“初の箱根路、襷を繋ぐ!” 第6回

樋浦雄大 経営4年/新潟県/日本文理高校

2014年1月に監督、コーチ陣が一新、3年生の山口修平を主将にするというこれまでにない体制となった創大駅伝チーム。その新体制からわずか10ヶ月で初の予選会突破を成し遂げ、チームとして初の箱根駅伝出場を勝ち取った。スタッフ、選手、マネジャー、関係者の取材を通し、この10ヶ月間のキセキの物語に迫る。

「正直、予選会を走れれば嬉しいなと思っていました」と言ったのは樋浦雄大。中学・高校と中距離選手だった樋浦は、入学当初、長距離の練習について行けず苦しんだ。それでも、同期が“お前にはセンスがある”と言って励まし続けてくれた。1年生秋には長距離を走れるようになり、箱根駅伝の予選会出場メンバーにも選ばれた。しかし、熱を出し、出場できず、2年生で初の予選会出場。3年生もケガで出場できず、今回が二度目で最後の予選会だった。しかしまたしてもアクシンデントが起きた。予選会2週間前の練習で過呼吸を起こした。以来、怖くて走れなくなってしまった。悪夢は本番でも起きた。10キロ地点から呼吸がおかしくなり、呼吸が困難になった。「怖かったし、苦しかった」、そう振り返る。樋浦はその時点ではチームの10番手にいた。「もしも自分が10番でタイムを落としてしまったら、その時点でチームの箱根行きは消える、そう思うとますます恐ろしくなった。どれだけ足を前に出しても、どんどん集団走から離れてしまった」と。“もうダメかもしれない”、そう思った時だった。同期の仲間が背中をたたき、声を掛けてくれた。「本当にホッとしました。こいつらが上がってくれる。大丈夫だと思いました。そして、みんなのために死んででもゴールしようと決めました。それでも意識が朦朧としてしまって5回ぐらい、もうダメかと思うところもありましたが、ともかく走りきる、そう決めていました」とその時を振り返る。樋浦の前にいた山中福至(2年)も過呼吸になっていた。山中も新村健太(3年)に励まされ、“絶対にあきらめない”と意識が遠のきそうな状況の中でも決めていた。

“集団走”は、全員で勝つための作戦。誰一人落とさない。だから声を掛け合う。予選会では、600人近くの選手たちが入り乱れてゴールを目指す。あの流れにのって、自分のリズムをくずし、本来の力すら出せない選手はたくさんいる。創価大学の集団走は、前に2、3年生、真ん中に1年生、そして後ろに4年生で、4年生が後ろから後輩たちに声を掛け、集団走の形を守る重要な役割を与えられていた。結果的には、4年生が最初に脱落してしまうわけだが、創価大学チームにおける集団走の効力はその形を守ることに止まらなかったように思う。練習から4年生をはじめ上級生が声を掛け励ました。5km地点まで設定タイムを正確に刻みきれいな集団走で上がっていったのが成功パターンなら、ばらけても、練習と変わらず誰かが誰かに声を掛け励まし、チーム一丸となってゴールを、勝利を目指した、それも成功パターンと言えるのではないか。最後まで集団走を作り、ゴールに突入した、セルナルド祐慈(2年)、彦坂一成(2年)、大山憲明(1年)、蟹沢淳平(1年)の4人は、どこまでも指示通りの設定タイムで励まし合いながら進んだ。旭化成コーチの川嶋伸次氏が言った。「集団走は正攻法と言うが、タイムの設定自体が難しければ、選手たちがタイム通りに走ることも実際非常に難しい。よほど、スタッフとの信頼がなければ、設定タイムを守って、20kmを走り続けるなんてそうそうできない。気温が高ければ、スピードは上がり気味になるし、他大学の選手たちのスピードが速ければ、ついていこうとペースは乱れるし、しかも順位が低いと分かれば焦りが出てしまう」と、創価大学が集団走を成功させたことを驚きも含めてそう語った。そもそも20キロという距離は一人で戦うには、あまりにもきつい。でも、一緒に戦う仲間がいれば、苦しみは半分にもなり、喜びは2倍にもなる。彼らは、そういう集団走を作り上げたのだ。
10ヶ月間の暗中模索の日々の中で、練習を通し、寮生活を通し、20kmの苦しい道のりの中で、誰かが誰かを励し、自分のためだけでなく、チームのためにと、死に物狂いで足を前に出し続ける一人ひとりになっていた。それは、築き上げたチームワークの賜物であり、スタッフの采配であり、選手たちが必死に乗り越えた試練の結果であろう。過呼吸になりながら、意識が朦朧とするような状況の中で、あきらめることなく走り続け、作戦通り、1km手前で久保田ヘッドコーチを見るなり、“これで最後だ!”と覚悟を決めてラストスパートをかけていったのだ。ただ事ではない。
「順位発表の時は、もう9位のところで下を向いて泣いていました。自分のふがいなさに、チームに申し訳なくて、泣いていました。10位でコールされて、本当に信じられなかった。気がついたら飛び上がって喜んでいました。我に返って自分の走りを考えると複雑な気持ちもありましたが、でもやっぱり嬉しかった」と言い、そして「ここからは、とにかく練習の中で恐怖心を克服し、予選会は、後輩たちのお陰で勝てたという形になってしまったので、復路は4年生で埋めたい、そう思っています!」と力強く語る樋浦にはすでに恐怖心は消え、箱根に向かって大きく前進しているように見えた。

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