核のない平和な世界を目指して ― 広島から被爆者の声を届けたい

公益財団法人広島平和文化センター 総務部総務課
法学部法律学科2015年卒業/40期
広島で生まれ育った杉田正隆さんは、広島平和記念資料館等を運営する公益財団法人に就職し、被爆者の方と接する中で、平和に対する考え方が大きく変わったといいます。核の脅威が高まる昨今、どんなことを考えながら日々仕事に取り組んでいるのでしょうか。杉田さんの思いを伺いました。
現在のお仕事について教えてください。
2017年から公益財団法人広島平和文化センターに勤務しています。当センターは広島平和記念資料館等の管理・運営をはじめ、広島の被爆体験を根底に、世界平和と人類の福祉の増進を目的とした平和推進及び国政交流・協力の諸事業を幅広く行っています。展示物の管理をする学芸課や修学旅行生の対応をする啓発課、施設課などを経て、現在は総務課で財団内の庶務や機関紙「平和文化」の発行等に携わっています。仕事では、労働基準法や地方自治法などさまざまな法令を参照することが多く、法学部での学びが土台になっていると感じます。学生時代は法律用語などこれからの人生で使うことがあるのだろうかと懐疑的でしたが、「今こうして使うために学んでいたのか」と、点と点がつながったような思いです。
今の仕事に就いたのはなぜでしょうか。
大学卒業後は、東京のスポーツ用品メーカーで営業や貿易を担当していました。中学・高校と陸上部だったので、スポーツする人を支える仕事がしたいと選んだ仕事でしたが、将来は地元の広島に戻りたいとも思っていました。大学時代は英語研究会に所属し、シンガポールに留学した経験から、英語にかかわる環境のある仕事をしたいと考えていたところ、母から当センターが職員を募集しているとの連絡が来たんです。英検準1級相応の英語力という応募条件が私の希望に合致していましたし、広島で生まれ育った私にとって、広島平和記念資料館は物心ともに身近な存在で、広島でしかできない仕事だと思い選考に臨んだ結果、採用していただくことができました。
仕事をする中で、印象に残ったできごとはありますか。
入社3年目の頃、私は修学旅行の学生さんに、被爆者の話を聞く機会を提供する業務を担当していました。広島平和記念資料館には年間2,000を超える団体が来館し、被爆者の話を聞きたいという要望があります。当センターが委嘱している被爆者の方は30数名。平均年齢85歳の、普通の市民の方たちです。そういった方たちが、原爆によって家族を失うなど想像を絶する経験をされているのです。「子どもたちには自分たちと同じような悲惨な思いをしてほしくない」という一心で、つらい体験を語る姿を目の当たりにして、私は彼らがなるべく話しやすい環境をつくること、そして現代の子どもたちに共感してもらえるように、いかに分かりやすく伝えるかに心を砕いていました。
そうした業務の集大成となったのが、2019年に開催された「平和のための集い」です。ローマ教皇フランシスコがヨハネ・パウロ2世以来38年ぶりに広島を訪れた際、被爆者代表として梶本淑子さん(当時88歳)が教皇の前でスピーチをすることになりました。梶本さんは自分が選ばれたことに驚き、恐縮されていましたが、「一緒にがんばりましょう」と声をかけ、スピーチの内容をともに熟考しました。ふだんは1時間ほどかけて話す内容を、2分間、約400字の原稿にまとめることは簡単ではありません。梶本さんの意見を尊重し、生々しい体験を伝えることに主眼を置くとともに、大役に心細い思いをされている梶本さんの精神的サポートに徹しました。
当日、梶本さんのスピーチはいかがでしたか。
集いは、11月下旬の夜。私は梶本さんの付き添いとして、式に参加しました。外でのイベントだったので、梶本さんが寒くないよう温かいお茶やカイロを用意し、少しでも緊張がやわらぐようにと、小さな人形を手渡しました。
梶本さんは、爆心地から約2.3キロ離れた動員先の工場で被爆されています。倒壊した建物の下敷きとなり大けがを負ったことや、火傷を負って皮膚が垂れ下がり避難していく人々の悲惨な光景、梶本さんを探すため爆心地付近を歩き回った父親が、被爆から1年半後に亡くなったことなどを語りました。その堂々としたスピーチを聞いて感極まると同時に、私も微力ながら世界平和のために貢献できたのかなと、この仕事に携わることができた喜びを感じました。
仕事を始めて平和についての意識は変わりましたか。
ものすごく変わりました。高校まで平和教育の授業を受けていたものの、それ以上深く考えることもなく、陸上部中心の生活を送っていました。それが被爆者の方と接するようになって、今こうして当たり前に仕事をし、家族と過ごすことができるのも平和だからこそだと、戦争や平和を自分事としてとらえるようになりました。
今、世界には約12,500発の核弾頭が存在していると言われています。ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、いつ核兵器が使用されてもおかしくない深刻な状況です。そんな中、今年のG7広島サミットでは、世界を代表する各国首脳が平和記念資料館を見学し、被爆者の声を聞きました。それは大きな意義があることだと思います。被爆者の方たちは、ご高齢の身を削るようにして次の世代に体験を語り伝えています。一人でも多くの方に資料館を訪れ、被爆者の生の声を聞いてほしいと願っています。
今後の被爆体験の継承についてどういう展望を持っていますか。
被爆者の方たちの高齢化が進み、被爆体験を語れる方が少なくなっていることから、広島市では、後世に被爆体験や平和への思いを語り継ぐ「被爆体験伝承者」を養成しています。研修期間は概ね2年間。被爆体験証言者から被爆体験の伝授を受け、講和原稿を作成、実習するもので、現在私もこの研修を受けています。順調にいけば来年には伝承者として活動を開始できる見込みです。伝承者になれば広島を訪れる修学旅行生に話をすることもできますし、いずれは英語で語れるようになりたいとも考えています。被爆体験の継承の一端を担えるよう、微力ながら努めてまいります。
大学時代はどのように過ごしていましたか。
興味のあることは何でも幅広く挑戦していました。英語に興味があったので英語研究会に所属し、4年次には1年休学してシンガポールに10か月留学しました。留学前に英語はそれなりに勉強してきたつもりでしたが、実際に留学してみると初めのうちは自分の英語力のなさに落ち込むこともしばしばでした。しかし、現地の学生は、たとえテストの成績が悪くても「できなかったけれど成長した」「この問題は面白い」など、何でも前向きに考えるのです。1度きりの人生なら、ネガティブにとらえるよりポジティブな面を見つけて生きていく方がいいと、目から鱗が落ちる思いがしました。
ほかにも、ラーメン好きだったのでラーメン屋でアルバイトをし、フルマラソンにも挑戦しました。やらないで後悔したくないと、自ら積極的に飛び込んでいった学生時代の経験が、私の血肉となっています。
中でも力を入れたのが、RSS(リクルート・サポート・スタッフ)として、エントリーシートや面接のアドバイスなど、後輩の就活支援を行ったことです。法学部のRSSをまとめるキャップも務め、後輩から「内定が取れました」と連絡をもらうとRSSのメンバー皆で自分のことのように喜びました。
RSSの活動の原動力はどこにあったのでしょうか。

私自身、友人や先輩方の存在がなければ就活を乗り越えられなかっただろうという思いがあります。4年生の4月、周りは皆内定をもらっているのに自分は内定が得られず、特に、最終面接までいった企業がダメだったときには、就活を投げ出したいとすら思いました。そんなとき、お世話になっていた先輩から「縁がなかっただけで、杉田さんの力が劣っていたわけではない。まだまだ応援しているよ」とメッセージをもらったのです。「ここで諦めたら先輩に合わせる顔がない。もう一度踏ん張ってみよう」と思い直し、6月には内定をもらうことができました。だから、今度は私が後輩たちを支えたいと思ったのです。
創価大を目指す後輩、留学を目指す後輩たちにメッセージをお願いします。
創価大学には志の高い同志がたくさんいて、私も刺激を受け、いろいろなことに挑戦できました。失敗しても、後で「あのときこんなことがあったよね」と笑いあえる仲間と出会えたことは大きな財産です。法学部のRSSは今でも、定期的に近況報告をしています。国内外で活躍する同窓生の姿を見ると、「自分もがんばろう」と気持ちが新たになります。創価大のつながりは卒業して終わりではないんです。
留学で得たポジティブな考え方も、仕事に影響しています。平和を希求する仕事に携わっていると、平和という概念があまりにも大きすぎて、ときにはモチベーションをどう保っていけばいいか悩むこともあります。そんなときこそ、地道にコツコツと今の自分にできること、目の前の仕事に取り組むことです。一人でできることには限りがあります。自分にできないことは周りに助けてもらいながらやっていけばいい。後輩の皆さんも健康第一で、少しずつでも歩を進めましょう。それがひいては、平和につながると確信しています。

[好きな言葉]
質実剛健
[性格]
温厚
[趣味]筋トレ、サウナ
[最近読んだ本]核のある世界とこれからを考えるガイドブック/中村桂子