ドイツ・フライブルク大学での在外研究を終えて 池田 秀彦 教授

ドイツ・フライブルク大学での在外研究を終えて 池田 秀彦 教授

2000年4月より9月までドイツ・フライブルク大学犯罪学・経済刑法研究所で在外研究の機会を得た。

研究所の所長は、経済刑法の世界的権威者で、5か国語(もっと多いかもしれない)を自在に操るティーデマン教授であり、滞在中、何かと気を遣っていただいた。もっとも、この研究所を選んだのは、特に経済刑法に関心があったからでなく、教授が法学部の講義で、私が専攻とする刑事訴訟法を担当されていたことと比較的こじんまりした研究所であることから、静かな研究生活を送れると思ったからであった。見事に、この期待は、裏切られることになってしまったのであるが。

それはともかく、折角ドイツに来たのであるから、資料の収集、裁判の傍聴をはじめとした研究活動は当然として、ドイツ語の日常会話をマスターしようと考え、事前にドイツ語会話クラスを申し込んでいた。

ドイツ語の文献を読むのに苦労することはないが、会話は、全くといっていい程練習していなかったので、この機会に学ぶことにした。そのため、2か月ほど午前中(8時半より1時まで)は、ドイツ語会話を学び、午後研究所で研究活動をすることにした。

会話を学ぶクラスでは、20歳台5人、30歳台3人、40歳台(私を含めて)2人であった。職種も、学生、商社員、実業家、医者、研究者とさまざまであった。国も多様で、ボリビア、クウェート、トルコ、韓国、インド、イタリアから来ていた。さまざまな国の人と接する中で、習慣、文化の違い、考え方の違い、日本で紹介されていることと彼らから聞く現実との違いなどを知ることができ実に有意義であった。日本人もいたが、わざわざドイツに来て日本人とつきあうのも?と思ったので、あえて積極的に接することはしなかったが、ほかの多くは日本人同士、朝起きてから寝るまで一緒に行動していた(ほかの国の人々も大同小異であったが)。そのためか、驚くほど会話力が向上せず、人ごとながらこれでドイツ社会で暮らしていけるのだろうか、と心配してしまうほどであった。

ところで、会話学習は、思いの外ハードで、研究所につくと同時に脳が酸欠状態に陥ったかのように、睡魔におそわれることたびたびであった。これを救ってくれたのが、スペイン人のドクトラント(博士論文提出有資格者)であった。どういうわけか、研究所では、常に入れ替わり立ち替わり、7、8名のスペイン人のドクトラントが研究していた。彼らは、おとなべて陽気で、親切だ。下宿探しをしているときも、ずいぶんお世話になった。互いに知りうる英語とドイツ語を駆使しながら、時にジェスチャーを交えての彼らとの会話は、心安らぐ、楽しい一時であった。 そして、確信をもっていえることは、スペイン人に小声で寡黙な人はいない、ということだ。2時頃になると、彼らは小休憩をとり、そこかしこでおしゃべりをはじめるのであるが、正に蜂の巣をつついたかのようだ。お陰で睡魔が吹き飛ぶのだが、この喧噪が6時頃また開幕するのには、実に閉口した。

会話の学習は、5月下旬で終了し、6月からは、研究活動に専念した。といっても、滞在期間は、長くないので、資料収集と整理を中心にした。研究所から歩いて10分ほどの所に、かつて川崎一夫研究科長が学ばれたマックス・プランク国際刑法研究所がある。そこは、蔵書が豊富であったので、毎日のように出かけて資料の収集をした。4階建ての研究所で、1階にはアジア、アフリカ、2階にはヨーロッパ、3階にはドイツの文献が所蔵されていた。刑事法関係の文献だけが所蔵されているのだが、実に膨大な蔵書量であった。刑事法関係の文献で欠けているものはないといっていいほどであった。来る日も来る日も感心のあるテーマに関する文献のコピーに明け暮れた。

光陰矢のごとし。フライブルクの5か月は、あっという間に過ぎ去ってしまった。

私に許された紙幅もつきてしまった。今、ドイツワインを片手に、とりとめもなく文章をつづりながら、シュバルツ・バルト(黒い森)からの水が清涼感を湛えながら街を縦横に流れるフライブルクでの楽しくも、有意義であった日々が昨日のことのように思い起こされる。