「お前のために走ってんねん!」 仲間の思いを力に走り抜いた最後の箱根駅伝

葛西 潤 文学部人間学科4年
箱根駅伝で1年生から主力として活躍し、4年連続シード権入りの原動力となった葛西潤さん(文学部4年)。ラストイヤーとなった今年は、けがで万全ではない状態ながら7区で区間賞を獲得し、有終の美を飾りました。卒業後は旭化成で競技を続ける葛西さんに、長距離を始めたきっかけや創大駅伝チームの絆、今年の箱根路で起きていた知られざるエピソードを聞きました。
小さい頃はどんなお子さんでしたか?陸上競技や長距離はいつごろ始めましたか?
小さい頃は、おとなしい性格でした。それも、無口すぎて親が心配になるぐらい、すごくおとなしかったようです。ただ体を動かすのは好きで、よく友達と公園で遊んでいる子でした。
姉と兄が陸上部だったこともあって、中学では陸上部に入り、そこで長距離を始めました。長距離にしたのは、同級生のすごく速い子が短距離を選んだから。「長距離の方が試合に出やすそうだな」と思ったんですよね(笑)。ちょっと消極的な理由だったのですが、あの選択が今の自分につながっていると思うと、人生何がプラスに転がるか分かりませんね。
関西創価高校では、初の全国高校駅伝出場も果たされました。そのころから箱根駅伝を目指していたのでしょうか?
愛知県内の高校への進学を考えていたのですが、関西創価高校の阿部一也監督に「一緒に都大路を目指そう」と誘われたことや母の勧めもあり、大阪府の関西創価高校に進学しました。入学時から全国高校駅伝への出場だけを目指して練習を重ね、3年生で初出場を決めた時は同級生3人と肩を抱き合って生まれて初めてうれし泣きしました。努力が報われたと実感した、最高の瞬間でした。
ただ、高校時代は箱根駅伝のことはまったく意識していませんでした。というより、実はちゃんと見たこともなくて、「正月にテレビで流れているな」くらいの感覚でした。
それは意外ですね!では、どうして創大で箱根駅伝を目指すことにしたのですか?
高校時代に駅伝を走る中でたくさんの方に応援やご支援をいただき、みなさんに恩返ししたいという思いからです。当時の瀬上雄然監督(現・総監督)や久保田満コーチに声を掛けていただき、トラックのレースへの出場機会や海外合宿など、競技面で成長できる環境が整っていることにも魅力を感じて創大を選びました。
葛西選手は入学当初から主力選手として期待されていました。プレッシャーは感じていましたか?
期待の大きさに見合った結果を出せないことに、ふがいなさを感じる時もありました。ただ、思うような走りができない時期も、榎木和貴監督や仲間からのプレッシャーを感じることは一度もありませんでした。そのおかげで、結果を焦ることなく伸び伸びとマイペースで練習でき、少しずつ結果を出せるようになったと思います。
プレッシャーはなかったのですが、メンタル面で苦しかったのは、けがをしていた時期です。特に、2年の冬から3年の夏まで満足に走れなかった時期があり、あの時はつらかったですね。駅伝チームでは各自が毎月走った距離を貼り出しているのですが、自分だけずっと「0km」が続いて、仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
そのつらい時期をどのように乗り越えられたのでしょうか。
一番の支えは、明るくて強い同期の存在でした。治るまで明るく待っていてくれる彼らのおかげで、心が折れずに復帰することができ、その度に「この仲間のためにもっと頑張ろう」という気持ちが強くなっていきました。監督も、「完治させることが大事。ゆっくり治して」と声を掛けてくださり、走れるようになると一緒に喜んでくださったのもありがたかったですね。
創大の駅伝チームの良さは「明るさ」。本当に笑いの絶えない4年間でした。もちろん練習は厳しく、「あいつには絶対負けない」と部員同士で切磋琢磨していましたが、練習を離れるとみんな仲が良く、楽しい寮生活を送っていました。周りに常にチームメイトがいる寮生活は、一見窮屈そうに感じるかもしれませんが、いつどこにでも楽しく話せる仲間がいることの安心感があったからこそ、厳しい練習を乗り越え、最後までやり遂げられたと思っています。
今年の箱根駅伝の直前、左脚すねの疲労骨折が分かった時は、どんなことを考えていたのでしょうか。
大会の3週間前に疲労骨折が分かった時は、「箱根でいい走りができないかもしれない…な」とは思いましたが、何とか間に合うだろう、と楽観的に考えていました。ところが、1週間休んでも、10日休んでも痛みが変わらず、5分のジョギングもできない状態が続いたんです。その時はじめて「出場できないかもしれない」という不安と恐怖に襲われました。そこからは、本当に苦しかったです。
1区間が20㎞前後ある箱根駅伝は、脚の作り込みがしっかりできていないと走り切ることはできません。けがが分かった12月は、毎回の練習が本当に大事になる時期。「この時期にあの練習ができないと箱根は厳しい」ということが分かっていながら、走れない日々が続き、どんどん気持ちが追い込まれていきました。そのうちに、出場できたとしても、途中棄権してしまうんじゃないかという恐怖も押し寄せてきて……。箱根を走るためにはいかに準備が大切かが分かっているからこそ、しんどかったですね。
それでも、榎木監督は「潤に最後の箱根を走らせてあげたい」と、最後の最後まで信頼して待っていてくださいました。その監督の気持ちに何とか応えたいと、最善を尽くしてスタートラインに立ちました。その時点でまだ痛みは消えず、不安はあったんです。それでも、6区の濱野が小田原中継所に笑顔で走り込んできたのを見た瞬間、「自分も笑ってたすきをもらいたい」と自然に思えて、走り出すときは笑顔になっていました。
15㎞地点では、けがで出場できなかった同期の新家選手から給水を受けましたね。その時、何か言葉は交わされましたか?
新家も疲労骨折をしていて、けがが分かったのも僕と同時期でした。走れなくなってからは、チームの練習を応援した帰りに、2人だけで歩きながら、たくさん話をしました。新家と僕は、普段から彼がボケて僕がツッコんでという関係でしたから、「4年目でこれか」「今、俺ら世界で一番気まずい空気やな」なんて冗談っぽく。本当は2人とも気落ちしていたし、本当に悔しかったんですけどね。僕たち2人にしか分からないあの時間のことは、きっとお互い一生忘れないと思います。
僕は何とか走れる状態になりましたが、新家は出場を断念せざるを得ませんでした。走れない新家の悔しさを誰よりも分かっていたので、自分が走ると決まった時、給水係に新家を指名しました。疲労骨折しているとはいえ、給水の数十メートルなら走れるかなと思って。新家も「何としても走るから」と言って頑張ってくれたので、当日は「新家のために」と思って走り出しましたし、15㎞の給水まで行ったらあいつの顔を見て、そこからもう一回頑張ろうと思っていたんです。
それなのに、給水に来た新家が僕にかけた言葉は「自分のために走ってこい!」。もちろんうれしかったんですが、正直「いやいや“自分のため”って何見当違いなこと言ってんだ?」と思ってしまって。レース中なのについ普段のノリが出て、「お前のために走ってんねん!」とツッコんでしまいました(笑)。
万全ではない状態にもかかわらず7区を走り切り、見事区間賞を獲得された時は、どんなことを思われましたか?

体のことだけを考えたら、走らない方がよかったんだろうなと思うんです。あれが「最後の箱根」でなければおそらくスタートラインには立っていませんし、もしこの先同じ状況になっても、きっと走れないと思います。
箱根駅伝には、自分だけでなく、箱根に4年間を捧げてきた同期、先輩、後輩、サポートメンバーの大きくて重い「思い」があります。それを感じて、自分が出せるすべてを最後の箱根に捧げたいと思って走りました。大学に入るまでそこまで箱根駅伝に強い思い入れがあったわけではない僕が、箱根を特別な大会だと思うようになったのは、1年生で初めて走った後。箱根に全てをかけてきた4年生の思いや、たくさんの方の応援や支援を感じた時からです。それから、けがの時期に支えてくれた仲間への思い、卒業していく先輩への思いが積み重なり、年々箱根への思いが強くなっていきました。みなさんの箱根への思いが力の源になり、7区21.3㎞を走り切ることができたと思っています。
後輩のみなさんにメッセージをお願いします。
新チームは「創・攻・主~ゼロからの挑戦~」をスローガンに掲げています。強い学年と言われてきた僕たちの代が卒業するということもあって「ゼロから」とうたっているのですが、後輩たちには僕たち以上の成績を残せるいい選手がそろっています。自分たちの練習と監督を信じて、自信を持って楽しんで走ってほしいと思っています。
一人の学生としても、創大ではいい環境で学び、いい友人関係を築くことができました。直接面識がない学生からも「駅伝頑張ってください」「元気をもらいました」と応援メッセージをいただいて、とてもうれしかったですね。学生や教職員の方々の人柄の良さは、ほかの大学以上のものがあると思います。進学を迷っている高校生には、ぜひ一度キャンパスに来て雰囲気の良さを感じてみてほしいですね。
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