Vol.59

外交の最前線で43年 元大使が今学生に伝えたいこと【前編】

堀江 良一 元外交官・大使/創価大学客員教授
法学部法律学科1979年卒業/5期生

 創大在学中に外交官試験(当時)に合格し、43年にわたって世界各国で外交官として活躍した堀江良一客員教授。尊敬と信頼を土台とする外交関係の構築に尽力し、音楽を通じて現地の人々と心を通わせる交流もされてきました。今年度から母校の教壇に立っている堀江先生に、外交官時代の多彩なご経験やグローバルな活躍をめざす後輩たちへのメッセージを語っていただきました。

>後編はこちらから:https://www.soka.ac.jp/headlines/sodai_days/2022/09/7570/

外交官を目指されたきっかけを教えてください。

 高校時代に自分の将来について考える中で、英語を使った職業に就きたいと考えたこと、多くの書物を読む中で外交に関するものに関心を持ったことがきっかけでした。また、世界史を学んだ影響も大きいと思います。人類の歴史の中ではこれまでさまざまな文明や国が誕生し、衰退してきました。その学びを通して、国とは、国家とはいったい何なのかという疑問を持ち、その答えを知るためにいろいろな国へ行って自分の頭で考えたいと思ったことも、外交官を志すきっかけになりました。
 創価大学入学と同時に、「外交官になりたい」という夢を「外交官試験に合格する」という目標に具体化し、その目標を達成するために勉強の計画を立てました。当時、私の家は経済状況が厳しく、大学3年の時に父親が亡くなったこともあって、留年が許される状況ではありませんでした。ですから、外交官試験現役合格を目指して努力を重ね、目標通り4年生の時に外務上級試験に最終合格しました。

外交官としてどのようなキャリアを歩まれてきたのでしょうか。

 43年間の外交官人生の半分は海外勤務でした。特命全権大使を務めたのは、スーダン(南スーダンも兼轄)、ミクロネシア、ケニア(エリトリア、ソマリア、セーシェルも兼轄)の3カ国です。それ以前にも、ケンブリッジ大学留学のため滞在した英国のほか、ナイジェリア、米国(国連代表部、ニューヨーク総領事館)、カナダ、ドイツ、インド(ブータンも兼轄)に駐在しました。特にアフリカは、ナイジェリア、スーダン、ケニアの3カ国で勤務し、出張したアフリカの国は20を数えます。アパルトヘイト時代の南アフリカにも何度も出張しました。また、日米安保を担当した時代には、沖縄の普天間基地返還問題にも携わりました。さらに、1999年には、独立前の東ティモールやボスニアヘルツェゴビナに派遣した日本のPKO隊の隊長を務めました。
 日本国内では、外務省地域局ではアフリカ、アジア大洋州、北米(日米安保課)、機能局では経済、 経済協力、領事、広報を担当しました。また、大臣官房で危機管理も担当しました。外務省以外でも、内閣府PKO 事務局や法務省入国管理局、民間企業(輸出入・港湾関連情報処理センター株式会社)の執行役にも出向しました。
 通常の大使経験者は、1、2カ国で大使を務めて退官しますが、私はスーダン、ミクロネシア、ケニアと3カ所の大使を務めることができました。地域的にも業務内容としても、本当にさまざまな仕事を経験してきました。43年間、外交分野の仕事を自分なりにやりきったと感じています。

外交官、大使として特に印象に残っているご経験はどのようなものですか。

ケニヤッタ大統領(当時)に信任状を捧呈
ケニヤッタ大統領(当時)に信任状を捧呈

 印象に残っている経験は数えきれませんが、あえて挙げるとするなら、東ティモールに派遣されたPKOの隊長を務めた経験でしょうか。
 1999年、独立前の東ティモールで、独立の是非を問う国連主催の住民投票が行われることになりました。その選挙監視や選挙管理を行う国連PKO(UNAMET)に、日本から警察官を中心とした要員を派遣することになり、私が隊長に任命されました。投票結果は独立賛成が過半数でしたが、結果の発表と同時に現地の治安が最悪の状態になり、日本のPKO隊員や在留邦人の退避が極めて難しい状況に陥りました。私は隊長としてその難しいオペレーションの指揮を執ることになったのですが、本当に命の危険を感じる厳しい状況の中、なんとか無事に退避を完了できたことは忘れられません。
 大使を経験した3カ国での経験も、思い出深いものがたくさんあります。中でも、新型コロナウィルスの世界的感染が始まった2020年、駐ケニア大使として在留邦人の帰国をどう進めるか、一刻を争う対応を迫られたのは記憶に新しいところです。商用の国際線が完全にストップしている状況下にあって、大使として最悪の事態を想定しながらその時打てる手を考え、何とかチャーター便を手配して200人以上の在留邦人を無事日本に帰すことができました。いずれにしても、日本政府を代表して、それぞれの国における外交の最前線で大使として活動できたことは、外交官冥利に尽きる、本当に充実した経験でした。

日本という「国」を代表する大使として心掛けていたことはありますか。

 外交の目的は、ひと言で言えば「国益の追求」です。国益とは、国民の利益であり、国の領域と主権を守ること。そのために外交官、特に大使は、自国を代表して、自国の国益を追求するために世界各国で務めを果たしています。日本において、外交政策は総理大臣、外務大臣が基本方針を決めますが、その基本方針をもとに任国で実際に外交を行い、必要な意見を政府に具申するのが大使の役割です。そのような重要な役割を果たす大使を3カ所で務められたのは、大変な栄誉でしたし、本当に楽しかったです。
 大使として任国に赴く時は、その国に一歩足を踏み入れた瞬間から、常に自分は日本の代表であるという自覚と緊張感を持って行動していました。かつては日本といえば経済大国の印象が強かったのですが、最近ではそれに加えて、ポップカルチャー、いわゆる“クールジャパン”のイメージが世界中に広がっています。そうした日本というブランドのイメージをさらに高めることも国益に叶う仕事と考え、“日本の広報官”という意識も持っていましたね。

大使時代には「音楽」で相手国の方と交流されたとうかがいました。

 そうなんです。駐ミクロネシア大使時代、日本とミクロネシアの外交樹立30周年を記念して、日本からアカペラグループ「INSPi」を招いて学校や教会でコンサートを開きました。その時、現地のみなさんがとても喜んでいる姿を見て感動し、これはすごくいいな、と思ったのがきっかけです。
 私は元々歌うことが好きで、ギターも少し弾けます。また、私の妻はどんな歌でもハーモニーをつけられますから、最初は2人で歌を演奏することから始めました。駐ケニア大使になった後は、夫婦でケニアの公用語であるスワヒリ語の歌を覚え、ケニア各地で行う援助の引渡式などの行事で演奏しました。アフリカ人は音楽と踊りが大好きで、ケニア人も例外ではありません。どの地方に行っても、地元の人たちが私たちの歌を本当に喜んでくれました。小学校増築を援助したマサイ・マラで歌った時には、マサイ族の長老や夫人たちが大喜びで、私たちは何度もアンコールの拍手をもらいました。そして、その場で最長老から私と妻にそれぞれ称号をいただきました。私にはメムシ(幸運なる者)、妻にはナシパイ(幸福)。マサイ族の称号をもらった大使夫妻はほかにいないでしょうね。

ミクロネシア副大統領主催のイベントにて夫妻で演奏
ミクロネシア副大統領主催のイベントにて夫妻で演奏
ケニアのマサイマラの小学校で生徒に囲まれて歌を披露する堀江大使夫妻
ケニアのマサイマラの小学校で生徒に囲まれて歌を披露する堀江大使夫妻

その後、キーボードとジャンベ(アフリカ太鼓)が得意な大使館の職員3人が、私と妻の演奏に加わりたいと言ってくれたので、ボーカル2名、楽器4台(ギター、キーボード、ジャンベ2つ)のグループになり、音楽の幅と深みが増しました。日本大使夫妻と館員の演奏はケニアでも話題になり、演奏活動を開始して2年が経ったころには、ケニア国営放送の朝の情報番組「グッドモーニングケニア」(日本でいえばNHKの「おはよう日本」)に約1時間にわたって生出演し、インタビューを受け、生演奏を披露することになりました。2021年12月、ケニアの大統領に離任の挨拶をした時にも、5人で歌の演奏をしました。大統領官邸で外国人大使が楽器を持ち込んで歌を演奏した前例はなく、史上初めてのことだったそうです。その様子は地元のテレビ、ラジオ、新聞で報道されました。
 歌を歌うことや音楽を演奏することが、直接外交上の成果につながるわけではありません。しかし、音楽は人の心の扉を開く強い力をもっています。心を開いた人との関係は温かいものになり、仕事がとても進めやすくなります。ケニア人なら誰でも知っている曲を演奏することで、私は一般の住民ととても仲良くなれましたし、大統領や閣僚、地方知事とも良好な関係を築くことができました。そして、その良好な関係を有効活用して、難しい外交問題を前に進めることができました。外交関係においても、最も大事なのはやはり人間関係です。良好な人間関係を築く秘訣は、豊かな人間性であり、信頼・信用だと思います。信頼をつくるきっかけとして、音楽はとても重要な役割を果たしてくれました。

堀江 良一 Horie Ryoichi
[好きな言葉]
従藍而青
[性格]

率直、前向き、決断力がある

[趣味]
ゴルフ、テニス、水泳、音楽(歌とギター)
[最近読んだ本]
  • ポーツマスの旗/吉村昭
  • 「核の忘却」の終わり/秋山信将、高橋杉雄
  • 現代ロシアの軍事戦略/小泉悠
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