「風に立つライオン」の製作協力、NHKBSプレミアムに出演。ケニア・ナイロビ大学教授として、弁護士、母として奮闘する卒業生

お母さんの結婚でアメリカに渡ったのは2歳半の時、英語で育ったオダリさんが、お母さんの離婚で日本の福島県のおばあちゃんのもとに来たのは10歳の時。日本語の分からない女の子と英語のわからないおばあちゃん。お腹が空いて、お腹を押さえると、おばあちゃんは正露丸を差し出し、カレーが好きで、“Curry!”と言うと、きゅうりを差し出したおばあちゃん。言語の壁や大好きなお父さんとの別れなど辛いことはたくさんあっても、おばあちゃんをはじめ、学校の先生など多くの温かい人に囲まれ、医者、考古学者、通訳、国連職員、外交官、コマネチに憧れ器械体操のオリンピック選手など、たくさんの夢を持つように。創価大学を卒業後、ケニア・ナイロビ大学の大学院に進学し、同大学で勤務するように。結婚して3人の子供に恵まれるも、ご主人が病気で他界。異国の地で女手ひとつで子供を育てるためには力が必要と、弁護士資格を取得し、無我夢中で走り続けました。“今振り返ると幼い頃に夢見たことが様々な形で実現している”と微笑むオダリさんに、話を聞きました。
ケニアで日本人女性初の弁護士、そしてナイロビ大学文学学科長として活躍されていますね!

創価大学に戻るたびに、恩師である北政巳教授にあいさつに行くのですが、いつも“一番不幸な子が、一番幸せになったな”と言われます・・・(笑)。辛いことだらけでしたし、根暗でした。でも本気で心配してくれる素晴らしい人たちに囲まれ、どれだけ自分は幸せなのだろうかと感謝できるようになりました。。福島では、友だちや周囲の人たちからの“お母さんはどこにいるの?”“お父さんはどこにいるの?”との質問攻めに傷つきました。おばあちゃんが内職して私を育ててくれて、学力的には入学できる高校も、経済的理由で断念したり、そうした中でも精一杯の挑戦をし続けてはいましたが、どこかで自分は幸せになれないのかな、という思いもありました。
ケニアにわたって、大学院を卒業した後、文学学科の教員として採用になり、現在は、文学学科の学科長を務めています。学生たちと一緒にいて楽しいことは、学生たちの考え方も知ることができ、アイデアの交換ができることです。そして、学生たちに小説などを通して、色々とアドバイスできることです。学生たちは次のリーダーになるべき存在ですので、次のリーダーを育てていく作業に携われる事がとてもうれしいです。
また、創価大学と我がナイロビ大学間の交流が25年以上に及び、既に20人以上の創価大学生がナイロビ大学に留学しています。そして、留学生だった皆さんは、アフリカを始め、世界の各地で活躍しています。また、今年で2回学生リーダーたちと一緒に創価大学を訪問することが出来ました。


優しく真面目な夫と出会い、3人の素晴らしい子供たちに恵まれ順風満帆と思いきや、結婚11年目で夫を病気でなくして、絶望感に襲われました。子供を抱え、ケニアで女性が自立して生きていくのは並大抵のことではありませんでした。そして、自分が死んだら子供たちはどうなるのだろうかと不安になることもありました。そのために、自分と子供たちを守るために法律を学ばなければと思い、法学部に入学しました。昼間はナイロビ大学の講師として働き、夜は学生として懸命に法律を学びました。そして5年後の2003年、努力が実り、日本人女性として初の弁護士資格を取得でき、現在は法律上の相談や実際に裁判のケースを取り扱ったりしています。ケニアで日本人女性初の弁護士でしたから、ある時は法廷で被告人だと思われ、“座っている場所を間違っている”と指摘されたこともありました(笑)。
大変な中でも、人に恵まれ、温かい励ましをたくさんもらったと伺いました。
本当にこれまでいろいろなことがありましたが、全部意味があったな、全部自分が最高に幸せになっていくためにあったことなのだなと、北教授の言葉を噛み締めながら、思うんです。私の子供たち3人ともすくすくとそれぞれの夢に向かって成長してくれています。
そうですね。小学校5年生の時に担任の先生が私に色紙をくれたんです。“頑張る子は必ず勝つ”とそこには書いてありました。先生から励ましの色紙をもらい、とても感動し嬉しかったです。今でも大切にとってあります。中学校時代の国語の先生は、母との難しい関係を書いた私の作文に対して、赤字で“傷ついた人はそれだけ他人の気持ちがわかる優しい人になるのです”と書いて返してくれて、自分の苦しみに意味が見出せるようにしてくれました。


創価大学に来てからは、今はなき豊田寮というところで生活をして、地域の方々にも寮生だということで、親代わりになって面倒を見てもらいました。
先日創価大学のオープンキャンパスに合わせて開催されたスーパーグローバル大学イベントに招かれて講演をした際に、公開イベントでもありましたので、そうした懐かしい方々も来てくれて、顔を見た瞬間に嬉しくて思わず泣いてしまいました。“偉くなっちゃって、うれしいよ!”とおじさんもおばさんも声を掛けてくれました。おばさんたちに喜んでもらえる自分になれたんだと思ったら、自分も嬉しくなりました。大学でパン・アフリカン友好会に入ると顧問の北教授に厳しくも温かく育ててもらいました。
創立者がお父さん代わりのように、寮生と一緒に食事をしてくれたこと、創立者の「お母さんを大事に」との言葉に自分の親孝行を考えさせられたこと、キャンパスでお見かけした創立者の姿に、なぜかとっさに心の中で“21世紀をアフリカの世紀にします!”と叫んだこと。創大キャンパスでの思い出は数え切れないほどたくさんあります。ナイロビ大学大学院に進学後は、ちょうど創価大学とナイロビ大学の学術交流が結ばれるなど、日本人教員を必要とする状況が生まれ、何人もの友人たちが大学で働くことを希望する中、私一人が教員としてのポストを得ることができました。現在の文学部のピーター・ワサンバ学部長も大変な理解者で影に日向に支えてくれていますし、創価大学には入学式や創大祭などの機会に昨年で2度一緒に訪問しています。
ところでなぜケニアだったのでしょうか?

アフリカに関心を持ち始めたきっかけは、小学校6年の時に読んだ『ツタンカーメン王の秘密』でした。その本を読んだことにより、エジプト考古学者になりたいと思ったのです。その夢はかなり長い間続き、創価大学の野球場が出来る前も、その土地で遺跡発掘のアルバイトをしていました。創価大学では、パン・アフリカン友好会に入部しました。私の頭の中では、エジプトはアフリカと思っていたので、それでエジプトでなくてもアフリカのどこかで貢献できればと思うようになったのです。それから、国連職員や外交官になってアフリカに貢献したいと思うようにもなりました。
私が学生だった頃はまだまだアフリカに関心を持つ人が少なく、部員数も少なかったのですが、創価大学の創立者である池田大作先生の「21世紀はアフリカの世紀だ」との言葉に、私もアフリカに貢献したいとの決意を深めることができたのです。また、ある時、ガーナ大使館の一等書記官にお会いした際、その方は私達に対して、「日本人は白人の目でしかアフリカを見ていないね。君たちがアフリカに実際行って、自分たちの目で見てきたアフリカを日本人に教えてほしい」と言われ、その言葉にすごく胸が打たれました。大学4年の時、はじめて3ヶ月間のスワヒリ語研修でケニアに行き、初めてアフリカを体験させていただきました。とくに雄大な大自然に惚れ、この滞在がきっかけでケニアに再び戻って来たいと強く思うようになりました。この夢をずっと持ち続け、創価大学卒業後、ナイロビ大学の大学院で文学を学ぶことになったのです。ケニアのポレポレ(ゆっくりゆっくり)という文化、ハクナマタタ(問題ない)の精神が大好きでした。人々は大らかでオープンでフレンドリー。“ケニアの水を飲んだ人は再びケニアに戻る”とのことわざの通り、絶対に自分はケニアに戻るんだ、と思いました。文化の違い、価値観の違いは厳然とあって、いいことばかりではありませんが、私はグローバル・シチズン(世界市民)と思うようにしています。


留学当初は、お金持ちの国から来た日本人だと、車持って来て、時計ちょうだいと物をくれる人としか見てくれないことに本当に悲しくなかなか友人もできませんでしたが、いい友人を作ろうと前向きにとらえる様になった時、友人にも恵まれるようになりました。特に、同じ同級生だったワンガリさんという友人(現在、ケニャッタ大学の学部長)は、お姉さんのように私のことを心配してくれ、試験前は、土曜日も一緒に図書館で試験の勉強をしてくれ、わからないことを親切に教えてくれました。結婚をしたいと思えた夫と出会えて、ケニアで生きていくことになりました。スーパーグローバル大学イベント終了後に行った創大生との懇談会で国際結婚について聞かれましたが、価値観の違いは、実際大変ですよ(笑)。
ここ数年ナイロビ大学の学生自治会のメンバーと創価大学の学生自治会やクラブのリーダーたちとの交流会を行っていますが、これがかなりお互いにとってだいぶカルチャーショックを受ける機会になっています。ナイロビ大学では学生の選挙でもワイロが普通です。ですので、ナイロビ大学の学生は自然な質問として、“創価大学ではどのようなワイロが行われていますか?”とか、“学生リーダーとして、大学からいくらぐらいのお金をもらっていますか?”などの質問が飛び出します。創大生にとっては想定外の質問ですので、言葉がわかっても意味がわからず固まってしまいます(笑)。私としては、“大学のために”“後輩のために”とボランティア精神で取り組む創大生からナイロビ大学の学生たちに大切な何かを感じて欲しいと思っているのですが・・・(笑)いろいろありますが、私はケニアの自然が大好きです。本当に美しい。海に行くとその雄大さに、自分の悩みなんて小さいなと思うんです。食べ物もおいしいですよ。是非とも日本の皆さんに見て、食べて、感じてもらいたいです。ケニアに来てください!
映画「風に立つライオン」では、オダリさんはじめナイロビ大学が協力されたそうですね。

我が文学学科には、文学のほかに演劇専攻があり、それで、ナイロビ大学と映画会社の間で交換協定を結び、映画作成に協力することになったのです。昨年(2014年)10月には主題歌を歌うさだまさしさんと主演の大沢たかおさんがナイロビ大学に来られて、学生たちと交流される模様と私自身を紹介する内容がNHKBSプレミアムで1月4日に放映されました。当時ナイロビ大学に留学していた創大生2人とナイロビ大学から創価大学に留学していた学生3人たちも出演しました。
撮影ではナイロビ大学の教授や学生たちも協力して、エキストラとして、医者や負傷兵やキオスクの主人などの役を演じきっていました(笑)。監督の三池崇史さんは、ナイロビ大学で講演をしてくれ、感動的な話をして下さいました。“いなくてはならない存在になれるよう、なんでも率先してやること”、“夢を持つことの大切さ”を語って下さり、私たちにとっても大変に貴重な体験になりました。このプロジェクトを通して、たくさんの素敵な出会いも築かせてもらいました。

最後にメッセージをお願いします。

いつも学生たちに言うことなんですが、夢を持ってもらいたいと思いますし、自分の可能性を信じてもらいたいと思います。ご年配の方もそうです。数年前に、60歳を超えたケニアの副大臣がナイロビ大学に入学し、私の1年の授業を受けました。私はどうして副大臣が大学に入学したのか関心があったので、彼に質問すると「政界から引退したあとは、地元の高校で教えたいので、大学に入った」と答えました。教育は一生です。何歳になっても夢を持つことはただです。どうか、皆さんも夢を持ち続けてください。そしてその夢を情熱で追いかけて下さい。
壁にぶつかることももちろんあると思います。私も大学院に入る時、あらゆる壁にぶつかりました。でも、何としてもこの夢を果たしたいとの強い信念できました。挫折しそうになったり、どうしたらいいかわからなくなって自信を失いそうになったりすることもあると思います。でも、皆さんは、お互い励ましあいながら、夢に向かって進んで下さい。夢があればそのことに情熱を持ってその夢に向かえるのです。さらに、なかなか自分に可能性があると信じられないものです。私もそうでした。でも、私には、創立者池田先生をはじめ、小学校の先生、中学校の先生をはじめとして多くの方々に励まされ、自分の可能性を信じられる自分に変わることができました。


まだまだ、私も「うーん大丈夫かな」と一歩ひきそうになることもあります。でも、常に“Yes, I can”と自分に言いきかせることです。それから、私の中学校時代、高校時代そして大学時代を振り返ってみると、友だちがどれだけ大切かを痛感しています。どうか皆さんも良い友達を作って下さい。そして良い友達になってあげてください。友だちを大切にしていってください。良い友達がいることは本当に大切であり、幸せなことです。
女子学生たちに一言。男性より劣ると思わないでください。ケニアのことわざに「男性を教育すれば一人を教育したことになる。女性一人を教育すれば社会(その村)を教育したことになる」とあります。
創立者池田先生も21世紀は女性の世紀といわれています。女性の皆さんも自分の可能性を信じて、自分の大きな夢に向かって頑張ってほしいです。自分にしかできないすばらしい宝を持っているからです。「出来ない」という声が自分の中で聞こえても、「できる」と信じることです。
創価大学で聞いた“21世紀はアフリカの世紀”との創立者池田先生の言葉。それは、“21世紀はアフリカの世紀になる”ではなく、“21世紀をアフリカの世紀にする”との創立者の意思であり、私はその実現のために、力を尽くしていきたいと思っています。そのロマン溢れる大きな目標が、自分を前進させ続けてくれているのだと思うんです。私は今本当に幸せです。感謝しかありません。これからも、支えてくださった多くの方々に喜んでもらえるように頑張っていきます!


[好きな言葉]
Change begins with Me・ 幸福は人間革命ただここに
[性格]
恥ずかしがりや、おおざっぱ、まじめ
[趣味]
音楽鑑賞、旅行、友人たちとの対話
[最近読んだ本]
“Tears of the Desert” by Halima Bashir and Damien Lewis