『日本語はしたたかで奥が深い
-くせ者の言語と出会った〈外国人〉の系譜』
通信教育部 教授 山本 忠行
日本語教師を目指す人にはぜひ読んでいただきたい一冊である。日本語教育史を人物という視点から捉えなおすことができる。歴史の話は、つまらない事実の羅列となりがちである。しかし、本書は日本語を学んだ外国人のエピソードでまとめられている。大量の文献をもとに、これまであまり知られていなかった事実がいくつも紹介されている。しかも古代から現代まで幅広く扱っている労作である。他に類例を見ない日本語教育史の本である。これから日本語教育史を研究しようとする人にとって、大きな示唆を与えてくれるに違いない。
日本語教育史では外国人の日本語学習というと、通常は朝鮮で15世紀に作られた日本語教科書のことから始まるが、本書では古代の国際交流から始まっている。考えてみれば、学習書や文法書などない時代から朝鮮半島や中国などとの交流があったわけで、そこには日本語学習が行われたはずである。文字がなかった日本に関する最古の記録としては、魏志倭人伝に「邪馬台」や「卑弥呼」などの記述があることが知られている。日本に漢字を伝えたのは百済から渡来した「王仁(わに)」という中国系の人物であるとされているが、『古今和歌集』の「難波津の歌」の作者とされるほど、日本語に精通していたようである。どのように日本語を学んだのかという記録はないが、異言語・異文化との接触の中で日本語が形成されてきたことがうかがわれる。『日本書紀』や『続日本紀』には中国や朝鮮以外の来日外国人のことが記されており、「畝傍山」を「うねめ」と発音して、誤解を受けたこともあったといい、日本語の発音で苦労していたことがわかる。
外国人がどのように日本語を学んだのかが詳しくわかるのは16世紀以降の文献からである。よく知られているのは、西洋人宣教師と朝鮮通信使に関することである。1549年にやってきたフランシスコ・ザビエルたちは苦労しながら日本語を学び、キリスト教の布教を行っていく。彼らがまとめた辞書や文法書は、当時の日本語を知るための貴重な資料となっている。豊臣秀吉の朝鮮出兵により日本に連行された康遇聖が帰国後に著した日本語学習書『捷解新語』は司訳院で200年以上通訳官養成に使われることになった。いわゆる「鎖国時代」になると、来日するヨーロッパ人はオランダ人だけとなったが、日本人との交流は制限され、オランダ通詞を介さなければならなかった。それでも、日本語を研究する人もいた。その中で特筆すべきはシーボルトである。シーボルトはドイツ人であるが、オランダ商館の医師として来日し、日本に関する大量の資料を収集し、持ち帰った。その資料はヨーロッパにおける日本研究の発展を促すことになった。幕末のころになると、さまざまなヨーロッパ人が来日し、日本研究を行ったり、日本語の教科書を執筆したりするようになる。最も知られているのは、ローマ字表記法を考案し、『和英語林集成』という辞書を編纂したアメリカ人宣教医ヘボンであろう。外国人が日本語について書いた本も多数出版されている。外国人の日本語研究から、標準語が生まれる前の日本語の実態が垣間見える。身分による話し方の違いもあれば、「横浜ことば」と呼ばれる、横浜にやってきた外国人が話す日本語の特徴なども記録されている。神田駿河台に大聖堂を建てたニコライは優秀な日本語の使い手だったようで、日本の古典や仏典にも精通していたという。他にも多数の人物が取り上げられているが、詳細は本書を読んでいただきたい。
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