“初の箱根路、襷を繋ぐ!” 第4回
2014年1月に監督、コーチ陣が一新、3年生の山口修平を主将にするというこれまでにない体制となった創大駅伝チーム。その新体制からわずか10ヶ月で初の予選会突破を成し遂げ、チームとして初の箱根駅伝出場を勝ち取った。スタッフ、選手、マネジャー、関係者の取材を通し、この10ヶ月間のキセキの物語に迫る。
「今回の予選会を走るまで、駅伝と言っても個人競技だと思っていました。でも、今回走って分かったことは、駅伝は、個人競技ではなく、団体競技だということでした」、そう語ったのは沼口雅彦だ。一匹狼タイプで、根っからの負けず嫌い、一人ひとりが強くならなくては、自分が強くならなくては、このチームで箱根に行くことはできない。襷を繋ぐ駅伝といえども、走るのは一人、だから個人競技。ずっと、部内でも競いあってきた。オン・オフの切り替えがうまく、後輩にも慕われる沼口は、部員たちからの人望は厚く、体制交代に際しては、部員たちからは全員一致で沼口を主将にとスタッフに伝えられた。それをスタッフが覆し、3年生の山口が主将に据えられた。当然、面白くなかった。「情けないと感じた」、そう沼口は言った。新体制となり、監督、コーチらスタッフが叫ぶ“チームワーク”も、久保田ヘッドコーチが作る“練習メニュー”にも納得がいかなかった。いらだちはピークに達し、他の4年生たちと夜中に寮から抜け出し、親元に帰らされたこともあった。山口の実力がずば抜けていることも、新体制スタッフの下、みるみる力を伸ばしている後輩たちの姿に、練習が的を得ていることも認めないわけにはいかなかった。それでも、素直になれず、自身の記録も伸びず、もんもんとしていた夏合宿で、スタッフから声が掛けられた。
“チームには、お前たち4年生が必要だ”と。一歩踏み出すには今しかないと、4年生で話し合い、決意した。集団走での役割は、声を掛け後輩たちを支える重要な役割が4年生選手に任された。実際の予選会では、10km手前で4年生が失速し、集団走から離れてしまう。沼口は、序盤で足にまめができた。痛みで踏ん張ることもできなかった。心が折れそうになる中、“4年間この日のために辛い練習にも耐えてきた、これで終わりたくない!”、そう心の中で叫びながら懸命に走り続けた。最後の1kmは、ラストスパートをかけるのがチームの作戦だった。久保田ヘッドコーチの顔が見えた。“(予選会突破は)お前次第だ!”、そう檄が飛んだ。それを合図にラストスパートをかけた。“これが終わったらどうなってもいい”そう腹を決めて、スピードを上げた。監督が見えた、君塚コーチが見えた、部員たちの顔が見え、声援が飛んだ。そして、隣には4年間ともに頑張ってきた同じく副主将の小嶋大輝が同様に苦しい中で必死に走っていた。“一人じゃない”と苦しみの中で、実感した。沼口が9位、小嶋が10位と、4年生の二人で励まし合い必死に滑り込んだ。その二人の苦しい中での粘りがなければ、予選会突破は、当然なかった。予選会直後、「予選会は、後輩たちのお陰で突破できた。本選は、4年生が必ず粘って、後輩にお返しをしたい」と沼口は言った。沼口の調子は、予選会後、すこぶる良い。久保田ヘッドコーチが「良すぎる」と評するほど。4年生の意地というよりは、自分のためだけでなく、“チームのため”にとの彼の思いが、これまでになく彼自身を楽しませているように見えてならない。
「いろいろときつかった(予選会突破までの)10ヶ月間でしたが、久保田ヘッドコーチを信じてよかった。山口が主将でよかった」、そう笑顔で話す沼口には、もがきながらも前進し続け何かを掴み取った自信のようなものが垣間見えた。