研究・社会貢献
在外研究報告
ドイツ・フライブルク大学での在外研究を終えて 池田 秀彦 教授
ドイツ・フライブルク大学での在外研究を終えて 池田 秀彦 教授
ドイツ・フライブルク大学での在外研究を終えて 池田 秀彦 教授
2000年4月より9月までドイツ・フライブルク大学犯罪学・経済刑法研究所で在外研究の機会を得た。
研究所の所長は、経済刑法の世界的権威者で、5か国語(もっと多いかもしれない)を自在に操るティーデマン教授であり、滞在中、何かと気を遣っていただいた。もっとも、この研究所を選んだのは、特に経済刑法に関心があったからでなく、教授が法学部の講義で、私が専攻とする刑事訴訟法を担当されていたことと比較的こじんまりした研究所であることから、静かな研究生活を送れると思ったからであった。見事に、この期待は、裏切られることになってしまったのであるが。
それはともかく、折角ドイツに来たのであるから、資料の収集、裁判の傍聴をはじめとした研究活動は当然として、ドイツ語の日常会話をマスターしようと考え、事前にドイツ語会話クラスを申し込んでいた。
ドイツ語の文献を読むのに苦労することはないが、会話は、全くといっていい程練習していなかったので、この機会に学ぶことにした。そのため、2か月ほど午前中(8時半より1時まで)は、ドイツ語会話を学び、午後研究所で研究活動をすることにした。
会話を学ぶクラスでは、20歳台5人、30歳台3人、40歳台(私を含めて)2人であった。職種も、学生、商社員、実業家、医者、研究者とさまざまであった。国も多様で、ボリビア、クウェート、トルコ、韓国、インド、イタリアから来ていた。さまざまな国の人と接する中で、習慣、文化の違い、考え方の違い、日本で紹介されていることと彼らから聞く現実との違いなどを知ることができ実に有意義であった。日本人もいたが、わざわざドイツに来て日本人とつきあうのも?と思ったので、あえて積極的に接することはしなかったが、ほかの多くは日本人同士、朝起きてから寝るまで一緒に行動していた(ほかの国の人々も大同小異であったが)。そのためか、驚くほど会話力が向上せず、人ごとながらこれでドイツ社会で暮らしていけるのだろうか、と心配してしまうほどであった。
ところで、会話学習は、思いの外ハードで、研究所につくと同時に脳が酸欠状態に陥ったかのように、睡魔におそわれることたびたびであった。これを救ってくれたのが、スペイン人のドクトラント(博士論文提出有資格者)であった。どういうわけか、研究所では、常に入れ替わり立ち替わり、7、8名のスペイン人のドクトラントが研究していた。彼らは、おとなべて陽気で、親切だ。下宿探しをしているときも、ずいぶんお世話になった。互いに知りうる英語とドイツ語を駆使しながら、時にジェスチャーを交えての彼らとの会話は、心安らぐ、楽しい一時であった。 そして、確信をもっていえることは、スペイン人に小声で寡黙な人はいない、ということだ。2時頃になると、彼らは小休憩をとり、そこかしこでおしゃべりをはじめるのであるが、正に蜂の巣をつついたかのようだ。お陰で睡魔が吹き飛ぶのだが、この喧噪が6時頃また開幕するのには、実に閉口した。
会話の学習は、5月下旬で終了し、6月からは、研究活動に専念した。といっても、滞在期間は、長くないので、資料収集と整理を中心にした。研究所から歩いて10分ほどの所に、かつて川崎一夫研究科長が学ばれたマックス・プランク国際刑法研究所がある。そこは、蔵書が豊富であったので、毎日のように出かけて資料の収集をした。4階建ての研究所で、1階にはアジア、アフリカ、2階にはヨーロッパ、3階にはドイツの文献が所蔵されていた。刑事法関係の文献だけが所蔵されているのだが、実に膨大な蔵書量であった。刑事法関係の文献で欠けているものはないといっていいほどであった。来る日も来る日も感心のあるテーマに関する文献のコピーに明け暮れた。
光陰矢のごとし。フライブルクの5か月は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
私に許された紙幅もつきてしまった。今、ドイツワインを片手に、とりとめもなく文章をつづりながら、シュバルツ・バルト(黒い森)からの水が清涼感を湛えながら街を縦横に流れるフライブルクでの楽しくも、有意義であった日々が昨日のことのように思い起こされる。
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自由とファンタジーの国イギリス―在外研究を終えて― 小島 信泰 教授
自由とファンタジーの国イギリス―在外研究を終えて― 小島 信泰 教授
1.はじめに-イギリスの人物-
あなたはイギリスと聞くとどんな人物を想像しますか。馬車に乗った女王様やお城のような家に住む貴族でしょうか。それともサッカーやビートルズに熱狂する若者たちでしょうか。イギリスに行く前の私は、暗い顔をした留学中の夏目漱石や江戸幕府の使節の一員として渡英した福沢諭吉といった日本人を想像したものです。いま紹介した人物たちから思い浮かぶのは、イギリスは古くて新しい国であり、近代国家として西洋に仲間入りする頃の日本と大きく関わりのあった国だということです。しかし最近では、ひと昔前の「英国病」とか「黄昏のロンドン」とか言われた老大国どころか、デモクラシーのお手本と言われた二大政党制も崩れ出して、もはやイギリスに学ぶものは何もないと言う人もいるそうです。
ところが、昨年4月1日にロンドンに降り立った私にとってはすべてが発見の連続で、それはもう楽しくてしょうがない国でした。出発前に同僚の先生から日記をつけることを薦められた私は一日も欠かさず書き続け、気が付いてみるとA4の用紙にワープロ書きで160ページにおよぶ日記ができていたほどです。
法学部の教員としては、昨年10月1日のイギリス最高裁判所の設立をはじめ、異常な数の監視カメラが街角に設置されていることや肉親の死を幇助した事件が続いて大きな問題になっていることなどを書かなければならないのでしょうが、ここでは一緒にイギリスに行った私の子供たちの目を通して、表題のテーマについて書くことをお許しいただきたいと思います。それは単に現代イギリスの明るい面を強調するというのではなく、いま日本に欠けていることを考えてみようという、私が一番書きたいことでもあるのです。
2.イギリスの建物
私たち一家は、バッキンガム宮殿のあるロンドン中心部からチューブ(丸い形をした地下鉄のこと)で西に30分ほどのウエスト・アクトン駅の近くにあるフラット(アパートのこと)に住んでいました。歩いて4、5分の距離に子供たちの通うロンドン日本人学校がある町中ですが、駅前には15世紀の終わりから百年以上続いたチューダー朝の様式の建物が保存されている地区がありました。ここには、あの有名なシェークスピアの生家が残っているストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるような古民家が並んでいます。しかも、日本ではさしずめ東京の西にある三鷹あたりに位置する場所なのに、普通の民家の庭に野生のリスや狐が出没するのです。このチューダー朝様式の建物に住む人に言わせると、窓枠一つ塗り替えるのにも許可が必要でちょっと面倒くさいということですが、そのゆったりと満足げに庭いじりをしている姿が印象的でした。
3.イギリスの鉄道
フラットの後ろには、ナショナル・レール(英国鉄道)の線路が走っていましたが、長男がある朝まだ暗い時間に大きな声で「汽車が走ってる!」と叫びました。線路を見てみるともう汽車の姿は見えませんでした。こんな町中に汽車が走ることはないだろうとその時は思っていましたが、ある晩、ほんとうに煙をもくもくと出しながら、緑色をした立派な蒸気機関車が素敵な客車を引いて通過していくのです。あのハリー・ポッターが汽車に乗って魔法使いの学校に出発した時の映像が頭に浮かびました。どうやら街角で見かける古めかしいものは、現実を遥かに超えた「ファンタジー」の世界につながっているようです。
イギリスは蒸気機関車を発明した国で、鉄道先進国であることは誰でも知っていると思いますが、家の裏を通る一番はやい列車…子供たちは「はやはやくん」と呼んでいました…は電車ではなく、日本ではだんだん見かけなくなってきたディーゼルカーなのです。私が留学先のロンドン大学に通うのに毎日乗ったチューブの中は日本の地下鉄より狭く、体の大きなイギリス人は扉の付近では首を曲げて乗っていました。このチューブには日本のような時刻表がなくて、電光掲示板には次の電車は3分後で、その次の電車は7分後、といった表示が出るだけです。どういう訳かこれが目的地の前で止まってしまって、全員降りてくださいというアナウンスが流れたことが時たまありました。話によると運転手さんがお腹が痛くなって、しかも代わりの運転手さんがすぐに見つからないというのがその理由の一つだったそうです。
ある時困ったのは、途中で電車の行き先が変わってしまって、線路が二股に分かれて違う方向にあるヒースロー空港行きになっていたことです。そもそも英語がよく聞き取れないのに加えて話し込んでいたので、まったくわかりませんでした。周りのイギリス人も間違えて乗り過ごしてしまい次の駅で降りるというので自分たちも降りました。ところが、そのあと戻る方向に行く電車がなかなか来ないので、とうとう1時間かけてフラットまで歩いて帰りました。ストもありましたが、ストでもないのに電車が止まることもよくありました。緊急の場合ではないそうした情報は新聞やネットで前もって通知されるので、気が付かなかった人も自己責任ということなので文句は一切言えません。チューブの中は、捨てられた新聞紙や食べ物の袋などが捨て放題だし、テレビではBBC(英国放送協会)のニュースですら時間通りに始まらないことやぷつんと画面が真っ黒になることもありました。これが日常なので、ある時、家に泊まりに来た留学中の女子学生に、「周りの日本人はみんな早く帰りたいと言っているのに、どうして小島家のみんなはイギリスが気に入っているんですか」と聞かれたほどです。
4、イギリスの子供たち
私の一家も銀行口座の開設や、市民税の納入の時に職員が自らのミスを謝ることがなかったりして戸惑ったこともありましたが、1年も住んでいると、イギリス社会ではそれなりの理屈が通っている限り個人の考えを尊重することが第一で、それが「自由」だとして大切にされていて、他人の眼や周囲の美醜は二の次だということがわかってきます。やせ我慢をしてでも瞬時に移ろいゆくものにはこだわらず、ほんとうに大切なことは何かを考え続けているように思われました。人間ですら移ろいゆくものとしてある一定の期間、自然や建物の一角を占めているに過ぎないという感覚がどこかにあるように思われます。かつてある歴史家は、イギリスはインドを支配することによって、逆にインドの悠久の感覚を学んだのではないか、といったことを述べていました。
さらに、そのイギリス人の眼にはこうした過去の歴史やファンタジーだけではなく、未来を創る子供たちの姿が映っているようです。日本とは違って、小学生以下の子供たちだけを家に残して外出するのはイギリスではご法度になりますし、とにかく感心したのは子供たちが遊ぶ公園です。最近、日本では、子供の事故を防ぐためか公園の管理責任を回避するためか、これまであった遊具がどんどん消えていっているように思われますが、イギリスの公園には子供にとってスリリングな遊具がどこにもいっぱい設置されています。これがよく考えられていて、たとえば両足をすっぽり通すことのできるちょっとした椅子になっているブランコがあります。当時1歳の三男でも一人で十分乗れるのです。
その下にはゴムのシートか木のチップが敷き詰められています。公園は必ず簡単な鍵の付いたサークルで囲まれているので、お母さんたちは子供を遊ばせながらゆっくり読書をしたりおしゃべりをしたりすることができるのです。
いまイギリスは、人々の教会離れやイスラム教徒の増加といった宗教上の課題をはじめ慢性的な失業問題やテロの危機に直面しています。さらに、固定化した階級問題が注目され、極端なナショナリズムも台頭してきており、EUの加盟国としてこの先どのような方向に歩むべきかが議論されています。決して将来は明るくないという予想もありますが、遥かに離れた日本から訪れた私にとっては、実に学ぶことが多く、心地よい自由とファンタジーの風が吹いている国でした。
『学 光』12月号(創価大学通信教育部 2010年12月1日)
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シェフィールドで見たこと感じたこと 松田 健児 教授
シェフィールドで見たこと感じたこと 松田 健児 教授
シェフィールドで見たこと感じたこと 松田 健児 教授
私は一昨年、短期間でしたが、英国イングランドSouth Yorkshire南部のシェフィールドに所在するシェフィールド大学法学部の客員研究員として在外研究の機会を与えられました。主にネグリジェンス法の比較法的勉強を中心にして、ヨーロッパ法とイギリス法の現状についても調査・研究を行ってきました。その際に、家族とともに生活することができさまざまな貴重な体験を得てきました。そこで、みなさんに、その中の一つですが、小学校教育について見たこと感じたことを報告させていただき滞在記としたいと思います。
教 室
私は、七歳の娘の通うイギリスの小学校の教室を見て、その日本の教室との違いに、先ず注意をひかれました。みなさんも憶えているかも知れませんが、日本の小学校では、子ども達の机が正面の大きな黒板に向かって整然と並び、その黒板の教室入口側の端やその隣の掲示板には、日直さんの名前やたくさんの目標がかいてあるのが普通です。例えば、「すすんでみんなのためにはたらこう。」「よいからだをつくろう。」「係の仕事を工夫してやろう。」などです。そして、教室の後ろには、ランドセルなどの荷物置場があったり、子ども達のかいた絵や習字の作品が飾ってあったりします。ところが、シェフィールドの小学校の教室はそれとは全くといってよいほど異なっていました。そこでは、子ども達の机は六つからなるグループに配置されて黒板に一勢に向かっているということはありません。ですから正面というのがないのです。また、黒板の周囲を見まわしても、係の名前や目標は全く見当たりませんでした。教室の中には、日本の教室では見られない赤、黄、緑色といった鮮やかな彩りのさまざまな飾り付けがあります。教室の後ろ、といっても、果たして後ろといっていいかどうか自信がありませんが、ともかく黒板の反対側には、ピアノがあり、その周囲には各国の生活を紹介したさまざまな本や写真が置いてあります。子ども達がかいた絵や作文の作品もたくさん並べられています。こうした教室の様子はイギリスでは普通にみられるものだということでした。
授業の進め方
授業開始後一ヶ月も経たないうちに分かったことですが、授業の進め方にも違いがありました。日本の授業では、30人程のクラスで、一人の先生がお話や講義を中心にするのに対して、シェフィールドの教室の授業は、6人程で構成された5~6グループからなるクラスで、補助教員を含め二人の先生が個々人に与えた課題を生徒一人ひとりがやりこなしているか否かを確認し、助言と指導を与えることを中心に進めるというものでした。ですから、個々の生徒に与えられる課題は、当然に、それぞれの生徒に与えられる課題は、当然に、それぞれの生徒の理解度と到達度に応じて異なっているわけで、いわゆる日本のような教科書は存在しないということになります。(それが、イギリスでは、学力のバラつきという問題も生ぜしめているようです。)
そして、イギリスの教室が正面を欠いているのは、こうした可能な限り個人を中心とする授業を進めていこうという仕方と密度に関連し、かつそのこととを象徴していることのように思えました。日本では、黒板や教壇を正面とする教室の中で、教員がクラス全体に対して、同じことを、同じやり方で、同時に学ばせることに傾きがちで、そのことが、同一学習内容によるクラスにおける競争といってよいものを起こりやすくさせているもののようにも思えました。
学科外活動と教育
教室や授業の進め方の違い(もちろん、授業内容の違いもけっして小さくないのですが)に加えて、さらに重要だと思われる違いがあります。日本の小学校の教室には、日直さん、掃除係、給食係等の多様な係りが存在しています。そこでは、みんなのために係の仕事を工夫して行うことが強調されています。集団で行動する機会も多くあります。クラス単位、全校単位の朝・夕会、クラブ活動、遠足、運動会などがそれです。こうしたことから、日本の小学校では、班や小集団を単位とする集団行動の機会が多く、かつ集団行動が、和やかで効率的に行なわれるように協調的な目標が多く設けられているといってよいでしょう。それに対して、シェフィールドの小学校には、このような係や目標はまったくみられませんでした。また、班やクラスを単位とする集団行動も、私の見る限りほとんどなかったといってよいと思われます。この相違には、日本の小学校が、掃除、給食、学校行事などの学科外活動にさえ、教育の機会を見出し、子ども達に協調行動等を教える「教育」の一部だと考えるのに対し、シェフィールドの小学校が、学科指導に焦点を当てるというイギリス公教育の在り方が関係しているようです。とにかく、学科指導と学科外指導とを総合して教育の一環であると見るのは、小学校における初等教育のみならず最近では大学における高等教育をも含めた日本の教育の特徴であるといってよいかもしれません。
接触の仕組み
このように、日本の小学校では、子ども達にとって、単位となる集団が、学級にせよ、班にせよ、一定期間固定され、同じ顔ぶれが緊密な接触を行う仕組みが存在しているのです。(これは、小学校においてのみならず、日本の学校制度全体を通じて一般的に見られるものです。したがって、こうした仕組みが学校における「いじめ」の要因になっているとの最近の指摘は大いに注目すべきでしょう。)また、これは子ども達に関するのみならず、教師について言えるのではないかと思います。というのは、小学校の教員室は、イギリスでは個別の机がなく、個々の教室から教師が一時的に集まって昼食を食べたりティーを飲んだりしてくつろぐ場として設置されています。ところが、日本の教員室は、大部屋にそれぞれの教師の机が隣り合わせに並べられ、教師が頻繁に接触するような仕組みになっています。会合が多く待たれ、全教師が一致協力して取り組む機会も多くなっているのが普通です。
個と集団
ところで、しばしば、西洋人や西洋社会は、個人主義(的)であり、日本人や日本社会は集団会議(的)であると言われます。そして、私達は、このよく分かる、あるいはよく分かった感じのする簡明な表現で、西洋人やその社会がもともと個人主義(的)であり、日本人やその社会が本来的に集団主義(的)であるということを意味することが多いようです。
しかしながら、このように、時間的・歴史的な意味にもせよ、生理的・固有の国民性の意味にもせよ、イギリス人や日本人あるいはそれらのそれぞれの社会について本来的に個人主義(的)であるとか集団主義(的)であるとかいうようなことが果たして言えるものなのだろうか、と思います。
既に見たように、イギリスと日本の小学校の教室の様子や授業の在り方などには、相当の注意をひく違いがあります。この違いは右の簡潔な表現を借りれば、イギリスの教室や授業の在り方は個人主義的である、のに対して、日本のそれらは集団への同調や協調行動を促す集団主義的なものであるといってもさしつかえないのではないかと思われます。 少なくともそうした特質をより強く帯びているということはできるでしょう。そして、一生涯の間でも、小学校教育が子ども達の人格形成に意外に大きな影響を与えていることを考え合わせると、子ども達は、小学校という制度を通じて、イギリスでは個人主義的な性向をより強く有するようになり、日本では集団主義的な傾向をより大きい程度にもつようになるといってもよいのでしょう。ですから、イギリス人・西洋人はもともと個人主義(的)であり、日本人は本来的に集団主義(的)であるというのではなくて、いわば、西洋人も日本人もそれぞれ個人主義(的)あるいは集団主義(的)になると考えた方が実際により近いということになるのではないでしょうか。 したがって、もし、社会学科を学ぶものとして、問題とすべきことがあるとするならば、それは、何故、イギリス人や日本人がそれぞれ個人主義(的)あるいは集団主義(的)であるのかではなくして、どのようにして、個人主義(的)あるいは集団主義(的)になるのかという問いでなければならないということになるでしょう。
個と集団の意識の形成
たしかに、日本と西洋との間には個と集団への意識について、集団主義(的)あるいは個人主義(的)と形容してもさしつかえのない小さくない隔たりがみられると思います。その相違は、経済的相互依存が高まる現在の国際社会にあって、経済的、政治的、文化的なさまざまな摩擦のもろもろの要因の一つともなっていると見てよいものでしょう。もし、そうだとするならば、このような意識が、どのようにしてそれぞれ形成されたのか、あるいは形成されるのかという問題は、私達が、国際的相互依存関係を円滑ならしめ、また国際的協調を確保するある一つのささやかな貢献をなしうるためにも、十分な注意を払って勉強していく必要があるものだと思います。この問題について、小学校におけるもろもろの教育の仕組みのもつ比重の大きさに新ためて気づかされたことは、今回のイギリス滞在が私にくれた思いがけない贈り物でした。
※ここで述べられていることは体系的な事実分析に基づくものではなく、観察者である著者の先入観、個人的状況等の影響を強く受けているということをお断りしておきたいと思います。
英国・ケンブリッジ大学/ケム川のほとりで 宮﨑 淳 教授
英国・ケンブリッジ大学/ケム川のほとりで 宮﨑 淳 教授
英国・ケンブリッジ大学/ケム川のほとりで 宮﨑 淳 教授
2003年4月から翌年3月までの一年間、在外研究の期間をいただき、英国・ケンブリッジ大学不動産経済学部にて研鑚させていただきました。ケンブリッジは、ロンドンから北へ電車で約50分のところに位置し、のどかなイングランド中東部の田舎にある大学の町です。ケンブリッジ市内から車で10分ほど郊外に走ると、春には菜の花畑が一面に広がり、野ウサギが群れをなして遊んでいるのに出会います。
ケンブリッジ大学の特徴は、ケム川沿いに点在する多数のコレッジ(学寮)から構成されているということです。各コレッジは、学問的にも財政的にも独立した組織で、それぞれが各分野の研究者および各学部の学生を抱え、学生と教員はコレッジという共同体の中で寝食をともにしています。つまり、コレッジはそれ自体で小規模な総合大学のような実態を有しているといえます。それでは学部はどういう存在かというと、学部も大学教育および研究を行う独立した組織ですが、学部に対する帰属意識は、コレッジに対するものより強くはありません。このように、コレッジおよび学部は、学生や教員を共有しながらも相互に独立した存在であり、それらの連合体が観念的にケンブリッジ大学と呼ばれているのです。
ケンブリッジ大学の学部図書館では、熱心に勉強する学生たちが多く見受けられます。学期中の図書館は、ほぼ満席に近い状態です。多くの学生は、講義の準備やスーパービジョンの課題に追われています。スーパービジョンとは、ある科目を履修すると、週2回の講義と並行して、少人数のグループ単位で指導を受ける機会を提供するものです。その中身は、課題レポートが出され、それに対する具体的な指導を受けたり、講義の内容について一対一で確認または補完されたりと細やかな指導がなされる場合が多いようです。学生に聞くと、このスーパービジョンの準備が大変で、手が抜けないと異口同音に語っていました。
300人程の学生が受講する「不法行為法」(法学部)の講義では、数名の教員が教壇に立ちます。自分が専門とする領域を2コマ講述したあとに、次の領域を専門とする教員が4コマ講義するというようなオムニバス式の授業です。この科目には、スーパービジョンの担当教員は、10名置かれていました。また、十数名の学生が受講する「私法」(不動産経済学部)の授業では、講義とスーパービジョンを一人の教員が担当しています。このような少人数の講義では、学生の側からも頻繁に質問が出され、そこでの教員とのやりとりをみる限り、スーパービジョンがうまく機能しているように思われました。講義の形式は一対多数ですが、講義以外の見えない部分の教育がそれを下支えして、実質的には一対一の授業に近い形の教育がなされているように感じました。
コレッジには学生生活全般にわたって指導を受けるチュートリアルという制度があります。学部の授業におけるスーパービジョン、コレッジにおけるチュートリアルというように、学生は幾重にも教員から個人的に指導を受ける機会が制度上用意されており、このようなシステムは大学教育の効果をあげるうえで大きな役割を担っています。コレッジでは、週に1回フォーマル・ディナーが開催され、コレッジに所属する教員や学生を中心に豊かな人間関係を築く場になっています。ケンブリッジ大学には世界各国から研究者が集まってくるため、コレッジのディナーは世界の縮図といっても過言ではありません。ある日、招待していただいたディナーで私の隣に座った方は、オーストラリアの著名な経済学者でした。彼のファミリーも交えての楽しい会話と、時よりテーブルの端から聞こえてくるこむずかしい話に相槌を打ちながら、フォーマル・ディナーの雰囲気を十分に堪能しました。大学の生活を形容する言葉として、コレッジ・ライフという用語が使われますが、その一端を垣間見たような気がしました。
学生たちと一緒に授業を受けたり、セミナーや講演会に参加したり、手入れが行き届いた中庭で読書をしたり、またケム川のほとりを散歩しながら思索したりと、ゆったりとした時の流れの中に身を置き、研究生活を送れたことは、かけがえのない貴重な経験となりました。この一年間に修練したことを、今後の研究および教育に反映させていけるよう、さらなる努力を積み重ねてまいります。
最後に、英国でお世話になった諸先生方および在外研究の機会を与えて下さった本学の関係者各位に対して、心より御礼申し上げます。
ハーバード大学 在外研究報告 中山 雅司 教授
ハーバード大学 在外研究報告 中山 雅司 教授
ハーバード大学 在外研究報告 中山 雅司 教授
2000年9月より在外研究で、アメリカ東海岸のボストンにあるハーバード大学ケネディスクールに約半年間滞在する機会をえた。町をゆったりと流れるチャールズ川と近代的な高層ビルが調和した美しい町並みを見ながら西へ少し行ったところに、レンガ造りの建物が映えるアメリカ最古の大学・ハーバード大学がある(1636年創立)。ルーズベルトやケネディなど6人の大統領をはじめとして、30人を超えるノーベル賞受賞者やピュリツァー賞受賞者など、多くのリーダーを世界に輩出してきたアメリカの名門で、創立者池田先生も、1991年と93年の2回にわたり講演をされている。
こちらに着いてまもなく新年度が始まった。ハーバードの学生は履修にあたって、一科目につき数冊のテキストとともにコースパッケトと呼ばれる分厚い論文や資料のコピーを購入させられる。毎回、パケットの中から数十ページ、多いときは本一冊分ぐらいの論文や資料を事前に読んで臨まなければならず、授業はそれを前提に討論形式で進められる。講義形式の授業にもかかわらず、教授が話している時間より学生が講論している時間の方が長く、学生は手を挙げて自分の順番を待っている。そこで求められるのは、その問題について自分はどう考えるのか、それはなぜかということである。彼らはディスカッションを通じて論理性と弁論術を身につけていくのである。
研究環境の面でも充実している。蔵書千百万冊を誇る図書の充実ぶりは大変なもので、まさに「知の宝庫」である。また、新鮮な驚きは、学生以外の大人の姿が多くキャンパスに見られることであった。すなわち、私のような大学からの研究者のみならず、官公庁の役人や政府関係者、企業人、ジャーナリスト、法曹家など、ありとあらゆる職業の人たちがフェローなどの資格で世界から学びに集まってきていることであった。こういった人たちが教授や学生と一体となって、知の共同体を形成しているのである。また、連日、キャンパスのあちこちでさまざまな興味あるテーマのもと、セミナーや講演会が活発に開かれている点も魅力的である。ケネディスクールで開かれた講演会では、シンガポールのリー・クアン・ユー上級相(元首相)が自らの体験をとおしながら指導者論を語った。こうした学問環境を通じて、大学の活性化をはかり、学問の現実社会からの遊離を防ごうとしているのである。ちょうど、この時の司会は日米安保再定義にあたってあの「ナインポート(東アジア戦略報告)」を書き、現在、ケネディスクールの学院長を務めるジョセフ・ナイ氏(元・国防次官補)であった。このようにハーバードには、教室を出て国家政策に関与した後、再び教壇に戻って学生の指導にあたるといった例は少なくない。ハーバードだからといえばそれまでだが、大学が社会や国家との相互交流のなかで、知のあり方を探求し続けている姿が確かにそこにはあるように思えた。厳しい競争と多様性のなかで本物の学問が醸成され、人材が生み出されていることに感慨を新たにした。
冷戦が終わって、アメリカは唯一の超大国として世界に君臨し、経済的にも繁栄を享受している。一方で日本は、政治や経済、社会の混迷からいまだに抜け出せない感がある。日本においてとくに停滞の著しい分野の一つが大学を中心とする高等教育であると指摘したのは、ハーバードの教授を長年勤め、いみじくも『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で一躍有名になったエズラ・ボーゲル氏であった。もちろん、アメリカも人種や銃の問題をはじめさまざまな問題を抱えている。ただ、どの国の将来にとってもいかなる人材を社会に輩出するかが重要な鍵となってくることだけは間違いない。教育および大学の真価がますます問われる時代を迎え、今回の経験と示唆を少しでもいかしながら創価教育に尽力したい、そんな思いを深くしてボストンを後にした。
在外研究報告 岡部 史信 教授
スペイン・ナバラ大学
在外研究報告 岡部 史信 教授
スペイン・ナバラ大学
在外研究の期間および留学先
2008年9月20日から2008年3月17日までの約半年間、在外研究の機会を利用させていただき、スペインで研究することができた。今回の渡航先をスペインとした理由は以下のとおりである。現在日本では残念ながらスペイン法研究が極端に遅れているため、私を含め二十数名の日本国内のスペイン法研究者で3年前に日本スペイン法研究会を立ち上げた。私は、当研究会において事務局を担当させていただくとともに、研究分野としては労働法および障がい者法を中心に研究成果の報告などを行っている。このため、上記分野の研究をさらに深めるとともに、さらにスペイン法の全体的な研究を進めたいと考え、今回の在外研究の機会にスペインを選択した。
受入機関
受入機関は、ナバラ大学カテドラ・ガリーゲスである。この機関に受け入れをお願いした理由はいくつかあるが、特に次の2つが主たるものであった。1つは、ナバラ大学がスペイン国内においても法学研究において高く評価されており、法学部所属の各研究者の活動も活発であることである。もう1つは、スペイン最大の法律事務所の全面的な協力のもとにあるカテドラ・ガリーゲスがグローバル法研究において世界的に有名であることである。こうした理由により、この大学で勉強できる機会をいただければ、自分には気がつかないさまざまなスペイン法の諸問題を研究できると考えた。
受入責任者
私を実際に受け入れてくれ、またさまざまに研究活動の便宜を与えてくれたのは、ナバラ大学法学部教授であり、カテドラ・ガリーゲス・コーディネーターのラファエル・ドミンゴ氏である。ドミンゴ教授は、ローマ法の分野においてスペインの第一人者であると同時に、グローバル法の分野でもスペインの法学界における栄誉ある賞を受賞している著名な研究者である。そして、彼自身が中国法、インド法、日本法にも強い関心を示していたことから、今後のさまざまな連絡や共同研究活動を実現するために受け入れをお願いした。なお、実際にナバラ大学に行って初めて知ったことであるが、ドミンゴ教授と私は同年代であったため、急速に打ち解けることができ、公私にわたりいろいろとお世話になった。
研究テーマ
今回の研究の主たるテーマは、スペイン労働法の全体像の調査および今日的諸問題の分析と考えていた。しかし、期間が半年間と短いため、具体的な研究は個別的労働関係分野に限定し、その他の個人的に注目している分野、特に労働法制史、労働市場関係法制および紛争処理関係法制については資料収集にとどめることにした。
資料収集については、ナバラ大学法学部のインマクラダ・バビエラ労働法教授にたいへんお世話になり、さまざまな質問に応じていただくとともに、私の質問事項をはるかに上回る数多くの資料や情報をいただけたでなく、ナバラ大学で定期的に開催されているアランサディ・ソシアルの労働法フォーラムにも参加する機会を与えていただき、スペイン労働法学の世界で著名なセンペレ・ナバロ教授をはじめ多くの労働法学者および労働弁護士をご紹介いただいた。さらに、バビエラ教授にスペインの重要労働判例を整理したい旨のお願いをしたところ、貴重な資料を提示していただき、このおかげで約1500本の判例を日本に持ち帰ることができた。
このため、ナバラ大学滞在中には有給休暇制度および懲戒解雇制度に関する2本の論文を執筆することができ、また女性および年少者に関する労働法制史について簡単にまとめることがでた。このうち、懲戒解雇制度に関する内容は、2008年5月24日に開催された日本スペイン法研究会で報告させていただいた。現在、試用期間、賃金制度、労働時間、監督制度、労働裁判制度に関する論文を順番に作成すべく準備しているところである。
その他の活動
上記の個人的な研究以外に以下のような活動を行うことができた。
各種講演。ガリーゲス・カテドラの研究員の質問に応じて、「日本の女性天皇誕生の可能性」について原稿をまとめ提出した。また、ナバラ大学法学部では「日本の労働事情および労働法の問題点」について話す機会をいただいた。さらに、サラゴサ大学で「日本法の現状とスペイン法研究の動向」について話させていただいた。
法学研究基金への参加。現在、ドミンゴ教授が責任者として活動している、グローバル法調査機関であるフンダシオン・マイエスタスに、日本法調査員として参加することができるようになった
スペイン法出版プロジェクト。今回の在外研究での最大の成果のひとつであると考えているが、日本法についての法律用語辞典をスペインで出版されているフランシスコ・バルベラン弁護士を知ることができ、同氏の全面的な協力のもとに、特にサラゴサ大学法学部の研究者を中心としたスペイン法各分野の研究員と日本スペイン法研究会の研究員が協力して、日本で初となるスペイン法研究の研究書を発刊する計画を具体化することができた。本書は、2008年度中または2009年度の早い時期までに完成させたいと考えている。
最後に
今回の在外研究に際しては、機会を与えていただいた創価大学、半年間ご迷惑をおかけした法学部の方々にはもちろん、さらに留学をするに際してさまざまなご相談にのっていただいた南山法科大学院の黒田清彦先生をはじめ日本スペイン法研究会の方々、またスペインで生活するにあたり各種の手続きをしていただいたナディアさん、マルティンくん、そのほか数多くの方々に心から感謝いたします。
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