ヴィクトル・サドーヴニチィ ロシア・モスクワ大学総長
本年(2015年)3月、ロシアのモスクワ大学と創価大学の学術交流協定締結40周年を慶祝して、モスクワ大学ヴィクトル・サドーヴニチィ総長が来学し、本学本部棟で特別講演を行いました。
40年前の1975年5月27日、モスクワ大学より本学創立者の池田大作先生に、核兵器禁止運動などの平和行動、そして教育・文化交流への貢献をたたえ、名誉博士号が授与され、創立者が記念講演を行い、両大学の学術交流協定が調印されました。以来、本学から200人以上、モスクワ大学から100人以上の交換留学生が往来しています。2002年6月には同大学から創立者に名誉教授の称号も贈られています。
こうした両大学の40年の友好の歩みを記念し、サドーヴニチィ総長が「M・V・ロモノーソフ ー宇宙大の人間ー」とのテーマで講演。その概要を紹介します。
21年前、池田大作博士はモスクワ大学で、「人間―大いなるコスモス」と題して、ご講演をされました。この題名そのものが、池田博士が、いかに壮大で卓越した思想の持ち主であるかを物語っています。そして、博士は講演の冒頭に、われらの偉大な同胞であり、ロシアの学問の父であるミハイル・ロモノーソフの言葉を引用されました。
それでは、ロモノーソフとは、いかなる人物であったのか。一言で答えるならば、天才でありました。ロシアのありとあらゆる分野の学問の発展の礎を築きました。
ロモノーソフは1711年11月19日生まれ。18世紀初頭といえば、ピョートル大帝が社会のほぼ全般にわたる改革を推し進めていた時代であります。
教育学術制度が国の特別な機関として、整備されていきました。知識至上主義の啓蒙時代に突入したヨーロッパ史の歩みと重なっていました。
ロモノーソフは、北方の地である白海の沿岸に生まれました。父は、たくましい人で、家業で富を築いていました。土地もあり、ムルマンスク沿岸では漁業を営んでいました。父は、その地方で初めて、ガリオット(小型帆船)を建設し、チャイカと名付けました。
他の農民の子と同様にロモノーソフも両親の手伝いをしました。家畜を放牧し、畑を耕し、10歳になると、父と一緒に、漁のため海に出るようになりました。
白海沿岸に住む人々は、子どもたちを厳しくしつけました。目上の人を敬い、労働するということが、国民教育の重要な基礎でありました。まもなく、ロモノーソフは、向学心の強さが抜きん出るようになりました。もちろん、ロモノーソフも、他の白海沿岸の住人と同様に、帆の掲げ方、羅針盤の使い方、魚や海獣の習性、不安定な北の天候の観測を覚えました。
しかし、ロモノーソフの頭の中では、他の人と異なり、こうした作業も全て思索の材料となりました。
なぜ、風が吹くのか。どのような力によって羅針盤の針が常に北を指すのか。なぜ、魚は産卵のために川の流れに逆らって進むのか。どうしてオーロラが発生するのか。昼と夜、そして、満ち潮と引き潮が入れ替わるのはなぜか。ロモノーソフは全てを知りたかったのです!
ロモノーソフの両親は、彼の熱心な向学心を理解できず、息子が本を読んでばかりいることを責めていました。父親は、息子を結婚させようと思い、気立てのいい結婚相手を探してきました。
しかし、ロモノーソフは、意を決して家を飛び出し、モスクワに向かったのです。学問を求めて!
想像してみてください。極寒の冬に、白海沿岸の村からモスクワまで1000キロ以上も歩くのです!
モスクワのクレムリンの近くに、スラブ・ギリシャ・ラテン・アカデミーがありました。当時、最も優れた高等教育機関でした。このアカデミーに入学できたことこそが、ロモノーソフの新たな人生の第一歩となりました。20歳のロモノーソフは、少年たちと机を並べて学ぶ中で、すぐに知識を身に付け、非凡な才能を発揮しました。
そして、訪れた転換期。ロモノーソフを含む12人の優秀な生徒がペテルブルクの科学アカデミーに派遣されることになったのです。さらに、その中から優秀な3人の学生が、ドイツに派遣されたのです。ロモノーソフは最優秀の学生でした。最初はマールブルクで、その後、フライベルクで学びました。
ドイツからロシアに戻ったロモノーソフは学問に没頭し、まさに博学多識の学者へと成長していきます。そして、基礎・応用学問ともに、極めて重要な貢献を果たします。その分野といえば、化学、物理学、天文学、地質学、地理学、歴史学、文学と多岐にわたっています。
そのことからして、ロモノーソフはまさに“宇宙大の人物”といえるでしょう。
ロモノーソフのことを、後にロシアの国民詩人プーシキンはこうたたえます。“彼は、ロシアで最初の大学を創った。いや、彼自身を最初の大学と呼ぶべきだろう”と。
実際、真の大学のごとく、ロモノーソフの活動分野は、ありとあらゆる学問に及びました。ロモノーソフが成し遂げた業績や発見を列挙するだけでも、驚嘆に値します。
ロモノーソフは自分の主たる専門として化学を挙げていました。ロシア初の化学実験室を設置し、そこで学生たちに講義し、実験の手法を教えました。
1756年には金属の加熱実験を行い、“物質の総質量は化学反応では変化しない”ことを証明。主要な化学の法則である「質量保存の法則」を確認しました(その後、フランスのラボアジエが法則を確立)。
ロモノーソフの研究で特別な位置を占めていたのが、ガラスや陶磁器に関する研究でした。ロモノーソフは実験を重ね、モザイク用の色ガラスの製造技術を復活させました。
そしてモザイク画を制作し、それらの作品が厳密な科学と美術のユニークな融合の結実として保管されています。サンクトペテルブルクには現在も、ロモノーソフが制作した壮大なモザイク画「ポルタヴァの戦い」やピョートル大帝のモザイクの肖像画があります。
ロモノーソフの名は宇宙物理学の父としても輝いています。白海沿岸生まれの彼は、幼少より目にしていたオーロラに関心を寄せました。そして、空中電気の研究で、オーロラを科学的に解明しました。
ロモノーソフは天文学者でもあり、望遠鏡を製作し、金星の大気圏の存在を予測しました。1761年、金星の日面通過を観測している際、金星が日面から外れる瞬間に太陽の表面の起伏を見つけました。
ロモノーソフは、これを金星の大気圏における光の屈折と解釈しました。このような繊細な現象を観測するのは困難なことです。世界中の多くの天文学者が金星の通過する様子を観測してきました。金星と太陽の面が接する際の光の現象に気づいた学者もいましたが、その現象を吟味することができず、意味を見いだすことはできませんでした。
ロモノーソフにとって、長年、化学の研究をしてきた経験が天文学にも生かされたのです。
さらにロモノーソフは、リヒマン(ドイツの物理学者)と共に物理的研究を推進し、雷の解明に重要な貢献を果たしました。
ロモノーソフは、ロシアに学者が育つことを願いました。そのことを物語る有名な詩の一節があります。
「ロシアの大地は自らのプラトンたちを 鋭敏なる知性のニュートンたちを 生めるだろう」
ロモノーソフは、そのために最適な場は大学であると考えていました。
ロシア初の大学の構想を練ったロモノーソフは、教養ある貴族でピョートル1世の娘・エリザベータ女帝の侍従であるイワン・シュバロフに手紙を送り、その構想を伝えました。
1755年、エリザベータはロシア初の大学・モスクワ大学の創立に関する勅令にサインをしました。
モスクワ大学は、ロシアにおける高等教育の原点をなす大学であり、現在までロモノーソフの理念を掲げております。その理念とは、基礎学力の習得、学際性、および万人に門戸を開くことです。
ロモノーソフは、自身の経験に基づき、次のように言いました。「大学で尊敬されるのは、人一倍学ぶ学生であって、家柄ではない」と。
モスクワ大学は、ロモノーソフが手掛けた事業で最も成功したものの一つであり、今では目覚しい発展を遂げております。
モスクワ大学は、赤の広場にある薬局の建物で、30人の学生からスタートしました。260年後の現在、敷地も大きく拡大し、約5万人の学生が学んでおります。
モスクワ大学は、国の中心的な学術・教育機関となり、連邦法によって特別な地位が与えられております。大学独自の卒業証書を発行し、独自の基準で教育を行うこともできます。
わが国は、2015年を「文学の年」と定めました。
文学という時、世界初のロシア語文法書を著し、さらには詩人でロシアにおける作詩法の改革者でもある、モスクワ大学の創立者ロモノーソフの名を思いださずにはいられません。ちなみに、このロシア語文法書は、モスクワ大学創立の年(1755年)に上梓されています。
現在、世界中で読書や本への関心が薄くなっております。これはグローバル(地球的規模)な現象です。
ドイツでは、現代の若者を意味する「うつむき世代という言葉が、昨年を象徴する10の言葉の一つに選ばれました。「うつむき」といっても本を読むからではなく、携帯電話に夢中になっているがゆえに「うつむき」なのです(笑い)。
日本の若者は、絶えずメールを書いているため、この世代は「親指世代」と呼ばれていると伺っています。
先日、モスクワ大学の教授会の席上、本学の卒業生で大統領の文化顧問を務め、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』の作者レフ・トルストイの玄孫でもあるウラジーミル・トルストイ氏が出席しました。
私たちは、青年の読書欲をよみがえらせるにはどうすべきかについて話し合いました。
これは、現在、世界の人々が直面している課題です。私は、「うつむき世代」「親指世代」の若者たちが、うつむいた頭ではなく、“賢い頭”の世代、親指ではなく、“大きな心”を持った世代になってもらいたいと思います。
講演を終えるにあたり、再び、池田大作博士に対する深い尊敬と感謝の念を表したいと思います。私は、このような優れた人物、真の思想家、行動者と出会うことができ、最重要かつ興味深いテーマで語り合い、池田博士の英知を深く胸に刻むことができ、大変にうれしく思っています。
これまでの長い人生の中で数々の本を執筆してきましたが、その中でも、池田博士と共につづった対談集は重要な位置を占めております。池田博士と対談させていただけることは、私にとって大いなる名誉です。
21年前、池田博士はモスクワ大学での講演の最後、次のように呼びかけられました。
「闇が深ければ深いほど、暁は近い。希望あるかぎり、幸福は輝くのであります」と。
まさに、その通りです。わが国の有名な歌にもあるとおり、希望とは「人生の羅針盤」です。私たちを正しい方向に導いてくれます。
私たちが善の目的に向かって正しい道を進めるか否かは、私たち教師、および若い皆さまの双方にかかっているのです。
本年(2015年)3月、ロシアのモスクワ大学と創価大学の学術交流協定締結40周年を慶祝して、モスクワ大学ヴィクトル・サドーヴニチィ総長が来学し、本学本部棟で特別講演を行いました。
40年前の1975年5月27日、モスクワ大学より本学創立者の池田大作先生に、核兵器禁止運動などの平和行動、そして教育・文化交流への貢献をたたえ、名誉博士号が授与され、創立者が記念講演を行い、両大学の学術交流協定が調印されました。以来、本学から200人以上、モスクワ大学から100人以上の交換留学生が往来しています。2002年6月には同大学から創立者に名誉教授の称号も贈られています。
こうした両大学の40年の友好の歩みを記念し、サドーヴニチィ総長が「M・V・ロモノーソフ ー宇宙大の人間ー」とのテーマで講演。その概要を紹介します。
21年前、池田大作博士はモスクワ大学で、「人間―大いなるコスモス」と題して、ご講演をされました。この題名そのものが、池田博士が、いかに壮大で卓越した思想の持ち主であるかを物語っています。そして、博士は講演の冒頭に、われらの偉大な同胞であり、ロシアの学問の父であるミハイル・ロモノーソフの言葉を引用されました。
それでは、ロモノーソフとは、いかなる人物であったのか。一言で答えるならば、天才でありました。ロシアのありとあらゆる分野の学問の発展の礎を築きました。
ロモノーソフは1711年11月19日生まれ。18世紀初頭といえば、ピョートル大帝が社会のほぼ全般にわたる改革を推し進めていた時代であります。
教育学術制度が国の特別な機関として、整備されていきました。知識至上主義の啓蒙時代に突入したヨーロッパ史の歩みと重なっていました。
ロモノーソフは、北方の地である白海の沿岸に生まれました。父は、たくましい人で、家業で富を築いていました。土地もあり、ムルマンスク沿岸では漁業を営んでいました。父は、その地方で初めて、ガリオット(小型帆船)を建設し、チャイカと名付けました。
他の農民の子と同様にロモノーソフも両親の手伝いをしました。家畜を放牧し、畑を耕し、10歳になると、父と一緒に、漁のため海に出るようになりました。
白海沿岸に住む人々は、子どもたちを厳しくしつけました。目上の人を敬い、労働するということが、国民教育の重要な基礎でありました。まもなく、ロモノーソフは、向学心の強さが抜きん出るようになりました。もちろん、ロモノーソフも、他の白海沿岸の住人と同様に、帆の掲げ方、羅針盤の使い方、魚や海獣の習性、不安定な北の天候の観測を覚えました。
しかし、ロモノーソフの頭の中では、他の人と異なり、こうした作業も全て思索の材料となりました。
なぜ、風が吹くのか。どのような力によって羅針盤の針が常に北を指すのか。なぜ、魚は産卵のために川の流れに逆らって進むのか。どうしてオーロラが発生するのか。昼と夜、そして、満ち潮と引き潮が入れ替わるのはなぜか。ロモノーソフは全てを知りたかったのです!
ロモノーソフの両親は、彼の熱心な向学心を理解できず、息子が本を読んでばかりいることを責めていました。父親は、息子を結婚させようと思い、気立てのいい結婚相手を探してきました。
しかし、ロモノーソフは、意を決して家を飛び出し、モスクワに向かったのです。学問を求めて!
想像してみてください。極寒の冬に、白海沿岸の村からモスクワまで1000キロ以上も歩くのです!
モスクワのクレムリンの近くに、スラブ・ギリシャ・ラテン・アカデミーがありました。当時、最も優れた高等教育機関でした。このアカデミーに入学できたことこそが、ロモノーソフの新たな人生の第一歩となりました。20歳のロモノーソフは、少年たちと机を並べて学ぶ中で、すぐに知識を身に付け、非凡な才能を発揮しました。
そして、訪れた転換期。ロモノーソフを含む12人の優秀な生徒がペテルブルクの科学アカデミーに派遣されることになったのです。さらに、その中から優秀な3人の学生が、ドイツに派遣されたのです。ロモノーソフは最優秀の学生でした。最初はマールブルクで、その後、フライベルクで学びました。
ドイツからロシアに戻ったロモノーソフは学問に没頭し、まさに博学多識の学者へと成長していきます。そして、基礎・応用学問ともに、極めて重要な貢献を果たします。その分野といえば、化学、物理学、天文学、地質学、地理学、歴史学、文学と多岐にわたっています。
そのことからして、ロモノーソフはまさに“宇宙大の人物”といえるでしょう。
ロモノーソフのことを、後にロシアの国民詩人プーシキンはこうたたえます。“彼は、ロシアで最初の大学を創った。いや、彼自身を最初の大学と呼ぶべきだろう”と。
実際、真の大学のごとく、ロモノーソフの活動分野は、ありとあらゆる学問に及びました。ロモノーソフが成し遂げた業績や発見を列挙するだけでも、驚嘆に値します。
ロモノーソフは自分の主たる専門として化学を挙げていました。ロシア初の化学実験室を設置し、そこで学生たちに講義し、実験の手法を教えました。
1756年には金属の加熱実験を行い、“物質の総質量は化学反応では変化しない”ことを証明。主要な化学の法則である「質量保存の法則」を確認しました(その後、フランスのラボアジエが法則を確立)。
ロモノーソフの研究で特別な位置を占めていたのが、ガラスや陶磁器に関する研究でした。ロモノーソフは実験を重ね、モザイク用の色ガラスの製造技術を復活させました。
そしてモザイク画を制作し、それらの作品が厳密な科学と美術のユニークな融合の結実として保管されています。サンクトペテルブルクには現在も、ロモノーソフが制作した壮大なモザイク画「ポルタヴァの戦い」やピョートル大帝のモザイクの肖像画があります。
ロモノーソフの名は宇宙物理学の父としても輝いています。白海沿岸生まれの彼は、幼少より目にしていたオーロラに関心を寄せました。そして、空中電気の研究で、オーロラを科学的に解明しました。
ロモノーソフは天文学者でもあり、望遠鏡を製作し、金星の大気圏の存在を予測しました。1761年、金星の日面通過を観測している際、金星が日面から外れる瞬間に太陽の表面の起伏を見つけました。
ロモノーソフは、これを金星の大気圏における光の屈折と解釈しました。このような繊細な現象を観測するのは困難なことです。世界中の多くの天文学者が金星の通過する様子を観測してきました。金星と太陽の面が接する際の光の現象に気づいた学者もいましたが、その現象を吟味することができず、意味を見いだすことはできませんでした。
ロモノーソフにとって、長年、化学の研究をしてきた経験が天文学にも生かされたのです。
さらにロモノーソフは、リヒマン(ドイツの物理学者)と共に物理的研究を推進し、雷の解明に重要な貢献を果たしました。
ロモノーソフは、ロシアに学者が育つことを願いました。そのことを物語る有名な詩の一節があります。
「ロシアの大地は自らのプラトンたちを 鋭敏なる知性のニュートンたちを 生めるだろう」
ロモノーソフは、そのために最適な場は大学であると考えていました。
ロシア初の大学の構想を練ったロモノーソフは、教養ある貴族でピョートル1世の娘・エリザベータ女帝の侍従であるイワン・シュバロフに手紙を送り、その構想を伝えました。
1755年、エリザベータはロシア初の大学・モスクワ大学の創立に関する勅令にサインをしました。
モスクワ大学は、ロシアにおける高等教育の原点をなす大学であり、現在までロモノーソフの理念を掲げております。その理念とは、基礎学力の習得、学際性、および万人に門戸を開くことです。
ロモノーソフは、自身の経験に基づき、次のように言いました。「大学で尊敬されるのは、人一倍学ぶ学生であって、家柄ではない」と。
モスクワ大学は、ロモノーソフが手掛けた事業で最も成功したものの一つであり、今では目覚しい発展を遂げております。
モスクワ大学は、赤の広場にある薬局の建物で、30人の学生からスタートしました。260年後の現在、敷地も大きく拡大し、約5万人の学生が学んでおります。
モスクワ大学は、国の中心的な学術・教育機関となり、連邦法によって特別な地位が与えられております。大学独自の卒業証書を発行し、独自の基準で教育を行うこともできます。
わが国は、2015年を「文学の年」と定めました。
文学という時、世界初のロシア語文法書を著し、さらには詩人でロシアにおける作詩法の改革者でもある、モスクワ大学の創立者ロモノーソフの名を思いださずにはいられません。ちなみに、このロシア語文法書は、モスクワ大学創立の年(1755年)に上梓されています。
現在、世界中で読書や本への関心が薄くなっております。これはグローバル(地球的規模)な現象です。
ドイツでは、現代の若者を意味する「うつむき世代という言葉が、昨年を象徴する10の言葉の一つに選ばれました。「うつむき」といっても本を読むからではなく、携帯電話に夢中になっているがゆえに「うつむき」なのです(笑い)。
日本の若者は、絶えずメールを書いているため、この世代は「親指世代」と呼ばれていると伺っています。
先日、モスクワ大学の教授会の席上、本学の卒業生で大統領の文化顧問を務め、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』の作者レフ・トルストイの玄孫でもあるウラジーミル・トルストイ氏が出席しました。
私たちは、青年の読書欲をよみがえらせるにはどうすべきかについて話し合いました。
これは、現在、世界の人々が直面している課題です。私は、「うつむき世代」「親指世代」の若者たちが、うつむいた頭ではなく、“賢い頭”の世代、親指ではなく、“大きな心”を持った世代になってもらいたいと思います。
講演を終えるにあたり、再び、池田大作博士に対する深い尊敬と感謝の念を表したいと思います。私は、このような優れた人物、真の思想家、行動者と出会うことができ、最重要かつ興味深いテーマで語り合い、池田博士の英知を深く胸に刻むことができ、大変にうれしく思っています。
これまでの長い人生の中で数々の本を執筆してきましたが、その中でも、池田博士と共につづった対談集は重要な位置を占めております。池田博士と対談させていただけることは、私にとって大いなる名誉です。
21年前、池田博士はモスクワ大学での講演の最後、次のように呼びかけられました。
「闇が深ければ深いほど、暁は近い。希望あるかぎり、幸福は輝くのであります」と。
まさに、その通りです。わが国の有名な歌にもあるとおり、希望とは「人生の羅針盤」です。私たちを正しい方向に導いてくれます。
私たちが善の目的に向かって正しい道を進めるか否かは、私たち教師、および若い皆さまの双方にかかっているのです。