通教の友に感謝し世界に羽ばたく
教育部教育学科(日本語教員養成コース)2006年度卒業
山本貞子 さん (パラグアイ在住)
日本語教師
私が通信教育学部で学び始めたきっかけは、1995年1月の阪神淡路大震災を経験し、多くの方から激励を頂く中で、今までの考え方が大きく変わりました。これまで地域のボランティア活動には積極的に参加していましたが、それ以上に海外に目が向きました。個展の収益金を海外の恵まれない子供の教育資金に新聞社に送ったり、大好きな美術文化遺産訪問の海外旅行が海外ボランティアへと変化していきました。夏休みを利用して東南アジアの学校へのボランティア交流は専門の造形遊びだけでは物足らなく感じ始め、自分の名前をカタカナで書けた時のキラキラ輝く子供の喜びの目を見たとき、「あー、日本語をきちんと教えてあげたい」と思いました。
2003年4月通信教育学部日本語教師養成コース3年に編入学。通教の勉強は正直自分との闘いでした。仕事・家事・育児・地域活動をこなし、隙間時間を見つけ本を広げる以外に前には進めません。今までの自分の人生で一番勉強したと自負しています。夏期スクーリングに参加したとき、松風センターの生活は『本当に楽しかった』です。少々の事は動じない関西のおばさんですが、パイプ二段ベッド4個一括り。どこかで誰かが寝返りを打つと8ベッド全体が一緒に揺れる。特技はどこでも寝ることが出来る私ですが、さすがに「あっ、地震‼」と何度も目を覚ましました。
2年目の夏期スクーリングで、神戸の先輩が「これからブラジル・サンパウロにいる友人に国際電話するのよ」ということから、娘がもうすぐ留学するからその方を紹介して欲しいと頼み、その電話でお話をさせて頂きました。後に、その方が娘のサンパウロのお母さん的存在になり、私もサンパウロに行くたびにお宅にお伺いするようになるとは驚きです。
ある日、地元の教育委員会から姉妹都市の外国語大学へ交換教員として日本語指導にぜひ行かないかと話しが来ました。中国語を趣味で学んでいた私はチャンスだと捉え、三回目の夏スクの終了後、あと半年で必ず卒業しようと固く決心をして中国の古都へ出発した。それまで地元の国際交流で日本語ボランティアを2年していたが、大学のクラスとなると準備が必要でした。楽しい教員生活だったが、上海から三時間の古都の方言はきつく、これでは中国語の勉強はだめだと、二年後天津の国立大学に移りました。毎日午前中は留学生班で中国語の勉強、午後は日本語教師と充実した生活でしたが、娘と職場の先輩がブラジルでJICAボランティアをしていたので訪問した。大らかに生活を楽しむ人々とラテンの大地に触れ、さっそく私もJICAシニアVに挑戦し運よく合格しました。しかも派遣は、ブラジル・リオデジャネイロ。事前ポルトガル語の訓練は大変だったが、おかげでリオ州他2州を長距離バス・飛行機を使い巡回活動を行うことができました。任期終了と同時に日本人学校の教諭の話が来ました。
そして今、パラグアイ・アスンシオンに暮らし、日会日本語学校ボランティアを始めました。教えることは本当に楽しいです。子供の時からの夢は、通教で日本語を学んだことから一気に広がりました。励ましあった通教の友に心から感謝しています。
ページ公開日:2018年01月19日