“初の箱根路、襷を繋ぐ!” 第5回

新村健太 法学部3年/新潟県/村上桜ヶ丘高校

2014年1月に監督、コーチ陣が一新、3年生の山口修平を主将にするというこれまでにない体制となった創大駅伝チーム。その新体制からわずか10ヶ月で初の予選会突破を成し遂げ、チームとして初の箱根駅伝出場を勝ち取った。スタッフ、選手、マネジャー、関係者の取材を通し、この10ヶ月間のキセキの物語に迫る。

「父の葬儀で、父への恩返しもかけて必ず“箱根”に行きますと参列者の方々の前で誓いました」、そう話し始めたのは新村健太だった。新村のお父さんは、今年(2014年)3月ジョギング中に倒れ、突然亡き人となった。新村が大学で長距離を続けることに迷っていた時に、”走れる間は走れ”と背中を押してくれたお父さんだった。そのお父さんは、新村の創価大学進学と共に、再びジョギングを始めた。“息子と共に”、そんな想いだったのだろう。予選会の結果発表では、9位まで発表された時、無意識のうちに心の中で“お父さん、お願い!”、そう叫んでいたという。10位の発表直後、無我夢中で部員たちと抱き合った、顔は涙でぐちゃぐちゃになった。そして、応援に来てくれていたお母さん、おばあちゃん、兄弟のもとへ駆け寄った。みんな泣いていた。
新村は、春まで故障で全く練習ができなかった。気持ちの面でも、走りの面でも何かがうまくいかなかった。そんな最中、冬休みで帰省した。家でゴロゴロする新村にお父さんが声を掛けた。“しっかりやれよ”、それが最後の言葉になった。夏合宿前にようやく記録会に参加するも、得意の1.500mでさえ、11秒もタイムを落としてしまった。体が思うように動かない。やる気を失いそうになった。そんな時だったという。箱根の予選会に出場できるまでに支えてくれた“約束”をしたのは。記録会の結果に落ち込んでいた新村だが、君塚コーチに“今は走れていないですが、予選会までにはしっかり合わせていきます!”と話したという。その時、君塚に“お前、今言ったことを忘れるなよ”と言われた。それが、新村の中には、“約束”として心に刻まれ、お父さんへの恩返しの誓いと共に、自分を支えるものとなったという。何とか、夏の3次合宿で、練習を全てやりきる体力と走りを復活させることができ、練習の中での走りをスタッフが評価し、予選会出場となった。

新村のおかげで、予選会を最後まで走りきることができたという部員がいる。山中福至(2年)だ。山中は、10km地点で突然過呼吸になり、集団走から外れてしまった。後ろを振り返り、集団走の状況を確認した新村が山中の異変に気付き、集団走から外れて後ろに下がってまで、山中に“あきらめるな!”と叫び励まし続けた。その距離は2、300mにも渡っていた。そして再び、前へ上がり、タイムを削っていったという。“あの時新村さんが励ましてくれなかったら、とてもではないけれどもあまりの苦しさに走り続けることはできなかった”“新村さんの励ましに、どんなことになっても最後まで絶対にあきらめないと決めた”と山中は言う。
新村は、予選会を終えた翌日、地元新潟で行われた県縦断駅伝のアンカーを走るため帰郷した。その際、お父さんのお墓にお母さん、おばあちゃんと共に予選会突破の報告に行ったという。お父さんの墓前で泣いた。泣いたが、それはもう悲し泣きではなかった。勝利を報告できたことが、本当に嬉しかった。
「ここまでやってこられたのは、支えてくれた多くの方々のお陰です。本選でもしっかりと走り、笑顔でたすきを渡したい」と抱負を語った新村の表情には、この10ヶ月で多くを乗り越えた自信が満ちていた。

Share

Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend
Recommend