ヌール・ヤーマン アメリカ・ハーバード大学名誉教授
私は今、1993年9月に貴学創立者の池田博士がハーバード大学で行った記念すべき講演、「21世紀文明と大乗仏教」を思い起こしております。
あれから約四半世紀が過ぎました。博士の理念は大きな広がりを見せ、人びとの理解はより深まっています。と同時に、対話や崇高なヒューマニズム、非暴力の必要性は一段と急務になっています。本日は、私たちの共通の未来のために、お話しいたします。
まず、人類学、つまり人間の研究についてです。人類学の本質は「共感」にあります。フランスの偉大な文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースはこの点について、「共感」なしには「他者」の文化や文明の考え方を理解することは不可能であると述べています。
私たちは他の文化や文明の人々の思考様式に自らを当てはめて、考えをめぐらせなければなりません。その時に初めて双方の思考の間で「対話」が可能になり、生産的になるのです。
この「共感」への関心はそのまま、フランス革命へ向かう、あの勢いある時代に生まれた「啓発」や「崇高なヒューマニズム」、「人権」の希求へとつながっているのです。
「共感」と「対話」への関心は、何もフランスの専売特許ではありません。他者の思考や文化を彼らの立場で理解するという、「主観性」に踏み込むことを説いたマックス・ウェーバーの理解社会学など、豊かなドイツの伝統にも共感と対話の概念は散見されます。
池田博士は、2011年の平和提言で、こう述べています。「哲人、賢人の指し示す正道を歩み、事実の上で仏教史上に輝く世界的な広がりを成し遂げてきたのが、まさしく我々の仏法を基調にした人間主義の運動なのであります。故に、今後とも着実に水嵩を増していくにちがいないSGI運動は、文明転換をもたらす“方向舵”として、時とともに輝きを放ち、スポットを浴びていくことは必定であろうと、私は確信しております」
単一の隔絶された崇拝対象となっている伝統を超えて、探求を深めていくためには、こうした思考こそ正しい方向性であると確信いたします。
今日の世界で最も必要とされているのは、「崇高なヒューマニズム」にほかなりません。それは、全ての世界宗教と共鳴しうる、認識と尊敬の人間主義であります。それは、ありふれた宗教的「同族優越意識」を超える人間主義です。
それは、何より「他者の視点への尊重」に基づく人間主義です。そしてそれは、個人を「尊重」する人間主義です。
その個人とは、フランスの作家アンドレ・ジッドが言うところの「代わりがきかない存在」のことであります。
愛する者を失った人ならば瞬時に分かることですが、その失った人―それは母親、姉妹、息子、娘、父親、孫、最愛の人かもしれませんがーは当然、「代わりがきかない存在」なのです。
失った人に代わる人などいない。こうした考え方は、普遍的人権の根幹をなす意識でもあります。その意味でジャン=ジャック・ルソーやレヴィ=ストロースの関心事は、今日の私たちの関心事と同じものなのです。
ではなぜ今、崇高なヒューマニズムについて語らなければならないのでしょうか。キリスト教のイエスやイスラムのムハンマド、ユダヤ教のモーセ、ヒンズー教やシヴァやヴィシュヌ、仏教のシッダールタなどについて語るだけでは、不十分なのでしょうか。
これらの崇拝される存在を中心に、閉鎖的でなじみあるコミュニティーを形成することは、非常に魅力的です。そうすることで「私たち仲間」を定義し、それ以外は「私たち」ではなくなる。まさにこれこそ、われわれが闘わなければならない野蛮性、部族主義なのです。
崇高なヒューマニズムをどうやって成し遂げるかということは、私を含め、多くの人類学者が常に念頭に置いていることです。
私自身は、崇高なヒューマニズムとは、人々の宗教上の要望を理解して受け入れ、彼らが深く信じている「真実」を尊重することであると考えています。例えば、集合的・個人的な儀式や、寺院、礼拝場、神聖な対象や説話、人類共通の感情なのです。
これこそ私たちが知る活気ある世界宗教の姿であり、私たちは日々、そうした宗教と共に生きているのです。また、それらの世界の宗教が手を取り合った時、どれほどの力を発揮するかも、私たちはよく知っています。
しかし、全ての宗教がそれぞれ抱いている人類共通の関心を引き出すためには、対話という人間の偉大な能力を使わなければなりません。いよいよ私たちは、宗教をも超えて、「崇高なヒューマニズム」へと向かっていくべきなのです。それは、宗教や人々の信念体系の否定ではありません。むしろ、意見の相違や未知のものへの憎悪、恐怖、過激主義、組織的暴力がはびこる世界に、さらに寛大な受容と理解、道理と合理性を求めているだけなのです。
こうした思考は、仏教の規範を現代的に展開した、池田博士の顕著な功績にも連なるものです。それは、伝統的なサンガを超え、SGIのように親密に討議し合う集団から生まれるのです。
そのような地域のコミュニティー拠点は、人々の要望や優先事項を、最も的確に定義しうるといわれます。「現代の寺院」と言ってよいでしょう。
また、博士が人類の未来を展望して重ねてきた歴史学者、科学者、哲学者ら世界に変化を起こした人々との対話は、最も創造的です。トインビー博士から始まった博士の幅広い対話は、ポーリング博士やロートブラット博士、ゴルバチョフ元大統領、マルロー氏など、多くの重要な思想家との対話へと続き、非常に多様な立場の方々の関心事を引き出してきたのです。
最近、パリで起きた悲惨な事件は、他者に対する“不寛容”を明らかにし、犯人たちが大切にしているものは、私たち全てを破壊する可能性があることを示しました。
“弱者の武器”と“強者の武器”の間に起こる戦争が、良い形で終結することはありません。今まさに、シリアやイラクで目にしているように、破壊的な暴力を引き起こす残忍性を孕んでいます。これだけの暴力を目の当たりにすれば、世界各国に深い失望が生まれるのは当然です。
今世紀に入り、すでに多くの人が殺戮されました。それは想像を絶する悪夢です。平和のために持続的かつ意識的に協働していく以外、この恐ろしい戦争と殺戮の“絶対的な力”を止める手段はありません。
この重要なテーマについて、マハトマ・ガンジーは、透徹した言葉を残しています。“目的のために手段を正当化することはできない。使用された手段は、達成された目的の性質を決定づけるものなのだ”
この偉大な精神の言葉に優る対話と平和への導きは、ほかにないでしょう。
「アヒンサー(不殺生)」や「生きとし生けるものへの哀れみ」は、仏教やジャイナ教の中核をなす教義であり、イスラム、キリスト教、ユダヤ教にも共通する精神です。これはもちろん、私たちの最大の関心事である人権の概念とも、完璧に一致します。
詰まるところ、人権とは人間の運命に対する気遣い以外の何ものでもありません。人間と、その権利への共感であり、それはまた、さまざまな卑劣な政治体制によって世界中で侵害されています。
この点についても、時代の喫緊の課題として、池田博士は明確な指摘をしてきたのです。
一言付け加えさせていただくなら、「生きとし生けるものへの哀れみ」とは、全ての偉大な宗教的伝統に、ある程度、共通するものだということです。
偉大な宗教は全て、人間の内なる生命の神聖さ、一人の人の尊さ、そして生命の無常について思索している。こうした根本的課題こそ、私たちが決して忘れることができない、そして忘れてはならない普遍的関心事なのです。

ハーバード大学名誉教授。トルコ生まれ。英国ケンブリッジ大学で博士号を取得し、1972年からハーバード大学教授。1973年から1976年まで同大学の中央研究センター所長を務める。インド、スリランカ、イランなど現地調査を重ねた。宗教と社会の関係などに造詣が深い。 「21世紀と大乗仏教」と題し、本学創立者の池田先生がハーバード大学で行った2度目の講演は、当時、文化人類学部長だったヤーマン博士らの招聘によるもの。1992年から重ねられた創立者との語らいは、対談集『今日の世界 明日の文明』(河出書房新社刊)に結実している。