないような社会に、教育力など期待し得べくもないのであります。

もとより、マスコミの興味本位の目など関係なく、山田氏の言うように「生きてみせるしかない」と、その人ならではの孜々とした営みを続けている人が、数多く存在しているにちがいありません。しかし、そうした人々であっても、面を上げ、背筋をピンと伸ばして生き抜いていくことが、なかなか困難になってきているようです。明治人の気骨のようなものが、しばしば実像以上にもてはやされ、懐旧の念で語られるのも、日本の社会の現状が、何を欠落させているかを物語っています。

一連の教育改革の動きの中で、戦後教育の柱となってきた「教育基本法」=※2=の見直しが浮上しているのも、そうした背景によるものと思われます。

首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の7月の報告でも、「教育基本法の改正が必要であるという意見が大勢を占めた」とあり、「前文及び第1条の規定では、個人や普遍的人類などが強調され過ぎ、国家や郷土、伝統、文化、家庭、自然の尊重などが抜け落ちている」との意見も述べられていました。

「国民会議」の報告ではありませんが、そうした欠落部分を補うために「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ……」との「教育勅語」=※3=を見直すべきだとする復古調の動きもあります。

ちなみに「教育基本法」の1条では「教育の目的」について、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と謳っております。

この条文は、個人の尊厳に立脚し「人格の完成」を目指すという普遍的理念という限りにおいては、古今東西いかなる人にも妥当する、文句のつけようのないものであります。しかし、「教育基本法」制定の経緯を振り返ってみても、普遍的理念の正当性は、たえず風土や伝統を異にする土俗性という場で検証されなければならず、その点については、日本の教育関係者は、楽観的でありすぎたようです。

その結果、人間は“個”であると同時に“人倫”(人と人との秩序関係)であること、“個”が真の“個”たらんとする、つまり「人格の完成」をめざすための場は“人倫”の中にしかありえないこと、そして、“人倫”を形成していくには“個”は「名月を とってくれろと 泣く子かな」式のエゴイズムをどこかで制御する必要があり、それが人間が成熟することの謂に他ならないこと――こうした当たり前のことを実践していくことがいかに困難であるかが、その自明性ゆえに看過されすぎてきたとはいえないでしょうか。

ひとことでいえば、個性や自由をいうあまり、“個”を“私”へと矮小化させてしまう、人間のエゴイズムというものに対して、あまりにも無防備、無警戒でありすぎました。
戦後の「教育基本法」制定の過程で、「教育勅語」に強く反対し、個人の尊重という理念を教育目的の基軸に据えるよう尽力した森戸辰男氏が「期待される人間像」を打ち出した中教審(中央教育審議会)答申(1966年)の際、その会長をつとめ、戦後の平和教育の見直しなどを強調したことを、変節のように言う向きもありますが、私は、氏なりの反省に基づいた、内的な必然性があったのだと推察します。

先にあげた「国民会議」の「教育基本法」見直しの論議も、大きくくくればそうした流れに沿ったものといえるでしょう。

断っておきますが、私は「教育基本法」の見直しについては、拙速は慎むべきだと思っております。

前文や1条に謳われた理念は、それ自体文句のつけようのないものですし、また、条文に郷土や伝統、文化等の文言を盛っても、それだけでさしたる実効が期待できるとは思えません。
まして「教育勅語」の徳目の復権など、それらが戦前の天皇制、家父長制のもとでどのような役割を演じてきたかを考えるなら、時代錯誤以外の何ものでもないでしょう。

総じて、私は、文部省が音頭をとり続けてきた官僚主導型、政治主導型の近代日本の教育制度のあり方は、そろそろ限界にきているように思います。

戦前の富国強兵であれ、戦後の経済大国であれ、欧米先進国を目標に追いつき追いこせという“キャッチ・アップ”を至上命題としてひた走ってきた近代日本のあり方、そして常にその目標達成のために教育はいかにあるべきかという観点からの位置づけを強いられてきた明治以来の教育のあり方は、明らかに行き詰まっており、工業化から情報化時代への変貌とともに、軌道修正を余儀なくされているからであります。

そこで、私は、21世紀の教育を考えるにあたり「社会のための教育」から「教育のための社会」へというパラダイムの転換が急務ではないかと、訴えておきたいのであります。

サーマン博士の“逆転の発想”

「教育のための社会」というパラダイムの着想を、私は、コロンビア大学宗教学部長のロバート・サーマン博士から得ております。

博士とは、私も何度かお会いし、そのつど深い識見に感銘を受けていますが、博士は、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)の機関紙のインタビュアーから、社会において教育はいかなる役割を果たすべきかを問われて、こう答えております。

「その設問は誤りであり、むしろ『教育における社会の役割』を問うべきです。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると、私は見ているからです」と。

まさに、卓見であるといってよい。こうした発想は“人類最初の教師”の一人である釈尊の教えに依るところが多いと博士は語っていますが、そこには自由な主体である人格は、他の手段とされてはならず、それ自身が目的であるとしたカントの人格哲学にも似た香気が感じられてなりません。

それとは逆に、人間生命の目的そのものであり、人格の完成つまり人間が人間らしくあるための第一義的要因であるはずの教育が、常に何ものかに従属し、何ものかの手段に貶められてきたのが、日本に限らず近代、とくに20世紀だったとはいえないでしょうか。

そこでは、教育とりわけ国家の近代化のための装置として発足した学校教育は、政治や軍事、経済、イデオロギーなどの国家目標に従属し、専らそれらに奉仕するための“人づくり”へと、役割を矮小化され続けてきました。

当然のことながら目指されたのは、人格の全人的開花とは似ても似つかぬ、ある種の“鋳型”にはめ込まれた、特定の人間像でありました。

教育の手段視は、人間の手段視へと直結していくのであります。

20世紀が、間断なき戦争と暴力に覆われた、史上空前の大殺戮時代を現出してしまったのは痛恨の極みですが、それは、テクノロジーの負の遺産である殺傷力の肥大化もさることながら、価値基準を人間に置かず、教育という人間の本源的な営みに派生的な役割しか与えてこなかった、近代文明の転換した価値観にも、大きく起因しているように思えてならないのであります。

それに関連して、私は、最近の「IT(情報技術)革命」をめぐる動きにも、一抹の危惧を抱いております。たしかに、九州・沖縄サミットで採択された沖縄憲章に「21世紀を形作る最強の力の一つ」と謳われたように、「IT革命」が、21世紀のメガ・トレンド(巨大な流れ)になっていくことは間違いないし、わが国も、その流れに乗り遅れてはならないでしょう。

それもあってか、たとえば学力低下の問題を取り上げてみても、とくに理数系に顕著な学力低下の現状を放置しておくと、日本の経済や技術力に悪影響を及ぼし、IT革命に突入しつつある世界の動きに後れをとってしまう――この種の指摘が、大学関係者を中心に、しばしば寄せられています。

当然の懸念ではあります。グローバリゼーションの是非はさておき、21世紀の国際化の流れは止めようのないものであり、鎖国時代ならいざ知らず、日本もその流れに身をさらさざるをえないからです。

それと同時に、私の抱く危惧とは、そうした学力向上への取り組みが、旧態依然たる「社会のための教育」という轍を踏んでしまいはしないか、ということであります。

「IT革命」における“光と影”

IT革命というものが、近代の足元を掘り崩す性格をもつものである限り、人間社会に対する影響も、必ず“光”と“影”を併せもっているはずです。

ところが、現状に目をやると、かつての未来論ほどではないにしても、楽観的というか“光”の部分のみが喧伝されすぎているように思えてなりません。

しかし、金融面を中心にしたIT革命を先取りし「マネー資本主義」「カジノ資本主義」下での独り勝ちを謳歌しているように見えるアメリカでも“影”の部分は疑いようもなく広がっているようです。鳴り物入りのIT革命なるものが人間社会に招き寄せるものが、拝金主義の風潮でしかなかったとしたら、何をかいわんやであります。

ここで、私は、今や“空語”と化した感さえある「人格の完成」という言葉をもう一度捉え直してはどうかと提案したい。

教育基本法が「教育の目的」としたこの言葉が、なぜ“空語”として宙に浮いてしまったのか、それを普遍的理念として内実化させることは、はたして不可能なのか――分かりきったことのようでも、そこに一切の教育改革の“原点”があることは、どんなに強調してもしすぎることはありません。

そのための試みとして、この「人格の完成」を「幸福」という言葉に置き換えてみてはどうでしょうか。

卓越した教育者でもあった創価学会の牧口常三郎初代会長は、教育の目的は一にも二にも「子どもの幸福」にあることを力説してやみませんでした。

牧口教育学といえば、今や世界的な脚光を浴びつつありますが、初代会長は、戦前の軍国主義下で「皇国少年」「軍国少年」をどう育成するかに教育機関が総動員されていたころ、時流に抗して「子どもの幸福」こそ第一義とされるべきだと断じ、教育勅語などにしても「人間生活の道徳的な最低基準を示されているにすぎない」と喝破していました。

すなわち、当時にして「社会のための教育」ではなく「教育のための社会」でなければならないというスタンスを崩さなかった、驚くべき炯眼の人、先見の人でした。

「幸福」と「快楽」を混同した社会

ちなみに、この「幸福」を「快楽」とはき違えたところに、教育をはじめとする戦後の日本社会の最大の迷妄があったと、私は思っております。そのはき違えのおもむくところ、「自由」は「放縦」や「勝手気まま」に堕し、「平和」は「怯懦」や「安逸」に堕し、「人権」は「独りよがり」に、「民主主義」は「衆愚主義」にと堕してしまう。
あげくは「人格の完成」どころか、いくつになっても幼児性から抜け出せず、他人の意見など聞く耳をもたぬ「慢心しきったお坊ちゃん」(オルテガ・イ・ガセット)のおびただしい輩出であります。

人間が人間らしくあること、本当の意味での充足感、幸福感は、“結びつき”を通してしか得られない――ここに、仏法の“縁起観”が説く人間観、幸福観の核心があります。

人間と人間、人間と自然、宇宙等々、時には激しい打ち合いや矛盾、対立、葛藤を余儀なくされるかもしれないが、忍耐強くそれらを乗り越えて、本来あるべき“結びつき”のかたちにまで彫琢し、鍛え上げていくところに、個性や人格も自ずから光沢を増していくのであります。

そうした“結びつき”を断たれたならば、人間の魂は、孤独地獄の闇の中をあてどもなくさまよっていく以外にない。精神医学の言葉でいえば「コミュニケーション不全」というのでしょうが、この問題は、総じて人間関係が希薄化しつつある現代という時代がはらむ病理ともいえます。

これについて今、「少年法」をめぐる論議がなされていますが、子どもたちの問題行動の増大や、少年犯罪の凶悪化は、その病理の鋭角的な噴出であり、これだけで問題を解決することはできないでしょう。子どもを覆う闇の中から聞こえてくる癒しを求める声に耳を傾けながら、粘り強くコミュニケーションを回復していくことこそ、大人の責務だからであります。

有名なエピソードですが、ソクラテスの青年への感化力を、世人が“シビレエイ”のようだと評したのに対し、彼が、シビレエイは自分がシビれているからこそ、他人をシビれさせることができるのだと応じたという話があります。

これは、教育力というものを考える際の万古変わらぬ、そして変えてはならない王道であります。

ともかく、人間の心を動かすものは、人間の心以外にありません。

最近、「教師こそ最大の教育環境」をモットーにする創価学会教育部の皆さまから、10数年間にわたって地道に積み上げてきた「教育実践記録」が1万本を超えたという、うれしい報告を受けました。

教育部の実践記録が、1万本に

これは、16年前、私が「教育所感」を発表した時の提案を受けてくださったもので、初等中等教育の場を中心に、荒れる教育現場で子どもたちと4つに組んだ汗と涙の記録であります。その“地の塩”ともいうべき尊い労作業に、教育を人生最終章の仕事としている私としても、合掌しつつ感謝したいと思います。

さて、“結びつき”といえば、人間と自然環境とのコミュニケーションも欠かすことはできません。その点でも、牧口会長は炯眼の人、先見の人でした。

主著『人生地理学』の冒頭には、吉田松陰の「地を離れて人無く、人を離れて事無し。人事を論ぜんと欲せば、まず地理を審らかにせざるべからず」を挙げ、自然環境が人間形成に及ぼす影響の重要性を訴えていました。

いわく「慈愛、好意、友誼、親切、真摯、質朴等の高尚なる心情の涵養は、郷里を外にして容易にうべからざることや」と。

『人生地理学』が上梓されたのは1903年ですから、環境問題が資源やエネルギーの有限性、水や大気の汚染といったのっぴきならぬかたちで、人類に自然との関係の再考を迫る優に半世紀以上も前のことです。

そのころから、牧口会長は、自然とのコミュニケーション不全は、人間に肉体的なダメージや死をもたらすだけでなく、人格形成に欠かすことのできない慈愛などの美徳をも毀してしまうであろうことを、鋭敏に見てとっていたのであります。

人間が凶暴なインベーダーとして、地球環境を破壊してしまったのが20世紀だとすれば、21世紀を担う子どもたち、若者たちを育てる教育には、自然との触れ合い、コミュニケーションをどう保全するかという視点は、絶対に欠かせません。

人間同士のコミュニケーションと同じく、テレビの映像などを通したバーチャル・リアリティー(仮想現実)の世界ではなく、大自然と直に触れ合う機会をできるだけ増やしていくべきです。そのコミュニケーションから養われる瑞々しい生命感覚、大地や草木、動植物を友とし、彼らと同じ空気を吸い、同じ陽光を浴びながら生々躍動しゆく生命空間の巧まざる広がりは、バーチャルな世界のそれとは、似て非なるものであるはずです。

“どろ亀さん”の愛称で慕われる森林研究の大家である高橋延清氏のエッセーの1節が、印象深く想起されます。

少し長くなりますが、紹介してみますと、

「夜の森の美しさは、とくに満月の夜はね、山の稜線と空との境がくっきり見えて、まるで版画のようだよ。さっきもいったけども、ホントに白と黒の世界なんだ。そしてね、これは自分で出かけた人にしか味わうことのできない世界でもあるのさ。

そりゃ、写真やビデオを撮ると、ある程度は見ることができるかもしれんが、感じることはできない。というのはね、感じるっていうのは目だけじゃないからさ。肌では気温や湿度を感じ、鼻は夜の森の匂いをかぐ。耳からは聞こえてるんだか聞こえてないんだか、はっきり“なんの音”って説明できないものもある。夜の森にでかけたらね、立ったりしゃがんだり、葉っぱも表や裏とひっくり返して見てごらん。それだけ、美しい世界を見つけることができるんだから、ね」(『森に遊ぶ』朝日文庫)

「分断」を超えて

「21世紀を拓くキー・ワードは「共生」であると、しばしば指摘されてきました。

私も数年前、「希望と共生のルネサンスを」との提言を行ったことがあります。

ともあれ、21世紀の「教育のための社会」にあっては、人間が孤立と分断の力に翻弄されることなく、人種や国境を超えて結びつきの絆を深め、大自然とも縦横にコミュニケートしながら、共生のハーモニーを奏でゆく――そうした人格を形成していくことこそ目的であり、第1位の優先順位を与えられるべきではないでしょうか。

創価教育学体系発刊から70周年

本年は、牧口初代会長が『創価教育学体系』を発刊して70周年の佳節を迎えます。

この牧口会長の先見的な思想と実践を踏まえながら、主として学校教育改革の進め方について、私なりのいくつかの具体案を、試案的に提起してみたいと思います。

現在、“教育の危機”が叫ばれる中で、文部省の各種審議会に加え、本年3月には首相の諮問機関として「教育改革国民会議」が発足し、教育改革の方向性が検討されています。

教育を最優先の国民的課題と位置づけ、論議を深めることは重要ですが、“特効薬”を求めるあまり、長期的展望を欠いた対症療法的な改革にならぬよう留意すべきでしょう。

教育も社会と無縁な存在でない以上、時代の変化に伴う試行錯誤は当然のことですが、改革の方向性が時々の政治的な思惑に強く影響されたり、目先を変えただけの近視眼的な対処となる場合が少なからずありました。

戦前においても、こうした悪弊が問題となっていました。

牧口会長は『創価教育学体系』で、次のような指摘をしております。

「宛然旧屋の造作で、継ぎ足し継ぎ足しの応急手当が、今日の首尾不貫徹なる教育制度として残存し、学校は新時代の要求に適当せず、徒に入って来る少青年の前途を迷わせる者となって困って居る状態である」

そこで牧口会長が、新時代の教育方針を定めるための機関として提唱したのが、統括的な審議機関としての「教育本部」と、その補助機関となる「国立教育研究所」の設置でした。

後者の国立教育研究所=※4=は戦後まもなく発足していますが、牧口会長が志向していたような審議機関は、いまだ存在しておりません。

首相の諮問機関「教育改革国民会議」は、その一つの可能性を持っていますが、論議を一時的なものに終わらせてはならないと思います。

そこで私は、教育に関する恒常的審議の場として、新たに「教育センター(仮称)」を創設し、教育のグランドデザインを再構築する役割を担っていくべきと提案したい。

設置にあたっては、一つの独立機関として発足させ、政治的な影響を受けない制度的保障を講ずるべきであると考えます。内閣の交代によって教育方針の継続性が失われたり、政治主導で恣意的な改革が行われることを防ぐ意味からも、独立性の確保は欠かせないのです。

かねてより私は、立法・司法・行政の三権に、教育を加えた「四権分立」の必要性を訴えてきました。

教育は次代の人間を創る遠大な事業であり、時の政治権力によって左右されない自立性が欠かせません。それはまた、戦争への道を後押しした「国家主義の教育」と身を賭して戦ってきた、牧口会長および戸田第2代会長の精神でもありました。

そこで「教育センター」が核となり、国立教育研究所などとも連携を図りながら、確固たる理念と長期的な展望に立った教育改革の方向性を打ち出していくべきと思うのです。

「教育権の独立」を世界的潮流に

「この重大な使命に加えて、「教育センター」を設立することで、日本は「国際貢献の新しい道」を開くことができましょう。

世界平和の実現の基盤となるのは、国家の利害を超えた教育次元での交流と協力です。私は、この観点から、教育権の独立を世界的規模で実現するための「教育国連」構想を、20年以上前から訴えてきました。

日本が「教育センター」の設立を通し、「教育権の独立」という潮流を世界で高めていく役割を担っていけば、「教育立国」という日本の新たなアイデンティティーを確立することにもつながっていくのではないでしょうか。

本年4月、日本が主催国となって、主要国の教育担当大臣が集い、教育問題を討議する“G8教育サミット”が初めて行われました。

今後は政府レベルだけでなく、教育現場に携わる人たちの幅広い交流を兼ねた「世界教育者サミット」の定期開催を、日本が積極的に支援していってはどうかと提案したい。

G8教育サミットでも確認されたように、教育に関わる問題は、もはや1国だけの問題に止まるものではありません。だからこそ、日本が国際的な協力推進の軸となって、「21世紀の教育」の新たな地平を開く先頭に立つべきと考えるのです。

続いて、昨今、スポットが当てられている学校教育の改革について、何点か述べておきたい。
近年、打ち出されている改革の柱として、週5日制の導入に代表される「ゆとり」の回復を目指す「学校教育の縮小化」と、学区制の見直しや公立の中高一貫校の増設など自由化を進めるための「制度的な規制緩和」があります。

これらは、詰め込み教育の反省や学校間の自由競争を意識してのものと思われますが、十分な受け皿が考慮されないまま改革が先行すると、子どもの自助努力にすべてを任せるような制度になりかねません。

牧口会長は、理念なき自由主義が教育にもたらす影響を、「解放しただけで、建設的の工夫が伴わなければ無軌道の放縦主義に堕することは、無心なる子弟の教育経済の為に座視するに忍びない」と批判しました。この警鐘は、時代を超えて今日においても見過ごすことのできないものと思います。

「ゆとり」に対して、学校や家庭サイドに、あるいは地域社会にどのような備えがあるのか――慎重すぎるくらいの検討を加えないと、取り返しのつかない結果さえ、招きかねません。
牧口会長が「方法上の改良案は教育目的観の確立を先決問題とする」と強調していたように、たえず「何のため」という根本目的に立ち返りながら、改革の具体案を検討していく必要があるといえましょう。

何のための「ゆとり」であり、何のための「自由化」なのかが明確でないままに、改革を推し進めても、かえって悪影響を及ぼしてしまう可能性は大きいのです。

牧口会長はある意味で学校のスリム化につながる「半日学校制度」を提唱していましたが、今叫ばれているような「知育偏重」への批判に立脚したものではありませんでした。

心身のバランスのとれた成長を図るために、「学校での学習」と「社会での実体験」を同時に進展させ、ともに充実させることが望ましいとの考えに基づいていたのです。

その証拠に牧口会長は、「今の教育の病疾は知育偏重ではなくて、正当に知育をなさないのにある」「将来の教育は知育の蔑視や軽減ではなくて、あくまで知育の増進にある。その徹底的改善にあり」と述べ、学校がその課題に真剣に取り組むよう訴えていたのです。

場の創意工夫尊重する制度へ

ゆえに私は、学校教育が抱える問題に批判の眼を向けるあまり、その基盤を切り崩しかねないような縮小化を一律に進めるのではなく、いかに学校教育を“正しい知育の場”として回復させていくかという観点から、改革の方向性を検討していくべきであると思います。

学校教育を真に変えるためには、「内からの変革」が伴わなければなりません。

そこで私が提案したいのは、これまでの中央主導の統制型システムを改め、学校ごとの裁量の幅を広げ、選出プロセスを民主化・透明化した上での校長の権限拡大や、教員の創意工夫を奨励していく制度への移行です。

ともすれば、これまでの改革が、上から他律的に与えられたものであったために、現場では“こなす”のに精一杯で、さまざまな制約も伴い、新しい何かを“生み出す”ことが難しい状態にあったのではないでしょうか。

そもそも教育は、子どものためのものであり、“国家の専有物”であってはならない。教科書検定や学習指導要領を含め、国家が教育内容の細部に至るまで深く関与する制度のもとでは、学校や教員の自律性だけでなく、子どもの個性や創造性を育む土壌も育ちません。

今後は、統一的な基準は大枠のものに止め、運用にあたっては現場の主体性を尊重する方向で調整していくべきではないでしょうか。

その一方で、「学校の教育力」を高めていくために、現場でさまざまな試行錯誤が繰り返されているように、教員が互いに向上を図っていく取り組みを積極的に行っていくべきです。

昨今の改革論議の中で、「教員免許の更新制」など教員個々人の資質を問う制度も提案されていますが、本当の意味で「学校の教育力」を高めていくには、学校全体が一丸となって挑戦をする環境こそが求められると私は思います。

たとえば、「開かれた教室」をモットーに教科や学校の枠を飛び越えて、すべての教員が定期的に自らの授業を公開し校内研修を行う制度や、近隣校との交流を兼ねた教育研修を進めることも考えられましょう。

一般企業においても、終身雇用や年功序列を軸とする日本型システムが限界にきているように、よい意味での競い合いがなければ、人間の集団は活性化しません。

学校教育の向上のためには、教員同士が立場の違いを超えて、“刺激”し“触発”し合う場が必要であり、ともに切磋琢磨し、連帯感を深めながら「学校の教育力」を高めていく努力が不可欠でありましょう。

また、保護者や地域関係者への学校公開日を定期的に設けたり、同じ地域にある高校・中学・小学校の教員間の意見交換を積極的に行うことも、地域での協力関係を深める上で役立つのではないでしょうか。

学校教育の充実のために、私がもう一つ提案しておきたいのが、さまざまなタイプの学校の認可と、「実験的な授業」の奨励です。

諸外国では、一般的な学校とは異なる教育のあり方を志向する、さまざまなスクールが認可を受けて運営されています。その例としては、シュタイナー学校のような独自の教育思想に基づいた学校や、アメリカの「チャーター・スクール」=※5=、子どもが主体的に科目などを選択して学ぶことができる「フリー・スクール」などがあります。

日本においても、こうした多様な学校の存在を求める声が少なくありません。教育改革国民会議でも、新しいタイプの公立学校として地域が設置し地域が運営する「コミュニティ・スクール」の設置が論議されていますが、一考に値するものといえましょう。

私は、教育の新たな可能性を実践的に示す意義から、新しいタイプの学校の認可要件を緩和し、一方で教育実践の成果を報告する制度を設けてはどうかと提案したい。また、既存の学校にも「実験的な授業」を行うことを奨励し、同様に実践報告を募る制度を整えていってはどうかと思うものです。

“学びからの逃走”傾向が憂慮されるなか、学校が子どもにとって常に“学ぶ喜びの場”となり“生きる喜びの場”となるよう挑戦を続けることが、教育の生命線です。

文部省では今年度から、国公私立を問わず、現場で独自のカリキュラムに取り組むことのできる「研究開発学校」=※6=の希望を募り、財政支援を行う制度をスタートさせました。現場の創意工夫を奨励する制度の誕生を、私は歓迎するものですが、こうして積み上げられた成果を分析し、情報の共有化を図ることによって、教育界全体の向上に資するべきと考えるのです。

かつて哲学者デューイが、シカゴの実験室学校における成果を踏まえ、教育理論を練り上げていったように、教育においては理論と実験証明の往還作業が欠かせません。

牧口初代会長の『創価教育学体系』や、戸田第2代会長の『推理式指導算術』などの著作も、教育者として現場で具体的実践を重ねる中で生み出されたものでありました。

創価一貫教育は師の遺志の実現

また戸田会長は、「創価教育」の理論を実験証明する場として私塾「時習学館」を設け、子どもたちの学習指導にあたっていました。牧口会長はこれを自らが構想していた小学校の1つの具体化として、著書の中であえて「私立小学校時習学館」と記し、「本研究の唯一最大の価値の証明」と称えていたのです。

私が、牧口会長の構想していた創価教育に基づく学校を実現するために、幼稚園から大学院までの教育機関を設立したのも、この戸田会長の遺志を受け継いでのものでありました。

先に、創価学会教育部の実践記録が1万を超えたことに触れましたが、こうした教育現場から集められた貴重な記録や報告から導き出された教育方法を、再び現場へと還元していく環境をつくりあげることは、きわめて有益ではないでしょうか。

こうした学校教育の改革を通し、創造的な“学びの場”を確立することと併せて重要なのは、「社会での実体験」を通して人間性を養うための教育を行うことであります。

現代の子どもたちにみられる傾向として、人間関係の希薄化や自己中心的な行動がよく指摘されます。また受験競争の激化の中で、試験に関係するもの以外はさほど関心をもたない子どもたちが増えているようです。さらには、テレビやゲーム、インターネットなどのバーチャルな世界に没頭するあまり、現実の世界での感覚が麻痺したり、現実と没交渉になってしまうケースも見られるといいます。

社会や自然と直にコミュニケートしていくには、どうすればよいか――。昨今の論議の中で、子どもたちにボランティアなどの活動を経験させる必要性を訴える意見も出ています。私は、これを「体験学習」のような単発的なものに終わらせず、継続性をもった定期的な活動として行っていくべきと考えます。

具体的には、地域に住む人々と触れ合いながら共同で作業したり、リサイクル活動のように何か社会に還元できる達成感のある活動や、緑化作業や自然保護の活動のように成果が後々まで形として残るものが望ましいでしょう。最近、青少年の犯罪が多発する中で、子どもたちの暴力性や攻撃性の高まりが問題視されていますが、“何かをつくりだす”建設的な活動に取り組む中で、心身のバランスのとれた成長が図られていくのではないでしょうか。哲学者のウィリアム・ジェイムズは、人間がもつ支配や闘争の本能を昇華させていくためには、戦争に代わる何らかの「道徳的等価物」を用意する必要があると指摘していました。

平和や建設のための活動に従事する中で、子どもたちは一層健全な感情と落ち着きのある理想をもって帰ってくる、と。

この点、牧口会長も「半日学校制度」の構想の中で、“青少年の持て余しているエネルギーが、社会的脅威に向かっているならば、これを社会に有価値なものに転換させることによって、個人の幸福と社会への貢献を同時に果たすことができる”と訴えておりました。

自らの行動が社会に役立っていると実感する経験は、子どもたちの自信となり、心の成長の確かな礎となっていくでありましょう。

明年は、国際ボランティア年

折しも明年は、国連の定めた「国際ボランティア年」にあたります。これを機に学校現場に限らず、ボランティア活動への認識を社会全体で深めながら、21世紀の人道社会の道を切り開いていくべきではないでしょうか。

次に、教育改革の焦点といわれる大学入試制度について言及しておきたい。

現在、受験競争が激化する中で、高校が単に“大学入試の準備期”となってしまう傾向に対し、懸念が強まっています。その半面で、少子化の影響により、大学進学者の数が将来的に減少していくことも予測されています。

こうした過渡期にある今こそ、大学入試制度を見直す好機ととらえ、学生にとっても大学側にとっても真に有益な制度への改善を図っていくべきです。

[b2-4:見出し]学入試制度の多様化を促進
[b2-4:リード文]そこでまず検討すべきと思われるのが、入試方法の多様化の促進です。
私は、大学入試について、“落とすための選抜試験”ではなく“入学のための適性判断”という観点に立った改善が必要と考えます。

これまでのような筆記試験だけでなく、推薦入学など、多様な選考方法を用意することで「入学の間口」を広げ、志願者の“学ぶ意欲”を尊重した入試を目指していくべきと思うのです。
もう1つは、「大学の9月入学」を導入するという案です。

これは当初、グローバル化に伴い増加している海外留学や帰国子女に対応する観点などから叫ばれてきたものですが、他にもさまざまな効果を生み出すことが期待できるでしょう。

たとえば、高校卒業から大学入学まで半年近くの猶予ができることで、受験の機会を増やすことも可能になるでしょう。

また、高校卒業後から大学入学までの時期を、さまざまな社会体験をしたり、読書に本格的に挑戦するなど、自分の人生をじっくり考える機会にあてることも一案だと思います。

これに関連し、大学教育のあり方について述べたいと思います。まず第1には、「全体性」と「専門性」を兼ね備えた教育を行うための見直しです。最近の傾向として、履修科目の中で専門分野にくらべて、基礎的な一般教育のウエートの低下が進んでいる状況がみられます。
社会の目まぐるしい変化に伴い、学問分野の専門化や細分化がさらに進むことを考え合わせると、学生が受ける教育内容がますます限定的なものとなっていく恐れがあります。

そこで私は、理念の明確でない一般教育のあり方を再度見直し、「リベラルアーツ教育(教養教育)」の充実を図るとともに、大学院とも連動した「専門教育」の拡充に取り組むべきと訴えたい。

アメリカ創価大学が目指すもの

明年、アメリカ創価大学(SUA)のオレンジ郡キャンパスが開校しますが、これは教養教育を主体とした「リベラルアーツ・カレッジ」として運営されることになっています。ここでは、全体性を養った上で、大学院などに進み、専門性を磨いていく方針をとっております。

私は、この大学で理想的な教育を実験的かつ大胆に行い、人間教育の方向性をしかと見いだして、「21世紀の教育」の新たな潮流をつくり上げていきたいと決意しています。

リベラルアーツ・カレッジ以外でも、アメリカでは一般に同様の発想に基づいて大学が運営されていますが、日本でも縦割りの学部制度からの脱却が必要なのではないでしょうか。

とくに教養教育の実施にあたっては、さまざまな分野の学問をただ網羅的に個別に教えていく方法を改め、体系的かつ学際的な視点に立った再編成も必要となりましょう。

そのためには、大学教員一人ひとりにも、意欲的な授業改革が求められてくると思います。多くの学生が大学の授業に魅力を感じない一因として、毎年、旧態依然の方法で同じような内容の授業が繰り返されていることなどが指摘されています。

先ほど、私が学校教育のところで述べた“停滞”という課題が最も深刻であるにもかかわらず、見過ごされてきたのが大学ではないでしょうか。 文部省の大学審議会による中間報告でも、大学教員の「教える力」を重視する必要性が訴えられましたが、習慣が“惰性”となっていないか点検し、教員資格の見直しの制度化を含め、たえず改善に努力する姿勢がなければ、大学教育の“地盤沈下”は避けられないでしょう。

創価大学の試み

この点に関し、創価大学では、今年設立された「教育・学習活動支援センター」が中心となって、教員に対しては革新的な授業法を開発するさまざまなプロジェクトをサポートしたり、学生に対しては学習上の困難を自ら解決できるような学習支援サービスを提供する試みがなされています。

またSUAのオレンジ郡キャンパスでも、「コア・カリキュラム」という課程で、自然や社会におけるさまざまな事象を自分自身との関係において考察する時間が設けられます。

このように、単に一般教育の時間を増やすのではなく、「人間」という共通の土台に立って学問の基礎を総合的に学ぶ「リベラルアーツ教育」を大学教育の前期の柱にしていくことが重要であると考えるのです。

また後期においては、複数の専攻科目を選択することのできる「ダブルメジャー制度」の導入など大学内での運営の弾力化や、特定の専門分野に秀でた他大学との「単位互換」や「編入学の相互受け入れ」の制度を拡充すべきではないでしょうか。

大学受験に際して、“合格可能な大学や学部”といった観点が優先される傾向がみられますが、こうした状況を固定化しては、学生にとっても大学にとっても、よい結果をもたらすことは決してないでしょう。

その改善のために、各大学が協力し合って、学生が真に学びたい分野を学ぶことのできるような環境を共同で整備すべきです。

実際に大学で学ぶ中で、当初の専攻分野に加えて、他の分野への関心が高まる場合もあるでしょうし、まったく別の分野に進路変更したい希望が増えてくることも予想されます。

しかし現行の制度では、中途退学して再入学することが余儀なくされるために、転入の敷居の高さが障害となっているのです。

現在、各地で「大学連合」を発足させたり、編入学を含めた連携を模索する動きも見られますが、「学生本位」の立場から大胆な改革と大学間協力を進めていくことの意義は大きいのではないでしょうか。

このように「大学単位」ではなく「学問単位」「分野単位」で門戸をオープンにしていくことは、“学びたい時に学びたい分野を学ぶ”という「生涯教育」の環境を整える観点からも、真剣に検討すべき課題と思います。

国際交流による大学の活性化を

もう1つ、大学が取り組むべき課題として挙げたいのが、「国際化の促進」です。とくに大学をはじめとする高等教育機関の国際化の促進は、日本にとって不可避の課題であります。

「人間主義」の理念に基づく新しい大学を目指して私が創立した創価大学では、開学以来、この課題に取り組み、海外の諸大学との教育交流を積極的に進めてきました。これまで協定を結んだ大学は、すでに世界70大学を超えています。

こうした交流を通し、多くの学生が他国で学ぶ機会を設けたり、教員の交換を定期的に進め、文化の相互理解を深める中で「教育環境のグローバル化」に努めてきたのです。

現在、日本と比較する形でアメリカの大学の教育水準の高さが指摘されますが、私はこの“活力”を生んでいる源泉こそ、さまざまな国々から教員や学生を受け入れる、「多様性」と「自由」を尊重する風土にあると考えます。

これまで日本では、キャリア・アップのための海外留学や教員の海外派遣ばかりが目立ちましたが、文化交流と教育の質的充実との観点から、さまざまな国々の学生や教員を受け入れていく環境を整備していくことが喫緊の課題です。

海外からの留学生の受け入れや、日本人学生の海外留学をサポートするための奨学金制度なども、「教育立国」の見地から積極的に充実させていくべきでしょう。

このテーマに関連し、多くの識者とともに私が強調しておきたいのが、早い段階から英語などの語学教育を進めることの重要性であります。

いくら大学で国際交流の環境を制度的に整えても、「語学のカベ」が根本的に突き崩されない限り、交流は裾野まで広がらず、“絵に描いた餅”に終わるおそれがあります。また語学力は、グローバル化の進展に伴い、社会に出てからも、コミュニケーションを図るために欠かせない能力になりつつあります。

さらに、より大きな次元から捉えれば、語学は「世界を結ぶ力」となるものといえましょう。世界の人々の生活を知り、価値観の違いを学び、同じ人間として心を交わしていく――その道を大きく開く“武器”となるのが語学です。

小学校での英語教育を積極的に

具体策の一つとして、「小学校での英語教育」を積極的に推進していくことも重要でしょう。ただし実施にあたっては、中学英語の前倒しのような内容ではなく、会話などを楽しみながら文化への理解を深めていく学習を心がけていかねばならないと思います。

と同時に、国語や日本の歴史・文化を学ぶことも、おろそかにしないことは当然であります。
最後に、社会が一致して取り組むべき課題について述べたいと思います。

先に私が、「教育のための社会」との観点から論じたように、“人を育てる”という意味での「教育」は、本来、学校現場だけでなく社会全体で担うべき使命であります。

私たちは今一度、「子どもたちの幸福」という原点に立ち返って、社会のあり方と自らの生き方を問い直す必要があります。

子どもたちのために、どんな世界を築き、残していくべきなのか――。新しい世紀への出発を前にした今こそ、この課題と真摯に向き合う絶好の機会といえましょう。

国連では、21世紀の最初の10年(2001年―2010年)を、「平和の文化と世界の子どもたちのための非暴力の国際10年」と定めました。私も年来、こうした時代の方向性を訴え続けてきただけに、最大に歓迎するものです。

ユネスコなどを中心にキャンペーンが進められる予定となっていますが、これを成功させるためには、広範な民衆レベルでの支援と協力が欠かせません。

アメリカ青年部の非暴力運動

SGIでは、アメリカ青年部による非暴力の意識啓発運動が昨年からスタートしました。

これは「ビクトリー・オーバー・バイオレンス(暴力に打ち勝つ)」をテーマに非暴力の精神を広げる対話運動で、「戦争と暴力の20世紀」を通じて、子どもたちの心の底にまで深く根付いてしまった「生命軽視」の風潮を転換させることを、最大の目的とするものです。
人権団体や学校・教育機関などから相次いで支持が寄せられるなど、運動は大きな社会的広がりをみせています。そして何よりも、暴力に苦しむ青少年層に“希望”と“勇気”を与える源泉となっているのです。

アメリカ同様、こうした取り組みが急務であることは、日本も同じであります。悲惨な事件が起こるたびに、子どもの“心の闇”の深さをセンセーショナルに取りあげても、問題は一向に解決することはない。大人の側が、その闇を生みだした社会の転換に目を向けて、責任をもって声をあげ、行動を起こしていく必要があります。

これまで創価学会では、一貫して民衆レベルでの「平和教育」の推進に力を入れてきました。その運動の新たな展開の1つとして、国際10年のキャンペーンに合わせる形で、青年部や教育部などが中心となり、「平和の文化」と「非暴力」の精神を社会に幅広く啓発する運動を考え、積極的に推進していってはどうかと考えるものです。

その取り組みを通し、他の人々の犠牲を顧みない自己中心的な生き方ではなく、互いを尊重し支え合いながら、ともに価値創造していく社会を目指していくべきと思うのです。

“社会から切り離された教育”が生命をもたないように、“教育という使命を見失った社会”に未来はありません。教育は単なる「権利」や「義務」にとどまるものではなく、1人ひとりの「使命」にほかならない――そう社会全体で意識変革していくことが、すべての根本であらねばならないのです。

最後に、21世紀に「教育」の大輪が花開き、子どもたちの笑顔が輝く時代が迎えられるよう、私も全力で取り組むことを誓い、私の所感とさせていただきます。