“初の箱根路、襷を繋ぐ!” 第7回
2014年1月に監督、コーチ陣が一新、3年生の山口修平を主将にするというこれまでにない体制となった創大駅伝チーム。その新体制からわずか10ヶ月で初の予選会突破を成し遂げ、チームとして初の箱根駅伝出場を勝ち取った。スタッフ、選手、マネジャー、関係者の取材を通し、この10ヶ月間のキセキの物語に迫る。
12月10日、第91回箱根駅伝のチームエントリーが行われた。その直前、創価大学駅伝部ではミーティングが行われ、出場選手が瀬上監督より発表された。そのエントリーメンバーの中に、予選会を走っていない4年生・副主将の小島一貴がいた。自分の名前が呼ばれる確率を「五分五分だと思った」、そう振り返った。
1年次に箱根駅伝の学連選抜のメンバーに選ばれた実力を持つ小島。絶好調の大学デビューだった。ところが、2年生でオーバートレーニング症候群と診断され、1年間走ることができなかった。3年生になって走り始めるも、走りもタイムも取り戻せず、4年生になってもモチベーションは上がらず故障も続いた。今年(2014年)2月には、新体制への反発、不満、何より自分の中のいらだちから、禁止されている寮での飲酒も繰り返し、夜中に何度も寮を抜け出した。そんな中で、副主将の話をもってきたのが君塚コーチだという。自分にもここにいる意味がある、君塚コーチの励ましに、何とか心を持ち上げ、4年生の夏から、やっと走れるように、しかし予選会には間に合わなかった。
「チームが予選会を突破したのは嬉しかったが、それまでずっと予選会を走っていただけに、自分が走れなかった予選会で突破するなんてと、正直悔しかった」。予選会後、その思いを一番知る母親から、長文のメールが届いた。何度もスクロールしなければ読めないほどのメールには、小島と同じ悔しさと箱根駅伝本選に向けて頑張って欲しいとの思いが溢れていた。泣けた。これまで、応援してきてくれた人たちの顔が思い出され、顔を上げた。
予選会後の取材で、小島は言った。「本選は何としても走りたい」と。小島は、家族をはじめ、多くの方々が応援し続けてくれたこと、この10ヶ月間スタッフが代わる代わる声を掛け続けてくれたこと、そして、君塚コーチが荒れている真只中で、声を掛けてくれたこと、その全てを、一言一言を覚えていた。その思いに応えるために、小島が出した答えは、“走り”で応えること。小島は、11月16日の日体大記録会で5000mの今期ベストを、11月23日の挑戦記録会で10000mの今期ベストを叩き出した。そして12月10日、発表されたメンバー16名の中に、小島一貴の名前はあった。
トレーナーの河原一歩氏は、予選会から2ヶ月間での小島の復活を「バケモノ」と言い、「競技面でのセンスはNo.1」と小島を評する。もともと持っている才能に合わせて、負けじ魂が、プライドが、応援し続けてくれた方々へ応えたいとの思いが、彼を一気に爆発させたのだろうか。それにしても、河原氏が言うように、“バケモノ”だ。
小島は語った。「今年(2014年)の2月は、もう自分でもどうしようもないほどいらだって、酒は飲むは、寮を抜け出すは、故障はするは、練習もしないは、本当に最悪な時でした。そんな時に、君塚さん(コーチ)が、副主将に一貴を推薦したいと言ってきてくれたんです。“一貴ならやれる。走りだって、必ず戻ると信じているから”と言ってくれて。君塚さんは、自分を見捨てなかった、そう思いました。それで、夏から練習にも戻れるようになって。なかなか調子も気持ちもベストだった1年の頃に戻すことはできませんでしたが、君塚さんをはじめ、監督や久保田ヘッドコーチもずっと声を掛け続けてくれました。予選会後、本選という、スタッフに応えられるチャンスがもらえたと思い、今度こそと思いました。お母さんも喜ばせてあげたいですし、見守り続けてくれた人たちを裏切るわけにはいかないです」と、そして最後に、「本選は、メンバーに入って、いい走りを見せて、大学での競技生活を終わりたい」と言った。
その言葉通り、エントリーメンバー16名に入った。本戦を走るかどうか、それはまだわからない。しかし、最も“楽しみな”選手の一人であることは間違いない。なかなかドラマチックな4年間だった。病気を乗り越え、スランプを乗り越え、自分の殻を破り、今この瞬間も成長し続け、本戦に向けて着々と調整を進めている。スタッフの笑みが目に浮かぶ。