平和学に限らず学問の追究にはいろいろなスタイルがあります。ここでは、私自身の経験に基づく平和学の学び方を紹介させていただきますが、これが皆さんの「平和」についての学びの参考になれば幸いです。
今回は「戦争と平和」についての理解を深めること、その学びの方法としての「文献講読」について述べていきたいと思います。
平和学は20世紀半ばに生み出された学問です。第一次、第二次と世界戦争が続き、ホロコーストや重慶、ゲルニカへの無差別爆撃、そして、広島、長崎への原爆投下という激烈な破壊と殺戮であった20世紀の戦争。そして、それほどの殺戮を経験したにもかかわらず、アメリカとソ連は世界を東西に分断して対立を深め、核兵器を向け合って相手を牽制するという「冷戦」を戦う。そのような時代でした。
この20世紀の戦争の<進化>は、核戦争の危機、すなわち人類存亡の危機をもたらしました。この深刻な危機に直面し、世界各地の市民が核戦争の防止、核兵器使用の反対を訴える運動を繰り広げました。このような時代状況の中で、平和学は核戦争を防止するための「戦争の研究」として始まったといえると思います。
ところで、「戦争の研究」自体は20世紀に始まったわけではありません。「人類の歴史は戦争の歴史である」と格言のように語る人もいますが、実際には私たち人類=ホモサピエンスが現れてから約20万年といわれる長い歴史の中で考えれば、「戦争」状態にあった時間はそれほど長くはありません。しかしながら、同族が殺し合う「戦争」はかなり異常な行為であり、だからこそ特異な出来事として記録されてきたともいえます。ヨーロッパで「歴史の父」とされる古代ギリシアのヘロドトスが著わした『歴史』が、ペルシア戦争の記録でもあることなどは、人類史とは「戦争の歴史」であるとする考え方を生み出す一因となっているかもしれません。
このように人間は古代から「戦争」を記録し、考察してきたわけですので、戦争をしない世界としての平和を理解するために、戦争と平和に関する古典的文献を読み解くという主体的な学びは有用であると思います。例えば、反戦・平和の思想のなかでヨーロッパにおける初めての体系的平和論とも紹介されるエラスムスの『平和の訴え』は熟読に値する古典であると思います。
ルネサンス期最高の人文学者と評されるエラスムスは戦争をどのように評価していたのでしょうか。『平和の訴え』には以下のような記述が見られます。
なんという恥ずかしさ! ユダヤ人よりも、異教徒よりも、野獣よりも、一まわりも二まわりも残虐な戦いをキリスト教徒がしているとは! (『平和の訴え』岩波文庫1961年50頁)
この表現には、戦争行為が人として行うべきではない恥ずべき行為であるという倫理が示されていると解されますが、その一方で、キリスト教を最高位とする差別的な考え方もみることもできます。
古典的文献を読むときには、その文献が著された時がどのような時代であったか、著者がどの様な社会に生き、どのような思想を持っていたのか、といったことを知ることがたいへんに有益です。そのような関連情報や知識が、文献の意味内容をより良く理解し、著者の真意を考察する大きな手掛かりとなるのです。
そのためには、該当する時代の歴史・社会についての研究書などを読むことになりますが、こうした古典には文献の翻訳者や研究者による解説が付されていることが多いですので、まずここから始めるのがよいと思います。初めて学ぶ者にとってはその解説を理解すること自体が易しいことではないこともあるかと思います。そうした場合は、初見の語句や概念などを専門の事典等で調べ、しっかりと理解していくことがその後の学びに活かされていきます。なお、こうした「調べもの」はインターネットで検索することが多いと思いますが、その際には<情報源>の信頼度を必ず確認することを怠らないようにしましょう。
『平和の訴え』についても、同書が著された16世紀初頭のヨーロッパがどのような世界であったのか、そこでエラスムスはどのように暮らしていたのかを知ることで、文献の真意、真価がさらに深く理解できるようになります。(ちなみに、岩波文庫版では本文とほぼ同じ分量の訳注と解説が付されています)
エラスムスが語る「平和」が意味することと現代に生きる私たちが想起する「平和」の意味内容との異同を知ることで、私たちが求めるべき平和とはどのようなものなのかをより深く考察することができると思います。
ここで詳述することはしませんが、16世紀のヨーロッパでは、ヴァロワ朝のフランス、神聖ローマ帝国のハプスブルク家、イタリア、ローマ教会などが勢力争いを繰り広げており、それが「戦争」へと発展するという時代でした。『平和の訴え』は、そのような時代に若くしてスペイン国王となったカルロス一世のために著された<キリスト教君主論>(君主として相応しい姿を説くもの)であったとも言われています。そのような特徴が感じられる以下のような記述もあります。
敬虔な君主にとっては、その人民の安全を図ることが何よりも重要な義務だとしたら、まず戦争こそは何よりも憎むべきものとされなければなりませんね。(『平和の訴え』84頁)
戦争は戦争を生み、復讐は復讐を招き寄せます。ところが、好意は好意を生み、善行は善行を招くものなのです。このようにして、自分の権力を放棄すればするほど、その人は一そう王者らしい王者と思われることになるのですよ。(『平和の訴え』97頁)
エラスムスがこのような君主の理想を示した時代のヨーロッパ世界の現実はどうであったか。『平和の訴え』と同時期にイタリアのマキアヴェリが『君主論』を著しています。『平和の訴え』よりはるかによく知られ、現在でもよく読まれています。同書には、「君主たる者は、冷酷だなどの悪評を気に欠けるべきではない」ですとか、「善い行いをすると公言する人間は、よからぬ多数の人々の中にあって破滅せざるをえない」、また、「ある国を奪い取るとき、征服者は当然なすべき加害行為を一気呵成に行うがよい」(『マキアヴェリ 君主論』中公クラシックスなどを参照)といったことが述べられています。
16世紀のヨーロッパは、すでに述べたように王族・諸侯の勢力争いに、プロテスタントとカトリックという宗教的正義をめぐる闘争が絡み合う戦乱の時代となっていきます。エラスムスのような一級の知識人が反戦・平和の思想を「訴え」ていたにもかかわらず、なぜ、当時の権力者たちはマキアヴェリの説くような暴力による支配、戦争の勝利の追究という行動を選んだのか。この問題を考えることが平和学の重要な学びの一つであると思います。
もう一つお薦めしたいのは中江兆民の『三酔人経綸問答』です。明治期日本が国際社会の中でどう振る舞うべきかが、平和主義者である<洋学紳士>と拡張主義者である<豪傑君>、そして、中庸的な<南海先生>の3人の会話劇の形式で述べられています。
角川ソフィア文庫版には詳細な解説が付されており、19世紀末の状況について、「ヨーロッパは、資本主義とナショナリズムが生み出す課題に直面し、激動期をむかえていた。日本はこの世界的な動向に吞み込まれ開国を促され、多くの留学生を送り込んだ」と紹介されています。
中江兆民はそのような留学生の一人としてフランスに渡ったわけですが、その当時のヨーロッパはまさに激動のなかにあり、フランスでは、1870年の普仏戦争に敗れたナポレオン三世が失脚して臨時政府がつくられたものの、プロイセンに対する抗戦を訴える市民たちによって新政府=パリ・コミューンにとって代わられるという混乱が続いていました。マルクスも注目したこのパリ・コミューンは労働者による初の社会主義政権とも言われますが、約2か月ほどで崩壊します。そして、フランス第三共和政が本格的に機能するまでにはさらに数年を要しました。
このような現実の戦争と政変を目の当たりにした中江兆民によって、日本という国家をそのような混乱に陥らせることなく存続させるためにはどのような政策を取るべきなのかということが語られています。150年ほど前のいわゆる国策論なのですが、米中対立に象徴される<分断>を深める現在の世界情勢を想起させる内容です。自国の利益や正義のために他国の人々を犠牲にして顧みないという時代に平和主義的政策をどう実現するのか。例えば、以下のような会話が展開されています。
豪傑の客が言うには「・・・凶暴な国があって、私たちが撤兵するのに乗じて派兵して襲ってきたときはどうするんですか。」
洋学紳士は、「僕は断じてそうした凶暴な国はないと信じています。・・・彼らがそれでも聞かずに銃砲を装備して突きつけてくるなら、僕らは大声で言うだけのことです。『あなたはなんと無礼で道義がないのだ』と。そして銃弾を受けて死ぬだけのことです・・・」
「豪傑君、僕は心の中で、わが国民が兵力も弾丸もまったく持たず、敵軍の手で殺されるのを望むのは、全国民を一種の道徳的生き物と化して、後々の社会の模範にしようとするためなのです。相手が悪事をなすから、自分もまた悪事をなすというのは、あなたの思想です。なんと低級ではありませんか。」
(『三酔人経綸問答』角川ソフィア文庫2021年61-64頁)
洋学紳士の「暴力を絶対的に否定する」という信念は首尾一貫して<正しい>ように見えますが、私などは「その正しさのゆえに人の命が犠牲になるということは許されるのか」という悩みが生じます。
2022年のロシアによるウクライナ侵攻が契機となって、フィンランドとスウェーデンがNATO(北大西洋条約機構)に加盟するなどヨーロッパの安全保障体制は大きく変わりました。ナポレオン戦争の時代以来、ナチス・ドイツの侵攻に際しても<中立政策>を保持してきたスウェーデンが、200年ぶりに政策転換をしたことの意味は少なくないと思います。近年、日本においても<歴史的転換>と呼ばれる防衛政策等の変更が行われていますが、新しい政策が<非戦>を貫くことにつながるのか否か、その是非を検討するということは、150年前から続く平和主義者と拡張主義者との対論をあらためて考えるということでもあるように思います。
以上、戦争と平和に関する古典的文献からは今日的な平和の課題を理解する大きな手掛かりを得ることになるのではないかということを述べてきました。最後に、自学自習用に推薦したい文献をいくつかお示ししますので参考にしていただければ幸いです。
- エラスムス『平和の訴え』(翻訳・箕輪三郎/解説・二宮敬)岩波文庫1961年
- 佐々木毅『マキアヴェッリと「君主論」』講談社学術文庫1994年
- カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(翻訳/解説・中山元)光文社古典新訳文庫2006年
- 萱野稔人『100分de名著 カント 永遠平和のために 悪を克服する哲学』NHK出版2020年
- 中江兆民『三酔人経綸問答』(訳/解説・先崎彰容)角川ソフィア文庫2021年
- 平田オリザ『100分de名著 中江兆民 三酔人経綸問答』NHK出版2023年
- E.H.カー『危機の二十年』(翻訳/解説・原彬久)岩波文庫2011年
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