21世紀開幕記念「教育提言」~
「教育力の復権へ内なる『精神性』の輝きを」

創立者 池田大作先生

(2001.1.9.発表)
いよいよ21世紀が開幕しました。

私は昨秋、この新しき世紀を「教育の世紀」にしなければならないとの思いから、一つの提言を発表いたしました。

これは、教育を手段視し続けてきた日本社会に対する警鐘の意味を込め、「社会のための教育」から「教育のための社会」への転換を呼びかけたものです。子どもたちの幸福という原点に立ち返って教育を回復させることは、まさに急務といえます。

そこで今回は、特に子どもたちを現実に苦しめている、いじめや暴力をなくすために、学校や社会が取り組むべき課題について、一歩掘り下げて論じたいと思います。

本来、子どもたちにとって“学ぶ喜びの場”となり、“生きる喜びの場”であるべき学校において、いじめや暴力などの問題が深刻化して久しくなっています。

文部省の1999年度の「問題行動調査」の結果によれば、公立の小・中学校と高校の児童・生徒が起こした「暴力行為」は3万6千件と、過去最多を更新しました。また、「いじめ」に関しては、減少傾向は見られるものの、依然、3万を超える件数が報告されています。

まことに悲しむべき状況でありますが、これらの数字は、あくまで学校側が報告した件数に基づいたものであり、また私立の学校は調査対象に入っておらず、“氷山の一角”にすぎないともいわれております。

件数の多寡もさることながら、問題なのは、こうした異常な状態が、教育現場において半ば常態化している現実です。

子どもは、“時代の縮図”であり、“社会の未来を映す鏡”であります。その鏡が、暗い闇に覆われて曇ったままでは、明るい希望の未来など期待しうべくもありません。

これまでにも、文部省や各自治体を通じて、さまざまな対策が打ち出されてきましたが、こうした制度的な「いじめ防止」の環境づくりとともに、「いじめや暴力は絶対に許さない」との気風を社会全体で確立していくことが強く求められると私は考えます。

創価教育学体系に込めた「悲願」

今から70年前に発刊された、創価学会の牧口常三郎初代会長の大著『創価教育学体系』も、社会の混迷に翻弄される子どもたちを憂えた牧口会長の、「1千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくない」との悲願から生まれたものでした。

子どもたちが、社会の犠牲になることなく、その可能性を無限に広げ、一人残らず、幸福な人生を歩み通してほしい――この“やむにやまれぬ願い”こそが、創価教育学の一切の根幹を成すものなのです。

だからこそ、その豊かな成長の芽を、子ども同士でつみ取ってしまうような悲劇だけは、断じて学校からなくしていかねばならない。

ゆえに私自身も、東西の創価学園や創価小学校を、創立者として訪れるたびに、“いじめや暴力は絶対に悪であり、ともになくしていくことを皆で誓い合いたい”と、児童や生徒を前に繰り返し呼びかけてきました。

もとより、そうした呼びかけ自体、とりたてて新しいものではなく、大多数の大人にとっては、自明の理であり、人間が弁えるべき当たり前のルール、常識ともいえましょう。

しかし、困ったことに昨今は、この当たり前が当たり前としてなかなか通じなくなってきている。いじめや暴力、また非行、少年犯罪にしても、数そのものが以前に比べて必ずしも増加しているわけではありませんから、問題は“数”や“量”にではなく、その“質”や“性格”にあるのではないでしょうか。

その点を凝視しておかないと、「いじめをなくそう」といくら呼びかけても、子どもたちの心に届かず、上辺だけのスローガンのように、空しくこだまするに終わってしまいかねないのであります。

いじめや暴力をなくすために、何といっても必要なものは勇気でしょう。悪に屈しない勇気、悪を傍観視しない勇気――それらが総結集された時、いじめや暴力も、すごすごと退散していくにちがいないのですが、それが意外に難しいのです。

私は昨年、「聖教新聞」紙上で、日ごろ中学生などに接する機会の多い青年たちと、数回にわたってこの問題を論じ合いました。それを通じて痛感したのは、親や教師の関わり方を含め、この“勇気の人”であることの困難さです。

善に関する言葉の堕落が深刻化

かつて、S・ヴェイユは、時代の病理を「善に関する言葉の堕落」と喝破しました。病理はその後ますます進行し、勇気に限らず努力や忍耐、愛や希望などの「善に関する言葉」がいずれもシニカル(冷笑的)な視線にさらされ、その視線を気にするあまり、それらの言葉を口にすることさえはばかられる――そんな雰囲気さえ感じられます。その病理に真正面から向き合わないと、抜本的な対応はできないのではないでしょうか。

話題を呼んでいるように、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがテレビの電波に乗り、そのものずばりのタイトルで総合雑誌が特集を組み、単行本が出版されるという現代日本の状況は、問題の所在が奈辺にあるかを物語っています。

「殺すなかれ」という、世界宗教の歴史とともに古い戒律、徳目さえ、この有り様ですから、いじめや暴力など、他は推して知るべきでしょう。

そうした状況が生まれる背景には、近年、社会にとみに顕著に見られるモラル・ハザード(倫理の欠如)と、それにともなう悪への無関心、シニシズム(冷笑主義)の蔓延があります。

そして、私が特に強調しておきたいのは、悪に対する無関心、シニシズムは、時に悪そのものよりも恐ろしい、社会を根の部分から蝕んでいく病根であるということです。

私がかつて対談集を編んだ2人の識者、ロシアの優れた児童文学者A・リハーノフ氏と、“アメリカの良心”と呼ばれたノーマン・カズンズ氏も、軌を一にして、そのことを強く訴えておりました。

無関心が青少年の魂に及ぼす罪の深さについて、リハーノフ氏は、エベルハルトの次のような逆説的な言葉を引きながら、警鐘を鳴らしております。

「敵を恐れるな、最悪の場合でも敵は汝を殺すぐらいだろう。友人を恐れるな、最悪の場合でも、友人は汝を裏切るぐらいだろう。無関心なやからを恐れよ、やつらは、汝を殺しもしないし、裏切りもしないが、やつらの沈黙の合意のせいで、地上には裏切りと、殺人が存在するのだ」(『若ものたちの告白』岩原紘子訳、新読書社)と。

なぜ逆説的かといえば、無関心は、殺人や裏切りから目を背けることによって、かえってそれらの悪を、幾倍にも増長させてしまうからです。

「善」と「悪」とは可変的な実在

また、カズンズ氏が、作家スティーブンソンの「わたしは悪魔よりもシニシズムの方がずっと嫌いだ」との言葉を共感をもって援用している(『人間の選択』松田銑訳、角川選書)のも、シニシズムにつきまとう安易さ、自己不信が、理想や希望、信頼などの言葉を堕落させ、息の根をとめかねないことを、憂慮してのことでした。

換言すれば、両氏が、無関心やシニシズム(冷笑主義)を悪や敵以上に厳しく戒めるのは、そこには生の手応え、生きることのリアリティー(現実感)が欠落しているからであります。

無関心やシニシズムが支配する生命空間とは、愛や憎しみ、苦悩や歓喜など人間的な情念というものを感じさせず、どこか空々しく投げやりな、自己閉塞的な世界といってよい。悪への無関心は、同時に善への無関心を意味しますから、そこは、善と悪とが織りなす葛藤やドラマのもつ生々しいリアリティーとは無縁の殺風景な生命空間であり、言語空間であります。

子どもたちの心の闇にたゆたう一種の不気味さに、大人社会が当惑と苛立ちを募らせるのは、なぜか。

そこには、価値の空白時代につきものの無関心やシニシズムという病理を、子どもたちの鋭敏な心が先取りし、そのまま映し出していることへの本能的な危惧、警戒心があるとはいえないでしょうか。

先に、いじめをはじめとする青少年の問題行動の“量”よりも“質”と申し上げたのは、その意味であります。

無関心やシニシズムに比べ、悪は善と同じくリアリティーそのものであって、悪なくして善はなく、善なくして悪なし――両者は、相対的であるとともに相補的な実在であります。また、悪も対応のいかんによっては善に転じ得るのだ(逆もまた真です)という点では可変的実在でもあります。

決定的に重要なことは、善も悪も互いに(善ならば悪を、悪ならば善を)「他者」として、その関係性の上に「自己」を成り立たせているということであります。 「自我=エゴ」と「自己=セルフ」

仏教の知見は、そのことを「善悪不二」「善悪無記」と説いております。

具体的にいえば、たとえば、釈尊(善)という「自己」の仏道修行を完結させるためには、敵対する提婆達多(悪)という「他者」の存在が欠かせないのであります。

逆に、無関心やシニシズムに、致命的に欠けているのが「他者」であります。そこには「自己」しかない。とはいえ、真実の「自己」とは(カール・ユングが、意識の表層次元の「自我=エゴ」と深層次元の「自己=セルフ」を立て分けたように)、「他者」と密接に結びつきながら深層次元に脈動する実在ですから、無関心やシニシズムの世界における「自己」とは、ユングのいう「自我=エゴ」と同じく、表層次元を浮遊する閉塞的な自意識でしかありません。

そうした「自己」は「他者」が不在であり、「他者」の痛みや悩み、苦しみへの不感症に陥っているがゆえに、自分の世界に引きこもってしまったり、ささいなことでキレて暴力的な直接行動に走ったり、あるいは素知らぬ顔で傍観者であったりする。

やや大状況的な言い方になりますが、こうした「他者」の不在という精神病理こそ、ファシズムやボリシェビズム<※1>などの20世紀を席巻した狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌であったこと、また、現在でも、いやますバーチャル・リアリティー(仮想現実)の氾濫によって、「他者」は影が薄くなる一方であることを考えれば、子どもたちの問題行動を、“対岸の火事”視していることなどできないはずです。

「自己」の内に「他者」が欠落していれば、対話は成立しません。平和学界の重鎮であるJ・ガルトゥング博士が私との対談集で使っておられた言葉を借りれば、「外なる対話」は「内なる対話」を前提としているからです。

「自己」の内に「他者」を欠いた対話は、形は対話のように見えても、一方的な言い合いに終始してしまう。コミュニケーションは不全です。最も懸念されるのは、そうした言語空間――ある識者が“失語症と多弁症の同居”と形容していた言語空間にあっては、言葉が生き生きとした響きを失い、ついには圧殺されてしまうであろうということです。言葉の死が「ホモ・ロクエンス」(言語人)としての人間の魂の死につながることは、いうまでもありません。

真のリアリティーとは、そのような自己閉塞的で表層的な次元を突き破り、「自己」と「他者」の全人格的な打ち合い、言葉の真の意味での対話を通してのみ発現され、生々躍動する精神性であり、共通感覚であります。

私は、ハーバード大学で2度ほど講演の機会をもちました。その1回目(「ソフト・パワーの時代と哲学」、1991年9月)では、時代精神として要請されるソフト・パワーの核を成す“内発的なるもの”“内発的な精神性”は、苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘を経て顕現されるのではないか、と訴えました。

生きていることの確かな手応え、リアリティーは、「自己」と「他者」が、深層次元で織りなす入魂と触発のドラマ、「内なる対話」と「外なる対話」の不断の往還作業という溶鉱炉の中で鍛え上げられてこそ、万人を包み込む普遍的な精神性の輝きを帯びてくるのであります。そこにこそ、言葉は、本来の精彩を取り戻してくるのであります。

古典や名作と呼ばれる人類の精神的遺産は、いずれもその深層次元から養分を吸い上げ結実させた精華ですが、ここでは一例として、ドストエフスキーの作家活動に転機をもたらしたとされる『死の家の記録』に触れてみたいと思います。

周知のように、彼は若いころ、思想犯としてシベリア流刑に処せられ、4年間を酷寒の地で過ごしました。そこで体験したさまざまな“地獄”を通して掘り当てた民衆の美質、人間の美質を綴った類まれなルポルタージュがこの作品であり、なかに次のような印象的なくだりがあります。

罪人を不幸な人と呼ぶ民衆の心

「民衆は、その罪がどんなにおそろしいものであっても、罪のゆえに囚人をけっして責めない、そして囚人が背負わされている罰と、不幸な境遇のゆえに、囚人を許しているのである。ロシアのすべての民衆が犯罪を不幸と呼び、罪を犯す者を不幸な人と呼んでいるのは、けっして偶然ではない。これは深い意味のある定義である。それがいっそう尊いのは、無意識に、本能的になされているからである」(工藤精一郎訳、新潮文庫)と。

「不幸な人」という言葉は、何と豊饒な語感、余韻を湛えていることでしょうか。ロシアの民衆への思い入れもあるかもしれない。しかし、私は魂の表層次元を突き抜けて深層へと迫る文豪の眼力を信じます。

犯罪を「不幸」と呼び、罪人を「不幸な人」と呼ぶ――この民衆の眼差しは、いつも「他者」をしっかりと見据えております。囚人も自分も別の人間ではなく、いつ自分が同じ境遇になっても不思議ではないという共感性が脈打っております。

そこには、自分を「善」、他人を「悪」と決めつける軽佻浮薄な傲慢さ(イデオロギーの悪の淵源です)と決別し、縁によって「悪」に堕ちた者は、また縁によって「善」へと蘇ることができるとする精神性が磁気を帯びており、ルソーが原初の社会感情とした「憐憫」の心の広がりが、包み込むように伝わってきます。

外から見て、どんな苦しい状況下にあろうとも、そのように人間の絆が保たれ、コミュニケーションが全うされている社会は、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという不遜な問いかけに人々が虚を突かれ、及び腰の議論を余儀なくされるような社会、すなわちコミュニケーション不全を病む社会とは、まさに対極に位置しているのであります。

そして、ドストエフスキーのその後の著作に通底するテーマが、壮大なる弁神論<※2>であることが示しているように、あるいはルソーの教育理論の根底に、ドグマ(教条)や教会の権威とは無縁の独自の宗教感情が据えられていたように、普遍的な共感性や精神性の核心部分には、ほぼ例外なく何らかの宗教性――維摩詰<※3>の「一切衆生病むを以って是の故に我病む」という言葉に凝縮される大乗仏教の菩薩道の極致や、「99匹」よりも迷える「1匹」に親しく接するイエスの愛の精神と強く響き合う、人間本然の宗教性が息づいているのではないでしょうか。

ガンジーらの非暴力運動の源

マハトマ・ガンジーやマーチン・ルーサー・キング博士が繰り広げた非暴力運動は、戦争と暴力に明け暮れた20世紀を振り返ると、ひときわ鮮やかな光芒を放つ精神性の戦いの結晶といえましょう。

非暴力運動があれだけの波動をもたらし、今なお人々の心を揺り動かし続けている大きな理由は、「宗教は、他のすべての活動に対して道徳的基礎を提供する」(『私にとっての宗教』竹内啓二他訳、新評論)とガンジーが述べているように、いつに彼らの言動が、状況に左右されない強固な宗教的信念に裏打ちされていたからであると、私は信じております。

だからこそ非暴力運動が、普遍性と不変性を獲得することが可能であったのだと――。

この精神性、宗教性というファクターを基軸にして、教育の問題に深い洞察を試みた人に、アメリカの心理学者A・H・マスローがいます。

彼は、教育の第一義的課題として、「教育は、その人がそのなりうる最善のものとなり、その人が潜在的に深く蔵している本質を、現実にあらわすのを助けるべきである」(『創造的人間』佐藤三郎・佐藤全弘訳、誠信書房)と述べています。

この点、教育の目的を「子どもの幸福」に置くスタンスを微動だにさせなかった牧口教育学説とピタリと符合します。

マスローは、その課題を全うするために、教育における「長期の価値目標」「究極的価値」から片時も目を背けてはならない、そうでないと、教育は、その人がなりうる「最善のもの」を見失う本末転倒に陥ってしまうであろうと、警告を発し続けました。

軍事や経済などの短期の目標に優先順位を与え続けてきた結果、現代の教育危機に直面している日本人にも、まことに耳の痛いことでしょう。

そして、マスローいうところの長期かつ究極的な「価値目標」とは、彼が「哲学的」「宗教的」「人間主義的」「倫理的」等と形容している、人間が深く蔵する精神性、宗教性の涵養にほかなりません。

昨年秋、アメリカ・ウェルズリー大学のビクター・カザンジン学部長とお会いする機会がありました。

カザンジン学部長は、同大学に本部を置く全米350大学のネットワーク「教育変革プロジェクト」の共同創設者の一人であり、同プロジェクトでは、人間と人間、人間と社会といった関連性が分断された教育の状況を打開するため、教育に「全体性」と「精神性」を復権することが目指されています。

学部長は、「知性の教育」と「精神面での教育」の分離が進み、教育を手段視する風潮が強まっていることへの懸念を述べ、アメリカ創価大学が目指す全人性を育む人間教育に温かな期待を寄せてくださいました。

まさに、この「全人性の涵養」を核とする人間教育こそ、牧口会長以来、営々と積み上げてきた創価教育の眼目であり、永遠不変の指針であります。

教育界の混迷、子どもたちの世界を覆う闇の深さは、宗教に限らず、家庭や地域を含めて社会総体が有するべき教育力の低下、衰弱を物語ってあまりあります。

それだけに、小手先の対応に終わることなく、いかに迂遠に見えようとも、マスローが「価値ぬきの教育でよいのか」と問いかけたように、精神性さらには宗教性といった人間の心の深層にまで踏み込んだ根本療法にアプローチする段階にきているのではないか――こう考えるのは、決して私一人ではないと思います。

宗教教育の強制は戦前回帰の愚

ただし断っておきたいのは、何も私が「宗教教育」の導入を意図して、こうしたことを論じているわけではないということです。

公教育における「宗教教育」の実施については、憲法や教育基本法でも明確に禁じられております。

こうした原則を定めた規定は、いうまでもなく、戦前、国家神道が絶対的な地位を占め、学校においても、その影響を色濃く受ける中で、教育が軍国主義や国家主義を鼓吹する手段となってしまったことへの深い反省に基づくものでした。

近年、青少年をめぐる問題が深刻化する中で、社会に規律を取り戻そうと、宗教を公教育の場に持ち込もうとする復古主義的な色彩をもった動きなどが一部でみられますが、私は、戦前の日本が犯したような、内心の自由や信教の自由を踏みにじる「宗教教育の強制」という愚行は、断じて繰り返してはならないと強く訴えておきたい。

「信教の自由」は断じて守り抜く

私ども創価学会の人権闘争の原点は、国民から精神の自由を奪い、戦争に駆り立てようとした軍国主義ファシズムに、断固として戦い抜いた牧口初代会長と戸田城聖第2代会長の精神闘争にあります。

両会長の精神を受け継いだ私も、創価学会の社会的使命の一つはそこにあると考え、行動を貫いてきました。その信条を私は27年ほど前、年1回の本部総会の講演で、こう決意を披歴したことがあります。

「私どもの信教の自由を守り抜くことは当然として、さらにたとえ私どもと異なった思想、意見をもった人々であったとしても、もしその人たちが暴虐なる権力によってその権利を奪われ、抑圧されそうな時代に立ち至ったときには『人間の尊厳の危機』を憂えて、断固、それらの人々を擁護しゆくことを決意しなければならないということであります。

たとえば、他宗教の人であれ、また宗教否定の思想をもつ人であったとしても、これらの人を守りたい。これこそが人間の尊厳を謳いあげた仏法がもっている理念の帰着であるからであります」

ゆえに私は、憲法が定める「信教の自由」は絶対にゆるがせにしてはならないものであり、その原則を突き崩す公教育における「宗教教育」の導入、つまり、教育基本法が禁じる「特定の宗教のための宗教教育」の実施には強く反対するものです。

もちろん、国公立の学校とは別に、私立の学校においては、それぞれの教育方針や教育理念に沿った形で、宗派教育を含めた宗教教育を行うことは認められており、子どもたちの「信教の自由」が保障される限りにおいて問題はないことは、改めて申すまでもないことです。

なお付言しておけば、私が創立した幼稚園から大学までにいたる創価教育の一貫教育の学校では、私学ではありますが宗教教育は行っておらず、授業のカリキュラムの中にも一切盛り込まれておりません。

学校の理念として追求しているのは、「何のため」という内省の眼差しを養いながら、社会のために価値を創造していく豊かな人間性や精神性を育むことにあるからです。

宗教性と宗派性

ところで、一口に精神性、宗教性を掘り起こす作業といっても、それは、いってみれば人類史を俯瞰するような文明論的課題であり、各人、各家庭、各界、各団体が、それぞれの立場、方法でもって力を合わせて事に当たっていかなければ越えることのできない、大きな“山”であります。

当然のことながら、それは創価学会(インタナショナル)の課題でもあります。私どもの仏教運動とは、同時に「人間革命」であると常々申し上げている意味もそこにあります。

すなわち、宗教的使命は、人間的・社会的使命と相即不離であって、前者は必ず後者へと昇華、結実していかなければならない。もし、両者を切り離してしまうと、宗教性は宗派性へと歪曲され、ともすると宗教は、人々に害を及ぼす反人間的、反社会的な存在に堕してしまいます。多くのカルト教団が陥りがちな迷妄が、ここにあります。

私が強調する「宗教性」とは、「宗派性」とは厳しく一線を画しております。人間的・社会的側面での価値創造に繋がっていかない宗教性は、その名に値せず、どこかに偽りがあるのであります。ゆえに、私はかつて「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵し続ける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いである」と位置づけたのです。

この「“精神”の戦い」とは、精神性、宗教性の掘り起こしの謂であります。

あの阪神・淡路大震災の折、創価学会の地元地域のメンバーが、青年たちを中心にボランティア活動に立ち上がり、大活躍しました。その活躍ぶりが、外国のメディアにも報道され、話題を呼んだことは記憶に新しいところです。また、地元の会館も、避難所として開放し、炊き出しなども含めて、大変感謝されました。最近も、昨年9月に東海地方を襲った集中豪雨に際し、被災者への救援活動に協力して、地元から感謝をされました。

それは民衆と苦楽を共有せんとの、精神性、宗教性の発露しゆく当然の帰結なのであります。
以上申し上げたように、宗派性を超えて、精神性、宗教性の普遍的な広がりをもちうるかどうかは、その宗教が21世紀文明に貢献していくための試金石といってよい。それと同時に、話を教育次元、特に宗派性をもち込んではならない学校教育の場に戻せば、私は、子どもたちの荒れた内面を耕し、緑したたる沃野へと変えゆく古今変わらぬ回路は、そうした精神性、宗教性を豊かにたたえた芸術作品、なかでも書物に接していくこと、即ち読書だと思います。
コミュニケーション不全の社会に対話を復活させるには、まず言葉に精神性、宗教性の生気を吹き込み、活性化させていかなければならない。その活性化のための最良、最強の媒体となるのが、古典や名作などの良書ではないでしょうか。

必ずしも学校教育に限ったことではありません。私の経験に照らしても、若いころから古典や名作に親しむ習慣をつけるということは、後々にいたるまで、計り知れない財産となっていくものです。

現在でも、さまざまな形で文学作品に触れる機会は学校で設けられていますが、多くの場合、「国語」をはじめとする教科で読解力などを養うための教材として使われるのが専らとなっているようです。

近年、さまざまな形で読書運動が全国の学校で積極的に行われるようになっています。こうした取り組みを付随的なものに終わらせず、偉大な文学作品と親しむ時間を学校教育の柱の一つとして導入することを、真剣に検討してみてはどうかと思うものです。

この点に関し、特定の宗教に偏らない教育を模索するなかで、多様な教材を用いて、生徒自身に自ら能動的に学習させる方法を導入したスウェーデンの例などもあります。これは、参加型学習を通して、現代の文明が抱える根源的な問題や倫理的な問題に対する洞察力を養うことを目指すものです。

具体的な実施にあたっては、これら諸外国の例などを広く参考にしながら、具体的な方法を検討していくことが有益でしょう。

人生経験に通底する「読書経験」

今、なぜ読書なのかといえば、第1に、それは読書経験が、ある意味で人生経験の縮図を成しているからです。

山本周五郎の『ながい坂』(新潮社刊)に、このような一節があります。

「人の一生はながいものだ、一足跳びに山の頂点へあがるのも、一歩、一歩としっかり登ってゆくのも、結局は同じことになるんだ、一足跳びにあがるより、一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉や、いろいろな風物を見ることができるし、それよりも一歩、一歩を慥かめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力になるものだ」と。

まことに、味わい深い言葉です。読書経験にも同じことがいえるのではないでしょうか。古典や名作は、歯応えがあります。必ずしも長いものとは限らないが、いずれにせよ、漫画本を読むように気楽に読み飛ばすわけにはいかない。難解な個所にぶつかり、再読三読、ようやく自分なりに納得できる場合もあるかもしれない。あるいは、その時は分からなくても、長じてその意味にハタと思い当たることもしばしばです。

たしかに、それは、足元を確認し、周囲に目を配りながら、一歩一歩と山頂を目指す山登りと似ています。古典や名作は、ダイジェスト本や結論だけを要約したものを読んで事を済ますわけには、決していきません。苦しく困難な登はん作業にも似た格闘を経て、初めて血肉となるのが良書です。

ひとり机に向かっての読書もそれなりの意味をもちますが、習慣化という意味からも、友人や教師と一緒に、意見を交わしながらの読書経験は、一層意義深さを増すにちがいない。

私も十代に、戦後間もない焦土で地域の青年たちと読書サークルをつくっていましたし、何よりも、恩師・戸田城聖先生を囲んでの定期的な読書会の一回一回は、金の思い出として脳裏に刻まれています。 「書を読め、書に読まれるな」とは、恩師の口癖でした。人生の達人であった恩師の言々句々から学んだことは、本との付き合い方は、人間の付き合い方と同じことであり、良書に触れることは、良き師、良き友をもつことと変わるものではないという貴重な教訓でした。

仮想現実の氾濫がもたらす弊害

今、なぜ読書か。その第2の意義として、蓄えられた読書経験は、巷にあふれ返るバーチャル・リアリティー(仮想現実)のもたらす悪影響から魂を保護するバリアー(障壁)となってくれるでしょう。

映像などによって送り出されるバーチャル・リアリティーは、一定の利便性をもってはいますが、それは、人間が人間同士あるいは自然と直に触れ合うことによって生まれる共感性のリアリティーとは似て非なるものです。

のみならず、バーチャル・リアリティーは、その刺激性の強さゆえに、リアリティーの世界にのみ育まれるであろう「他者」の痛みや苦しみへの共感性、想像力を覆い隠してしまいかねない通弊を有しています。

さらに、つくられたイメージを受動的に受け取る環境ばかりに身を置いていると、能動的な諸能力――考える力、判断する力、愛し共感する力、悪に立ち向かう力、信ずる力等、総じて内発的な精神性が、どうしても衰弱していってしまいます。

フランスの優れた科学者にして哲学者アルベール・ジャカール氏は言っております。

「情報科学は、情報をもたらすかぎりにおいては貴重なものです。しかし、情報科学がもたらすのは、人を小馬鹿にしたような、急速冷凍したコミュニケーションでしかありません。沈黙と言葉からなる真の対話においては、創造性のある驚きが自然に生まれます。しかし、情報科学によってそれを引き起こすことは不可能です」(『世界を知るためのささやかな哲学』吉沢弘之訳、徳間書店)と。

「人を小馬鹿にしたような、急速冷凍したコミュニケーション」とは、言い得て妙ではないでしょうか。そして、読書は、そうしたコミュニケーションではとうてい満たされることのない魂の深層に、励ましと癒しの風を送り込んでくれるはずです。真の読書とは、畢竟、作者と読者との粘り強い、親身な対話に帰着するからです。読書経験は、人生経験の縮図と申し上げたのは、そういう意味です。

第3の意義として、読書は青少年のみならず、大人たちにとっても、日常性に埋没せず、人生の来し方行く末を熟考するよいチャンスとなるでしょう。

かつて読んだことのある本であれ、初めてのものであれ、自分の全人格をかけて受け止め、感じとった“何か”がなければ、若者や子どもたちと感想を語り合うなど、とうてい不可能です。人生における“真実”は、口先ではなく、人格を通してしか伝わっていかないからです。
何といっても大切なのは、読書経験を通して、子どもたち自身の「問いかけ」を大切に育みながら、時間をかけて自分を見つめ直し、自分の力で「答え」を探し出す力を育んでいくことでしょう。

トルストイが描いた回心の劇

偉大なる文学作品とは、その意味で“問いかけの宝庫”といってよい。

一つだけ、具体例を挙げれば、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の最終章に出てくる、レーヴィンの「われとは何か、なんのために生きているのか」に始まる問いかけの場面です。

そこでは、作家の自画像といわれるレーヴィンが、生きるための規範への求道を続けるなかで、ある農夫の言葉に触れて新しい境地を開いていく姿、その過程での心の動きが、見事なまでの筆致で描き出されています(以下、引用は『トルストイ全集8』中村白葉訳、河出書房新社から)。

「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きてるです。神さまをおぼえていますだよ」

「魂のために」生きる――レーヴィンの心を電撃のように貫いたのは、こんな農夫の何気ない一言でした。それから彼は、広い街道を大股で歩きながら、「心のうちに新しい何ものかを感じて、まだその何ものであるかを知らないながらに、一種の喜びをもって、その新しいものを手さぐりしてみる」という、かつてない体験を味わいながら、自問自答を続けていく。

そして、ついに自分なりの「答え」にたどりついた彼は歩くことを止め、林の草の上に身を横たえ、こう心の中でつぶやきます。

「おれは何も発見したのではなかった。ただ自分の知っていることを認識したにすぎないのだ。おれは、過去においておれに生命をあたえてくれたばかりでなく、現在もこうして生命をあたえていてくれるその力を理解したのだ。おれは虚偽から解放されて、主人を認識したのだ」と。

こうした暗から明への回心のドラマは、トルストイの世界にしばしば登場するものですが、そこで織りなされているものこそ、「問いかけ」から「他者との魂と魂の触発」へ、そして「内省的な眼差し」を通して自身の中から「新しい自分」を発見し創造していく精神の営みといえるでしょう。

その健全な精神の営みを回復したレーヴィンであればこそ、戦争が覆い隠してしまう“人間が人間を殺す”という真実に気づき、セルビア戦争への参加を義挙として燃え上がる自己犠牲への民族的熱狂に水をさすように、「単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」と叫ぶことができたのではないでしょうか。

「殺すなかれ」という不滅の徳目は、彼のような魂の苦悩と葛藤の果てに口にされる時、にわかに精彩を放ってきます。

そして私が『アンナ・カレーニナ』の中で、最も圧巻だと感じるのは、レーヴィンが、“自分の実感した「善の法則」は、キリスト教徒だけのものなのか”“ほかのユダヤ教徒や、イスラム教徒や、儒教や仏教の信徒には、この最善の幸福は奪われているのだろうか”と懐疑する最後のシーンです。

人間の内なる精神性、宗教性に迫って、古今の大文学中での白眉であろうと、私は思っております。

古典や名作と格闘する青春を

こういう古典を熟読吟味することが、どれほど自分の精神世界を豊かに、分厚いものにしてくれるか――優れた精神的遺産を“宝の持ち腐れ”にしておいては、もったいない限りであります。

トルストイに限りません。ドストエフスキーでもよい。ユゴーでもゲーテでも、何十年、何百年という時間の淘汰作用を経て生き延びてきた古典や名作には、必ず“何か”が含まれているはずです。外国の大文学が重すぎれば、日本の近代文学、あるいは河合隼雄氏などが推奨しているコスミックな児童文学の中からでも、いくらでも拾い出すことが可能でしょう。

いくら“活字離れ”がいわれても、否、“活字離れ”の時代であればあるほど、私は、時流に抗して、古典や名作と一度も本気で格闘したことのない青春は、何と寂しく、みすぼらしいものかと訴えておきたいのであります。

また、幼児期や低学年の子どもたちに対しては、家庭にあっても学校にあっても、「読み聞かせ」の習慣をできるだけ増やしてほしいと願うのは、高望みにすぎるでしょうか。

一人で読書をすることも大切ですが、親や教師が声を出して、子どもたちに語りかけていくことの意味は、さらに大きいでしょう。

親や教師の声を通して、子どもたちは、言葉の体温を感じながら、物語の情景に思いをはせるようになる。そして、声の響きを通して、喜びや悲しみ、痛みなどを全身で受け止める感性が豊かに磨かれていきます。

また親や教師が、子どもたちの表情を見ながら、声の調子を変えたり、時折立ち止まって、子どもたちの声に耳を傾けてみる――そんな時間を一緒に過ごすなかで、互いの信頼関係が着実に形づくられていくものです。

そして、「読み聞かせ」をする時には、農業に携わる人が豊かな実りを願って種を蒔くように、子どもたちに語りかける時にも、「どうか、すこやかに成長してほしい」「どこまでも可能性を伸ばし、夢を実現してほしい」と、“種蒔く人の祈り”を込めていくことが大切ではないでしょうか。「自分のことを信じてくれている」「思ってくれている」という安心感こそが、子どもの成長の一切の基盤となると思うのです。

開設32年迎えた「教育相談室」

最後に、「社会全体の教育力」を高めるという意味から、創価学会教育部の取り組みの一端を紹介させていただきたいと思います。

創価学会の教育部では、ささやかではありますが地域貢献の一環として、「教育相談室」を1968年に開設し、以来、今日まで32年間にわたり、教育に関する相談やアドバイスをボランティアで続けてきました。

相談人数は、すでに、のべ28万人に及び、現在も全国28カ所で800人の教育部員が、その活動にあたっています。相談員は現職の教育者と退職者で、全員がカウンセリングの基礎から学び、毎週、実際にカウンセリングを行い、事例研究を積み重ねております。

この「教育相談室」は、会員・非会員を問わず利用できる、広く社会に開かれたものとなっており、アドバイスやカウンセリングも教育上の観点から行うもので、信仰に関する話は行わないこととなっています。

また一昨年からは、地域と家庭の教育力の向上に貢献することを目指し、「教育相談長」の制度をスタートさせ、各地域の窓口となって、教育懇談会などを日本全国で広範に推進していく試みが始まりました。

これらの教育相談の地道な積み重ねによって、子どもたちが明るい笑顔を取り戻し、新しく出発ができるようになった事例は、たくさんあります。

さまざまな問題で悩む子どもや親を“孤独”にしないためにも、学校や行政の相談窓口に加えて、気軽に、また安心して相談できる場を地域で数多く設け、ともに乗り越えていく体制づくりを社会で積極的に進めることが必要であると私は考えるものです。

「教育」の深さが「未来」を決める

教育部の教育相談室で受ける相談の中では、「不登校」の占める割合が7割と最も多く、そのきっかけの半数近くとなっているのが「いじめ」であると報告されています。

こうした現実を前に、いつまでも手をこまねいているのではなく、社会全体が今まで以上に関心をもって、いじめや暴力といった問題に立ち向かわねばなりません。「いじめや暴力は絶対に許さない」という気風を確立し、社会に広がる「無関心」や「シニシズム(冷笑主義)」の風潮を改めていく必要があります。

創価学会としても、「教育のための社会」を実現するための挑戦の一環として、また広く社会に「平和の文化」の土壌を育むという観点から、今後とも粘り強く意識啓発の運動を進めていきたいと思っております。

政治でも経済でもない。教育の深さが、社会の未来を決める。そして教育こそが、子どもたちの幸福の礎になるものです。

21世紀を「教育の世紀」に――今後も私は、この強い信念のもと、志を同じくする人たちとともに、人間教育の潮流をどこまでも広げていきたいと思います。
◆語句の解説
※1 ボリシェビズム
急進的な革命主義のこと。ロシア語の「ボリシェビキ(多数派)」に由来し、1917年にロシア革命を主導したレーニン派が通称として用いていたことから、この名がついた。
※2 弁神論
ドイツの哲学者ライプニッツが最初に用いた用語で、“全能の神によって世界が創造されたとするならば、この世になぜ諸悪や不幸が存在するのか”との疑問を弁証するための議論。
※3 維摩詰
釈尊在世の時代、中インドの毘耶離(びやり)城に住んでいたとされる在家仏教者の代表的人物。大乗仏教の奥義に通じ、雄弁で巧(たく)みな方便を用いて、仏教流布に貢献したといわれる。