箱根からオリンピックへ、夢を繋ぐ!“絶対にあきらめない”、その強い思いが壁を破った!

「高校3年間は辛かった、大学4年間はさらに辛かった、でも状況がどうあれ絶対にあきらめたくなかった」、そう語った山口選手。大学入学時から、持ちタイムは群を抜き、入学と同時にエース、そして箱根駅伝の請負人としての使命を負うことになりました。あまりのチーム状況に怒りすら覚えた1、2年次。それでも、チームで箱根に出場することを決してあきらめませんでした。3年次、スタッフが新たな布陣となり、山口さんもエースで主将となり、心機一転。
しかし現実には、まだまだ箱根で戦うには程遠いチーム状況でした。それでも、スタッフの懸命な努力と、4年生の意識変革、そして箱根を目指して集った一人ひとりの思いが重なり、2015年1月、悲願の箱根駅伝出場を成し遂げました。出場を前に行った合同記者会見には23社が集うほど、創大チームの箱根駅伝初出場は注目を集めました。しかし、試練は続き、4年次はあまりにも走れない自分に、初めて“もうダメかもしれない”と思ったと言います。
しかし、1月2日、そこには全てを乗り越え、1区でトップ集団を快走する山口選手の姿がありました。15km地点では、トップに踊り出たほど。主将を務めた過去最速クラスと言われた関東学生連合チームもそれぞれがそれぞれのチームの思いを背負い、力の限りの力走を見せ、総合11位相当の結果を出しました。
次なる目標は2020年の東京オリンピック。さらに前を、高みを目指し、走り続ける山口選手に話を聞きました。
最後の箱根駅伝、素晴らしい走りにたくさんの喜びの声が寄せられました!
ありがとうございました!創立者はじめ、多くの方々に応援し続けていただいた4年間でした。2区へといい流れで繋ぐ走りができれば、必ず喜んでいただける結果は出る、そう確信し、ひたすら走りに集中して勝負し続けました。同期の松宮と長嶋はもう寮を出ることができたにも関わらず、自分のサポートのために残ってくれました。
また本当にサプライズでしたが、チームメイトが駅伝部のブログに自分への応援メッセージを寄せてくれました。前日、寮を出発するときには誰にも会わず何も言われず出発しましたので、びっくりしました。みんなのメッセージのことを知ったのはスタート地点へと召集される時。ブログを開くと、部員たち一人ひとりの言葉がそこにはありました。
「修平の走りを、創価大学の主将として、エースとして、大学生活のすべてを箱根で見せつけてきて!」「どこまでも修平らしく、思いっきり楽しんできてください。私も今までのチームへの感謝と修平への感謝を応援にぶつけます!」「今日、僕は補助員ですが、来年は必ず箱根の舞台に立ちます!修平さんも来年の箱根を走っているつもりで爆走してください!」「大学生活の集大成となる箱根駅伝。同じチームで襷を繋ぐことはできなくても、チーム全員で修平さんの背中を後押しします!最後の箱根駅伝、楽しんで来て下さい!」「戦う気持ちはチーム全員一緒です!頑張ってください!」と。
共に箱根を目指し厳しい練習を、様々な試練を乗り越えてきた仲間からのメッセージです。本当に力になりましたし、自分は一人ではないと、不思議と緊張がほぐれました。
15km地点ではトップに躍り出ましたね。
15km地点で勝負をかけることは走る前から決めていました。昨年、あの場所で青山学院大学の久保田選手に仕掛けられ離されてしまいました。もっと思いっきりいけたのにと悔いが残りました。今回は、仕掛けられる前に自分が仕掛けようと思っていました。もっとスピードを上げることはできましたが、意図的に抑えました。そこに後ろから久保田選手にまたもや持っていかれてしまいました。力の差ですね。区間7位。スタッフからも「よくやった」と声を掛けてもらいましたが、自分はどこまでも1位を目指していましたので、悔しいですね。1位以外は負けです。勝ち負けってそういうことですよね。
目指すのはメダルですから、そう思ってレースに挑まなければ、たった1つしかないメダルに届くことなんて夢のまた夢です。実業団でお金をもらって走ろうとする選手としては、当然のことだと思います。課題は山積みですし、久保田選手はじめすごい選手も多くいますが、絶対にあきらめません。自分は“あきらめる”ことが大嫌いです。
その大嫌いな言葉が、頭をよぎった程に苦しんだのが、昨年の箱根駅伝からの1年間だったそうですね。

そうですね。。。自分の競技人生の中でこれほど苦しんだことはなかったと思います。初めて本気でやめようと思いました。昨年の箱根駅伝以降、走るたびに自信がなくなるような、模索しながらの一年間でした。
箱根駅伝の時も調子はあまり良くはありませんでしたが、1月下旬の都道府県駅伝でも調子は悪いままでした。その後のレースでも全く走れず、ついに2月1日に行われた香川丸亀国際ハーフマラソンで67分05秒(121位)という、信じられない遅いタイムを出しました。今回の箱根1区とほぼ同じ距離で、今回が62分15秒ですから、当時どれほど走れていなかったか分かってもらえるかと思います。エースで主将の自分が、他のチームメイトよりもはるか後方を走っていました。調子が悪かったとしても、走れないにも程があります。しかも、レースでは春からお世話になる実業団の先輩も走られていて、集団から離れそうになる自分に“がんばれ!”と声を掛けてくれました。にもかかわらず、ずるずると下がってしまって。本当にボロボロでした。声を掛けてもらっても、付いていくことすらできない、情けなさ。
自分の中では“終わった”と思いました。“実業団に自分なんかが行ってもいいのか”、“自分はもう走れないのかもしれない”と本気で思ったのがその時です。出るレース、出るレース、ことごとく惨敗。弱音も吐きました。すぐに立ち直ることはできませんでしたが、どこかで時が経てば自然と復活するとも思っていました。夏の帰省でしっかりと休んだことで、疲れが抜けはしましたが、その後も依然、レースで結果は出ませんでした。
実際は、昨年の予選会まで、まともに走れたレースは一つもありませんでした。途中“やめたい”と思ったことすらありましたが、もちろんそんなことは許されません。チームメイトの中には、箱根を夢見て、箱根を目標にしてきた選手たちも多くいます。
実業団に行くのは、自分と後沢広大の二人だけですから、それ以外は、箱根に行けなければ、選手生活がそこで終わることになります。何としても、みんなを箱根に連れて行きたかったんです。自分は“自分のために走る”ことでモチベーションがあげられるタイプではありません。仲間のため、喜んでくださる方々、応援してくださる方々、そうした誰かのためにと思うことで、走ることができます。ですから、その一点で、苦しさは変わりませんでしたが、走り続けました。

箱根駅伝の予選会当日もスタートするまでは、自分が走れるかどうかは本当に分かりませんでした。自信もありませんでした。ただ、チームの中でもそれぞれがそれぞれの役割を懸命に果たすように、自分も主将として、エースとして自分がやるべきことをしようと、集中してレースに臨んだ結果、予選会個人6位の結果となりました。とは言え、チ-ムで予選会を突破することはできませんでした。
1年間の自分の不調がチームの覇気を損なってしまっていたことは間違いなく、大変に申し訳ないと思いました。その後、関東学生連合のメンバーとして創大チームを代表し、箱根を走ることになりましたが、チームで出場できないとの思いを拭い去ることはできませんでした。チームメイトの涙、自分の不甲斐なさ、そこから一歩踏み出させてくれたのは、瀬上監督の「(箱根を)走る姿で後輩たちを鼓舞してほしい」との言葉でした。同期に、そして後輩たちに自分の走りで何かを感じてもらいたい、そこから箱根に向けて調整を開始することができました。
最後に応援し続けてくださる皆さんへ一言お願いします!

そういうのはすごく照れくさくて苦手なのですが、ただただ感謝の思いでいっぱいです。箱根に出場したことで、それまで以上に、どれほど多くの方々の温かい真心に支えられていたかを知ることができました。出場が決まって以降、毎日のように応援メッセージが日本中から届きました。ものすごい力になりましたし、今、後輩たちが懸命に、“再び、箱根へ”と走り続けられるのも、自分たちには世界一の大応援団がいるということを知れたからです。そしてどうにかして、再び喜んでもらいたい、勝って応えたい、との気持ちが駅伝チームのモチベーションになっています。
自分はこの春から実業団でオリンピックを目指します。これからも、多くの皆さんに力を与えられるような走りをしていきたいと思いますし、その走りを見て元気になっていただければうれしいです。どうか、引き続き、ますますの応援を宜しくお願いいたします!
【選手データ】5000mベスト 13分59秒44/ 10000mベスト28分46秒92/ ハーフ 63分37秒
【箱根】1年生 学生連合4区/3年生 1区/4年生 学生連合 1区

[趣味]
バスケットボール
[最近読んだ本]
三上延著『ビブリア古書堂の事件手帖』