多様性の国・マレーシアに18年。「違い」を「力」に変える智慧に学ぶ
創価大学の16期生。大学2年生の時に、多様性の国・マレーシアに注目。3年生で交換留学生としてマラヤ大学に留学し、卒業後、同大学大学院に進学し、修士号、博士号を取得。マレー語で作成した「英領期マラヤの植民地財政史」の修士論文をきっかけに、その後11年間、ラジャ・ナズリン ペラ州皇太子でマラヤ大学総長補(当時)が主導する「英領マラヤ期の長期経済統計推計プロジェクト」のワーキングメンバーとして従事。皇太子のリーダーシップのもと、異なる国籍、民族で構成されるチームの一員として研究に従事。多様性と知的刺激に溢れていたマラヤ大学での日々が今も忘れられないという杉本教授。夢であった創価大学で教鞭をとる日々の中で、マレーシアで受けた恩返しとして、学ぶ喜びを学生に伝えようと挑戦の日々だと言います。そんな杉本教授に話を聞きました。
学年末には、希望する国際教養学部の学生たちを連れてマレーシアでインターナショナル・フィールドワークを実施されるそうですね。

はい、今一番わくわくしていることですね。事前研修も10月から開始し、複合社会マレーシアの歴史、経済、社会、文化などマレーシアの魅力をLTDやディスカッションをベースに学んでいます。1期生はアメリカやオーストラリア、イギリスでの1年間の留学を終えて帰ってきて、その他の地域を知る重要性を感じてくれたようでした。海外に出ることで、欧米と自国を相対化する経験を培った彼らが、更にもうひとつの別な世界を知ることで、より多角的にものごとを捉えることができることは素晴らしいことだと思います。今回の研修では著名な教授陣による講義、学生とのディスカッション、参加学生による研究報告会など盛り沢山のプログラムとなっています。
留学から戻った学生たちの意識は非常に高く、夏休みにBasic Seminarで担当していたクラスの1人の学生さんが研究室に来て「国際教養学部の1期生として道を拓くために、第3回Go Global Japanイベントの英語プレゼンテーション大会に挑戦したいので、アドバイスしてください」と言ってくれました。5人のメンバーはチーム名“Fusion(融合)”の如く、それぞれの個性と特技を活かして、こちらが圧倒されるぐらい毎日頑張っていました。結果、本選に進み、先日11月21日に開催された大会では見事3位に入賞しました。私は簡単な助言程度しかできなかったのですが、大会の翌週、メンバー全員で研究室に来てくれ、受賞したメダルを私にかけ記念撮影をしてくれました。能力のみならず、人格も立派な彼らの姿に、改めて素晴らしい学生さんを相手にしていることを再認識しました。
先生は、マレーシアで18年間を過ごされ、2009年に本学に赴任されたんですよね。

そうです。創価大学に入学し、進むべき方向に悩み、悶々としていた2年生の4月、留学の道を勧めてくれたのが、当時の担任の先生で、現在国際教養学部で一緒に教員をさせていただいている高橋一郎教授でした。将来は海外の大学院に進学して博士号を取得して、いつの日か創価大学の教員として働ける自分になりたいとの夢をもつようになりました。しかし経済的に欧米への長期の留学など現実的には無理でした。そこで今後発展が期待されるアジア地域のなかで、しかも英語で学べて、博士号が取れる場所を探していました。
そんな最中、創立者が1988年2月にマレーシアをご訪問になり、そこで詠まれた長編詩が、私の進むべき道を決定しました。創立者は「愛するマレーシアの友に贈る『若々しく未来に光る国』」と題した長編詩の中で、「多様な民族 多様な資源 多様な文化 多様性は 無限の可能性である 多様性は 洋々たる未来性である 多様性は 醗酵しゆく 豊かさである」と詠まれました。直感的に“これだ!”と思いました。私をとらえたのは、“多様性”という言葉の持つ響きでした。日本は、いつかこの多様性の国・マレーシアから学ぶことが多くあるはずだと思いました。
1年間の交換留学時代に進学の可能性について探り、ロータリー財団から奨学金を勝ち取って大学院の進学を選択しました。将来ちゃんと仕事に就けるのか、大きな賭けでしたが、臆病な自分にしては珍しく「まぁなんとかなるさ」と楽観的に決めました。実際は、自分でもあきれるぐらいの誤算と想定外の連続でしたが(苦笑)。多くの不安を抱えながらこれまで支えてくれた両親、妻や子供に本当に感謝しています。卒業後約18年のマレーシア滞在を経て、2009年に帰国して本学の教員として奉職し、2014年度からグローバルリーダーの輩出を掲げた国際教養学部で教鞭をとらせて頂くことになりました。長く海外にいた自分ができること何なのかを模索する日々です。

そのグローバルリーダーですが、先生は、マレーシアで多様性あふれるチームを率いる素晴らしきリーダーと出会ったそうですね。

その通りです。私のマレーシア滞在中での最大の出来事は、ラジャ・ナズリン ペラ州皇太子、マラヤ大学総長補(当時)(現在ペラ州スルタン、マラヤ大学総長)というマレーシアを代表する指導者にお会いできたことでした。その出会い自体も本当に不思議なものでした。
当時私はマレー語で490頁の「英領期ジョホール州の植民地財政史」に関する論文を必死で書き上げ、修士号を取得したのですが、進路で厳しい現実に直面していました。マラヤ大学では当時外国人の正規採用はなく、非常勤講師のみ。生活費にもことかき、最後は日本人の友人が手配してくれた会社の倉庫の一角を間借りしていました。年齢も既に30歳でした。
そんなある日、指導教官よりラジャ・ナズリン皇太子が私をイスタナ(皇居)に招待したいとの連絡を受けました。何か間違いではと思いましたが、お会いすると、皇太子は総長補として大学の研究成果を報告する展示会で偶然私の論文をご覧になり日本人がマレー語で論文を書いたことに関心を持ったとのこと。そしてご自身が取り組まれていた研究分野に近いことを話してくださいました。そしてその日から研究プロジェクトのメンバーとして試験的に採用をしてもらうこととなりました。それから有難いことに帰国するまでの約11年間研究プロジェクトに従事する機会を頂きました。
皇太子はハーバード大学で博士号を取得されたのち、「英領マラヤ期の長期経済統計推計」を行うため、GDP推計、人口統計、東南アジア史、経済理論等の異なる分野の専門家を採用し、プロジェクトを主導されました。専門も違う上、イスラム教徒、シーク教徒、ヒンズー教徒、仏教徒と宗教も、文化も異なるメンバーによる構成でした。また皇太子は折をみて、日本、オランダ、インド、フィンランド等から著名な研究者を短期間招聘くださりアドバイスをいただきました。メンバーは専門性に立脚して様々な提案を行い、皇太子は激務の公務の時間をぬって研究室にこられ、意見を集約し、方向性を提示されました。メンバーは己のプライドをかけ激しい議論を繰り返すこともしばしば。


しかし最後は“皇太子のもとプロジェクトを絶対に成功させたい”という想いで奇妙なバランスでまとまりをもつメンバーでした。皇太子の優れた点は、それぞれの人がもつ能力、特性を大切に活かし、自信を与えてくれることでした。また国籍、民族、性別、年齢等が違うことで決して差別はせず、むしろその“違い”にこそ光をあて評価してくれました。皇太子がこられると、皆変わったように元気になりました。それはマジックをみているようでした。
こうしたなか私は、議論のなかで巻き散らかされたアイデアを拾い集め、形にして、検証するという地味な仕事を担いました。膨大な時間がかかり、次のディスカッションに向けて資料作成をする必要があり、緊張の連続で、一見割のあわない役回りでしたが、情報や研究手法は自然と私に集約されるようになりました。そうして私は、日本人の「真面目さ」を売りに、それを信用にして自分の場所を確保することができました。この経験から、グローバルな環境で勝つといっても決して一つの型があるわけではなく、むしろ“違い”を武器にしてポジションをみつけることが大事だと分かりました。しかし“違い”は無理して作るものではなく、国民性や個性を基盤にすればよいのだということでした。自分に無いものは感謝して他者から学び、自分にあるもので他者に貢献しようと思えば、おのずと信頼関係はできていきました。

でもやはり、グローバルな環境で生き残るという次元と、リーダーシップをとるということは、全く別次元だということも痛感しました。異なる専門家の考えをまとめあげ、成果をだしていくには、幅広い教養、ビジョン、統率力とともに、高潔な人格こそが大事なのだと皇太子の振る舞いを通じて思い知りました。
翻って考えてみると、国際教養学部はそうしたグローバルリーダーの輩出を目的としているわけです。非常にハードルは高いですが学生たちはこのキャンパスで、個々の個性を存分に発揮しながら力と人格を磨いてくれると信じていますし、その距離を痛感してきた立場として、尽力していきたいと決意しています。
ところで、先生がマレーシアにのめりこんだ理由はどこにあるのですか?

第1は“知的刺激”を与えてくれた個性的な人々との出会いです。修士号の指導教授は、ギリギリの課題を設定して、鍛えるタイプの方でした。何を思ったか遂には500頁に及ぶ論文をマレー語で書くよう要求しました。鬼です(笑)。途方にくれている私を見るとゲラゲラ笑うような人でしたから(苦笑)。その一方で、“もうこのへんでよいのでは”という姿勢が少しでも見えると手に負えないほど激昂されるような方でした。
博士号の指導教授は、英国ワーウィック大学で博士号をとった寡黙な学究者で、皇太子の経済学のアドバイスを担当されている方でした。決して威張らず、丁寧に接しくださいますが、先生が求めるレベルに達しないと、静かに却下し、次に何をするかは自分で考えなさいというタイプの方でした。結局プロポーザルのボツが蓄積し、論文のタイトルが最終的に決まるまで4年間かかりました。二人とも個性の違う指導教授でしたが、共通していたのは、1)学生と真っ向から向き合うというよりは、自分自身が己の課題に突き進み、その姿を見せる。そして時折後ろを振り返りながら指導するというスタンス、2)学生が殻をやぶるためには、たとえ嫌われても構わないという胆力、3)”学ぶことの楽しさ”をいつも発信する、という3点でした。苦労も多かったですが、時折伺った現在進行形の研究話に、私はいつも知的刺激を受けました。

第2は、マレーシアが、具体的にはマラヤ大学が、「自分は創価大学卒業生だから負けられない」という挑戦の場所になっていたからだと思います。自分の努力によって創価大学を伝えられるということは、頑張りがいがあり、充実したものでした。皇太子、指導教授、その他、多くの方が、そうした私の気持ちを分かってくれていました。だからこそ、創価大学への奉職がきまった時は、皆さんとても喜んでくださいました。
第3はマレーシアで出会った多くの”創価教育同窓の友”の存在でした。世代を超えて、それぞれの立場で頑張っている皆さんとのつながりや、さりげない励ましがあればこそ、なんとか前に進むことができました。今でもマレーシアでお世話になった方々は特別な存在です。苦しい時を支えてくれた方々には、一生頭が上がりません(笑)。
最後にメッセージをお願いします。

30歳の時、先がみえず苦しい時はありましたが、あれだけ努力したのだから絶対にこの状況を脱することができると妙に楽観的でした。それまで、あまり実感していませんでしたが、いざという時に自分にも「負けじ魂」があったのだと強い自信を持つことができた貴重な体験でした。私のようなケースは到底、良い例とは言えばせんが、上手くいかなくてもあせらず、じっくり頑張り続けていくことで、パッとチャンスが開ける時もあるのだということを学生さんには伝えたいです。
また教員として学生と接しながら日々自問するのは、私がかつて指導教授から受けたような、知的刺激を与えられているだろうか? 自分自身が挑戦しているだろうか? また学生さん自身がもっている可能性を、潜在性を開花できるような十分な工夫をしているか? ということです。今、教員という立場で忙しくしていると、かつて要職にいた指導教授たちが如何に時間をこじあけて私に手をかけてくださったのか思い知ります。今の自分では「まだまだだ」と言われるのが目に見えています。その意味では皇太子や、指導教授等多くの方から頂いた恩を、創価大学から有為な人材を輩出していくことで、お返していくことだと痛感しています。

[好きな言葉]
Hendak seribu daya, Tak hendak seribu dalih
[性格]
頑固だと思います。
[趣味]
マレーシアに関すること全般
[最近読んだ本]
Anthony B. Atkinson著 “Inequality-What can be done?”