Vol.01

「社会と人を結ぶ演劇を!」―ドイツで伝染病医療に尽くした八王子市出身の医師・肥沼博士の舞台を創作

福地 海斗 文学部人間学科3年

「次回公演はいつですか?」ー本年3月8日、八王子市芸術文化会館いちょうホールは感動の渦に包まれた。学生による演劇は多くの観客を魅了し、すぐに次の公演を望む声があがった。劇団としての初の公演が終わったその日のうちに次回の舞台が9月に決定した。

その劇団の名は「劇衆オの組」。八王子にある大学の演劇仲間が集まってできた劇団である。その代表を務めるのが本学文学部3年沖縄県出身の福地海斗さんだ。

八王子市政100周年である本年、八王子市出身で第二次世界大戦後、ドイツ・ヴリーツェン市で献身的な治療にあたり、37歳で亡くなった医師・肥沼信次博士の生涯を通じて、若者の感性で反戦を訴えた演劇「七一年目の桜」が反響を呼んだ。今回は福地さんに劇団立ちあげの思いや今後の活動などについて話を聞きました。

福地さんはいつから演劇をはじめられたのですか?

※劇衆オの組の集合写真
※劇衆オの組の集合写真

中学2年からお芝居をはじめ、地元・沖縄県の劇団に所属していました。ずーっと進学は考えていなくて、役者になろうと思っていました。でも、高校3年生のある日、稽古中に舞台スタッフの方から「福地くんは進路どうするの?」と聞かれました。「このまま役者の道に進もうと思います」と応えたら、「お芝居の幅を広げるためにも大学に進学して勉強した方がいいぞ」とアドバイスをしてくれました。しかし、自分はその時、全く進学を考えていなかったので、知っている大学はほんの少しでした。「どこかいい大学はありますか?」と聞いたら、「東京に創価大学という大学があるんだ。留学生もいっぱいいるらしい。そこだったら視野を広げることができるんじゃないか?」と薦めてくださったのがきっかけで創価大学への受験の準備を始めました。私はそのころ、沖縄で生まれ育った人間として、お芝居を通して「反戦」を訴えたいと考えていました。沖縄の戦争体験者は少なくなってきました。戦争を経験した世代は時代と共に少なくなっていく。だからこそ、その思いを「つなぐ」ことが大事。自分はつなぐ「主体」になりたい。そう思っていた私にとって、創価大学はピッタリの場所でした。文学部では平和学も学べるし、様々な文化や表現について学ぶ授業もたくさんあり、第一志望にしました。

創価大学に入学した私は、1年生の時に「友光寮」に入寮しました。寮の友人はみんな、すごい勉強するんです。私も負けじと寝ずに勉強しました。人生で一番勉強しました。受験の時よりもです(笑)。寮にいたので、劇団に入ることも立ちあげることもできませんでした。だから今は勉強する時なんだと決めて、学びたかった平和学や国際情勢、語学などもにも一生懸命挑戦しました。気が付いたら後期には文学部の特待生に選ばれました。そのような中、2年生になって寮を出たら劇団を立ちあげようと計画を立てていました。

「劇衆オの組」はどのような劇団ですか?

※練習風景その1
※練習風景その1

「劇衆オの組」は八王子市の学生を中心に構成された劇団です。現在は、17人の劇団員がいます。俳優が9人、制作が8人です。八王子市内の学生以外にも、慶應義塾大学や文化学園大学、武蔵野美術大学の学生や服飾の専門学校生などもいます。

私は2年生になり、はじめは一人で劇団を立ちあげたのですが、なかなか人が集まらないところを、役者をやっている友人が助けてくれました。この友人の知り合いや自分の友人で単身上京してきた友人などに声をかけて、演劇仲間の輪が徐々に広がっていきました。私は代表として、一人ひとりと会って話しをして「社会と人を結ぶ演劇をしたい」と面と向かって思いを伝え、賛同してくれた方が劇団員になってくれています。

すでにある劇団に入るのではなく、立ちあげたのはなぜですか?

※練習風景その2
※練習風景その2

実は、私、演じるよりも作る方が好きで、演出をやりたかったんです。また、興味をもてる劇団が都心や神奈川にあって遠いんです。それでは交通費がかさむので、立ちあげた方がいいと思いました。あと、自分がやりたいと思っていた「社会と人を結ぶ演劇」をやっている劇団が見つからなかったんです。他の劇団は芸術性の追求が一番強いと思います。そして、それぞれの劇団がそれぞれのやりたいことをやっています。私にはやりたいことがあって、もちろん芸術性も求めているのですが、どこまでも演劇は社会と離れてはいけないと思っていました。

ちなみに、「劇衆オの組」という名前はみんなで話しあって決めました。劇団だとちょっと大きい感じがして、「劇をやる衆」の集まりで「劇衆」にしました。立ちあげた初期のメンバーが創価大学文学部の大野久美先生のゼミ生ばかりだったので、「オオノクミ」から「オの組」にしました。先生の許可はあとからもらいました(笑)。

なぜ肥沼博士について演じることになったのでしょうか?

※練習風景その3
※練習風景その3

反戦を訴えたかったので、初めは「八王子空襲」について調べていました。「八王子空襲」は市内の小学校の道徳教育で教材にもなっていて、小学校公演とかもやってみたいなと考えていました。しかし、題材としては広すぎて、空襲にあわれた方も他県に出られていたり、ご高齢だったりするので、台本を書くのは難しい。また、他の劇団も取りあげていました。まだ、あまり取りあげられていない話題をやりたかったんです。1年生の11月、寮にいて「何か題材がないかな」と悩み、考えすぎていたので、すこし休憩しよう思いラウンジに行くと、そこに「広報はちおうじ」があったんです。「こういうのに載っていないかな」と思って読んだ時に出会ったのが、「肥沼博士」だったんです。「ウワァ!!この人だー!!」と思わず声を出してしまいました。寮の友人もびっくりして「何があったの?」と部屋のドアを開けていました(笑)。そこから舞台の構想を練り始めました。

題材も決まり、劇団も立ちあげたのですが、八王子で舞台をやるにしても、どこから手をつけていいかも分からなかったので、まずは「人に会ってこの企画について相談してみよう」と思いました。今振り返れば大変に失礼だったと思いますが、2年生の夏にアポイントも取らずに大学コンソーシアム八王子の事務所に行き「少し私の話し聞いていただけないでしょうか?」と自身の企画を話しにいきました。職員の方に「社会と人を結ぶ演劇」への思い、肥沼博士の生涯を通じた反戦への思いなど、これまで考えてきた思いのたけを全て話しました。すると、「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」という市民団体があるので、その代表の方と連絡を取ってみると言ってくださったのです。

私は「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」の代表・塚本回子さんにお会いして、再び、演劇への思いや肥沼博士への思いを話しました。塚本さんから「もし舞台をするならいつごろにやりたいの?」と聞かれ、私は「肥沼博士の命日の3月8日にしたいと思っています」と伝えると、「私たちも3月8日にイベントをするつもりだったから、場所を押さえてあげる」ということになって、一気に本番の会場と日付まで決まったのです。それが半年後の2017年3月8日、しかも舞台はいきなり市の芸術文化会館「いちょうホール」です。まだ、その当時劇団員は3人くらいでした。そこからは、死に物狂いで(笑)授業が終わったら、いろんな大学にいって仲間を集め、その間に台本の作成、練習場所の確保など一つ一つ作りあげていきました。しかし、私たちは「絶対に成功させるぞ!」と決めていました。創立者は「大学は社会から離れた象牙の塔になってはいけない」と言われています。「演劇」という「文化」の力で「社会」と「大学」をつなげるチャンスだと思っていました。その後、俳優も7人にまで増え、制作も含めて劇団員12人で3月8日の公演を迎えました。

舞台を作る中で大変だったことはどんなことでしょうか?

衣装も舞台後方の幕も手作り
衣装も舞台後方の幕も手作り

3つあります。1つ目は、台本作りです。肥沼博士について情報収集をしようと思い八王子市郷土資料館を訪ねました。そこで衝撃だったのが、八王子の偉人といわれる方なのに郷土資料館にあった資料は2冊の書籍だけ。しかもそのうち1冊は小学生向けの絵本です。残りの1冊は「大戦秘史・リーツェンの桜」(舘沢 貢次著/ぱる出版)という本だったんです。コピーをとって、家に持ち帰って勉強しました。インターネット上の資料は推測の域を出ていないものが多く、さらに肥沼博士ご自身は、自分のことを積極的に語らない人で、確かな情報を得るのが難しかったんです。本や昔のテレビ番組で肥沼博士が取りあげられた映像などを参考に、台本を書いていました。そんな中、やはり「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」とコンタクトが取れたことはとても大きかったです。塚本さんには大変にお世話になりました。塚本さんからの情報提供で、肥沼博士の歴史の真実をいくつも知ることができました。こうして肥沼博士の人物像に迫り、4か月ほどかけて台本を書きあげました。

2つ目は、肥沼博士のお芝居です。先ほども言ったとおり肥沼博士ご自身は口数が少なかった方のようで、何を思ってその行動をしたのか、こちらが考えないといけないんです。「なぜ日本に帰国せずドイツに残ったのか」、「なぜ数学が好きなのに、放射線医学に進んだのか」、アインシュタインにあこがれてその道に進んだという説もあるのですが、そういった記録にない箇所を、演じる役者と一緒に考えて、考えて、考え抜いて表現することが難しかったです。演劇では、もともと実在する人物を演じるのはとても重たいことです。また、今回演じるのは英雄。下手なことはできません。役者は肥沼博士に肉薄することに、とても悩んでいました。

3つ目は、とにかくお金が無いんです(笑)。初回公演の予算は15万円でした。普通の舞台は100万円単位の資金が必要なのですが、この金額しかなったので、たくさん工夫をしました。舞台装置をものすごく減らし、可能な限り自分たちの手作りにしました。練習の合間を縫って、衣装なども作りました。練習場所を確保するのも大変でしたが「やり遂げよう」という気持ちで乗り切りました。

初回公演の「七一年目の桜」で伝えたかったことは何ですか?

クライマックスは迫真の演技
クライマックスは迫真の演技

「七一年目の桜」という作品は、肥沼博士の生涯を幼少のころから、亡くなるところまでを切り取って舞台にしました。テーマは「戦争の理不尽さ」です。肥沼博士は、学問を愛し、人を愛していた方でした。絶対にノーベル賞をとるといわれていた有能な学者が、なぜ死ななければいけなかったのか。これが戦争の理不尽さです。戦争は人生を壊す。そういうことを伝えたかったんです。

肥沼博士は、ベルリン大学で研究をしていました。その当時もドイツは戦争の真っ只中でした。ベルリンまで火の手が回ってきて、日本大使館から帰国命令が出ていました。しかし、肥沼博士はドイツに残りました。第二次世界大戦直後、チフスなどが蔓延しているヴリーツェンへ赴き、軍の要請を受けて、伝染病医療センターの院長の任命を受けて治療にあたります。肥沼博士は学者なので、臨床経験がまったく無いんです。しかし、肥沼博士の患者を思いやる行動に、医療スタッフたちは明るく振舞うことができ、多くの命が助かりました。1週間に1日ある休みも、隣町へ医薬品の買出しなどに行かれ、寝ずに働かれました。しかし、体力が衰えていた肥沼博士は、チフスに感染して37歳という若さで亡くなってしまいます。3月8日、日本の春に思いを馳せ、最後に「日本の桜が見たかった」との言葉を遺されてその尊い生涯を終えました。

反響はどのようなものだったのでしょうか?

9月公演のポスター
9月公演のポスター

私たちの舞台を通じて、肥沼博士を知ってくださる人が少しは増えたと思います。また、若者の感性をご高齢の方々が注目し、応援してくださっていることを感じています。

私は今20歳で、自分たちの若者の世代の感性で演出や表現をしています。前回の舞台稽古の途中、こういった表現でご高齢の方々に伝わるのかということを塚本さんに相談したことがあります。そうしたら「いや、若者がやることに意味があるんだから、お年寄りに受け入れられるとかじゃなくて、若者の感性でやりなさい」とバシッと言ってくださいました。衝撃的でした。私はこの舞台が縁となって、「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」に入らせてもらえました。定例会に参加する唯一の青年です(笑)。 

嬉しいことに7月には市政100周年を記念して、八王子市とヴリーツェン市の友好交流協定が結ばれました。今後は市民交流もはじまるようです。

実は、3月の舞台が終わってすぐに次の公演の希望の声をいただいて、次の舞台がその日のうちに決まりました。先日、八王子のケーブルテレビJ:com八王子の「デイリーニュース」(8月10日スタジオ生出演)にも呼んでいただき、9月1日に行う次回公演の宣伝もできました。前回の舞台は、若者の感性で作ったことが非常に好評だったので、今回の舞台では「自分がやりたいことをストレートにやってみよう」と思い、台本を書きました。今回は、肥沼博士の歴史を追う新聞記者の物語です。八王子に赴任になった新米記者が肥沼博士について取材する中で、ドイツに残った肥沼博士の行動の真実が明らかになっていく作品です。この公演を通じて、さらに肥沼博士のことを市民の方に知ってもらいたいと思います。

さらに、今年の6月には、高校時代に所属していた劇団の先輩が岐阜県白川村で働いており、「白川村にある『かやっこ劇団』という村の子供たちで構成されている劇団の公演を企画しているんだけれども、脚本と演出をやってもらえないか?」とのお話をいただいたんです。金曜日の授業を終えたあと、高速バスに乗って、土日に稽古。終わってすぐに高速バスで八王子に戻って授業に行くというハードスケジュールですが、とても充実しています。今、白川村の歴史を題材に台本を書いています。

白川村のかやっこ劇団と
白川村のかやっこ劇団と

それは大役ですね!

かやっこ劇団との交流会
かやっこ劇団との交流会

8月1日、2日に劇衆オの組の夏合宿と銘打って、白川村のかやっこ劇団との交流会を行ってきました。お芝居のワークショップをやったんです。なぜかというと、僕が初めてかやっこ劇団の子供たちに会った時に、「この中に、演技したい子はいるかな?」と聞いたら誰も手をあげなかったんです。その理由を聞くと「恥ずかしい」とか「かっこ悪い」とかだったんです。これでは先が思いやられるなと思って「実際にお芝居を見せてみよう」と考え、劇団員と一緒に白川村に行きました。ワークショップでは、感情を声で表現するゲームをやりました。今、思っていることを隣の人に話してもらいます。その間にこちらが「喜び」と声をかけたら喜びの感情で話して、「悲しみ」と言ったら悲しみの感情を込めて話すというゲームです。その他には、即興演劇に子供を交えたりしました。子供たちにとっては一つの遊びだったと思うのですが、すごく楽しんでくれました。ワークショップの後に、「お芝居やりたい子、手をあげて!」って聞いたら全員が手をあげてくれたんです。大成功でした。また来て欲しいと言ってくれました。かやっこ劇団は、来年の2月が本番です。

今後の活動と福地さんの夢を教えてください!

かやっこ劇団とのワークショップ
かやっこ劇団とのワークショップ

劇衆オの組としては、2つの道を考えています。1つは社会との結びつきです。肥沼博士以外の題材を扱いたいと思っています。もう1つは、純粋に若者の感性で描く舞台をやってみたいです。しかし、今は目の前の舞台に一生懸命です。9月公演を終えてから次回の演劇作品を考えたいと思っています。

私は演劇と演劇を教えてくれた人、演劇という環境を通じて成長することができました。人と人との結びつき、社会と人を結ぶ文化活動をしていきたいと思っているので、このまま演出家、劇作家として、演劇を観てくださる人を、社会とよりいっそうつなげていきたいなと思っています。また、どこまでも反戦を訴えたいと思っています。今回の舞台も反戦への願いを込めました。

沖縄はかつて琉球王国でした。琉球は文化・芸術で外交を進め、武力を持つことを拒んだ国です。沖縄出身者として、文化の力で、平和に貢献できる演出家、劇作家になりたいです。

ふくち かいと Kaito Fukuchi

[好きな言葉]
1人が変わればみんなが変わる

[性格]
負けず嫌い

[趣味]
人と話すこと

[最近読んだ本]
「人類への胃酸」野田秀樹

・「※」と本人プロフィール画像=撮影:中村利行(教育学部3年)
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