教育提言
「教育のための社会」目指して21世紀と教育~私の所感 [創価大学 創立者 池田大作]
「『教育のための社会』目指して21世紀と教育~私の所感」
(2000年9月29日 発表)
21世紀の開幕を前にして、今改めて教育にスポットが当てられております。そこで、最近のさまざまな教育改革論議の動向についての私の率直な感想と、若干の具体的提案を行ってみたいと思います。
昨今、“不登校は、どの子にも起こりうる”と言われます。先日も、文部省の1999年度の学校基本調査で小・中学校での不登校が13万人を超えて過去最高だったことが報告されていました。小学校で290人に1人、中学校では実に40人に1人、1クラスに1人が苦しんでいるのです。 いじめによる自殺等の悲劇も後を絶ちません。世界的に懸念されている薬物汚染までもが、不気味な広がりを見せています。加えて、近年の14、5歳の少年による殺傷事件の続発、本年に入ってからも17歳の少年による主婦殺害や高速バス乗っ取り事件、金属バット殺人事件等が、日本中を震撼させております。
教育に携わる人々や青少年の心理に詳しい専門家による原因の分析や対応が待たれるとしても、率直に言って、その闇の巨大さのあまり、大人たちがどうやっていいか分からず、ぼう然と立ち竦んでいるというのが実情ではないでしょうか。
未来を担う青少年の健全な成長を願う一人として私自身、もう16年も前のことになりますが、創価学会の全国教育者総会に寄せて「教育の目指すべき道――私の所感」と題する提言を発表しました。教育改革は政治主導ではなく、人間主導型でなされるべきであるとして、それが依拠すべき理念、指標といった側面から「全体性」「創造性」「国際性」を具えた人間像を提示しました。
当時も、教育荒廃が憂慮され、非行、校内暴力、不登校等が、子どもたちに直接かかわる親や教師はもとより、多くの心ある人々を嘆かせていたことが思い起こされます。15年以上を経過した今日、関係者の努力にもかかわらず、残念ながら事態は一向に改善されないばかりか、それらの問題群が常態化するとともに、新たな問題すら発生しているのであります。
人間成熟させる教育の機能不全
人間成熟させる教育の機能不全
特に、最近、深刻になっているのが、“学級崩壊”と呼ばれる現象です。
生徒が教師の言うことを聞かず、クラスがコントロール不能の状態に陥ってしまう。かつては中学校段階等に顕著だったこの現象が、ここ数年は小学校の低学年にまで及んでいる。
ひどいところでは幼稚園から小学校に入ってくる段階で子どもたちがバラバラで、学級そのものが成立しないといった状況すら生まれているようです。子どもたちに責任を持つべき教師の側でも、3分の1がクラス担任をやめたいと思ったことがあるという調査結果もあります。
このままでは学校というシステムそれ自体が機能しなくなるような事態さえ起こりかねませんが、不登校やいじめ、あるいは学級崩壊という問題とともに教師や学校を悩ませているのは、学力低下の問題かもしれません。算数や数学、あるいは理科嫌いに象徴されるように、勉強嫌いが憂慮されています。各種の調査が示しているように、日本の子どもたちの学力は全体的に低下傾向にあり、そのしわ寄せを受けた高等教育の場では、一部で、授業が理解できない大学生たちに、予備校の教師に依頼して補習授業を行うといった悲喜劇さえ、しばしば伝えられています。
このいわば子どもたちの“学びからの逃走”傾向を、子どもたちが先人の知恵に学び、後の世代に伝えていく人類の共有財産を身につけ、創造への糧としていく力を養う大地であるべき教育の敗北と言えば、厳しすぎるでしょうか。2002年から完全実施される学校週5日制をにらんで、文部省が改訂した新学習指導要領の志向する「ゆとり教育」のもとで「生きる力」を養おうという方向性は、子どもたちの“学びからの逃走”の主因が、従来の知識偏重の詰め込み教育や過激な受験戦争にあったとして、その反省を踏まえての軌道修正なのでしょう。
しかし、それが総合的な学力アップや“学びへの復帰”につながるかどうか、疑問視する声もあります。すなわち、現状のまま授業時間を短縮すれば、余った時間は、自主的な学習などより、一部は塾通いを過熱させ、一部はテレビやゲームに向けられてしまうなど、必ずしも狙い通りにはいかないであろう、と。
私も、その懸念を共有します。なぜなら、たしかに不登校問題に象徴されるような子どもたちの苦しみは、一刻も放置しておけませんが、かといってこの問題が、学校教育の制度的改変などで解決に向かうような根の浅いものとは、とうてい思えないからです。
子どもたちの不登校や問題行動、“学びからの逃走”傾向といった病理の背景には、学校に限らず地域や家庭など、社会総体が本来有しているはずの教育力の衰弱という根因が巣くっている。
人間とは、広い意味での教育によって人間に成ることのできる存在であるとすれば、人間が真に成熟していくためのシステムそのものが、現在のわが国では、機能不全に陥っているのではないでしょうか。
その機能不全が、子どもという最も弱くかつ鋭敏な部分に集約的に噴出しているのであり、その意味では「子どもは社会の鏡」であるという古来の知恵は、我々が教育について考える際に絶対に忘れてはならない不磨の鉄則なのです。
大人のモラル低下が招く弊害
大人のモラル低下が招く弊害
そういうと、一切を本質論にもっていく一種の還元主義とのそしりを受けるかもしれません。
しかし、私は、子どもという「鏡」に照らして己を正そうとする自省の眼差しを大人たちが常にもっていなければ、よかれと思う試みも結果として制度いじりの弥縫策(びほうさく)(=一時しのぎの取り繕い)に終わったり、モグラたたきのような、その場しのぎの対応に追われてしまうであろうことを恐れるのであります。
その点、ある雑誌の“徳育”をめぐる特集で、作家の山田太一氏が、謙虚に語られている言葉が印象に残っております。
「いま必要なのは、確信を装って子供に徳を説くことではなく、迂遠でも大人が自分で多少ましだと考える生き方をなんとか現実に生きてみせるしかないと思う」(「中央公論」'99年9月号)と。
実際、高度成長時代の終焉からバブルの崩壊を通じて、急速に露になってきた大人社会の現状は、何とも気が滅入るような惨憺たるもので、新たな世紀を迎える、はつらつたる気分など皆無に近い。
政界、官界、財界、言論界を問わず、いわゆるエリートと呼ばれてきた人々が“ノーブレス・オブリージュ”(高貴な立場に随伴する責任)のかけらも持ち合わせず、何かにつけ責任逃れと保身、自己弁護に汲々たる醜態を、このところ、我々はいやというほど見せつけられてきました。相次ぐ保険金がらみの殺人に象徴されるように、目的観、価値観を見失った社会が必然的に招き寄せる拝金主義の横行など、大人たちのスキャンダラスな体たらくが、子どもたちの心に影を落とさないわけがない。先達が魅力ある範を示すことのできないような社会に、教育力など期待し得べくもないのであります。
もとより、マスコミの興味本位の目など関係なく、山田氏のいうように「生きてみせるしかない」と、その人ならではの孜々(しし)として営みを続けている人が、数多く存在しているにちがいありません。しかし、そうした人々であっても、面を上げ、背筋をピンと伸ばして生き抜いていくことが、なかなか困難になってきているようです。明治人の気骨のようなものが、しばしば実像以上にもてはやされ、懐旧の念で語られるのも、日本の社会の現状が、何を欠落させているかを物語っています。
「教育基本法」の見直しは慎重に
「教育基本法」の見直しは慎重に
一連の教育改革の動きのなかで、戦後教育の柱となってきた「教育基本法」の見直しが浮上しているのも、そうした背景によるものと思われます。
首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の(2000年)7月の報告でも、「教育基本法の改正が必要であるという意見が大勢を占めた」とおり、「前文及び第一条の規定では、個人や普遍的人類なとが強調され過ぎ、国家や郷土、伝統、文化、家庭、自然の尊重などが抜け落ちている」との意見も述べられていました。「国民会議」の報告ではありませんが、そうした欠落部分を補うために「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ……」との「教育勅語」を見直すべきだとする復古調の動きもあります。
ちなみに「教育基本法」の一条では「教育の目的」について、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(旧法。2006年に改正)と謳っております。
この条文は、個人の尊厳に立脚し「人格の完成」を目指すという普遍的理念という限りにおいては、古今東西いかなる人にも妥当する、文句のつけようのないものであります。しかし、「教育基本法」制定の経緯を振り返ってみても、普遍的理念の正当性は、たえず風土や伝統を異にする土俗性という場で検証されなければならず、その点については、日本の教育関係者は、楽観的でありすぎたようです。
その結果、人間は〝個〟であると同時に〝人倫(人と人との秩序関係)〟であること、〝個〟が真の〝個〟たらんとする、つまり「人格の完成」を目指すための場は〝人倫〟の中にしかありえないこと、そして、〝人倫〟を形成していくには〝個〟は「名月を とってくれろと 泣く子かな」式のエゴイズムをどこかで制御する必要があり、それが人間が成熟することの謂(いい)にほかならないこと――こうした当たり前のことを実践していくことがいかに困難であるかが、その自明性ゆえに看過されすぎてきたとはいえないでしょうか。
ひとことでいえば、個性や自由をいうあまり、〝個〟を〝私〟へと矮小化させてしまう、人間のエゴイズムというものに対して、あまりにも無防備、無警戒でありすぎました。戦後の「教育基本法」制定の過程で、「教育勅語」に強く反対し、個人の尊重という理念を教育目的の基軸に据えるよう尽力した森戸辰男氏が「期待される人間像」を打ち出した中教審(中央教育審議会)答申(1966年)の際、その会長をつとめ、戦後の平和教育の見直しなどを強調したことを、変節のように言う向きもありますが、私は、氏なりの反省に基づいた、内的な必然性があったのだと推察します。先にあげた「国民会議」の「教育基本法」見直しの議論も、大きくくくればそうした流れに沿ったものといえるでしょう。
断っておきますが、私は「教育基本法」の見直しについては、拙速は慎むべきだと思っております。前文や一条に謳われた理念が、それ自体文句のつけようのないものですし、また、条文に郷土や伝統、文化等の文言を盛っても、それだけでさしたる実効が期待できるとは思えません。まして「教育勅語」の徳目の復権など、それらが戦前の天皇制、家父長制のもとでどのような役割を演じてきたかを考えるなら、時代錯誤以外の何ものでもないでしょう。
教育の手段視が生んだ現代の悲劇
教育の手段視が生んだ現代の悲劇
総じて、私は、文部省が音頭をとり続けてきた官僚主導型、政治主導型の近代日本の教育制度のあり方は、そろそろ限界にきているように思います。
戦前の富国強兵であれ、戦後の経済大国であれ、欧米先進国を目標に追いつき追いこせという〝キャッチ・アップ〟を至上命題としてひた走ってきた近代日本のあり方、そして常にその目標達成のために教育はいかにあるべきかという観点からの位置づけを強いられてきた明治以来の教育のあり方は、明らかに行き詰まっており、工業化から情報化時代への変貌とともに、軌道修正を余儀なくされているからであります。
そこで、私は、21世紀の教育を考えるにあたり「社会のための教育」から「教育のための社会」へというパラダイムの転換が急務ではないかと、訴えておきたいのであります。
「教育のための社会」というパラダイムの着想を、私は、コロンビア大学宗教学部長のロバート・サーマン博士から得ております。博士とは、私も何度かお会いし、そのつど深い識見に感銘を受けていますが、博士は、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)の機関紙のインタビュアーから、社会において教育はいかなる役割を果たすべきかを問われて、こう答えております。
「その設問は誤りであり、むしろ『教育における社会の役割』を問うべきです。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると、私は見ているからです」と。
まさに、卓見であるといってよい。こうした発想は〝人類最初の教師〟の一人である釈尊の教えに依るところが多いと博士は語っていますが、そこには自由な主体である人格は、他の手段とされてはならず、それ自身が目的であるとしたカントの人格哲学にも似た香気が感じられてなりません。
それとは逆に、人間生命の目的そのものであり、人格の完成つまり人間が人間らしくあるための第一義的要因であるはずの教育が、常に何ものかに従属し、何ものかの手段に貶められてきたのが、日本に限らず近代、特に20世紀だったとはいえないでしょうか。
そこでは、教育とりわけ国家の近代化のための装置として発足した学校教育は、政治や軍事、経済、イデオロギー等の国家目標に従属し、専らそれらに奉仕するための〝人づくり〟へと、役割を矮小化され続けてきました。当然のことながら目指されたのは、人格の全人的開花とは似ても似つかぬ、ある種の〝鋳型〟にはめ込まれた、特定の人間像でありました。
教育の手段視は、人間の手段視へと直結していくのであります。
20世紀が、間断なき戦争と暴力に覆われた、史上空前の大殺戮時代を現出してしまったのは痛恨の極みですが、それは、テクノロジーの負の遺産である殺傷力の肥大化もさることながら、価値基準を人間に置かず、教育という人間の本源的な営みに派生的な役割しか与えてこなかった、近代文明の転倒した価値観にも、大きく起因しているように思えてならないのであります。
それに関連して、私は、最近の「IT(情報技術)革命」をめぐる動きにも、一抹の危惧を抱いております。
たしかに、九州・沖縄サミットで採択された沖縄憲章に「21世紀を形作る最強の力の一つ」と謳われたように、「IT革命」が、21世紀のメガ・トレンド(巨大な流れ)になっていくことは間違いないし、わが国も、その流れに乗り遅れてはならないでしょう。
それもあってか、たとえば学力低下の問題を取り上げてみても、特に理数系に顕著な学力低下の現状を放置しておくと、日本の経済や技術力に悪影響を及ぼし、IT革命に突入しつつある世界の動きに後れをとってしまう――この種の指摘が、大学関係者を中心に、しばしば寄せられています。
当然の懸念ではあります。グローバリゼーションの是非はさておき、21世紀の国際化の流れは止めようのないものであり、鎖国時代ならいざ知らず、日本もその流れに身をさらさざるをえないからです。
それと同時に、私の抱く危惧とは、そうした学力向上への取り組みが、旧態依然たる「社会のための教育」という轍を踏んでしまいはしないか、ということであります。
人間と人間の〝結びつき〟の回復を
人間と人間の〝結びつき〟の回復を
IT革命というものが、近代の足元を掘り崩す性格を持つものである限り、人間社会に対する影響も、必ず〝光〟と〝影〟を併せもっているはずです。ところが、現状に目をやると、かつての未来論ほどではないにしても、楽観的というか〝光〟の部分のみが喧伝されすぎているように思えてなりません。
しかし、金融面を中心にしたIT革命を先取りし「マネー資本主義」「カジノ資本主義」下での独り勝ちを謳歌しているように見えるアメリカでも〝影〟の部分は疑いようもなく広がっているようです。鳴り物入りのIT革命なるものが人間社会に招き寄せるものが、拝金主義の風潮でしかなかったとしたら、何をかいわんやであります。
ここで、私は、今や〝空語〟と化した感さえある「人格の完成」という言葉をもう一度捉え直してはどうかと提案したい。
教育基本法が「教育の目的」としたこの言葉が、なぜ〝空語〟として宙に浮いてしまったのか、それを普遍的理念として内実化させることは、はたして不可能なのか――分かりきったことのようでも、そこに一切の教育改革の〝原点〟があることは、どんなに強調してもしすぎることはありません。
そのための試みとして、この「人格の完成」を「幸福」という言葉に置き換えてみてはどうでしょうか。
卓越した教育者でもあった創価学会の牧口常三郎初代会長は、教育の目的は一にも二にも「子どもの幸福」にあることを力説してやみませんでした。
牧口教育学といえば、今や世界的な脚光を浴びつつありますが、初代会長は、戦前の軍国主義下で「皇国少年」「軍国少年」をどう育成するかに教育機関が総動員されていたころ、時流に抗して「子どもの幸福」こそ第一義とされるべきだと断じ、「教育勅語」などにしても、人間生活の道徳的な最低基準を示されているにすぎない、と喝破していました。すなわち、当時にして「社会のための教育」ではなく「教育のための社会」でなければならないという、スタンスを崩さなかった、驚くべき炯眼(けいがん)の人、先見の人でした。
ちなみに、この「幸福」を「快楽」とはき違えたところに、教育をはじめとする戦後の日本社会の最大の迷妄があったと、私は思っております。そのはき違えのおもむくところ、「自由」は「放縦」や「勝手気まま」に堕し、「平和」は「怯懦(きょうだ)」や「安逸」に堕し、「人権」は「独りよがり」に、「民主主義」は「衆愚主義」にと堕してしまう。
あげくは「人格の完成」どころか、いくつになっても幼児性から抜け出せず、他人の意見など聞く耳をもたぬ「慢心しきったお坊ちゃん」(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』神吉敬三訳、筑摩書房)のおびただしい輩出であります。
人間が人間らしくあること、本当の意味での充足感、幸福感は、〝結びつき〟を通してしか得られない――ここに、仏法の〝縁起(えんぎ)観〟が説く人間観、幸福観の核心があります。
人間と人間、人間と自然、宇宙等々、時には激しい打ち合いや矛盾、対立、葛藤を余儀なくされるかもしれないが、忍耐強くそれらを乗り越えて、本来あるべき〝結びつき〟のかたちにまで彫琢(ちょうたく)し、鍛え上げていくところに、個性や人格も自ずから光沢を増していくのであります。
そうした〝結びつき〟を断たれたならば、人間の魂は、孤独地獄の闇の中をあてどもなくさまよっていく以外にない。精神医学の言葉でいえば「コミュニケーション不全」というのでしょうが、この問題は、総じて人間関係が希薄化しつつある現代という時代がはらむ病理ともいえます。
これについて今、「少年法」をめぐる論議がなされていますが、子どもたちの問題行動の増大や、少年犯罪の凶悪化は、その病理の鋭角的な噴出であり、これだけで問題を解決することはできないでしょう。子どもを覆う闇の中から聞こえてくる癒しを求める声に耳を傾けながら、粘り強くコミュニケーションを回復していくことこそ、大人の責務だからであります。
有名なエピソードですが、ソクラテスの青年への感化力を、世人が〝シビレエイ〟のようだと評したのに対し、彼が、シビレエイは自分がシビレているからこそ、他人をシビレさせることができるのだと応じたという話があります。(プラトン『メノン』藤沢令夫訳、『プラトン全集』9所収、岩波書店、参照)
これは、教育力というものを考える際の万古変わらぬ、そして変えてはならない王道であります。
ともかく、人間の心を動かすものは、人間の心以外にありません。
最近、「教師こそ最大の教育環境」をモットーにする創価学会教育部の皆さまから、10数年間にわたって地道に積み上げてきた「教育実践記録」が1万事例を超えたという、うれしい報告を受けました。
これは、16年前(1984年)、私が「教育所感」を発表した時の提案を受けてくださったもので、初等・中等教育の場を中心に、荒れる教育現場で子どもたちと四つに組んだ汗と涙の記録であります。その〝地の塩〟ともいうべき尊き労作業に、教育を人生最終章の仕事としている私としても、合唱しつつ感謝したいと思います。
大自然と奏でる共生のハーモニー
大自然と奏でる共生のハーモニー
さて、〝結びつき〟といえば、人間と自然環境とのコミュニケーションも欠かすことはできません。その点でも、牧口会長は炯眼(けいがん)の人、先見の人でした。
主著『人生地理学』の冒頭には、吉田松陰の「地を離れて人無く人を離れて事無し、人事を論ぜんと欲せば、まず地理を審(つまび)らかにせざるべからず」を挙げ、自然環境が人間形成に及ぼす影響の重要性を訴えていました。
いわく「慈愛、好意、友誼、親切、真摯、質朴等の高尚なる心情の涵養は、郷里を外にして容易に得べからざることや」(『牧口常三郎全種』1、第三文明社)と。
『人生地理学』が上梓されたのは1903年ですから、環境問題が資源やエネルギーの有限性、水や大気の汚染といったのっぴきならぬかたちで、人類に自然との関係の再考を迫る優に半世紀以上も前のことです。そのころから、牧口会長は、自然とのコミュニケーション不全は、人間に肉体的なダメージや死をもたらすだけでなく、人格形成に欠かすことのできない慈愛などの美徳をも毀(こぼ)してしまうであろうことを、鋭敏に見てとっていたのであります。
人間が凶暴なインベーターとして、地球環境を破壊してしまったのが20世紀だとすれば、21世紀を担う子どもたち、若者たちを育てる教育には、自然との触れ合い、コミュニケーションをどう保全するかという視点は、絶対に欠かせません。
人間同士のコミュニケーションと同じく、テレビの映像などを通したバーチャル・リアリティー(仮想現実)の世界ではなく、大自然と直に触れ合う機会を、できるだけ増やしていくべきです。そのコミュニケーションから培われる瑞々しい生命感覚、大地や草木、動植物を友とし、彼らと同じ空気を吸い、同じ陽光を浴びながら生々躍動しゆく生命空間の巧まざる広がりは、バーチャルな世界のそれとは、似て非なるものであるはずです。
〝どろ亀さん〟の愛称で慕われる森林研究の大家である高橋延清氏のエッセーの一節が、印象深く想起されます。少し長くなりますが、紹介してみますと、
「夜の森の美しさは、とくに満月の夜はね、山の稜線と空との境がくっきり見えて、まるで版画のようだよ。さっきもいったけども、ホントに白と黒の世界なんだ。そしてね、これは自分で出かけた人しか味わうことのできない世界でもあるのさ。
そりゃ、写真やビデオを撮ると、ある程度は見ることができるかもしれんが、感じることはできない。というのはね、感じるっていうのは目だけじゃないからさ。肌では気温や湿度を感じ、鼻は夜の森の匂いをかぐ。耳からは聞こえてるんだか聞こえてないんだか、はっきり〝なんの音〟って説明できないものもある。夜の森にでかけたらね、立ったりしゃがんだり、葉っぱも表や裏とひっくり返して見てごらん。それだけ、美しい世界を見つけることができるんだから、ね」(『森に遊ぶ』朝日新聞社)
21世紀を拓くキー・ワードは「共生」であると、しばしば指摘されてきました。私も8年前(1992年)、「希望と共生のルネサンス」との提言を行ったことがあります。(『池田大作全集』2収録)
ともあれ、21世紀の「教育のための社会」にあっては、人間が孤立と分断の力に翻弄されることなく、人種や国境を超えて結びつきの絆を深め、大自然とも縦横にコミュニケートしながら、共生のハーモニーを奏でゆく――そうした人格を形成していくことこそ目的であり、第一位の優先順位を与えられるべきではないでしょうか。
教育改革の方向性審議する「教育センター」の設置を
教育改革の方向性審議する「教育センター」の設置を
本年(2000年)は、牧口初代会長が『創価教育学体系』(『牧口常三郎全集』5・6所収、第三文明社。以下、引用は同書から)を発刊して70周年の佳節を迎えます。この牧口会長の先見的な思想と実践を踏まえながら、主として学校教育改革の進め方について、私なりのいくつかの具体案を、試案的に提起してみたいと思います。
現在、〝教育の危機〟が叫ばれる中で、文部省の各種審議会に加え、本年3月には首相の諮問機関として「教育改革国民会議」が発足し、教育改革の方向性が検討されています。
教育を最優先の国民的課題と位置づけ、論議を深めることは重要ですが、〝特効薬〟を求めるあまり、長期的展望を欠いた対症療法的な改革にならぬよう留意すべきでしょう。
教育も社会と無縁な存在でない以上、時代の変化に伴う試行錯誤は当然のことですが、改革の方向性が時々の政治的な思惑に強く影響されたり、目先を変えただけの近視眼的な対処となる場合が少なからずありました。
戦前においても、こうした悪弊が問題となっていました。
牧口会長は『創価教育学体系』で、次のような指摘をしております。
「宛然(えんぜん)旧屋の造作で、継ぎ足し継ぎ足しの応急手当が、今日の首尾不貫徹なる教育制度として残存し、学校は新時代の要求に適当せず、徒に入って来る少青年の前途を迷わせる者となって困って居る状態である」
そこで牧口会長が、新時代の教育方針を定めるための機関として提唱したのが、統括的な審議機関としての「教育本部」と、その補助機関となる「国立教育研究所」の設置でした。
後者の国立教育研究所は戦後まもなく発足していますが、牧口会長が志向していたような審議機関は、いまだ存在しておりません。首相の諮問機関「教育改革国民会議」は、その一つの可能性を持っていますが、議論を一時的なものに終わらせてはならないと思います。
そこで私は、教育に関する恒常的審議の場として、新たに「教育センター(仮称)」を創設し、教育のグランドデザインを再構築する役割を担っていくべきと提案したい。
設置にあたっては、一つの独立機関として発足させ、政治的な影響を受けない制度的保障を講ずるべきであると考えます。内閣の交代によって教育方針の継続性が失われたり、政治主導で恣意的な改革が行われることを防ぐ意味からも、独立性の確保が欠かせないのです。
かねてより私は、立法・司法・行政の三権に、教育を加えた「四権分立」の必要性を訴えてきました。
教育は次代の人間を創る遠大な事業であり、時の政治権力によって左右されない自立性が欠かせません。
それはまた、戦争への道を後押しした「国家主義の教育」と身を賭して戦ってきた、牧口会長および戸田第二代会長の精神でもまりました。
そこで「教育センター」が核となり、国立教育研究所などとも連携を図りながら、確固たる理念と長期的な展望に立った教育改革の方向性を打ち出していくべきと思うのです。
日本主導で「世界教育者サミット」を定期開催
日本主導で「世界教育者サミット」を定期開催
この重大な使命に加えて、「教育センター」を設立することで、日本は「国際貢献の新しい道」を開くことができましょう。
世界平和の実現の基盤となるのは、国家の利害を超えた教育次元での交流と協力です。
私は、この観点から、教育権の独立を世界的規模で実現するための「教育国連」構想を、20年以上前から訴えてきました。
日本が「教育センター」の設立を通し、「教育権の独立」という潮流を世界で高めていく役割を担っていけば、「教育立国」という日本の新たなアイデンティティーを確立することにもつながっていくのではないでしょうか。
本年(2000年)4月、日本が主催国となって、主要国の教育担当大臣が集い、教育問題を討議する“G8教育サミット”が初めて行われました。今後は政府レベルだけでなく、教育現場に携わる人たちの幅広い交流を兼ねた「世界教育者サミット」の定期開催を、日本が積極的に支援していってはどうかと提案したい。
G8教育サミットでも確認されたように、教育に関わる問題は、もはや一国だけの問題に止まるものではありません。だからこそ、日本が国際的な協力推進の軸となって、「21世紀の教育」の新たな地平を開く先頭に立つべきと考えるのです。
続いて、昨今、スポットが当てられている学校教育の改革について、何点か述べておきたい。
近年、打ち出されている改革の柱として、週5日制の導入に代表される「ゆとり」の回復を目指す「学校教育の縮小化」と、学区制の見直しや公立の中高一貫校の増設など自由化を進めるための「制度的な規制緩和」があります。これらは、詰め込み教育の反省や学校間の自由競争を意識してのものと思われますが、十分な受け皿が考慮されないまま改革が先行すると、子どもの自助努力にすべてを任せるような制度になりかねません。
牧口会長は、理念なき自由主義が教育にもたらす影響を、「解放しただけで、建設的の工夫が伴わなければ無軌道の放縦主義に堕することは、無心なる子弟の教育経済の為に座視するに忍びない」と批判しました。この警鐘は、時代を超えて今日においても見過ごすことのできないものと思います。「ゆとり」に対して、学校や家庭サイドに、あるいは地域社会にどのような備えがあるのか――慎重すぎるくらいの検討を加えないと、取り返しのつかない結果さえ、招きかねません。
牧口会長が「方法上の改良案は教育目的観の確立を先決問題とする」と強調していたように、たえず「何のため」という根本目的に立ち返りながら、改革の具体案を検討していく必要があるといえましょう。
何のための「ゆとり」であり、何のための「自由化」なのかが明確でないままに、改革を推し進めても、かえって悪影響を及ぼしてしまう可能性は大きいのです。牧口会長はある意味で学校のスリム化につながる「半日学校制度」を提唱していましたが、今叫ばれているような「知育偏重」への批判に立脚したものではありませんでした。
心身のバランスのとれた成長を図るために、「学校での学習」と「社会での実体験」を同時に進展させ、ともに充実させることが望ましいとの考えに基づいていたのです。その証拠に牧口会長は、「今の教育の病疾は知育偏重ではなくて、正当に知育をなさないのにある」「将来の教育は知育の蔑視や軽減ではなくて、あくまで知育の増進にある。その徹底的改善にあり」と述べ、学校がその課題に真剣に取り組むよう訴えていたのです。
教員同士の切磋琢磨で「学校の教育力」を向上へ
教員同士の切磋琢磨で「学校の教育力」を向上へ
ゆえに私は、学校教育が抱える問題に批判の眼を向けるあまり、その基盤を切り崩しかねないような縮小化を一律に進めるのではなく、いかに学校教育を“正しい知育の場”として回復させていくかという観点から、改革の方向性を検討していくべきであると思います。
学校教育を真に変えるためには、「内からの変革」が伴わなければなりません。そこで私が提案したいのは、これまでの中央主導の統制型システムを改め、学校ごとの裁量の幅を広げ、選出プロセスを民主化・透明化した上での校長の権限拡大や、教員の創意工夫を奨励していく制度への移行です。
ともすれば、これまでの改革が、上から他律的に与えられたものであったために、現場では“こなす”のに精一杯で、さまざまな制約も伴い、新しい何かを“生み出す”ことが難しい状態にあったのではないでしょうか。
そもそも教育は、子どものためのものであり、“国家の専有物”であってはならない。教科書検定や学習指導要領を含め、国家が教育内容の細部に至るまで深く関与する制度のもとでは、学校や教員の自律性だけでなく、子どもの個性や創造性を育む土壌も育ちません。今後は、統一的な基準は大枠のものに止め、運用にあたっては現場の主体性を尊重する方向で調整していくべきではないでしょうか。
その一方で、「学校の教育力」を高めていくために、現場でさまざまな試行錯誤が繰り返されているように、教員が互いに向上を図っていく取り組みを積極的に行っていくべきです。昨今の改革論議の中で、「教員免許の更新制」など教員個々人の資質を問う制度も提案されていますが、本当の意味で「学校の教育力」を高めていくには、学校全体が一丸となって挑戦をする環境こそが求められると私は思います。たとえば、「開かれた教室」をモットーに教科や学校の枠を飛び越えて、すべての教員が定期的に自らの授業を公開し校内研修を行う制度や、近隣校との交流を兼ねた教育研修を進めることも考えられましょう。
一般企業においても、終身雇用や年功序列を軸とする日本型システムが限界にきているように、よい意味での競い合いがなければ、人間の集団は活性化しません。
創造的な学びの場と社会貢献の実践の場を
創造的な学びの場と社会貢献の実践の場を
学校教育の向上のためには、教員同士が立場の違いを超えて、“刺激”し“触発”し合う場が必要であり、ともに切磋琢磨し、連帯感を深めながら「学校の教育力」を高めていく努力が不可欠でありましょう。
また、保護者や地域関係者への学校公開日を定期的に設けたり、同じ地域にある高校・中学・小学校の教員間の意見交換を積極的に行うことも、地域での協力関係を深める上で役立つのではないでしょうか。
学校教育の充実のために、私がもう一つ提案しておきたいのが、さまざまなタイプの学校の認可と、「実験的な授業」の奨励です。諸外国では、一般的な学校とは異なる教育のあり方を志向する、さまざまなスクールが認可を受けて運営されています。その例としては、シュタイナー学校のような独自の教育思想に基づいた学校や、アメリカの「チャーター・スクール」、子どもが主体的に科目などを選択して学ぶことができる「フリー・スクール」などがあります。日本においても、こうした多様な学校の存在を求める声が少なくありません。教育改革国民会議でも、新しいタイプの公立学校として地域が設置し地域が運営する「コミュニティ・スクール」の設置が論議されていますが、一考に値するものといえましょう。
私は、教育の新たな可能性を実践的に示す意義から、新しいタイプの学校の認可要件を緩和し、一方で教育実践の成果を報告する制度を設けてはどうかと提案したい。また、既存の学校にも「実験的な授業」を行うことを奨励し、同様に実践報告を募る制度を整えていってはどうかと思うものです。“学びからの逃走”傾向が憂慮されるなか、学校が子どもにとって常に“学ぶ喜びの場”となり“生きる喜びの場”となるよう挑戦を続けることが、教育の生命線です。
文部省では今年度(2000年度)から、国公私立を問わず、現場で独自のカリキュラムに取り組むことのできる「研究開発学校」の希望を募り、財政支援を行う制度をスタートさせました。現場の創意工夫を奨励する制度の誕生を、私は歓迎するものですが、こうして積み上げられた成果を分析し、情報の共有化を図ることによって、教育界全体の向上に資するべきと考えるのです。
かつて哲学者デューイが、シカゴの実験室学校における成果を踏まえ、教育理論を練り上げていったように、教育においては理論と実験証明の往還作業が欠かせません。
牧口初代会長の『創価教育学体系』や、戸田第二代会長の『推理式指導算術』などの著作も、教育者として現場で具体的実践を重ねる中で生み出されたものでありました。
また戸田会長は、「創価教育」の理論を実験証明する場として私塾「時習学館」を設け、子どもたちの学習指導にあたっていました。牧口会長はこれを自らが構想していた小学校の一つの具体化として、著書の中であえて「私立小学校時習学館」と記し、「本研究の唯一最大の価値の証明」と称えていたのです。
私が、牧口会長の構想していた創価教育に基づく学校を実現するために、幼稚園から大学院までの教育機関を設立したのも、この戸田会長の遺志を受け継いでのものでありました。
先に、創価学会教育部の実践記録が1万を超えたことに触れましたが、こうした教育現場から集められた貴重な記録や報告から導き出された教育方法を、再び現場へと還元していく環境をつくりあげることは、きわめて有益ではないでしょうか。
こうした学校教育の改革を通し、創造的な“学びの場”を確立することと併せて重要なのは、「社会での実体験」を通して人間性を養うための教育を行うことであります。
現代の子どもたちにみられる傾向として、人間関係の希薄化や自己中心的な行動がよく指摘されます。また受験競争の激化の中で、試験に関係するもの以外はさほど関心をもたない子どもたちが増えているようです。さらには、テレビやゲーム、インターネットなどのバーチャルな世界に没頭するあまり、現実の世界での感覚が麻痺したり、現実と没交渉になってしまうケースも見られるといいます。
社会や自然と直にコミュニケートしていくには、どうすればよいか――。昨今の論議の中で、子どもたちにボランティアなどの活動を経験させる必要性を訴える意見も出ています。私は、これを「体験学習」のような単発的なものに終わらせず、継続性をもった定期的な活動として行っていくべきと考えます。
具体的には、地域に住む人々と触れ合いながら共同で作業したり、リサイクル活動のように何か社会に還元できる達成感のある活動や、緑化作業や自然保護の活動のように成果が後々まで形として残るものが望ましいでしょう。最近、青少年の犯罪が多発する中で、子どもたちの暴力性や攻撃性の高まりが問題視されていますが、“何かをつくりだす”建設的な活動に取り組む中で、心身のバランスのとれた成長が図られていくのではないでしょうか。
哲学者のウィリアム・ジェイムズは、人間がもつ支配や闘争の本能を昇華させていくためには、戦争に代わる何らかの「道徳的等価物」を用意する必要があると指摘していました。平和や建設のための活動に従事する中で、子どもたちはいっそう健全な感情と落ち着きのある理想をもって帰ってくる、と。(「戦争の道徳的等価物」今田恵訳、『世界大思想全集』15所収、河出書房、参照)
この点、牧口会長も「半日学校制度」の構想の中で、“青少年の持て余しているエネルギーが、社会的脅威に向かっているならば、これを社会に有価値なものに転換させることによって、個人の幸福と社会への貢献を同時に果たすことができる”と訴えておりました。
自らの行動が社会に役立っていると実感する経験は、子どもたちの自信となり、心の成長の確かな礎となっていくでありましょう。折しも明年(2001年)は、国連の定めた「ボランティア国際年」にあたります。これを機に学校現場に限らず、ボランティア活動への認識を社会全体で深めながら、21世紀の人道社会の道を切り開いていくべきではないでしょうか。
21世紀へ、大学教育を抜本的に改革
21世紀へ、大学教育を抜本的に改革
次に、教育改革の焦点といわれる大学入試制度について言及しておきたい。
現在、受験競争が激化するなかで、高校が単に〝大学入試の準備期〟となってしまう傾向に対し、懸念が強まっています。その反面で、少子化の影響により、大学進学者の数が将来的に減少していくことも予測されています。こうした過渡期にある今こそ、大学入試制度を見直す好機ととらえ、学生にとっても大学側にとっても真に有益な制度への改善を図っていくべきです。
そこでまず検討すべきと思われるのが、入試方法の多様化の促進です。私は、大学入試について、〝落とすための選抜試験〟ではなく〝入学のための適性判断〟という観点に立った改善が必要と考えます。これまでのような筆記試験だけでなく、推薦入学など、多様な選考方法を用意することで「入学の間口」を広げ、志願者の〝学ぶ意欲〟を尊重した入試を目指していくべきと思うのです。
もう一つは、「大学の9月入学」を導入するという案です。これは当初、グローバル化に伴い増加している海外留学や帰国子女に対応する観点などから叫ばれてきたものですが、他にもさまざまな効果を生み出すことが期待できるでしょう。たとえば、高校卒業から大学入学まで半年近くの猶予ができることで、受験の機会を増やすことも可能になるでしょう。
また、高校卒業後から大学入学までの時期を、さまざまな社会体験をしたり、読書に本格的に挑戦するなど、自分の人生をじっくり考える機会にあてることも一案だと思います。
アメリカ創価大学が目指すもの
アメリカ創価大学が目指すもの
これに関連し、大学教育のあり方について述べたいと思います。まず第1には、「全体性」と「専門性」を兼ね備えた教育を行うための見直しです。 最近の傾向として、履修科目の中で専門分野にくらべて、基礎的な一般教育のウエートの低下が進んでいる状況がみられます。社会の目まぐるしい変化に伴い、学問分野の専門化や細分化がさらに進むことを考え合わせると、学生が受ける教育内容がますます限定的なものとなっていく恐れがあります。
そこで私は、理念の明確でない一般教育のあり方を再度見直し、「リベラルアーツ教育(教養教育)」の充実を図るとともに、大学院とも連動した「専門教育」の拡充に取り組むべきと訴えたい。
明年(2001年)、アメリカ創価大学(SUA)のオレンジ郡キャンパスが開校しますが、これは教養教育を主体とした「リベラルアーツ・カレッジ」として運営されることになっています。ここでは、全体性を養った上で、大学院などに進み、専門性を磨いていく方針をとっております。
私は、この大学で理想的な教育を実験的かつ大胆に行い、人間教育の方向性をしかと見いだして、「21世紀の教育」の新たな潮流をつくり上げていきたいと決意しています。
リベラルアーツ・カレッジ以外でも、アメリカでは一般に同様の発想に基づいて大学が運営されていますが、日本でも縦割りの学部制度からの脱却が必要なのではないでしょうか。
特に教養教育の実施にあたっては、さまざまな分野の学問をただ網羅的に個別に教えていく方法を改め、体系的かつ学際的な視点に立った再編成も必要となりましょう。そのためには、大学教員一人一人にも、意欲的な授業改革が求められてくると思います。多くの学生が大学の授業に魅力を感じない一因として、毎年、旧態依然の方法で同じような内容の授業が繰り返されていることなどが指摘されています。
先ほど、私が学校教育のところで述べた“停滞”という課題が最も深刻であるにもかかわらず、見過ごされてきたのが大学ではないでしょうか。
文部省の大学審議会による中間報告でも、大学教員の「教える力」を重視する必要性が訴えられましたが、習慣が“惰性”となっていないか点検し、教員資格の見直しの制度化を含め、たえず改善に努力する姿勢がなければ、大学教育の“地盤沈下”は避けられないでしょう。
「編入学制度」などを拡充
「編入学制度」などを拡充
この点に関し、創価大学では、今年(2000年)設立された「教育・学習活動支援センター」が中心となって、教員に対しては革新的な授業法を開発するさまざまなプロジェクトをサポートしたり、学生に対しては学習上の困難を自ら解決できるような学習支援サービスを提供する試みがなされています。
またSUAのオレンジ郡キャンパスでも、「コア・カリキュラム」という課程で、自然や社会におけるさまざまな事象を自分自身との関係において考察する時間が設けられます。
このように、単に一般教育の時間を増やすのではなく、「人間」という共通の土台に立って学問の基礎を総合的に学ぶ「リベラルアーツ教育」を大学教育の前期の柱にしていくことが重要であると考えるのです。
また後期においては、複数の専攻科目を選択することのできる「ダブルメジャー制度」の導入など大学内での運営の弾力化や、特定の専門分野に秀でた他大学との「単位互換」や「編入学の相互受け入れ」の制度を拡充すべきではないでしょうか。
大学受験に際して、“合格可能な大学や学部”といった観点が優先される傾向がみられますが、こうした状況を固定化しては、学生にとっても大学にとっても、よい結果をもたらすことは決してないでしょう。
その改善のために、各大学が協力し合って、学生が真に学びたい分野を学ぶことのできるような環境を共同で整備すべきです。
実際に大学で学ぶ中で、当初の専攻分野に加えて、他の分野への関心が高まる場合もあるでしょうし、まったく別の分野に進路変更したい希望が増えてくることも予想されます。しかし現行の制度では、中途退学して再入学することが余儀なくされるために、転入の敷居の高さが障害となっているのです。
現在、各地で「大学連合」を発足させたり、編入学を含めた連携を模索する動きも見られますが、「学生本位」の立場から大胆な改革と大学間協力を進めていくことの意義は大きいのではないでしょうか。
このように「大学単位」ではなく「学問単位」「分野単位」で門戸をオープンにしていくことは、“学びたい時に学びたい分野を学ぶ”という「生涯教育」の環境を整える観点からも、真剣に検討すべき課題と思います。
〝生命軽視〟の風潮打ち破る運動を
〝生命軽視〟の風潮打ち破る運動を
もう1つ、大学が取り組むべき課題として挙げたいのが、「国際化の促進」です。特に大学をはじめとする高等教育機関の国際化の促進は、日本にとって不可避の課題であります。
「人間主義」の理念に基づく新しい大学を目指して私が創立した創価大学では、開学以来、この課題に取り組み、海外の諸大学との教育交流を積極的に進めてきました。
これまで協定を結んだ大学は、すでに世界70大学を超えています。
こうした交流を通し、多くの学生が他国で学ぶ機会を設けたり、教員の交換を定期的に進め、文化の相互理解を深める中で「教育環境のグローバル化」に努めてきたのです。
現在、日本と比較する形でアメリカの大学の教育水準の高さが指摘されますが、私はこの“活力”を生んでいる源泉こそ、さまざまな国々から教員や学生を受け入れる、「多様性」と「自由」を尊重する風土にあると考えます。
これまで日本では、キャリア・アップのための海外留学や教員の海外派遣ばかりが目立ちましたが、文化交流と教育の質的充実との観点から、さまざまな国々の学生や教員を受け入れていく環境を整備していくことが喫緊の課題です。
海外からの留学生の受け入れや、日本人学生の海外留学をサポートするための奨学金制度なども、「教育立国」の見地から積極的に充実させていくべきでしょう。
このテーマに関連し、多くの識者とともに私が強調しておきたいのが、早い段階から英語などの語学教育を進めることの重要性であります。
いくら大学で国際交流の環境を制度的に整えても、「語学のカベ」が根本的に突き崩されない限り、交流は裾野まで広がらず、“絵に描いた餅”に終わるおそれがあります。また語学力は、グローバル化の進展に伴い、社会に出てからも、コミュニケーションを図るために欠かせない能力になりつつあります。
さらに、より大きな次元から捉えれば、語学は「世界を結ぶ力」となるものといえましょう。世界の人々の生活を知り、価値観の違いを学び、同じ人間として心を交わしていく――その道を大きく開く“武器”となるのが語学です。
具体策の一つとして、「小学校での英語教育」を積極的に推進していくことも重要でしょう。ただし実施にあたっては、中学英語の前倒しのような内容ではなく、会話などを楽しみながら文化への理解を深めていく学習を心がけていかねばならないと思います。
と同時に、国語や日本の歴史・文化を学ぶことも、おろそかにしないことは当然であります。
最後に、社会が一致して取り組むべき課題について述べたいと思います。
先に私が、「教育のための社会」との観点から論じたように、“人を育てる”という意味での「教育」は、本来、学校現場だけでなく社会全体で担うべき使命であります。
私たちは今一度、「子どもたちの幸福」という原点に立ち返って、社会のあり方と自らの生き方を問い直す必要があります。子どもたちのために、どんな世界を築き、残していくべきなのか――。新しい世紀への出発を前にした今こそ、この課題と真摯に向き合う絶好の機会といえましょう。
国連では、21世紀の最初の10年(2001年―2010年)を、「世界の子どもたちのための平和の文化と非暴力のための国際の10年」と定めました。私も年来、こうした時代の方向性を訴え続けてきただけに、最大に歓迎するものです。
ユネスコなどを中心にキャンペーンが進められる予定となっていますが、これを成功させるためには、広範な民衆レベルでの支援と協力が欠かせません。
SGIでは、アメリカ青年部による非暴力の意識啓発運動が昨年(1999年)からスタートしました。
これは「ビクトリー・オーバー・バイオレンス(暴力に打ち勝つ)」をテーマに非暴力の精神を広げる対話運動で、「戦争と暴力の20世紀」を通じて、子どもたちの心の底にまで深く根付いてしまった「生命軽視」の風潮を転換させることを、最大の目的とするものです。
人権団体や学校・教育機関などから相次いで支持が寄せられるなど、運動は大きな社会的広がりをみせています。そして何よりも、暴力に苦しむ青少年層に“希望”と“勇気”を与える源泉となっているのです。
アメリカ同様、こうした取り組みが急務であることは、日本も同じであります。悲惨な事件が起こるたびに、子どもの“心の闇”の深さをセンセーショナルに取りあげても、問題は一向に解決することはない。大人の側が、その闇を生みだした社会の転換に目を向けて、責任をもって声をあげ、行動を起こしていく必要があります。これまで創価学会では、一貫して民衆レベルでの「平和教育」の推進に力を入れてきました。その運動の新たな展開の1つとして、国際10年のキャンペーンに合わせる形で、青年部や教育部などが中心となり、「平和の文化」と「非暴力」の精神を社会に幅広く啓発する運動を考え、積極的に推進していってはどうかと考えるものです。
その取り組みを通し、他の人々の犠牲を顧みない自己中心的な生き方ではなく、互いを尊重し支え合いながら、ともに価値創造していく社会を目指していくべきと思うのです。
“社会から切り離された教育”が生命をもたないように、“教育という使命を見失った社会”に未来はありません。教育は単なる「権利」や「義務」にとどまるものではなく、一人一人の「使命」にほかならない――そう社会全体で意識変革していくことが、すべての根本であらねばならないのです。最後に、21世紀に「教育」の大輪が花開き、子どもたちの笑顔が輝く時代が迎えられるよう、私も全力で取り組むことを誓い、私の所感とさせていただきます。
「教育力の復権へ内なる『精神性』の輝きを」
21世紀開幕記念「教育提言」~「教育力の復権へ内なる『精神性』の輝きを」[創価大学 創立者 池田大作]
(2001年1月9日発表)
いよいよ21世紀が開幕しました。私は昨秋(2000年9月)、この新しき世紀を「教育の世紀」にしなければならないとの思いから、一つの提言を発表いたしました。
これは、教育を手段視し続けてきた日本社会に対する警鐘の意味を込め、「社会のための教育」から「教育のための社会」への転換を呼びかけたものです。子どもたちの幸福という原点に立ち返って教育を回復させることは、まさに急務といえます。そこで今回は、特に子どもたちを現実に苦しめている、いじめや暴力をなくすために、学校や社会が取り組むべき課題について、一歩掘り下げて論じたいと思います。
本来、子どもたちにとって〝学ぶ喜びの場〟となり、〝生きる喜びの場〟であるべき学校において、いじめや暴力などの問題が深刻化して久しくなっています。
文部省(=現・文部科学省)の1999年度の「問題行動調査」の結果によれば、公立の小・中学校と高校の児童・生徒が起こした「暴力行為」は3万6千件と、過去最多を更新しました。また、「いじめ」に関しては、減少傾向は見られるものの、依然、3万を超える件数が報告されています。まことに悲しむべき状況でありますが、これらの数字は、あくまで学校側が報告した件数に基づいたものであり、また私立の学校は調査対象に入っておらず、〝氷山の一角〟にすぎないともいわれております。件数の多寡もさることながら、問題なのは、こうした異常な状態が、教育現場において半ば常態化している現実です。
子どもは、〝時代の縮図〟であり、〝社会の未来を映す鏡〟であります。その鏡が、暗い闇に覆われて曇ったままでは、明るい希望の未来など期待しうべくもありません。
これまでにも、文部省や各自治体を通じて、さまざまな対策が打ち出されてきましたが、こうした制度的な「いじめ防止」の環境づくりとともに、「いじめや暴力は絶対に許さない」との気風を社会全体で確立していくことが強く求められると私は考えます。
いじめや暴力なくす挑戦を
いじめや暴力なくす挑戦を
今から70年前(1930年)に発刊された、創価学会の牧口常三郎初代会長の大著『創価教育学体系』も、社会の混迷に翻弄される子どもたちを憂えた牧口会長の、「一千万の児童や生徒が修羅の巷(ちまた)に喘いで居る現代の悩みを、次代に持超させたくない」(『牧口常三郎全集』5、第三文明社)との悲願から生まれたものでした。
子どもたちが、社会の犠牲になることなく、その可能性を無限に広げ、一人残らず、幸福な人生を歩み通してほしい――この〝やむにやまれぬ願い〟こそが、創価教育学の一切の根幹を成すものなのです。だからこそ、この豊かな成長の芽を、子ども同士でつみ取ってしまうような悲劇だけは、断じて学校からなくしていかねばならない。ゆえに私自身も、東西の創価学園や創価小学校を、創立者として訪れるたびに、〝いじめや暴力は絶対に悪であり、ともになくしていくことを皆で誓い合いたい〟と、児童や生徒を前に繰り返し呼びかけてきました。もとより、そうした呼びかけ自体、とりたてて新しいものではなく、大多数の大人にとっては、自明の理であり、人間が弁えるべき当たり前のルール、常識ともいえましょう。
しかし、困ったことに昨今は、この当たり前が当たり前としてなかなか通じなくなってきている。いじめや暴力、また非行、少年犯罪にしても、数そのものが以前に比べて必ずしも増加しているわけではありませんから、問題は〝数〟や〝量〟にではなく、その〝質〟や〝性格〟にあるのではないでしょうか。その点を凝視しておかないと、「いじめをなくそう」といくら呼びかけても、子どもたちの心に届かず、上辺だけのスローガンのように、空しくこだまするに終わってしまいかねないのであります。
いじめや暴力をなくすために、何といっても必要なものは勇気でしょう。悪に屈しない勇気、悪を傍観視しない勇気――それらが総結集された時、いじめや暴力も、すごすごと退散していくにちがいないのですが、それが意外に難しいのです。
私が昨年(2000年)、「聖教新聞」紙上で、日ごろ中学生などに接する機会の多い青年たちと、数回にわたってこの問題を論じ合いました。それを通じて痛感したのは、親や教師の関わり方を含め、この〝勇気の人〟であることの困難さです。
悪を助長する「無関心」と「シニシズム(冷笑主義)」
悪を助長する「無関心」と「シニシズム(冷笑主義)」
かつて、S・ヴェイユは、時代の病理を「善に関係する言葉」の堕落、と喝破しました(『文学の責任について』橋本一明訳、『シモーヌ・ヴェーユ著作集』2所収、春秋社)。病理はその後ますます進行し、勇気に限らず努力や忍耐、愛や希望などの「善に関する言葉」がいずれもシニカル(冷笑的)な視線にさらされ、その視線を気にするあまり、それらの言葉を口にすることさえはばかられる――そんな雰囲気さえ感じられます。その病理に真正面から向き合わないと、抜本的な対応はできないのではないでしょうか。
話題を呼んでいるように、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがテレビの電波に乗り、そのものずばりのタイトルで総合雑誌が特集を組み、単行本が出版されるという現代日本の状況は、問題の所在が奈辺にあるかを物語っています。「殺すなかれ」という、世界宗教の歴史とともに古い戒律、徳目さえ、この有り様ですから、いじめや暴力など、他は推して知るべしでしょう。
そうした状況が生まれる背景には、近年、社会にとみに顕著に見られるモラル・ハザード(倫理の欠如)と、それにともなう悪への無関心、シニシズム(冷笑主義)の蔓延があります。
そして、私が特に強調しておきたいのは、悪に対する無関心、シニシズムは、時に悪そのものよりも恐ろしい、社会を根の部分から蝕んでいく病根であるということです。
私がかつて対談集を編んだ二人の識者、ロシアの優れた児童文学者A・リハーノフ氏と、〝アメリカの良心〟と呼ばれたノーマン・カズンズ氏も、軌を一にして、そのことを強く訴えておりました。
無関心が青少年の魂に及ぼす罪の深さについて、リハーノフ氏は、エベルハルトの次のような逆説的な言葉を引きながら、警鐘を鳴らしております。
「敵を恐れるな、最悪の場合でも敵は汝を殺すぐらいだろう。友人を恐れるな、最悪の場合でも、友人は汝を裏切るぐらいだろう。
無関心なやからを恐れよ、やつらは、汝を殺しもしないし、裏切りもしないが、やつらの沈黙の合意のせいで、地上には裏切りと、殺人が存在するのだ」(『若ものたちの告白』岩原紘子訳、新読書社)と。
なぜ逆説的かといえば、無関心は、殺人や裏切りから目を背けることによって、かえってそれらの悪を、幾倍にも増長させてしまうからです。
また、カズンズ氏が、作家スティーブンソンの「わたしは悪魔よりもシニシズムの方がずっと嫌いだ」との言葉を共感をもって援用しているのも、シニシズムにつきまとう安易さ、自己不信が、理想や希望、信頼などの言葉を堕落させ、息の根を止めかねないことを憂慮してのことでした。(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)
換言(かんげん)すれば、両氏が、無関心やシニシズムを悪や敵以上に厳しく戒めるのは、そこには生の手応え、生きることのリアリティー(現実感)が欠落しているからであります。
無関心やシニシズムが支配する生命空間とは、愛や憎しみ、苦悩や歓喜など人間的な情念というものを感じさせず、どこか空々しく投げやりな、自己閉塞的な世界といってよい。悪への無関心は、同時に善への無関心を意味しますから、そこは、善と悪とが織りなす葛藤やドラマのもつ生々しいリアリティーとは無縁の殺風景な生命空間であり、言語空間であります。
子どもたちの心の闇にたゆたう一種の不気味さに、大人社会が当惑と苛立ちを募らせるのは、なぜか。そこには、価値の空白時代につきものの無関心やシニシズムという病理を、子どもたちの鋭敏な心が先取りし、そのまま映し出していることへの本能的な危惧、警戒心があるとはいえないでしょうか。
先に、いじめをはじめとする青少年の問題行動の〝量〟よりも〝質〟と申し上げたのは、その意味であります。無関心やシニシズムに比べ、悪は善と同じくリアリティーそのものであって、悪なくして善はなく、善なくして悪なし――両者は、相対的であるとともに相補的な実在であります。また、悪も対応のいかんによっては善に転じ得るのだ(逆もまた真です)という点では可変的実在でもあります。
決定的に重要なことは、善も悪も互いに(善ならば悪を、悪ならば善を)「他者」として、その関係性の上に「自己」を成り立たせているということであります。
現代社会を覆う「他者」不在の病理
現代社会を覆う「他者」不在の病理
仏教の知見は、そのことを「善悪不二」「善悪無記(むき)」と説いております。具体的にいえば、たとえば、釈尊(善)という「自己」の仏道修行を完結させるためには、敵対する提婆達多(だいばだった)(悪)という「他者」の存在が欠かせないのであります。逆に、無関心やシニシズムに、致命的に欠けているのが「他者」であります。そこには「自己」しかない。とはいえ、真実の「自己」とは(カール・ユングが、意識の表層次元の「自我=エゴ」と深層次元の「自己=セルフ」を立て分けたように)、「他者」と密接に結びつきながら深層次元に脈動する実在ですから、無関心やシニシズムの世界における「自己」とは、ユングのいう「自我=エゴ」と同じく、表層次元を浮遊する閉塞的な自意識でしかありません。
そうした「自己」は「他者」が不在であり、「他者」の痛みや悩み、苦しみへの不感症に陥っているがゆえに、自分の世界に引きこもってしまったり、ささいなことでキレて暴力的な直接行動に走ったり、あるいは素知らぬ顔で傍観者であったりする。
やや大状況的な言い方になりますが、こうした「他者」の不在という精神病理こそ、ファシズムやボリシェビズムなどの20世紀を席巻した狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌であったこと、また、現在でも、いやますバーチャル・リアリティー(仮想現実)の氾濫によって、「他者」は影が薄くなる一方であることを考えれば、子どもたちの問題行動を、〝対岸の火事〟視していることなどできないはずです。
リアリティーを蘇生させる対話こそ人間たらしめる基盤
リアリティーを蘇生させる対話こそ人間たらしめる基盤
「自己」の内に「他者」が欠落していれば、対話は成立しません。平和学界の重鎮であるJ・ガルトゥング博士が私との対談集で使っておられた言葉を借りれば「外なる対話」は「内なる対話」を前提としているからです。(『平和への選択』。『池田大作全集』104収録)。「自己」の内に「他者」を欠いた対話は、形は対話のように見えても、一方的な言い合いに終始してしまう。コミュニケーションは不全です。最も懸念されるのは、そうした言語空間――ある識者が〝失語症と多弁症の同居〟と形容していた言語空間にあっては、言葉が生き生きとして響きを失い、ついには圧殺されてしまうであろうということです。
言葉の死が「ホモ・ロクエンス」(言語人)としての人間の魂の死につながることは、いうまでもありません。真のリアリティーとは、そのような自己閉塞的で表層的な次元を突き破り、「自己」と「他者」の全人格的な打ち合い、言葉の真の意味での対話を通してのみ発現され、生々躍動する精神性であり、共通感覚であります。
私は、ハーバード大学で2度ほど講演の機会をもちました。
その1回目(「ソフト・パワーの次代と哲学」。『池田大作全集』2収録)では、時代精神として要請されるソフト・パワーの核を成す〝内発的なるもの〟〝内発的な精神性〟は、苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘を経て顕現されるのではないか、と訴えました。
生きていることの確かな手応え、リアリティーは、「自己」と「他者」が、深層次元で織りなす入魂と触発のドラマ、「内なる対話」と「外なる対話」の不断の往還作業という溶鉱炉の中で鍛え上げられてこそ、万人を包み込む普遍的な精神性の輝きを帯びてくるのであります。そこにこそ、言葉は、本来の精彩を取り戻してくるのであります。古典や名作と呼ばれる人類の精神的遺産は、いずれもその深層次元から養分を吸い上げ結実させた精華ですが、ここでは一例として、ドストエフスキーの作家活動に転機をもたらしたとされる『死の家の記録』に触れてみたいと思います。
周知のように、彼は若いころ、思想犯としてシベリア流刑に処せられ、4年間を酷寒の地で過ごしました。そこで体験したさまざまな〝地獄〟を通して掘り当てた民衆の美質、人間の美質を綴った類まれなルポルタージュがこの作品であり、なかに次のような印象的なくだりがあります。
「ただ一般の民衆が例外で、たとえどんなに恐ろしい犯罪をしたにせよ、断じて囚人を責めるようなことをせず、彼らの受けた刑罰といっしょに、その不幸な境遇のために彼らをゆるすのである。ロシヤ全国の民衆が犯罪を不幸と名づけ、犯人を不仕合わせな人たちと呼んでいるのは、あえて偶然でない。これは意味深長な定義なのである。それは無意識に、本能的に下されたものであるだけに、なおさら重大なのである」(米川正夫訳、『ドストエーフスキイ全集』4所収、河出書房新社)と。
「不仕合わせな人」という言葉は、何と豊饒な語感、余韻を湛えていることでしょうか。ロシアの民衆への思い入れもあるかもしれない。しかし、私は魂の表層次元を突き抜けて深層へと迫る文豪の眼力を信じます。犯罪を「不幸」と呼び、罪人を「不仕合わせな人」と呼ぶ――この民衆の眼差しは、いつも「他者」をしっかりと見据えております。囚人も自分も別の人間ではなく、いつ自分が同じ境遇になっても不思議ではないという共感性が脈打っております。そこには、自分を「善」、他人を「悪」と決めつける軽佻浮薄(けいちょうふはく)な傲慢さ(イデオロギーの悪の淵源です)と決別し、縁によって「悪」に堕ちた者は、また縁によって「善」へと蘇ることができるとする精神性が磁気を帯びており、ルソーが原初の社会感情とした「憐憫(れんびん)」の心の広がりが、包み込むように伝わってきます。
外から見て、どんな苦しい状況下にあろうとも、そのように人間の絆が保たれ、コミュニケーションが全うされている社会は、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという不遜な問いかけに人々が虚を突かれ、及び腰の議論を余儀なくされるような社会、すなたちコミュニケーション不全を病む社会とは、まさに対極に位置しているのであります。
そして、ドストエフスキーのその後の著作に通底するテーマが、壮大なる弁神論(べんしんろん)であることが示しているように、あるいはルソーの教育理論の根底に、ドグマ(教条)や教会の権威とは無縁の独自の宗教感情が据えられていたように、普遍的な共感性や、精神性の核心部分には、ほぼ例外なく何らかの宗教性――結摩詰(ゆいまきつ)の「一切衆生(いっさいしゅじょう)病むを以って是くの故に我病む」(大正新脩大蔵経14巻544㌻)という言葉に凝縮される大乗仏教の菩薩道(ぼさつどう)の極致や、「99匹」よりも迷える「1匹」に親しく接するイエスの愛の精神と強く響き合う、人間本然の宗教性が、息づいているのではないでしょうか。
価値の空白が招いた〝教育の危機〟
価値の空白が招いた〝教育の危機〟
マハトマ・ガンジーやマーチン・ルーサー・キング博士が繰り広げた非暴力運動は、戦争と暴力に明け暮れた20世紀を振り返ると、ひときわ鮮やかな光芒を放つ精神性の戦いの結晶といえましょう。
非暴力運動があれだけの波動をもたらし、今なお人々の心を揺り動かし続けている大きな理由は、「宗教は、他のすべての活動に対して道徳的基礎を提供する」(「私の宗教の目標」梅田徹訳、『私にとっての宗教』所収、新評論)とガンジーが述べているように、いつに彼らの言動が、状況に左右されない強固な宗教的信念に裏打ちされていたからであると、私は信じております。だからこそ、非暴力運動が、普遍性と不変性を獲得することが可能であったのだと――。
この精神性、宗教性というファクターを基軸にして、教育の問題に深い洞察を試みた人に、アメリカの心理学者A・H・マスローがいます。
彼は、教育の第一義的課題として、「教育はその人がそのなりうる最善のものとなり、その人が潜在的に深く蔵している本質を、現実にあらわすのを助けるべきである」(『創造的人間』佐藤三郎・佐藤全弘訳、誠信書房)と述べています。
この点、教育の目的を「子どもの幸福」に置くスタンスを微動だにさせなかった牧口教育学説とピタリと符合します。マスローは、その課題を全うするために、教育における「長期の価値目標「究極的価値」から片時も目を背けてはならない、そうでないと、教育は、その人がなりうる「最善のもの」を見失う本末転倒に陥ってしまうであろうと、警告を発し続けました。軍事や経済などの短期の目標に優先順位を与え続けてきた結果、現代の教育危機に直面している日本人にも、まことに耳の痛いことでしょう。
そして、マスローいうところの長期かつ究極的な「価値目標」とは、彼が「哲学的」「宗教的」「人間主義的」「倫理的」等と形容している、人間が深く蔵する精神性、宗教性の涵養にほかなりません。
昨年秋(2000年11月)、アメリカ・ウェルズリー大学のビクター・カザンジン学部長とお会いする機会がありました。カザンジン学部長は、同大学に本部を置く全米350大学のネットワーク「教育変革プロジェクト」の共同創設者の一人であり、同プロジェクトでは、人間と人間、人間と社会といった関係性が分断された教育の状況を打開するため、教育に「全体性」と「精神性」を復権することが目指されています。学部長は、「知性の教育」と「精神面での教育」の分離が進み、教育を手段視する風潮が強まっていることへの懸念を述べ、アメリカ創価大学が目指す全人性を育む人間教育に温かな期待を寄せてくださいました。まさに、この「全人性の涵養」を核とする人間教育こそ、牧口会長以来、営々と積み上げてきた創価教育の眼目であり、永遠不変の指針であります。
教育界の混迷、子どもたちの世界を覆う闇の深さは、宗教に限らず、家庭や地域を含めて社会総体が有するべき教育力の低下、衰弱を物語ってあまりあります。それだけに、小手先の対応に終わることなく、いかに迂遠に見えようとも、マスローが「価値ぬきの教育でよいのか」と問いかけたように、精神性さらには宗教性といった人間の心の深層にまで踏み込んだ根本療法にアプローチする段階にきているのではないか――こう考えるのは、決して私一人ではないと思います。
宗教教育の強制は戦前回帰の愚
宗教教育の強制は戦前回帰の愚
ただし断っておきたいのは、何も私が、「宗教教育」の導入を意図して、こうしたことを論じているわけではないということです。公教育における「宗教教育」の実施については、憲法や教育基本法でも明確に禁じられております。こうした原則を定めた規定は、いうまでもなく、戦前、国家神道が絶対的な地位を占め、学校においても、その影響を色濃く受けるなかで、教育が軍国主義や国家主義を鼓吹(こすい)する手段となってしまったことへの深い反省に基づくものでした。近年、青少年をめぐる問題が深刻化するなかで、社会に規律を取り戻そうと、宗教を公教育の場に持ち込もうとする復古主義的な色彩をもった動きなどが一部でみられますが、私は、戦前の日本が犯したような、内心の自由や信教の自由を踏みにじる「宗教教育の強制」という愚行は、断じて繰り返してはならないと強く訴えておきたい。
私ども創価学会の人権闘争の原点は、国民から精神の自由を奪い、戦争に駆り立てようとした軍国主義ファシズムに、断固として戦い抜いた牧口初代会長と戸田城聖(じょうせい)第二代会長の精神闘争にあります。両会長の精神を受け継いだ私も、創価学会の社会的使命の一つはそこにあると考え、行動を貫いてきました。
その信条を私は27年ほど前、年1回の本部総会の講演で、こう決意を披瀝したことがあります。
「私どもの信教の自由を守りぬくことはとうぜんとして、さらにたとえ私どもと異なった思想、意見をもった人々であったとしても、もしその人たちが暴虐なる権力によってその権利を奪われ、抑圧されそうな時代に立ちいたったときには『人間の尊厳の危機』を憂えて、断固、それらの人々を擁護しゆくことを決意しなければならないということであります。たとえば、他宗教の人であれ、また宗教否定の思想をもつ人であったとしても、これらの人を守りたい。これこそが人間の尊厳を謳いあげた仏法がもっている理念の帰着であるからであります」(1973年12月16日、第36回本部総会)
ゆえに私は、憲法が定める「信教の自由」は、絶対にゆるがせにしてはならないものであり、その原則を突き崩す公教育における「宗教教育」の導入、つまり、教育基本法が禁じる「特定の宗教のための宗教教育」の実施には強く、反対するものです。
もちろん、国公立の学校とは別に、私立の学校においては、それぞれの教育方針や教育理念に沿った形で、宗派教育を含めた宗教教育を行うことは認められており、子どもたちの「信教の自由」が保障される限りにおいて問題はないことは、あらためて申すまでもないことです。
なお付言しておけば、私が創立した幼稚園から大学までにいたる創価教育の一貫教育の学校では、私学ではありますが宗教教育は行っておらず、授業のカリキュラムの中にも一切盛り込まれておりません。学校の理念として追求しているのは、「何のため」という内省の眼差しを養いながら、社会のために価値を創造していく豊かな人間性や精神性を育むことにあるからです。
ところで、一口に精神性、宗教性を掘り起こす作業といっても、それは、いってみれば人類史を俯瞰するような文明論的課題であり、各人、各家庭、各界、各団体が、それぞれの立場、方法でもって力を合わせて事に当たっていかなければ越えることのできない、大きな〝山〟であります。
当然のことながら、それは創価学会(インタナショナル)の課題でもあります。私どもの仏教運動とは、同時に「人間革命」であると常々に申し上げている意味もそこにあります。
すなわち、宗教的使命は、人間的・社会的使命と相即不離(そうそくふり)であって、前者は必ず後者へと昇華、結実していかなければならない。もし、両者を切り離してしまうと、宗教性は宗派性へと歪曲され、ともすると宗教は、人々に害を及ぼす反人間的、反社会的な存在に堕してしまいます。多くのカルト教団が陥りがちな迷妄が、ここにあります。
私が強調する「宗教性」とは、「宗派性」とは厳しく一線を画しております。人間的・社会的側面での価値創造に繋がっていかない宗教性は、その名に値せず、どこかに偽りがあるのであります。ゆえに、私はかつて「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を冒しつづける〝力〟に対する、内なる生命の深みより発する〝精神〟の戦いである」(1975年11月9日、第38回本部総会)と位置づけたのです。
この「〝精神〟の戦い」とは、精神性、宗教性の掘り起こしの謂(いい)であります。あの阪神・淡路大震災(1995年)の折、創価学会の地元地域のメンバーが、青年たちを中心にボランティア活動に立ち上がり、大活躍しました。その活躍ぶりが、外国のメディアにも報道され、話題を呼んだことは記憶に新しいところです。また、地元の会館も、非難所として開放し、炊き出しなども含めて、大変感謝されました。最近も、昨年(2000年)9月に東海地方を襲った集中豪雨に際し、被災者への救援活動に協力して、地元から感謝をされました。それは民衆と苦楽を共有せんとの、精神性、宗教性の発露しゆく当然の帰結なのであります。
以上申し上げたように、宗派性を超えて、精神性、宗教性の普遍的な広がりをもちうるかどうかは、その宗教が21世紀文明に貢献していくための試金石といってよい。
それと同時に、話を教育次元、特に宗派性をもち込んではならない学校教育の場に戻せば、私は、子どもたちの荒れた内面を耕し、縁したたる沃野へと変えゆく古今変わらぬ回路は、そうした精神性、宗教性を豊かにたたえた芸術作品、なかでも書物に接していくこと、すなわち読書だと思います。
「読書を通じた人格形成」を人間教育の柱の一つに
「読書を通じた人格形成」を人間教育の柱の一つに
コミュニケーション不全の社会に対話を復活させるには、まず言葉に精神性、宗教性の生気を吹き込み、活性化させていかなければならない。
その活性化のための最良、最強の媒体となるのが、古典や名作などの良書でなないでしょうか。
必ずしも学校教育に限ったことではありません。私の経験に照らしても、若いころから古典や名作に親しむ習慣をつけるということは、後々にいたるまで、計り知れない財産となっていくものです。
現在でも、さまざまな形で文学作品に触れる機会は学校で設けられていますが、多くの場合、「国語」をはじめとする教科で読解力などを養うための教材として使われるのが専らとなっているようです。
近年、さまざまな形で読書運動が全国の学校で積極的に行われるようになっています。こうした取り組みを付随的なものに終わらせず、偉大な文学作品と親しむ時間を学校教育の柱の1つとして導入することを、真剣に検討してみてはどうかと思うものです。
この点に関し、特定の宗教に偏らない教育を模索するなかで、多様な教材を用いて、生徒自身に自ら能動的に学習させる方法を導入したスウェーデンの例などもあります。これは、参加型学習を通して、現代の文明が抱える根源的な問題や倫理的な問題に対する洞察力を養うことを目指すものです。
具体的な実施にあたっては、これら諸外国の例などを広く参考にしながら、具体的な方法を検討していくことが有益でしょう。
今、なぜ読書なのかといえば、第1に、それは読書経験が、ある意味で人生経験の縮図を成しているからです。山本周五郎の『ながい坂』に、このような一節があります。
「人の一生はながいものだ、一足跳びに山の頂点へあがるのも、一歩、一歩としっかり登ってゆくのも、結局は同じことになるんだ、一足跳びにあがるより、一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉や、いろいろな風物を見ることができるし、それよりも一歩、一歩を慥(たし)かめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力になるものだ」(『山本周五郎全集』17、新潮社)と。
まことに、味わい深い言葉です。読書経験にも同じことがいえるのではないでしょうか。
古典や名作は、歯応えがあります。必ずしも長いものとは限らないが、いずれにせよ、漫画本を読むように気楽に読み飛ばすわけにはいかない。難解な個所にぶつかり、再読三読、ようやく自分なりに納得できる場合もあるかもしれない。あるいは、その時は分からなくても、長じてその意味にハタと思い当たることもしばしばです。たしかに、それは、足元を確認し、周囲に目を配りながら、一歩一歩と山頂を目指す山登りと似ています。古典や名作は、ダイジェスト本や結論だけを要約したものを読んで事を済ますわけには、決していきません。苦しく困難を登攀作業にも似た格闘を経て、初めて血肉となるのが良書です。
ひとり机に向かっての読書もそれなりの意味をもちますが、習慣化という意味からも、友人や教師と一緒に、意見を交わしながらの読書経験は、いっそう意義深さを増すにちがいない。
私も十代に、戦後間もない焦土で地域の青年たちと読書サークルをつくっていましたし、何よりも、恩師戸田城聖先生を囲んでの定期的な読書会の1回1回は、金の思い出として脳裏に刻まれています。
「書を読め、書に読まれるな」とは、恩師の口癖でした。人生の達人であった恩師の言々句々から学んだことは、本との付き合い方は、人間の付き合い方と同じことであり、良書に触れることは、良き師、良き友をもつことと変わるものではないという貴重な教訓でした。
今、なぜ読書か。その第2の意義として、蓄えられた読書経験は、巷にあふれ返るバーチャル・リアリティー(仮想現実)のもたらす悪影響から魂を保護するバリアー(障壁)となってくれるでしょう。映像などによって送り出されるバーチャル・リアリティーは、一定の利便性をもってはいますが、それは、人間が人間同士あるいは自然と直に触れ合うことによって生まれる共感性のリアリティーとは似て非なるものです。のみならず、バーチャル・リアリティーは、その刺激性の強さゆえに、リアリティーの世界にのみ育まれるであろう「他者」の痛みや苦しみへの共感性、想像力を覆い隠してしまいかねない通弊を有しています。
さらに、つくられたイメージを受動的に受け取る環境ばかりに身を置いていると、能動的な諸能力――考える力、判断す力、愛し共感する力、悪に立ち向かう力、信ずる力等、総じて内発的精神性が、どうしても衰弱していっていまいます。
フランスの優れた科学者にして哲学者アルベール・ジャカール氏は言っております。
「情報科学は、情報をもたらすかぎりにおいては貴重なものです。しかし、情報科学がもたらすのは、人を小馬鹿にしたような、急速冷凍したコミュニケーションでしかありません。沈黙と言葉からなる真の対話においては、創造性のある驚きが自然に生まれます。しかし、情報科学によってそれを引き起こすことは不可能です」(アルベール・ジャカール、ユゲット・プラネス『世界を知るためのささやかな哲学』吉沢弘之訳、徳間書店)と。「人を小馬鹿にしたような、急速冷凍したコミュニケーション」とは、言い得て妙ではないでしょうか。
そして、読書は、そうしたコミュニケーションではとうてい満たされることのない魂の深層に、励ましと癒しの風を送り込んでくれるはずです。真の読書とは、畢竟、作者と読者との粘り強い、親身な対話に帰着するからです。読書経験は、人生経験の縮図と申し上げたのは、そういう意味です。
第3の意味として、読書は青少年のみならず、大人たちにとっても、日常性に埋没せず、人生の来し方行く末を熟考するよいチャンスとなるでしょう。
かつて読んだことのある本であれ、初めてのものであれ、自分の全人格をかけて受け止め、感じとった〝何か〟がなければ、若者や子どもたちと感想を語り合うなど、とうてい不可能です。人生における〝真実〟は、口先ではなく、人格を通してしか伝わっていかないからです。
何といっても大切なのは、読書経験を通して、子どもたち自身の「問いかけ」を大切に育みながら、時間をかけて自分を見つめ直し、自分の力で「答え」を探し出す力を育んでいくことでしょう。
偉大な文学作品は内省的問いかけの宝庫
偉大な文学作品は内省的問いかけの宝庫
偉大な文学作品とは、その意味で〝問いかけの宝庫〟といってよい。
1つだけ具体例を挙げれば、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の最終章に出てくるレーヴィンの「われとは何か、なんのために生きているのか」に始まる問いかけの場面です。(中村白葉訳、『トルストイ全集』8所収、河出書房新社。以下、同書から引用・参照)
そこでは、作家の自画像といわれるレーヴィンが、生きるための規範への求道を続けるなかで、ある農夫の言葉に触れて新しい境地を開いていく姿、その過程での心の動きが、見事なまでの筆致で描き出されています。
「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きてるです。神さまをおぼえていますだよ」
「魂のために」生きる――レーヴィンの心を電撃のように貫いたのは、こんな農夫の何気ない一言でした。それから彼は、広い街道を大股で歩きながら、「心のうちに新しい何ものかを感じて、まだその何ものであるかを知らないながらに、一種の喜びをもって、その新しいものを手さぐりしてみる」という、かつてない体験を味わいながら、自問自答を続けていく。そして、ついに自分なりの「答え」にたどりついた彼は歩くことを止め、林の草の上に身を横たえ、こう心の中でつぶやきます。
「おれは何も発見したのではなかった。ただ自分の知っていることを認識したにすぎないのだ。おれは、過去においておれに生命をあたえてくれたばかりでなく、現在もこうして生命をあたえていてくれるその力を理解したのだ。おれは虚偽から解放されて、主人を認識したのだ」と。
こうした暗から明への回心のドラマは、トルストイの世界にしばしば登場するものですが、そこで織りなされているものこそ、「問いかけ」から「他者との魂と魂の触発」へ、そして「内省的な眼差し」を通して自身の中から「新しい自分」を発見し創造していく精神の営みといえるでしょう。
その健全な精神の営みを回復したレーヴィンであればこそ、戦争が覆い隠してしまう〝人間が人間を殺す〟という真実に気づき、セルビア戦争への参加を義挙として燃え上がる自己犠牲への民族的熱狂に水をさすように、「単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」と叫ぶことができたのではないでしょうか。「殺すなかれ」という不滅の徳目は、彼のような魂の苦悩と葛藤の果てに口にされる時、にわかに精彩を放ってきます。
そして私が『アンナ・カレーニナ』の中で、最も圧巻だと感じるのは、レーヴィンが、〝自分の実感した「善の法則」は、キリスト教徒だけのものなのか〟〝ほかのユダヤ教徒や、イスラム教徒や、儒教や仏教の信徒には、この最善の幸福は奪われているのだろうか〟と懐疑する最後のシーンです。
人間の内なる精神性、宗教性に迫って、古今の大文学中で白眉であろうと、私は思っております。
こういう古典を塾読玩味(じゅくどくがんみ)することが、どれほど自分の精神世界を豊かに、分厚いものにしてくれるか――優れた精神的遺産を〝宝の持ち腐れ〟にしておいては、もったいない限りであります。
トルストイに限りません。ドストエフスキーでもよい。ユゴーでもゲーテでも、何十年、何百年という時間の淘汰作用を経て生き延びてきた古典や名作には、必ず〝何か〟が含まれているはずです。外国の大文学が重すぎれば、日本の近代文学、あるいは河合隼雄氏などが推奨しているコスミックな児童文学の中からでも、いくらでも拾い出すことが可能でしょう。いくら〝活字離れ〟がいわれても、否、〝活字離れ〟の時代であればあるほど、私は、時流に抗して、古典や名作と一度も本気で格闘したことのない青春は、何と寂しく、みすぼらしいものかと訴えておきたいのであります。
また、幼児期や低学年の子どもたちに対しては、家庭にあっても学校にあっても、「読み聞かせ」の習慣をできるだけ増やしてほしいと願うのは、高望みにすぎるでしょうか。
一人で読書をすることも大切ですが、親や教師が、声を出して、子どもたちに語りかけていくことの意味は、さらに大きいでしょう。親や教師の声を通して、子どもたちは、言葉の体温を感じながら、物語の情景に思いをはせるようになる。そして、声の響きを通して、喜びや悲しみ、痛みなどを、全身で受け止める感性が、豊かに磨かれていきます。また親や教師が、子どもたちの表情を見ながら、声の調子を変えたり、時折立ち止って、子どもたちの声に耳を傾けてみる――そんな時間を一緒に過ごすなかで、互いの信頼関係が着実に形づくられていくものです。
そして、「読み聞かせ」をする時には、農業に携わる人が豊かな実りを願って種を蒔くように、子どもたちに語りかける時にも、「どうか、すこやかに成長してほしい」「どこまでも可能性を伸ばし、夢を実現してほしい」と、〝種蒔く人の祈り〟を込めていくことが大切ではないでしょうか。「自分のことを信じてくれている」「思ってくれている」という安心感こそが、子どもの成長の一切の基盤となると思うのです。
社会と地域に〝希望と安心の灯〟を
社会と地域に〝希望と安心の灯〟を
最後に、「社会全体の教育力」を高めるという意味から、創価学会教育部の取り組みの一端を紹介させていただきたいと思います。
創価学会の教育部では、ささやかではありますが地域貢献の一環として、「教育相談室」を1968年に開設し、以来、今日まで32年間にわたり、教育に関する相談やアドバイスをボランティアで続けてきました。相談人数は、すでに、のべ28万人に及び、現在も全国28ヵ所で800人の教育部員が、その活動にあたっています。相談員は現職の教育者と退職者で、全員がカウンセリングの基礎から学び、毎週、実施にカウンセリングを行い、事例研究を積み重ねております。
この「教育相談室」は、会員・非会員を問わず利用できる、広く社会に開かれたものとなっており、アドバイスやカウンセリングも教育上の観点から行うもので、信仰に関する話は行わないこととなっています。
また一昨年(1999年)からは、地域と家庭の教育力の向上に貢献することを目指し、「教育相談長」の制度をスタートさせ、各地域の窓口となって、教育懇談会などを日本全国で広範に推進していく試みが始まりました。
これらの教育相談の地道な積み重ねによって、子どもたちが明るい笑顔を取り戻し、新しく出発ができるようになった事例は、たくさんあります。さまざまな問題で悩むこどもや親を〝孤独〟にしないためにも、学校や行政の相談窓口に加えて、気軽に、また安心して相談できる場を地域で数多く設け、ともに乗り越えていく体制づくりを社会で積極的に進めることが必要であると私は考えるものです。
教育部の教育相談室で受ける相談の中では、「不登校」の占める割合が7割と最も多く、そ のきっかけの半数近くとなっているのが「いじめ」であると報告されています。
こうした現実を前に、いつまでも手をこまねいているのではなく、社会全体が今まで以上に関心をもって、いじめや暴力といった問題に立ち向かわねばなりません。「いじめや暴力は絶対に許さない」という気風を確立し、社会に広がる「無関心」や「シニシズム(冷笑主義)」の風潮を改めていく必要があります。
創価学会としても、「教育のための社会」を実現するための挑戦の一環として、また広く社会に「平和の文化」の土壌を育むという観点から、今後とも粘り強く意識啓発の運動を進めていきたいと思っております。政治でも経済でもない。教育の深さが、社会の未来を決める。そして教育こそが、子どもたちの幸福の礎になるものです。
21世紀を「教育の世紀」に――今後も私は、この強い信念のもと、志を同じくする人たちとともに、人間教育の潮流をどこまでも広げていきたいと思います。