「歴史学分野の科目」のレポ―トのまとめ方と注意点について、仮のレポート課題を設定したうえで、それに答える形で模範解答を示します。全ての歴史系レポートの課題に対応できるわけではありません(これはどの分野でも同じです)が、一例を挙げてみようと思います。
レポート課題(仮):江戸幕府の政策決定過程の変遷について述べよ
仮のレポート課題として、上記のようなものを作りました。皆さんがレポートを書く際には、多くの文献を参考にすることと思います。それはとても大切な作業ですが、参考文献の中で述べられた学説が何に重点を置いているのかを理解しておく必要があります。学説が異なる複数の参考書を安易に切り貼りしただけですと、レポートの内容がちぐはぐになって主張に一貫性がなくなってしまいます。残念ながらこうしたレポートは少なくありません。参考文献は、執筆者の主張の違いを理解して使い、レポートの内容がぶれないように注意してください。
自然科学(数学、物理学、医学など)では、もともと自然界に存在した法則を人間が発見し、それを数式などで表現をすることにより発展してきました。法則を利用することにより人類は船をつくり、飛行機をつくり、宇宙船までつくりだしました。生命体に関する様々な発見が医学の進歩に大いに役立っています。星の運行なども明らかになっており、数百年後に地球で見られる天体ショーまで計算できます。自然科学では法則に従う限り、誰でも同じ結果が出ます。
一方で人文科学(歴史学、文学、哲学など)や社会科学(法学、政治学、経済学など)は人間が作り上げてきたものを研究する学問分野です。これらの学問分野では、人間が学問の内容を決めてきました。自然科学とは異なり、「正しい法則」はありません。言い換えると異説が多く存在するということです。もちろん天文学や医学でも異説はあります。しかしそれは人間が解明していない部分に関してのものです。明らかになったことに関しては、自然科学では異説をはさむ余地はありません。
人文・社会科学では、同じ材料を与えられても研究者によって結論が異なることがしばしばです。例えば鎌倉幕府はいつ始まったのかという一点をとっても様々な学説が存在します。私が高校生だったころは「イイクニ作ろう鎌倉幕府」で1192年でした。ところが現在の高校日本史では1185年が有力となっています。
これは何に重点をおくかです。源頼朝が征夷大将軍に任ぜられたことに重きをおく人は1192年説です。これに対して守護や地頭を任命する権利を手に入れた時点で幕府という組織の実体が整ったことを重視する人は1185年説をとります。このように時代によって有力となる学説が変わることも珍しくありません。しかしたとえ有力ではない学説でも一理ありますし、有力な学説が唯一無二の真実というわけでもありません。
こうした特徴のある人文・社会科学系の学問分野ですが、この稿では歴史系のレポートにしぼって、どう書き進めていけばいいのかについて以下に述べていきます。
まず考察の対象を時間的に区切るということです。こうすることによって書き手本人にとっては頭の中が整理されて理解が深まります。また書き手の頭の中が整理されているということは、読む側にとっても読みやすくなるということです。例として、第1期、第2期……、あるいは黎明期、安定期、衰退期……、などと区分けして、その期ごとに記述を進めていけばいいでしょう。
人物についての課題であれば、略歴を書くようなかたちで幼い頃(若い頃)から晩年、そして死亡するまでを時間的順序で書くのが最もオーソドックスな方法です。その人物にまつわるエピソードを交えると内容的に面白味が増します。字数に余裕があれば試してみてください。課題の内容によっては、関東では……、近畿では……、などのように空間的に分ける方法もあります。
その他、原因と結果に分けて記述する方法もあります。歴史はまさに原因と結果の連続です。「無常」と言われるように社会は常に変化しています。何らかの不合理や不都合などが社会の中で発生(原因)し、それに対処するための行動が「事件」とか「運動」というかたちで顕在化し、その成果としての「結果」が生まれます。歴史的事件についてのレポート、あるいは事件の影響についてのレポートなどは、こうした記述方法が合っているかもしれません。課題によって柔軟に対応してください。
「2000字のレポートを書く」となると、漠然として何から手をつけていいか分からないことが多いと思いますが、このように時間的、空間的に小分けすることによって、パラグラフが明確になります。つまりレポートを書きあげるための「小目標」が明確になります。この小目標を一つずつ達成していくことで、レポートが少しずつ完成に近づいていることを実感できますし、次に何をすればいいのかも明確になります。
今回の仮のレポート課題で取り上げた江戸幕府は、組織図的にみれば260年以上の間、大きな変化がないように見えます。しかしそれは表面上のことだけで、水面下では違います。組織というのは人が運営するものですから、人が替われば運営方法も力関係も変わって当然です。
ところが今までの歴史学では表面の組織図だけを見て、江戸時代は長い間ほとんど変化のない退屈な時代であると解釈していました。そのためにダイナミックな政治の動きを見逃してきました。たとえば事実上、議会の初期段階とも言える留守居組合という団体は、幕府の組織図に位置づけられていない(つまり制度としては存在しない)が故に注目されることはありませんでした。
これからの歴史学は、制度の表面的な分析にとどまるのではなく、制度がどのように運営されてきたのか、機能してきたのかに焦点を当てた研究が必要とされると思います。
以下、仮のレポート課題(「江戸幕府の政策決定過程の変遷について述べよ」)に対する解答の一例を示します。
江戸幕府の初期2代(家康、秀忠)の時代はトップによる親政の時代である。この時代の幕府のトップは将軍ではなく、大御所である。大御所こそが国内政治全般と外交を担当する日本の統治者であり、将軍の立場は軍事部門を担当する防衛大臣のような存在である。家康が秀忠に将軍職を早めに譲ったのは、権力継承予定者(次期大御所)が誰であるかを内外(徳川家臣団、豊臣方)に示すためであり、実権まで譲ったわけではない。安定した政治のためには、「次」が誰であるかが明確である必要がある。
大御所・家康は自らを補佐する人材を各方面から集めている。徳川家臣団はもとより、大商人(角倉了以など)、僧侶(金地院崇伝など)、そして外国人(ウィリアム=アダムスなど)を加えた多様性のある政策集団である。他にも江戸をはじめとする都市建設を進めるために、都市計画などの専門家もいたことであろう。家康は、彼らの知識やアドバイスを参考にしながらも、最終的な決定は自らの判断でくだしていったのである。
家康が1616年に死亡して、秀忠が政治の実権を握った。2代目の秀忠も家康と同様で、早めに将軍職を譲り親政を行ないたかった。しかし長男の家光が幼かったので、彼が20歳(数え年)になるのを待って将軍職を譲った。以後、大御所として政治の実権をふるうことになる。秀忠時代には、大商人や僧侶がブレーンに加わることはなくなり、政策決定に携わるのは徳川家臣団(譜代大名、旗本、御家人)に限られた。
3代将軍家光も初期2代と同様に親政を進めるつもりだった。しかし全てが徳川氏に都合のいいようには行くわけではなかった。つまり家光には、将軍就任後も長らく後継ぎが生まれなかったために、将軍職を譲る相手がいなかった。つまり初期2代がしたような「大御所-将軍(次期大御所)体制」を維持できなかったのである。これ以降、幕府のトップは将軍であることが定着した。
家光は病弱な将軍として知られており、しばしば将軍親政による政策決定にも差し支えるような状況になった。しかし政治上、解決しなければならない問題は待ったなしで発生する。したがって家光を支えるブレーンが代わりに政策決定を行う必要が生じた。
家光の死後、4代将軍に就任したのは数え年で11歳の家綱である。少年が政治を運営できるはずもないので、引き続き家光のブレーンが政策決定を担うことになった。家綱は人物の性格上、主導権をとるタイプではなかったために、成人した後もブレーンの決定を追認することが多く、将軍はブレーンたちの決定に正統性を与える最終認可機関のようになった。
5代将軍の綱吉は主導権を握りたいタイプの人物で、兄・家綱のような「お飾り将軍」には満足できなかった。そこで信頼する家臣を側用人という立場で政策決定に引き入れ、将軍による親政を事実上、復活させた。以後、10代家治までのおよそ100年間、「側用人政治」と呼ばれる時代が続いた。
側用人出身の最後の実力者・田沼意次が失脚し、松平定信が政権の座に就いた。譜代門閥の勢力が100年ぶりに与党に返り咲いたのである。こうして政策集団である老中たちが幕府の政策決定の中枢を担うことになった。
ペリー来航以降は、老中首座の阿部正弘が、外交政策について大名や旗本・御家人に意見を求めた。またアメリカとの通商条約の締結に際しては、老中首座の堀田正睦が勅許を得て条約締結の正当性を高めようとしたが勅許が得られなかったために、逆に条約締結反対派を勢いづかせ、また朝廷の意向が政策決定に大きな影響をもつようになった。従来の譜代門閥による政策決定に変化が生じたわけである。
大老・井伊直弼による強権的な政治運営は、政治・外交に関して日本国内に深刻な分裂状態をもたらした。従来の政策決定方法が機能せず、また新たな方法が見いだせない中で、暴力に頼らざるを得なくなった。いわゆる「安政の大獄」である。
その報復措置として「桜田門外の変」や「坂下門外の変」と呼ばれるテロ行為が続いた。双方が武力・暴力の応酬を繰り返したため、国内の分裂状態は悪化の一途をたどり、幕府は日本を代表する政府としての機能を失っていった。
徳川慶喜による大政奉還や薩摩藩などによる新政府の樹立によって形式的には幕府は崩壊した。しかし最大の勢力は依然として徳川慶喜率いる旧幕府である。「王政復古の大号令」によって成立したとされる新政府ではあるが、まさに掛け声(号令)だけで実体は何もない。政治運営は徳川慶喜の協力なしには何もできない状態だった。新政府側は、徳川慶喜を新政府に取り込むか、あるいは彼のもつ政治力(軍事力、経済力)を奪うかの選択に迫られていた。もし前者を選べば、徳川慶喜が中心の新政府ということになり、何も変わらない。最終的には「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれる武力衝突で旧幕府側が敗れることにより、江戸幕府は名実ともに消滅することとなった。(1995字)
ここで示した解答は、冒頭で「模範」と言ってはおりますが、あくまでもひとつの例です。これがベストでも、唯一の真実でもありません。依拠する文献によっては、異なる主張をすることも可能です。前に述べたように人文・社会科学系の学問分野の特徴をふまえたうえで、自分はどの学説に基づいているのかを十分に理解しながらレポートの作成をしてください。以上のことから、使用した参考文献を明示する重要性も理解できると思います。
ご健闘を期待しています。
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