ベルベル語の世界初となる体系的な文法書を完成!

石原 忠佳 文学部教授
22歳でアフリカを夢見て日本を飛び出し、異国の文化、言語、価値観に触れ、人の個性の豊さと、違いへの寛容さに感動を覚えたという石原教授。40年前のアフリカは、まさに未知の国。そこでまず北アフリカに近いスペインの国立グラナダ大学の哲文学科でラテン語、アラビア語、フランス語、ヘブライ語を修得。大学で出会ったアフリカ人の友人たちから話を聞いたり、アフリカの地から戻ってきた人々から情報を得たりしながら、未知の国へと踏み出す準備をしていったといいます。そして、ついに、アフリカへの一歩を印したのが、モロッコ。そこで出合ったのが、アラブ人でも理解できないモロッコのアラビア語。そこから、アフリカ最古といわれる原住民の末裔であるベルベル人がモロッコに居住し、長きに渡って他の民族による侵略と支配を受けてきたベルベル人の歴史を反映して、フェニキア語、ラテン語、ゲルマン語、ギリシャ語、そして最大にアラビア語、近代に入ってスペイン語、フランス語などの影響を受けた、発音も異なるモロッコ・アラビア語、ベルベル語が誕生したと知ったと言います。以来、ベルベル人と彼らの話すベルベル語に興味を持ち、研究していくことに。そして、40年の月日を経て、このたびベルベル語の世界初となる体系的な文法書を完成させた、石原教授に話を聞きました。
<div style="text-align: right;"><span style="color:#808080;"><span style="font-size:14px;">※掲載内容は取材当時のものです。</span></span></div>
文法書の完成、おめでとうございます!日本経済新聞(2014年5月2日付)の文化欄でも紹介されていましたね。

ありがとうございます。消え去ろうとしていた言語であるベルベル語がこうして、世界に知られていけるようになったことは、本当にうれしいことです。
私がベルベル語に出合った1980年代は、ベルベル語は公の場で話すことを禁止された言語でした。「ベルベル」とは、ギリシャ語の「バルバロイ」という「蛮人、意味のわからない言葉を話す人」を意味する言葉に由来しています。ベルベル人はモロッコに住むアフリカ最古と言われる原住民の末裔です。様々な民族の侵略と支配の中で誕生したのが文法も発音も異なるモロッコ・アラビア語、ベルベル語でした。モロッコ出身の大学の友人たちや知人を頼りに、話を聞いたり、彼らの実家を訪れるなどして、見聞を広げるも調査は難航。理由は、ベルベル人が、よそものにはベルベル語を話してくれないことでした。当然、征服民であるアラブや後に植民地としたフランスの言葉で彼らの中に入っていけるはずはなく、その距離を縮めることは簡単ではありませんでした。それでもなんとか、スペイン語やフランス語を使って彼らの中に分け入り、単語の種類など細かく調べていきました。文化的な資料などアラブに征服される前の資料は闇に葬られ、収集は不可能でしたが、人々の生活などから興味深い文化や特徴を知っていくことができました。特に日本人の私たちからすると馴染み深い習慣が彼らの中にありました。例えば、赤ん坊には蒙古斑があり、背中でおんぶをする。来客者には、何も聞かずにお茶を出すなど。そして、彼らの伝統民謡の調べは日本の民謡、特に沖縄の旋律にとてもよく似ていたんです。そこで、津軽民謡や木曽節を聞かせると、「これは我々の祖先の音楽だ」と言ったんです。これには驚きました。人類の誕生はアフリカと言われますが、音楽などの文化的なものも、はるか祖先はアフリカなのかもしれませんね。
それにしても、話すことを禁止されていた言葉を研究していくことは大変なことでしたね。

今や国連教育科学文化機関(ユネスコ)から「消滅危機言語」に数えられているベルベル語です。北アフリカに3000年以上前から住んでいるといわれる原住民、ベルベル人ですが、8世紀にイスラム世界に征服されてより、その言葉は長く公の場では禁止され、文字も忘れ去られてしまいました。1987年に日本に帰国した後も、アルバイトをしながら、モロッコ・アラビア語やベルベル語関連の論文を書き続けました。そしてほとんどのベルベル人がその存在すら知らない文字の研究にも取り組みました。が、学ぶ機会も得られないまま時が過ぎ、状況が一変したのは2000年代に入ってからでした。現モロッコ国王がベルベル語教育を認め、2011年には、ベルベル語が公用語の一つとなりました。これにより、ベルベル人の統一団体の21世紀リーフ・アマズィグ協会とヤーシン・ラフムーニ会長の協力のもと、外国人としてただ一人、公式な文字を教わることができるようになりました。今回のベルベル語の文法書の発刊にあたっては、ヤーシン会長も非常に喜んでくれ、ベルベル語とアラビア語で序文を寄せてくれました。今後は、海外向けに少しずつ外国語に翻訳し、将来的には、辞書も作っていきたいと考えています。
海外に行こうと思ったきっかけは何ですか。

創価大学で開学当時から2年間アラビア語を勉強しました。教えてくださったのは、日本で初めての「アラブ語辞典」を出版された故川崎寅雄先生です。川崎先生がいつも「日本にいたらアラビア語は勉強できないよ。早く現地に行って実際の言葉を身に付けたほうがいいよ」と言われていたのを今でも懐かしく思い出します。青年時代にカイロに留学し、エジプト人の先頭に立って現地でデモ行進をしたというエピソードが先生には残っています。今からすればもう70年以上も前のことになります。「僕も川崎先生のように、いつか今までに誰もやったことのないことを成し遂げられたらいいな」、そんな思いで学生生活を送っていました。
先生のところには、海外に留学する学生たちから様々な相談もよせられていると伺いました。また、世界を見るように学生たちを励まされているとも伺いました。先生ご自身の留学体験も聞かせて頂けますか?

とにかくアフリカという未知の国を知りたいと、片道切符だけを持って創大在学中に、スペインへと旅立ちました。切符以外は、ほぼ何も持たずに身一つで行ったといっても過言ではありませんでした。向こうに着いてからは、それはもう大変でした。何よりも、食べるために必死で仕事先を探しました。日本みたいに簡単にアルバイトを見つけられる環境ではありませんでしたが、もう必死ですから。最初は、中華レストランで皿洗いをしました。食事付きで、一日働いて500円もらいました。そのうちの350円で毎日の宿泊先を確保していました。そして、大学に入学する資金を何とか調達し、グラナダ大学に入りました。当時は、外国人が卒業をすることはほとんど不可能でした。必死に勉強しました。あんなに勉強したことはありませんね。一日は、寝る、食べる、学校、勉強であっと言う間に過ぎ去りました。そして、夏休みには、食べるお金を稼ぐために、お祭りを渡り歩き、風呂敷を売りました。いやーきつかったですよ。でも、世界にはいろいろな価値観があり、人々がいて、みんな違うのが当たり前なんですよね。食べることに必死で、そこで生きていくこと自体が大変な状況ではありましたが、そういうことを知れたことがまさにプライスレスで、新鮮ですごく嬉しかったです。というのは、日本にいた時に、考え方、言動、行動がみんな同じようであることに、とにかく違和感があって、ちょっと周りからはみ出すと途端に、「あいつは変わっている」と叩かれるでしょ。世界から見たら、“みんなが同じ”という方がよっぽど変なんですよ。どちらにしても、学生たちには、本物のグローバル思考を身に付けてほしいと思っているんです。
そして、言語です。英語は世界とコミュニケーションを取る上ではもちろん有益な言語ですが、プラス、是非ともヨーロッパの言語、できれば発音の難しいポルトガル語がいいですが、せめてフランス語は習得してほしいですね。女性名詞、男性名詞があって、形容詞にも複数形があり、後ろから名詞を修飾する。英語にはないこの規則が、ラテン語からわかれたほとんどのヨーロッパの言語にはあります。そして、言語を通して、私たちは文化を知り、その人々を知ります。その国の人と本当に深く知り合うには、もちろんその国の言葉です。そのことを実感させてくれたのは、やはりベルベル語との出合いですね。異なる言葉を学ぶ中で、異なる考え方を知ってほしいと思います。そうすると、問題も様々な角度から見ることができますし、世界で出会った人のことを思えば、自分の問題がはるかに小さく見えることもあるわけです。ですから、創大に現在これだけ充実した留学制度があることは本当に喜ばしいことですし、それがさらに拡大し、充実しているわけですから、これからますます楽しみです。今の日本人の学生は、ちょっと先を見過ぎて、挑戦することを怖がってしまっているようにも思います。留学しても、帰って来てからの就職はどうなるのだろうと。留学をしようと思ったなら、とにかく、そこに向かって挑戦すればいいんです。留学先で、視野は無限に広がっていきますから。それを楽しんでほしい。今を大切にしてほしいですね。

留学先で印象に残っていることは何ですか?

一つは、外国人初でスペイン国立グラナダ大学を卒業したことですね。現国王のホアン・カルロス1世の名前の入った卒業証書をもらった時には、感慨ひとしおでした。もう一つは、スペイン語で世界初となる日本語の文法書を完成させたことですね。スペインの新聞でも紹介されましたが、日本でも読売新聞に紹介されました。川崎先生が日本初の「アラブ語辞典」を出版されたことに感化されて、自分は「世界初」となる何かを成し遂げたいと思っていましたので、嬉しかったですね。残念ながら、その時には川崎先生はすでに亡くなられていましたが、きっと喜んでくれたと思います。
ところで、なぜポルトガル語なんでしょうか?

言語には相性があるんです。韓国の人が簡単に日本語をマスターしてしまうことは有名ですが、それは、韓国語から日本語を学ぶのは難しくないからなんです。そのように、ポルトガル語から学べば、英語含め、ヨーロッパの言語はかなりスムーズに学んでいくことができるんです。発音が最も難しいことから、ポルトガル語ができれば、その他の言語は難しいと感じないからかもしれないですね。ほとんどのポルトガル人は短期間でスペイン語が話せるようになります。しかし、その逆は容易ではありません。サッカーが好きな人はご存知かと思いますが、チェルシー率いるポルトガル出身のモウリーニョ監督は、ヨーロッパのリーグを転々とし、それぞれのチームを強豪へと引き上げていきました。どのチームでもモウリーニョ監督が選手達の信頼を得、上手く率いることができた理由は、“言語”なんです。イタリア・インテルのチームではイタリア語、スペインのレアル・マドリードではスペイン語、現在のイギリス・チェルシーでは英語でというように、彼はすぐに現地の言葉に適応し、彼らの言語で指揮を執りました。これは非常に大切なことなんです。ですから、私はよく「何語を話す」かではなく「何語で話す」かが重要なんだと学生にも語るんです。英語を世界共通語と思って、どこでもあたり前に英語で話しかける人がいますが、まずは、現地の言葉で少しでもコミュニケーションを取っていこうという姿勢が大事であることも、ぜひとも覚えておいていただきたいと思います。
異なる文化、宗教、言語、国と国との歴史的・政治的な問題などもグローバル化が進んでいくほどに、出てくる問題もあるわけですよね。
言語学会が開催される国際会議の場でも、特にアフリカとヨーロッパでは、言語に対する解釈が歴史的な認識において異なるわけです。そうすると、もう大変です。時には掴み合いのけんかになるようなことも起きるわけです。路上でだって、普通のおじさんとかが、ヨーロッパ人相手に「お前らは歴史をゆがめたんだ!」と怒鳴りながら、熱く議論を交わしているわけです。でも、それで、ずっとけんかしているかというとそういうことでもなくて、腹にためずに、吐き出しながら、生きているわけです。“歴史”に対する認識の差、これは、本当に根深いです。日本と中国、日本とアジアに横たわるぬぐい切れない壁も同じ理由ですよね。
ですから、私たちが直面していく問題というのは、今後言語の問題だけではなくなっていきます。今、日本は必死になってグローバル化のために英語を推し進めていますが、英語は単なるツールで、その先のコミュニケーション能力を培っていかなくてはならない時代がきています。いわゆる異文化への理解というものになるわけですが、ともかく、まずは自分の意見をしっかりと持つことです。世界で起きている問題に対して、しっかりと意見を持つ。自国の政治等にもしっかりと目を向け、もっともっと関心を持つことです。自分の意見がない人間を世界の人たちは対等に扱いません。いろんな国の人たちと付き合っていくことです。そして、自分のアイデンティティをしっかりと持っていることです。どの言語であろうが、どこの国の人とであろうが、確たる自分というものを持つことです。そして、ユーモアを大事にすることですね。これは、他の国々の人々と友情を結ぶ上で欠かせないものだと思います。相手と笑いあえれば、壁は消え去ります。議論も恐れずに、時には感情を出してもいいんです。向こうは、その“本音”を信用します。留学から帰ってきた学生は一目で分かります。自分たちでは分からないみたいですが、こちらからは一目瞭然。一回り人間として大きくなって帰ってきたという感じですね。それは言語力以上の力なんです。
(参考動画)
- アラブ人研究者とベルベル人研究者の歴史認識に対するやりとり(スペイン語)
- 国際会議での石原教授挨拶、ユーモアが大事(スペイン語)
- ベルベル語の国際会議に出席する唯一の日本人ということで現地モロッコのテレビに出演(4ヶ国語)
最後に一言。
各時代や地域の価値観に左右されない「善」とは何かを探求するために、「道」を求めてほしいと思います。そのためには、今やるべきことに優先順位をつけ、行動しなくてはなりません。

[好きな言葉]
「まるであなたは風で霧を広げるよう」(ベルベル語のことわざ)
[性格]
よく考える前に行動してします(長所であり短所)
[趣味]
UEFAチャンピオンズリーグサッカー鑑賞
[最近読んだ本]
イブン・ハルドゥーン著『歴史序説』