世界平和と中日友好のフォートレス―創価大学での留学時代を振り返って― <2013年10月12日の「創価栄光の集い」での話>

李佩(リ・ハイ)氏 中国からの第1期国費留学生

 私は新中国からの第1期の留学生として創価大学に学んだ李佩と申します。本日は、母校・創価大学の大学祭にお招きいただき、心から嬉しく思っております。ここで深き感謝を込めて、皆様とご一緒に、私たち第1期中国留学生の創価大学での日々を振り返ってみたいと思います。
 私は9歳の時に、中国の長春外国語学校に入学し、日本語を専攻しました。当時の中国と日本の間には国交がなく、大変厳しい関係でした。
 1968年9月8日、新中国を敵対視する当時の日本にあって、その逆風の中で、池田先生は稀にみる勇気と比類無き先見性を持って、「日中国交正常化の回復、国連における中国政府の合法的な地位の承認、中国との経済的文化的な交流の推進」との歴史的な提言をなされました。

 この提言は、中日両国の利益と両国民の願いに合致するものであり、世界平和への一歩となる偉大な貢献であるとともに、第二次世界大戦後における中日両国の新しい時代の幕開けとなりました。更に池田先生は、翌年の1969年にも、小説「人間革命」第5巻の中で、“先ず中華人民共和国との平和友好条約の締結を最優先すべきであり、これこそ最も現実的な政策である”と主張されています。
 この提言と主張は、その後の世界的潮流や中日関係の発展が立証しているように極めて先見的であり、正しかったといえましょう。中日両国の国交正常化は1972年に実現され、1978年には中日平和友好条約が締結されたのです。
 その1972年という歴史的な年に、私は中国外交部に入り、通訳の予備軍として、日本への留学にそなえていました。しかし、日本で受け入れて下さる大学が見つからず、ある大学の聴講生になったものの、日本語特訓を目指す私達にとって、理想の学習環境にはほど遠いものでした。
 中国大使館の方からそうした状況を聞かれた池田先生は、すぐ私たちの保証人になり、先生が創立された創価大学への正式な入学を決断して下さいました。本当に、有難いことで、感謝の思いはつきません。後から聞いた話ですが、私たちのために、わざわざ創価大学に日本語別科を設立され、「周恩来総理からお預かりした大切な学生さんだから」といって、自ら細やかな配慮をめぐらし、準備に当たってくださったのです。
 1975年4月、新中国からの第1期国費留学生6人は、桜花爛漫の美しき創価大学のキャンパスに到着しました。私たちを池田先生が先頭に立って出迎えて下さり、熱烈歓迎の拍手と歓声、多くの先生方と学生達の笑顔に囲まれての入学となりました。日本に来て以来、これほどの歓迎をうけたのは初めてで、胸が熱くなったのを覚えております。
 私たちの入寮式にかけつけられた池田先生は、「創大生と中国の留学生は、生涯、手に手を取って、日中友好のため、アジアの平和建設のために尽くしていくように」と話をされ、ここにおられる田代理事長はじめ、最優秀の日本人学生に、私達と仲良く交流し、しっかりとお世話をするように、と託されておりました。
 また、入学式での挨拶では、池田先生は「本学に対して隣の親しき中国からはるばると、留学生の方々が六人、“向学の志”を同じくせんがために入学いたしました。アジアの平和のために、そして世界の平和のために、まことに嬉しい事でありますけれども、諸君いかがでしょうか。大学の先生方も、宜しく友人としてお願い申し上げます」と述べ、私たち留学生のために深々と頭を下げられたのです。
 その時、創価大学は開学して間もない大学でしたが、学生たちは皆、池田先生の建学の理念に燃え、はつらつと学問に取り組んでおりました。私達に対しても、最高の学習環境を作ってくださり、新設された日本語別科では、山口和子先生、いまの創価女子短期大学学長の石川惠子先生、短大元学長の福島勝彦先生をはじめ、最強の教学チームから、厳しくも温かく特訓を受けました。その甲斐あって、私達6人は、卒業してから今日まで、それぞれの立場で、中日友好事業に携わり、全員が、中国最高指導者の通訳も経験しております。私が皆さんの前でこのように日本語で話ができるのも、中国の日本大使として程永華大使が職務についているのも、すべて創立者の池田先生と、日中友好の思いを同じくする母校の教職員、そして同窓の友人の皆様のお蔭であると、心から感謝しています。
 池田先生は、教育と青年の育成に心血を注がれ、大学でも学問の修得はもちろん、「何のため」という尊き使命感に立つ生き方を教え下さいました。私たち留学生も、知識と語学力の向上とともに、池田先生が寄せて下さった限りの無い慈愛に触れ、先生の世界平和と日中友好促進のために貢献する偉大な姿を身近に感じる事ができました。本日は、池田先生がなされた中日友好の歴史に残る貴重なご功績の一端を、是非とも、皆様にお伝えしたいと思います。


 私たちの入学する4カ月前の1974年12月5日、中国人民が敬愛してやまない周恩来総理と、池田先生との歴史的な会見が実現しました。そのとき周総理は、不治の病におかされており、医師団の猛反対を押し切ってのことでした。総理は「池田先生とは、どうしてもお会いしたいと思っていました。あなたが若いからこそ、大事に付き合いたいのです」と語り掛け、「中日両国人民の友好関係の発展は、どんな事をしても必要です」と、その大任を池田先生に託したのです。
周総理が感慨深げに、桜の咲く頃に留学先の日本から帰国した話をされたので、池田先生は「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と述べたところ、総理は「願望はありますが、無理でしょう」と残念がっておられました。
 池田先生は、周総理が最晩年に会われた日本人の一人です。この出会いは、両国友好の歴史に刻まれるとともに、周恩来総理と池田先生との永遠不変の友情のドラマとなりました。池田先生は、私たちの入寮式の折に、周総理との友情、総理の健康の回復、そして中国留学生と創大生が日中友好の金の橋の後継者になってもらいたい、との願いを込めて、「周桜」と私たち6人の留学生の名前を冠した桜、いっしょに入学した「5期生桜」の植樹を提案されました。そして、桜の植樹に一番ふさわしいとされる秋に、大学の先生方・中国留学生・創大生の手によって、合わせて8本の桜が植えられ、それから間もなく、池田先生の揮毫による「周桜」の石碑が除幕されました。
 さらに周総理が逝去された後、池田先生は周総理夫人の鄧頴超女史との会見で、夫人から周総理と揃って桜の下で記念写真が取れなかったことが心残り、との話を聞かれ、周総理夫妻を永遠に記念するため、「周夫婦桜」の植樹を提案し、中日青年の手によって創価大学の構内に植えられました。
 当初は、まだ細かった桜の木も、創大の発展と卒業生の活躍にあわせるように年々、成長の年輪を刻み、絢爛たる花を咲かせ、天に聳える大木になりました。「周桜」「周夫婦桜」は、周総理と池田先生の友情と中日友好の原点として、これからも美しい花を咲かせていくことでありましょう。
 私にとって、創大での留学生活は、日本の心美しい青年との友情を深める日々でした。滝山寮と朝風寮での寮生活は、私たちにとって青春の黄金期です。池田先生のもと、大学の先生方と先輩・後輩・同窓との絆と友情は、38年という歳月を経てもなお、輝き続けております。大学には、池田先生の日中友好精神を体現する中国研究会があります。私たちは研究会の皆さんと、毎日のように理想を語り合い、両国の言葉や文化を教え合い、兄弟姉妹のような交流を重ねました。
 気候の違いからか、私たちはよく風邪を引きました。入学して1年を過ぎたころ、私たちの健康を心配された中国研究会の顧問の先生から「中研の皆さんと一緒に農作業をし、体を鍛えては」と提案があり、大学の正門前の斜面、いまの東京富士美術館が立っているところを畑にすることになりました。未開墾の土地を耕し、種を蒔き、炎天下に雑草を刈り、様々な野菜を収穫。それを池田先生にお届けしたところ「わが友が 友誼の庭にて つくりたる 品々尊し 今朝の食卓」との素晴らしい和歌で贈って下さったのです。 
 このように私たちのささやかな思いを、学生たちの真心を、全身で受け止め、それを上回る真心で応えて下さる、池田先生のような指導者は他にはいないと思います。さらに、驚いたことに、その年の6月26日には、池田先生がご多忙の中、わざわざ畑まで足を運ばれたのです。先生は、私たちに「今は何でもない小さな会合でも、歴史的な会合になるのだ。源が大事である。日中両国青年が日中友好と平和を断固として守り抜き、21世紀の立派な人材になってもらいたい」と励ましてくれました。そして、その場で「日中友誼農場」と命名され、揮毫して下さいました。その文字は、大学構内に、石碑となって建てられています。
 池田先生はまた「日中友誼農場で取れた野菜でおかずを作り、月見をしながら、皆で食べよう」とも提案され、その約束も果たして下さいました。創大祭が行われた11月5日、先生は「月見の宴」に出席され、勉強の進み具合や日本での慣れない生活に心を砕いていただき、その上で、「例えどのような変動があっても、ここにいる留学生と私達は、永遠に友人として付き合っていくのだ」、「留学生とのつながりは完璧であり、距離的にも地理的にも未来永遠に兄弟の路線を走っていく事は間違いない」と話してくださり、私の指針ともなっています。
 今でも、池田先生を囲んでの日中友誼農場での写真を見るたびに、青い空と白い雲、そのときの情景が浮かんできて、池田先生の力強い声、温かな声が聞こえるように感じます。
 私たち6人の留学生が創価大学で学んだ期間は、僅か2年間です。しかしこの2年間で、計り知れない宝物を得ました。また、2年間では大学は卒業できませんが、創価大学の配慮により、通信教育を経て、2008年、経済学部経済学科の経済学学士の資格を頂きました。ですから今は、誉れの創価大学卒業生、と胸を張っていっております。
 また、立場は代わっても、留学生6人の友情は、今でも固く結ばれています。ただ、私の場合、そのうち留学生の一人とは、友情が愛情に変わって結婚しましたので、創価大学が、私たちの仲人のようなものです。私たちの夫婦桜も、ここに植えられていることになり、その意味でも、我が永遠の心の故郷こそ、創価大学なのであります。
 さらに、有難いことに、今年は池田先生とビンセント・ハーディング博士との対談集「希望の教育 平和の行進」の中国語翻訳をさせて頂きました。いつか池田先生の著作を翻訳したい、との私の長年のひそかな夢が叶えられ、この上ない喜びを覚えております。中国人に広く、池田先生の人格と思想を宣揚することで、少しでも恩に報いていきたいと決意しています。
 ともかくも、母校・創価大学は、創立者池田先生の建学の精神を体現し、最高の教育レベルを誇り、「桃李 天下に満つ」の言葉の通りに多くの人材を輩出し続けており、まさに、世界平和と中日友好のフォートレスです。そして何より、ここでは、知識のみならず、人格形成に最も重要な全人類的観点に立った、世界平和・社会の進歩に役立つ人生哲学、強き意志、勇気の心を培うことのできる、英知輝く人間教育の最高学府だと、私は確信します。
 私の実感として、池田先生は、20世紀から21世紀にかける世界の最も偉大な哲学家・教育家・思想家であり、中日友好の先駆者であり、大功労者です。その池田先生を恩師に持ち、尊き中日友好事業に従事するという、本領を与えてくださった創価大学に留学できた私たちは、本当に幸せ者であります。だからこそ、このキャンパスでの中日友好の史実の体験者、証人として、これからも大いに語っていきたいと思います。
 池田先生は日中友誼農場で「これからが日中友好の第二章だ。そして、君達の子供の代からが、第三章だ」と言われました。実は、今日は一人息子が、この会場に来ております。次世代の中日友好に尽くしてもらいたいと、創大祭に参列させて頂きました。彼は今、日本で会社勤めをしながら、日本語1級検定試験の合格を目指しております。また、彼の職場にも創大卒業生がいて大変お世話になっておりますが、その方の娘さんも、将来は世界平和と日中友好のために努力したいと、創大受験を目指して頑張っています。私には、創価大学を軸にして、池田先生が望まれる「日中友好の第3章」が雄大に奏でられているように思えてなりません。
 もう一度、言わしていただければ、新中国の第1期の留学生として、創価大学に学んだことは、私の最高の勲章です。創価大学は私たちの永遠の心の故郷です。すべて、創立者である池田先生のお陰であり、これからも周総理と池田先生の教えをしっかりと胸に抱き、皆さまと手を携えて、中日友好の金の橋を一層強固なものにするため、更なる努力をして参ります。
敬愛する池田先生、有難うございます!
母校の先生方、有難うございます!
同窓の友の皆様、有難うございます!
 終わりに、このような場で講演の機会を与えて下さったことに衷心より感謝申し上げます。本当に有難うございました!

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