第一次世界大戦終結から100年ー過去に目を閉ざさず教訓生かし「記憶の歴史」伝承こそが大人の使命

西田 哲史 経済学部経済学科 准教授

ドイツに興味を持ったきっかけは音楽との出会いだった。中学生のころ、ドイツのテクノバンド「クラフトワーク」の電子音楽の世界に魅せられた。以来、ボン大学留学などドイツ一筋で現在に至る。専門はドイツ社会・経済史で、近年は、ドイツの復興期の被追放民の問題考察に力を注ぐ。本年11月は第一次世界大戦終結から100年。過去に目を閉ざすことなく、教訓を生かし「記憶の歴史を伝承することが大人の使命」と明言する。

これまでの研究内容と現在、力を入れている研究は?

最終口頭試問の後(写真、中央が西田准教授)
最終口頭試問の後(写真、中央が西田准教授)

大学院に入ってからドイツの第二次世界大戦後の経済復興を主テーマとして研究しています。博士後期課程が1年終わってからドイツへ行きました。自分の師事した先生はドイツの戦後史専門で、「君は日本人だから日本のことを含めてやったらどう?そのほうがドイツ人は興味があるよ」ということで、比較史とまではいきませんが日独の同時期の占領期の話で博士論文を書いて本にしました。 
アメリカの占領政策、要するに政治史、外交史と経済史を絡めたような形で、その政策プロセスとか計画立案があって、日本でいう三大改革、農地改革、財閥解体、労働改革ですね。その意義についてとか、歴史の連続、非連続ということと絡めながら、戦前と戦後は断絶したのか、つながっているのかを検証しました。
ここ数年はドイツの復興期の被追放民の問題を研究して、活字にそろそろなる段階です。あと一つは、日本でも戦後、引揚者とかいろんな人たちがいたわけですが、そういったこととの関連性ですね。私は経済史が専門なので、そういう人たちがドイツの経済復興とどのような類似性があるかを中心に調べています。

第二次大戦後、日本とドイツは奇跡の経済復興を遂げました。その過程における両国の共通点と相違点とは?

まず、両国とも敗戦国です。占領形態として大きく違っているのは、ドイツはアメリカ、イギリスなど4カ国に直接軍事占領され軍政下におかれ戦後の歩みを始めます。日本は事実上アメリカの単独一国占領で天皇制を置きながらの間接統治になりました。
さらに異なる点は、後々アメリカと交渉するプロセスで日本人はアメリカ人の言うことをよく聞くという点です。かつて「NOと言えない日本人」という言葉が流行りましたが、特にそれがつぶさに出ているのは教育制度です。日本は戦後6・3・3・4制を導入しますが、ドイツは以前の制度をそのまま維持。占領軍の意見を受け入れず、自分たちの独自性を出すという点で国民性の違いが出ています。
似ている点は、両国とも占領下にあった、連合国の協力なしには復興できなかった、多くを負っているという点です。日本もドイツも当初は経済復興は二の次で、ドイツは農業国にしてしまえ、という計画があったくらいで、日本も同じだったようです。それが、日本は逆コースといわれるように180度転換していく。戦後の米ソを頂点とした冷戦構造という枠組みの中で両国は翻弄されていった。共産主義進出の防波堤にしようと考えたのです。アメリカの公文書館にある当時の政策文書を読むとよく分かります。

ドイツ炭鉱博物館
ドイツ炭鉱博物館

ドイツの場合、被追放民や避難民の大量流入という人口移動がありました。

被追放民とか避難民と言われますが、厳密に言うと複雑です。ドイツはナチスの時代に、特に東ヨーロッパですが、すでにドイツ人が中世以降、入植をして少数民族としてその土地で暮らしていた。ナチスの時代に入り、ヒトラーの言葉で言えば「レーベンスラウム(Lebensraum)」、生存圏、生活圏と訳されたりしますが、そこをドイツの支配下に置き、原料やいろんな物資を生産させ植民地みたいにしていこうという話です。 東ヨーロッパにドイツ人をどんどん入植させてドイツの国を作っていこうとする。もともといた民族はそのまま残り、そこにドイツ人をドイツ帝国から送り込むということをやり始めます。
戦争が始まり1939年以降、多くの所で、そこにいたポーランド人等が追放されるわけです。戦争が終わり敗戦間際になると、今度は送り込んだ人たちが追い出されます。いろんな噂が立ち、逃げていく人が増える。ドイツ帝国の東部地域、今でいうポーランドとかチェコとかに1,600万人弱のドイツ人がいた。彼らが大挙して逃げる、追放されるということが起こったのが1943年以降くらいからおこり、その人たちのことを避難民や被追放民といっています。

ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスが、この避難民をテーマにした小説『蟹の横歩き』(2002年)を書いています。

彼はダンツィヒ(現在のポーランドのグダニスク)出身ですが、戦争末期に多くのドイツ人がそのダンツィヒ、あるいはゴーテンハーフェン(現在のポーランドのグディニャ)といった港湾都市から船舶によってバルト海を経由して西側に脱出します。そうした船舶の一隻(ヴィルヘルム・グストロフ号)がソ連の潜水艦に撃沈され9,000人以上が亡くなりました。ドイツ人にとってもまだ記憶の中にある最悪の出来事です。グラスはこの事件を題材に小説を書いたのです。また、戦後、こうした人々が逃げて追放される途上で、200万人超の人が亡くなっているといわれています。西ヨーロッパからも被追放民はいますが、大半は東ヨーロッパであり、その人たちが戦後四つに分割をされた占領区域に入って来て、この調整も大変です。今まさに私の関心は、その後の経済に特化した部分にあります。しかし、その前提の話を書かなければならないと思っています。日本でも何人かの人は触れていますが、まだ研究書はないです。

避難民や被追放民が産業の分野で大きな役割を担ったということはなかったでしょうか?

ドイツは1950年代以降、経済の奇跡といわれる急激な復興を遂げていきます。逃げてきた人たちは、人口分布で見ると年齢層も労働人口に当たる人たちで、10代の後半から50代ぐらいが多かった。逃げる途上で老人の方が亡くなっているというのもありますが、技術を持っている人が多かった。戦後の復興にはそういう意味では非常に有益だった部分がある。
経済的な統合は比較的うまくいった。ただ、これもケース・バイ・ケースで、被追放民、難民を受け入れる州の側も、来た人全てを受け入れるわけではなくて働ける人が欲しいわけです。
今まさに私が研究している部分ですが、ルール工業地帯は石炭が一番採れるところです。その炭鉱は戦争中までは外国人労働者を投入して強制労働をさせた。戦争が終わると彼らは一気にいなくなる。でも、戦後ドイツだけじゃなくてヨーロッパの復興にはルール地方の石炭が必要です。でも、掘る人がいない。どうするかとなったときに、かつてここで働いてたドイツ人、兵士で出て行った人などを呼び返すと同時に、この被追放民を使えないかという話が持ち上がります。そういう人たちがいろんな産業の分野で大きな役割を担ったのは間違いないといわれています。
結果的には1,000万人を超える人たちが押し寄せてきて、彼らを吸収していった。ドイツの潜在能力がすごいものがあると正直思います。これは数年で終わったプロセスではなくて戦後何十年も続くプロセスです。

最近、日本でも外国人労働者の受け入れ拡大の議論が熱を帯びています。

外国人労働者の受け入れはドイツは経験済みで、1つのモデルとなり、いろいろ判断をする材料になると思います。ドイツは戦後、被追放民、難民が戦後の復興のステージの経済の力になったとすれば、その次を担ったのは外国人労働者です。
特に50年代後半から、協定を結んでトルコから労働力としてたくさんの人を呼びます。やってきた人たちはドイツに根付き、定着する人が多かった。当然、いったん落ち着いて収入もあって安定すると家族を呼びます。
労働力ではないですが、自分の身内を呼んでトルコ人が増えていく。経済が安定して成長しているときは、この状況は表面化しませんが、経済がある程度、特に70年代以降に、ドイツでも景気が悪くなっていき、新たな外国人労働者は入れず今度は帰ってもらうという話が出てきます。
そのことを言われても、すでに二世がいて、三世まで生まれている。子どもたちにとってはアイデンティティーの問題があるわけです。ドイツで育ってメンタリティーも半分ぐらいドイツ人だと思うなかで、いきなり帰れと言われても帰ることはできないわけです。

ゼミ合宿の様子
ゼミ合宿の様子

そのドイツは、大きく方向転換していきますね。

ドイツは2000年代に入るくらいまでは、自国が「移民受け入れ国」だとは言わなかった。今のメルケルさんが首相になるくらいの時期に、ようやく「移民受け入れ国」だと表明し方向転換していきます。外国人労働者としてきた人たちの家族は、大学へも行かない人が多く、相互に関係を持たない平行社会ができてしまうと懸念されました。
外国人がいかに同化していくかは今でも大きな課題です。日本も今後、外国の労働力に頼らなければならない方向に進むと思われます。その先をどうするかということをきちんと、いろんな国の事例があるので、それを検証しながら制度設計していくべきだと考えます。必ずしもドイツが成功しているというわけではないのですが…。

本年は第一次大戦終結から100年になります。この100年をどのように捉えたらよいでしょうか?

ゼミ合宿の様子
ゼミ合宿の様子

ドイツは第一次大戦後の一時、平和なワイマール共和国の時代もありましたが、ファシズムの時代になって第二次大戦になだれ込み敗戦し分断をされる。1945年に終戦しますが、第一次や第二次の大戦というものは全く別物ではなくて、歴史の視点からいうと、最近あまり使わない言葉ですが、帝国主義の戦争だったと言ってよいでしょう。平易な言葉でいえば持てる国と持たない国。持てるというのは土地、領土のことです。
第一次大戦はセルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺したサラエボ事件がきっかけで始まるわけですが、その背後には民族問題などが入り組んでいて、当時のヨーロッパの状況は、バルカン半島がヨーロッパの火薬庫といわれてましたが、暗殺事件で火を噴き、瞬く間にヨーロッパ中の戦争になった。
第二次大戦というのは結局、負けた国ドイツを中心に、自分たちは不公平だという思いが拭い去れなかったのではないかと考えます。日本をはじめ枢軸国3カ国が、持てる国に対して、もう一度世界の領土の再分割を要求した戦争だと本質的には捉えることができます。もちろん、連合国側のイギリスもフランスも植民地を持っていて、戦争自体は民主主義を守る戦争だとか民族自決を実現する戦争だとか言ってましたが、本質的にはそういう戦争だと思います。
戦後、ドイツは2つに分断をされ、アジアでも日本は敗戦し、日本が支配していた朝鮮半島は分断される。そういう意味では戦争はまだ終わってないといえます。ドイツはその後、冷戦時代といわれる長い時代が続き、1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年にドイツが再統一されるわけですが、そこで初めてドイツ人にとっての戦争が終わったと私は考えています。

歴史学研究の立場から、あらためて気づくことは何でしょう?

最近思うのは、歴史学は過去の出来事を学ぶ分野、学問ですが、記憶の歴史は非常に大事だとあらためて感じています。第一次大戦が始まったとき、実は各国の戦争に赴く若者が、歓喜して戦地に向かいます。自分たちが勝利し戻って来て「クリスマスを恋人、家族と過ごす」と言っている。
なぜかと言うと、当時の彼らにとって戦争の記憶はほとんどないのです。大きな戦争は、ヨーロッパでいうと1870年の普仏戦争です。当時は、まさに対面をして叫んで突っ込んでいく戦争ですので、恐らくそういうことをイメージしていたと思います。
実際にふたを開けてみるとそうではなかった。第二次産業革命が起こり技術的な成果もあって、さまざまな兵器が作られ投入されるのは第一次大戦が初めてです。毒ガスやマスタードガス、戦車が初めて投入され、誰もが想像していなかったことが起こったのが第一次大戦です。
このように考えると、やはり記憶というものがきちんと伝承していかないとならないと思う。もちろん当時は、今のような情報化社会ではないので、分からない部分もあったかもしれませんが、逆にいえば我々は情報過多なくらいいろんな情報が手に入る。それでも未だにホロコーストはなかったとか言ってる人たちがいます。その意味で、記憶の歴史というのが非常に大事だと痛感します。学生をはじめ若い世代につないでいくのは我々大人の使命、大事な役割ですね。
本学創立者の池田先生とも対談された、元ドイツ大統領ヴァイツゼッカー氏も「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても盲目となる」と述べています。まさにその通りで、歴史学というのは極めて重要な意味があると最近また強く思うようになりました。

西田 哲史
[好きな言葉]
「学問に(優雅な)王道なし」、「智勇兼備」
[最近読んだ本]
川北稔『イギリス 繁栄のあとさき』講談社学術文庫,2014年.
木畑洋一『20世紀の歴史』岩波新書,2014年.
リチャード・ベッセル『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』中央公論新社,2015年.
ジョン・ファーンドン『オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題
          「あなたは自分を利口だと思いますか?」』河出書房新社,2017年.
[学歴]

1985年4月 創価大学経済学部入学

1988-1990年 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)ボン大学留学

1991年3月 創価大学経済学部卒業

1991年4月 創価大学大学院経済学研究科経済学専攻博士前期課程入学

1993年3月 創価大学大学院経済学研究科経済学専攻博士前期課程修了

1993年4月 創価大学大学院経済学研究科経済学専攻博士後期課程入学

1996年3月 創価大学大学院経済学研究科経済学専攻博士後期課程単位取得退学

1994年10月-   ドイツ連邦共和国ビーレフェルト大学哲学・神学・歴史学部博士課程入学

2006年年11月 ドイツ連邦共和国ビーレフェルト大学哲学・神学・歴史学部にてDr.

phil(歴史学博士)取得

[職歴]
2007年4月-2014年3月 創価大学ワールドランゲージセンター講師(ドイツ語)
2014年4月- 創価大学経済学部准教授  

[主な著書・共著]
●単著
・(著書)単著:Der Wiederaufbau der japanischen Wirtschaft nach dem Zweiten Weltkrieg.    
Die amerikanische Besatzungspolitik und die ökonomischen Nachkriegsreformen 1942‒1952, Steiner-Verlag Stuttgart 2007.
(著書)共著:『新版 一般経済史』創価大学通信教育部,2009年.
(論文)単著:Das japanische Produktionsregime – schon anachronistisch? - Überlegungen zum Wirtschaftssystem japanischen Typs am Beispiel des Toyota-Produktionssystems, in: D. Gilgen/C./Kopper/A. Leutzsch (Hg.),Deutschland als Modell? Rheinischer Kapitalismus und Globalisierung seit dem 19. Jahrhundert,Dietz-Verlag Bonn, 2010, S.255-283.
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