よき師を求めて:日本に仏教文献学の確立をめざす辛嶋静志教授

辛嶋 静志 国際仏教学高等研究所所長/教授

一流の教授や学者、師匠と巡り会うことが、いかに自身を大樹へと成長させ伸ばしてくれることか。創価大学国際仏教学高等研究所の辛嶋所長の“出会いのストーリー”は国際色豊かで感動的だ。とりわけ、仏教梵語では世界最高峰の師匠・季羨林氏を熱く語って、取材予定時間の大半が過ぎてしまった。ドイツ語を初め10か国語を駆使し、活躍の舞台を世界に広げる所長に独特の語学習得法もお聞きしました。

※掲載内容は取材当時のものです。

 

学術の最高権威を持つフランス学士院での出版物の紹介、おめでとうございます。

コレージュ・ド・フランスでの講義の後。記念メダルを手に。
コレージュ・ド・フランスでの講義の後。記念メダルを手に。

 現在、フランス学士院は5つのアカデミーで構成されています。その中の碑文・文芸アカデミーで創価大学が紹介されたことをうれしく誇りに思います。碑文・文芸アカデミーの外国会員で国際仏教学会前会長でもある、ドイツのフライブルク大学名誉教授オスカー・フォン・ヒニューバー博士は、私のポスドク時代の指導教授で、共同研究のため創価大学に度々来学されています。
 その博士の指導の下で、今回とりあげられた『Abhisamācārikā Dharmāḥ(アビサマーチャーリカー・ダルマーハ; 比丘威儀法)訳注・詞典・文法』(ドイツ語。三巻。約1600頁)を完成しました。1991年に着手し、仕上げるまで、およそ20年かかりました。博士の尽力に心から感謝しています。

出版物の内容を簡潔に教えてください。

 このテキストは、大衆部という部派のもので、紀元前の僧侶の日常の規範と僧院の構造が描かれています。もともとは庶民の言葉(俗語)で口承で伝わっていたのですが、後に徐々にサンスクリット語に翻訳されたようです。そして紀元後三、四世紀頃、文字で書かれ、書写されるようになったと考えています。この部派は、ながい間、俗語とサンスクリット語が混じった言語を使っていました。これを仏教混淆梵語(ぶっきょうこんこうぼんご)といいます。実は、《法華経》など古い大乗の経典も同じ言語で伝えられていたのです。この写本は、12世紀の頃、今日のネパールで書かれ、長くチベットの寺に所蔵されていました。二十世紀後半、北京に移され、保管されていた時期があります。北京大学の季羨林先生(後述)からこの貴重な写本の写真を頂き、このテキストを解読し、さらに大衆部と大乗仏教の関係を言語的に研究するようにと託されたのです。
 このテキストには、僧侶・僧院の生活に関する多種多様の表現が使われています。家具の部品から、トイレ・咳払い・食事などの細かい動作まで。実は、サンスクリット語の知識だけでは、よく理解できないのです。私以前に何人かの海外の研究者が解読を試みていますが、みな理解できないでいました。幸いなことに五世紀初に訳された漢訳があり、それと対照させるとかなりのことが理解できます。私は、仏教混淆梵語の写本をローマナイズして、さらにドイツ語訳し、対応する漢文もドイツ語に訳しました。

フリートリッヒ・ヴェラー賞の表彰状
ドイツ・ザクセン学士院からフリートリッヒ・ヴェラー賞を受賞

 そういう意味で、初めてこの難解な文献を解読したということをフォン・ヒニューバー博士が紹介してくださったのです。なお、同じ出版物で、2013年にドイツ・ザクセン学士院から、アジア研究に対して出されるフリートリッヒ・ヴェラー(Friedrich Weller)賞を頂きました。
 上で、《法華経》など古い大乗の経典が仏教混淆梵語で伝えられてきたと申しました。実は、このことは、釈尊がどういう言葉で法を説いたか、ということにかかわっています。
 釈尊は、今日のネパール南部で生まれ育ちました。従って、その教えも本来は東インドの方言で語られていました。釈尊自身も俗語(口語)で説教をし(それが後の時代にパーリ語に体系化されました)、弟子たちにも俗語を使うことを勧めました。庶民が分かるように、庶民の言葉を使えということです。しかも、釈尊の時代には、まだサンスクリット語(前四世紀半ばに西北インドで作られた人工語)がありませんでした。また、まだ文字は使われていませんでした。ですから《法華経》にせよ何にせよ、古い経典は、俗語で語られ、口承、口伝えでした。ところが、紀元前後あたりから、一部の経典は書かれるようになりました。さらに時代が下がって、紀元後三、四世紀ころから庶民の言葉で伝えられてきた経典が、徐々にサンスクリット語に翻訳されるようになります。最初は、俗語とサンスクリット語の混ざった言葉(仏教混淆梵語)ですが、段々と古典サンスクリット語文法に添った形に置き換えられていきます。その結果、教えの内容も変わってきました。この変化を明らかにするのが、私の研究課題の一つです。
 今回紹介された出版物は、僧侶・僧院の生活軌範に関するテキストの研究ですが、実は《法華経》など初期大乗経典の元の姿、本質を知るには大きな手掛かりになるのです。いま、仏の伝記と前生譚をまとめた同じ大衆部のマハーヴァストゥ(Mahāvastu)というテキストの研究を、ポーランドから来たカタジーナ・マルチニアク博士と進めています。大衆部と《法華経》など大乗経典の関係を、思想と言語の面から探ろうという研究です。このテーマは季羨林先生から頂いたものです。

サンスクリット語にまつわるエピソードがあれば教えてください。

北京大学留学時の恩師、季羨林先生との思い出を語る辛嶋教授
北京大学留学時の恩師、季羨林先生との思い出を語る辛嶋教授

 私が中国の北京大学に留学していた時の指導教授は、季羨林先生(1911-2009)で、中国を代表する知識人でした。季先生は仏教梵語では世界最高峰の学者で、2009年に亡くなられましたが北京大学の副学長でもあり、また中国人として初の日本学士院客員会員になられました。創価大学創立者の池田先生との文明鼎談『東洋の智慧を語る』も出されています。
 季先生は山東省の貧農の家庭の出身でしたが、ドイツの名門ゲッチンゲン大学留学中に、著名なインド学者エルンスト・ヴァルトシュミット博士について、サンスクリット語の勉強を始め、《法華経》などで使われている仏教梵語に関する優れた論文を残しています。ヒトラー政権のもと、戦争が始まっても滞独すること約10年。その後、中国に戻ってすぐに北京大学の教授になられ(36歳)、亡くなる96歳まで北京大学終身教授でした。
 季先生は文化大革命(1965年から約10年間続いた権力闘争)の際、個人攻撃を受けます。文化大革命の展開に重要な役割を演じたのは北京大学です。「季羨林のバックグラウンドを調べろ」となりました。先生はドイツ留学の経歴を持っていますから、ブラックリストの筆頭です。調査官が先生の出身地の村に行くと、皆が「季羨林の家はこの村で一番の貧農です」と言ったそうです(コーリャンを常食し年に一二度白飯を食べるほど貧しさだったとのこと)。その一言で先生は命が助かったと伺いました。

 季先生が偉いのは、その困難の中、ドイツ留学時代に学んだサンスクリット語の知識を忘れたくない一心で、長大なラーマーヤナ(古代インドの大長編叙事詩)の翻訳を思い立ったことです。
 先生は、文革中、学生寮の門番をさせられたのですが、先生と話しをすると、今度は自身が攻撃の対象になるので誰も声をかけてきませんでした。そこで先生は、毎朝、自宅でラーマーヤナの原文を覚え(本を読むことは規律違反でした)、門番をしている間に、頭の中で中国語に翻訳し、夕方帰宅すると書き留めていったのです。先生は出版するつもりどころか生き延びる希望もなく、単に学んだことを忘れないために密かに訳したのです。1976年に文化大革命が終結し、その後七巻本として出版することが出来ました。18755頌、八万行の巨編です。中国でも有名な美談です。鳩摩羅什訳のように素晴らしい翻訳です。
 季先生は学生時代からエッセイストとしても有名で、先生の本はどこでも売られていました(中国作家協会理事にもなっています)。先生は、語彙がなみはずれて豊かで、難しい内容を非常に簡明かつ含蓄に富んだ言葉で表現することができました。いまでもしばしば中学校の教科書にも採用されています。

季羨林先生との思い出は、他にありますか?

 先生は、中国最高の知識人でありながら決して偉ぶらない師でした。どんな人が来ても玄関まで送るのが習慣になっていました。先生は、「大きなお椀があれば沢山ご飯を食べ、小さなお椀しかなければ少しのご飯を食べる」という言葉をよく仰っていました。後に私を支えてくれた言葉になりました。自分の境遇に合った生き方、どんなに苦しい時でも不平を言わずに、その境遇を生かすような生活、生き方をしようという意味で、含蓄ある名言です。実は、私は、ケンブリッジ・北京・フライブルクで九年間におよぶ留学を終え帰国したのですが、私が世界最高峰の文献学者たちに学んできた言語的に仏典を研究する方法は、日本ではなかなか認められず、苦しい思いをしました。そんな時、季先生が文革時代に受けた苦しみや上の言葉を思い出しながら、歯を食いしばりました。

季羨林先生のもとで学ぶ様子(左が辛嶋教授)
季羨林先生のもとで学ぶ様子(左が辛嶋教授)

 季先生は80代後半で砂糖の歴史を書いています。この本を書くために、図書館に夏も冬も毎日通われて、清の乾隆帝時代に編集された『四庫全書』という本の一枚一枚をめくって、砂糖に関する内容をチェックしたのです。今なら、コンピュータで簡単に検索できるでしょう。先生は「こうした調べ方は馬鹿馬鹿しい方法のように見えるが、しかし私にはこの方法しかない」と仰っていました。このように十年かけて『糖史』二巻(砂糖の製法に関するインドと中国の交流と歴史をまとめたもの)を完成されました。
 私も中国で講演する時は「書物を一枚一枚めくるというのが文献学の王道です」と先生の姿を思い浮かべながら話しています。検索機能を使うと、そこのピンポイントしか集まらないです。しかし、頁をめくるプロセスの中で、色々な発想がわいてくるじゃないですか。

この道に入った動機、経過をお聞かせください。

辛嶋教授が携わった主な出版物
辛嶋教授が携わった主な出版物

 高校生の時、渡辺一夫訳の『ガルガンチュア物語』(フランソワ・ラブレー作)を読んだのがきっかけで、フランス文学をやりたいと思い、東京大学・文科三類に入学しフランス語を学んでいたのですが、なかなか言葉の後ろにある文化や生活が理解できず隔靴掻痒(かっかそうよう)たる思いをしていました。
 そんな時、インド哲学者・仏教学者の中村元先生が文化勲章を受章されたニュースに接し、実は私はお寺の出身なので「こうした学問なら自分のDNAの中にあるはず」と確信し、この道に進んだのです。ですから、よく言うのです。「元々はフツブン(仏文学)だったのが、ブツ(仏教)ブンに変わった」と(笑い)。

 中村先生は雲の上の存在だと思っていましたが、その後、ご縁があって、先生のそばで、留学に行く前、2、3年間、お手伝いしました。特に何かを読んでもらうということではなかったですが、先生の生き方を学び、いろいろ期待もしていただきました。こうしたご縁で本格的に仏教の研究をするようになりました。
 学生時代よく考えていたのは、中村先生のような大樹の存在になるには、実はそれと同じぐらいの目には見えない確固とした太い根を下にはらせる必要があるということでした。それが私にとっては語学だと思ったのです。いろんな仏教に関する言葉を学んで地中の根を伸ばすとともに、そこから空高く大樹を伸ばしたいという気持ちで、仏教を伝えた言語を全部学ぼうと決意したのです。以来、今日まで続けていますが、まだ達成できていません。

独学で今日まで歩んできたのではないことが良くわかりました。

 講演ではいつも「独学は駄目だよ」と話しています。独学は優秀な人は確かに出来るでしょうけど、往々にして一番肝心な基礎のところが抜け落ちてしまいます。独学でテクニックは得られるかも知れませんが、根底に流れている精神的なものとかが抜け落ちる場合が多いと思います。
 いい先生に付いて学ぶということが大切です。普通だったら「この先生に付くと後で就職が大変だ」とか、「この先生だと就職先を紹介してくれない」とか考えがちです。しかし、私は世間的な評価は別として、この人はプロだなと思う先生を求め、また幸いにも次々と出会えて、心を虚にしてその先生たちの懐に飛び込んでいきました。それがあったから今日の私の研究があると確信しています。

語学習得のコツを教えてください。

 私がケンブリッジ大学に留学した当初、実は私の英語の発音が通じなかったのです。私が住んでいた寮の近所に犬がいましてね。その犬に英語で「坐れ」(sit)と言っても坐ってくれないんです。2週間経って、やっと通じたのか坐ってくれました(笑い)。
 更に、パリでフィガロ紙(新聞)を読んでいたら子どもたちが近づいて来て、私を指差して「忍者!」とか言うんです。しかし彼らに対して私は反応できなかったのです。
 その時、外国語を読めても話せなきゃいけない、片言でも話すことが大切だと気付き、勉強の仕方を変え、会話を重点的に勉強することにしました。聞いて話す。その上で読めるようになる。読むのは後でいいと思います。それが私の語学習得のコツです。

 今、ロシア語を初めとして6か国語を勉強しています。ただそのために、毎週6人の創価大学留学生とそれぞれ一時間ほど会話練習をしています。創価大学には沢山の留学生がいるので、すごくありがたいです。
 スポーツと一緒で、いつも会話のやり取りをして語学力を磨いていないと話せなくなります。以前ドイツやイギリスに留学したことがあるといっても、その後、訓練していないと外国人に会っても言葉が出て来ません。昔、野球をしたことがあるんだよねといっても、練習していないと打てないでしょう。それと同じです。
 

外国語の書物等からも語学のスキルアップを図ることはしないのですか?

(研究室の本棚を指差して)ここに村上春樹の各国語の訳本があります。多くの人は、英語の勉強をやろうとするとイギリス人やアメリカ人の書いた書物を読もうとします。そうすると、先ほどのフランス語の話じゃないですが、言葉の背景まで理解するのが難しいでしょう。
 ところが村上春樹だと、吉祥寺とかJR中央線だとかが出て来て「あっそうだ」と状況が分かるじゃないですか。語学を身に付けようとするなら、日本語で彼の本を読んだうえで、外国語に翻訳された本を読むと筋は分かっているし単語の習得も速いと思います。最近は、何カ国かで出版されている『1Q84』を数冊読んでいます。丁度、ポーランドから創価大学に来る留学生に「お土産に何がいい?」と聞かれたので、「ポーランド語の『1Q84』がいい」と言って持って来てもらいました。

複数の言語で翻訳された村上春樹の小説『1Q84』の画像
複数の言語で翻訳された村上春樹の小説『1Q84』

外国語の習得は異文化理解とともに、母語の文化の再発見に通じる、と言われます。

 経験から言っても、確かにそうですね。母国語と母国の文化を深く理解し知っていれば、話す内容も違ってくるでしょうし、相手が興味を持ってくれます。例え文法が間違っていても相手は聞こうとします。いくら上手な英語でも、内容のない話を外国人は聞こうとはしませんよ。
 母国語の翻訳されたものを読めば単語も増やせるし、こちらで伝える内容を持てます。私はこうしたやり方で、どんどん外国語を増やして来ました。
 あとは常に少しずつでもメインテナンスしていかなければならないでしょう。使わないと忘れてしまいます。実は聴力は落ちません。話すのは習得が一番難しくて、一番最初に能力をなくしてしまうようです。

相手の母国語で話す手応えは大きいですか?

ポーランドからの留学生に指導する様子
ポーランドからの留学生に指導する様子

 ロシア語会話も中々上達しませんが20年ほど続けています。どうしてロシア語かというと、ロシアのサンクトペテルブルグなどに《法華経》の写本も含めて仏教の写本が沢山あるからです。
 ロシアの研究者(著名な仏教学者ヴォロビヨヴァ=デシャトフスカヤさん)と対談する機会があって、お互いに英語で話していたのですが、彼女も緊張して話がスムーズに進まないことがありました。それがきっかけで、私はロシア語の勉強を開始し、後にまたロシア語で対談したところ、彼女の表情が一変し、貴重な発言を引き出すことが出来ました。

 相手の母国語で話してあげるとハートをつかめます。情報のスピードも違います。通訳を介すると、微妙に内容も変わったりすることがあります。その点、母国語で対談すると正確で速さがあります。ですから相手の国の言葉で話すように心掛けています。

現在、取り組んでいる著作があれば教えてください。

 《法華経》の文献学的研究の一環として、来年『<《法華経》―仏になる教え>のルネサンス』(仮題)を出版予定です。
 内容を要約して言うと、釈尊は「私が歩むこの道を歩めば、誰でも仏になれます。仏になれるように努めなさい」と《スッタニパータ》などで説いています。ところが、この教えをずっと守って来た人達は少数派で、「我々が仏になろうなんてとんでもない」「釈尊のような偉大な方は、もはや出てくる訳がない」と、権威のある人たち、つまり主流派(特に上座部の出家者)から攻撃されたのです。

研究室に並ぶ数多くの文献
研究室に並ぶ数多くの文献

 しかし、釈尊が説いたエッセンスを、どんなに攻撃を受けようとも保ってきた人達。誰でも仏になれるという釈尊本来の教えを奉じた人達がいます。どんなに迫害されても、その教えを奉じていこうというのが《法華経》の脈々とした命だと思います。これが仏になるルネサンスという意味です。
 中央アジアから出土した《法華経》古写本にも「この教えは、大いなる智慧の平等性を説く」と書いてあります。「大いなる智慧の平等性」とは、誰もがこの大いなる智慧すなわち仏の智慧を得られるという意味です。現代の研究者は通常のサンスクリット本にこの記述がないので、羅什訳にあっても、羅什が勝手に付け加えたのだろうと思っているようです。そんなことはありません。ロシアに保存されている写本も含めて、中央アジアで出土した写本にも同じ記述があるのです。

最後に、学生へのメッセージをお願いします。

インタビューの様子

 「継続は力なり」です。焦らず、倦(う)まず弛(たゆ)まず努力し精進を重ねていけば、実力が付き、道が開けると確信します。北原白秋は、石を一つずつ積み上げていくように、何事にも根気よくコツコツと励んでいくその先に「光り輝く喜びが来る」という意味の言葉を残しています。先ほども言いましたが、私の師匠、季羨林先生は文化大革命で攻撃の対象となり、自由に読書も出来ず、かろうじて生きている状態でした。解放されたのは60歳後半で、その後、著作や散文を次々と発表されました。文献学はまさに積み重ねの学問であり、若き秀才が一夜漬けでものに出来るものではありません。

 願いさえあれば、どこでも勉強をすることが出来ると信じています。希望を懐いて、外の評判よりも内なる願いを大切に、黙々と勉強を続けてください。

からしま せいし Seishi Karashima

[好きな言葉]
縱浪大化中 不喜亦不懼
(大いなる宇宙の働きに身を任せ、喜びもせず恐れもしない;陶淵明の詩)
我行精進 忍終不悔
精進を続けて、堪え忍 び、決して後悔しない; 仏典の言葉)。
[性格]
沈思黙考、優柔不断、時に敢作敢当
[趣味]
外国語での会話、中国古典を読むこと
[最近読んだ本]
『全訳 マルコポーロ東方見聞録』(岩波書店)
[主な著書]
  • 『ヴェッサンタラ・ジャータカ』訳注(中村元編『ジャータカ』第十巻所収),春秋社,1988年(日本翻訳文化賞受賞)
  • 法華経漢訳の研究』(英文),山喜房佛書林, 1992年
  • 『「長阿含経」の原語の研究–––音写語分析を中心として–––』,東京,平河出版社,1994年
  • 『現代語訳「阿含経典」・長阿含経』全六巻,東京,平河出版社,1995年-2005年(共著)。
  • 『大英図書館蔵中央アジア出土梵語断簡研究』(英文;編著)三巻五冊,創価大学・国際仏教学高等研究所,2006年, 2009年, 2015年
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